近況や思い出

新年のごあいさつ

2018/01/04(木)

明けましておめでとうございます。
ずいぶんご無沙汰して誠に申し訳ありません。

昨年の12月29日の誕生日で93年生きてきたことになり、年齢ながらあまりの数の多さにとまどいを覚えるほどですが、いまのところ無事息災です。

少年のころは寒さに弱い方でしたが、ある時期に軽い肺病になり、医者から風邪を引かないようにしなさいと注意されてから、そちらへの気配りのおかげで冬の間も体調を崩さずにいましたが、それだけに寒さには弱くなりました。この冬も、年末の加茂周さんの殿堂入りのお祝いの会と、設立にかかわったNPOの忘年会以外は部屋にこもって外出しないでいます。そのためもあって、年を越えたいまも平穏に過ごしています。

そうした年寄りの楽しみのひとつが、「賀川サッカーサロン」と称するおしゃべり会です。毎月の最終土曜日に、その時々のテーマについて私の話を中心に参加された方々も意見を述べられる気楽なサロンです。図書館の松永さんのおかげで、当日の話題の資料もそろえていただくようになり、予定時間をオーバーしてしまうことも、再三です。

今年は、もう目の前にワールドカップの本番があるので、皆さんの意見も活発になり、盛り上がることと思っています。新年早々、神戸も寒い日が続いていますが、皆さんといっしょにこの冬も元気に乗り切りたいと祈っています。

賀川サッカー文庫

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新年のご挨拶

2017/01/13(金)

新しい2017年も12日がすぎました。ブログを通しての新年のご挨拶が遅くなり、誠に申し訳ありません。遅まきながら、皆様に「新年おめでとう」を申し上げ、ご無沙汰のお詫びとさせていただきたいと思います。

昨年、12月29日の誕生日で私は満92歳となりました。日本の昔からの習慣の数え歳でゆくと、93歳になるのでしょうか。1924年生まれで、1944年から1年半は陸軍にいた私の仲間の多くは、自分の寿命は長くて23~24歳と考えていました。長い人生設計などは考えも及びませんでした。それが人生50年どころか、その倍近くまで年齢を重ねてきたのです。誠に驚きというほかはありません。

神戸市の雲中小学校の5年生のころから、フットボール、つまりサッカーに興味を持つようになったおかげで、神戸一中(神戸高校)でもサッカーをし、大学の予科でもボールを蹴り、戦争が終わって復員した後もサッカーを楽しみました。つい先ほど、セルジオ越後のフェイントについて神戸市立中央図書館の「神戸賀川サッカー文庫」の仲間と話し合った際、イスから立ち上がって自分でセルジオのフェイントの型のひとつをやってみせたら、若い(といっても60歳台ですが)仲間たちが驚いたのに、こちらの方が驚きました。

12月にはクラブワールドカップの決勝で、日本の鹿島アントラーズが世界のレアル・マドリードと延長まで戦いました。元旦の天皇杯決勝は、大阪の吹田スタジアムでの開催で、延長の熱戦の末、鹿島アントラーズが川崎フロンターレを2-1で振り切り5度目の天皇杯獲得の栄誉に輝きました。

1月10日には、FIFAが2026年のワールドカップの出場枠を現行の32から48チームに拡大することを発表しました。いろいろな観点から議論もありますが、16チームのときに出場できなかった日本が32チームになってから本大会に5回連続出場し、そのワールドカップ出場によって、日本のサッカーが大きく発展したという事実もあります。今度の拡大で、またいくつかの国のサッカーが、今の日本のようになるかも、と考えるのはとても楽しいことです。

昨年11月下旬に、芦屋から居を移し、近鉄沿線の柏原(かしわら)にいます。神戸一中時代に、グラウンドから大阪湾を隔ててはるかに生駒を眺めていた記憶がありますが、その近くに来ると、高度600メートルに満たない生駒の山々の立派な姿に感服しています。今年、開港150年の神戸のような新しい街とはちがって、この付近は古代史に出てくる旧跡のとても多いところです。

新年のごあいさつの遅れをお詫びしつつ、今年は片言隻句で、もっと多く皆様にお目にかかりたいとの願いを申し上げ、今日はここまでとさせていただきます。

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新年のご挨拶

2016/01/05(火)

明けましておめでとうございます。

新しい年2016年、平成28年も4日が過ぎ、今日は1月5日です。多くの皆さんはすでに新しい年の仕事を始められていることと思います。今年もよい年でありますよう、お祈りいたしますとともに、本年もよろしくお願いします。

小生も昨年12月29日で満91歳となり、今年はその91歳から92歳に向かう1年となりました。昨年1月のFIFA会長賞という望外の栄誉があり、そのために予想外の忙しい1年でした。ありがたいことに日本サッカーも少しずつ前進を続けているようで、今年はリオデジャネイロでのオリンピックもあり、2018年ロシアワールドカップのアジア予選もあって、そうした重要な舞台での代表のプレーを見る楽しみもあります。

今年の私の仕事のひとつに、サッカー界の今を形づくるのに力を注いでおられる人たちとの対談を通して、日本サッカーのいまと未来を語っていただこうという企画があります。「このくにのサッカー」と題した企画で、まずウェブサイトに掲載させていただき、次いでその対談集(人数は15人でどうかと)を秋に出版したいと考えています。そしてその経費をクラウドファンディングという形で皆さんのご支援をお願いすることにいたしました。

