サッカー

2022年のW杯を日本で。大阪中心部に新しいスタジアムを

2010/07/23(金)

soccer2018、2022ワールドカップ立候補地
 2018、2022
 イングランド、スペイン/ポルトガル、ロシア、ベルギー/オランダ、アメリカ

 2022のみ
 日本、韓国、オーストラリア、カタール

――Jリーグが再開され、遠藤保仁田中マルクス闘莉王たちがいいプレーを見せています。

賀川:日本代表の活躍で大会そのものの人気も高まった。また、大会中に民放各局が自分たちの放映カードのバックアップ(視聴率アップ)も兼ねて多くの企画番組を放送したこともあって、露出という点では2002年の日韓共催のときより多いように見えた。いずれプロモーションから色々な数字が発表されるハズだがね。活字メディアも、大会の特集号が書店に並んでいる。

――さて。2022年大会の招致でFIFA(国際サッカー連盟)の視察団が来日していました。

賀川:チリの会長さんが団長で、この人たちは9月まで世界中の候補地を回るようだ。理事会での開催地決定は12月2日という。

――いまは各大陸の持ち回りというルールが撤廃され、直近の2大会を開催した大陸以外の全地域から立候補できます。2010年南アフリカの次、2014年はブラジル(南米)だから、ヨーロッパとアジア、北中米カリブ海地域からの立候補となりました。
 また、これまで1大会ずつ選んでいたのを、2018年、2022年の2大会を同時に選考する方式になっています。連続して同じ大陸での開催はできないことになっているので、2018年大会がヨーロッパのどこかに決まれば、2022年はアジアか北中米カリブ海か、ということになります。

賀川:そのアジアから、日本以外にも韓国をはじめ3つの国が開催を希望している。アメリカ合衆国もここに加わるから、なかなかの競争ですヨ。

――日本の招致案では、大阪に開幕と決勝の会場を持ってこよう、ということのようです。関西としては歓迎ですが……

賀川:大阪駅近くの、いわば市の中心地に新しいスタジアムをつくる。グラウンドという広場を持つ堅固な建造のスタジアムを持つこと、そして収容人数に合わせた周辺の広場、道路ということを考えると、大阪の中心地にスポーツのスタジアムを置