例によって、私の不手際から年末遅くなってのクラウドファンディングの立ち上げとなってしまいましたが、早速多くの仲間から支援の申込をいただいて、とても感激いたしております。なかには「いつまでも現役で書き続けてください」との激励のお言葉を添えてくださる方もあり、ご厚意まことに身に染みています。

サッカー好きの皆さんには年末年始はサッカーのビッグイベントもあり、テレビ観戦を含めてお忙しい日々ではありますが、クラウドファンディングの目標を果たし、ぜひ仕事に取り掛かりたいので、今後とも皆さんのご協力をお願いする次第です。

今日5日は、図書館の神戸賀川サッカー文庫へ足を運ぶ日になっていますが、休みとさせていただきました。7日にスピーチの予定が入っていて、昨年の早いうちからのお約束なので、万全な体調で、と思っているからです。

サッカーは国内、国外ともとても面白くなっています。皆さんと試合や選手やプレーのひとつひとつについておしゃべりできる機会を持てることを願っています。

クラウドファンディング
90歳の現役最年長スポーツライター賀川浩の対談集を発信したい

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2015年の年の瀬 テレビで見るフィレンツェと竹林の記憶

2015/12/31(木)

30日テレビをつけると、塩野七生さんがフィレンツェを歩いていた。同行の向井理というノッポの男性については知らないが、イタリアに住む塩野さんのイタリアについての随筆は1980年代にいつも新鮮な思いで読んだものだ。私自身は1960年のローマオリンピックの特派員として産経新聞から派遣されることが決まっていて、それが社内事情で取り消され、私ではなく別の記者が出かけたという苦い経験がある。オリンピック記者というのはスポーツ記者にとっての一つのステップであったから、相当なショックだった。1980年の欧州選手権に、例によって自費取材で出かけたのは、どこかにイタリアへの憧れが残っていたのだろう。

その欧州選手権取材の旅「わが内なるイタリア」(サッカーマガジン連載)は、今読み返してもはじめての欧州選手権取材とイタリアを旅する喜びが詰まっていたと思う。

テレビの画面でフィレンツェについて語る塩野さんの姿を見ていると、彼女がいるだけで、今のイタリア好きは幸福だと思ってしまう。

こんなことを書いているうちに、テレビの画面は京都の天龍寺を映し出した。玄関正面の「達磨大師」の画は何代か前の天龍寺管長、関牧翁(せきぼくおう)の筆であると見て取れた。牧翁はわが家の菩提寺である等持院の住職でもあって、よく存じていた。天龍寺の庭の説明やこの寺の建立のいきさつなどの解説していたのがアメリカ人であることもすばらしいが、彼の案内で嵐山の竹林を見せたのも心を打たれた。

私にはこの竹林にも強い記憶がある。1943年(昭和18年)それまでの徴兵猶予の法制が廃止され、学生たちが軍隊に入ることになった12月、兄太郎をはじめとする先輩や仲間が陸軍や海軍へいってしまった後、等持院を訪れ、ただひとりで竹林の道を歩いた。誰もいない竹林で、私は石を投げ、それが竹に当たって響く音を聞いた。

いずれ軍隊に入り戦場にゆく自分に、日本の音を記憶させておこうと考えたのだろう。73年前のことだった。

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2015年の年の瀬 神戸一中・神戸高校サッカー部百年史

2015/12/30(水)

元旦や冥土の旅の一里塚

などと皮肉った人もいた。それでも新しい年を迎えるために日本中が年の瀬はソワソワと忙しい。

91歳で迎えた12月30日は、考え事もして、書き物に向かう楽しみを味わえばいいのに、何となく気ぜわしく、つい買い物に出かけてみたりする。芦屋大丸の地下の食料品売り場をのぞくと、レジには長蛇の列だった。

その豊かなデパートの売り場や、JR芦屋駅周辺の旅支度の家族連れを眺めると、日本も豊かないい国になったなぁと思う。戦中派の常として、その豊かさに、どこか後ろめたい気になるのが不思議でもあるのだが…

今年1月に大好きな仲間だった芦田信夫さんが亡くなって、私の周辺のサッカーの先輩は誰もいなくなった。

1月にFIFA会長賞をもらった後、多くの人からお祝いの言葉を頂戴しうれしかったのだが、そのとき改めて「ヒロシよかったな」と言ってくれる先輩が一人もいないことに気付いた。本人が90歳だから、そもそもが無理な話なのだが、人はいくつになってもいい先輩が懐かしく、何かことがあれば声をかけてもらうことに安心を覚えるのだと、それこそこの歳になって感じたものだ。

そんな淋しくなった身辺でも、うれしいこともたくさんあった。その一つは神戸一中、神戸高校サッカー部の百年史が完成したことだ。神戸一中のサッカー部は大正2年(1913年)の創部で、その百年の記念式は平成25年(2013年)8月4日に行なっている。百年史はOB会の谷村和宏会長のもとに、長岡康規、厚田太加志たちが中心になって、編成・出版にこぎつけた。

人材の豊富な神戸高校のOBたちではあるが、中心となって働いた人たちのご苦労には感謝のほかない。編集者の努力によって、全国的に、国際的に活躍したOBたちのプロフィールが描かれ、歴史的な読み物としても貴重なものとなっていることを付け加えておきたい。

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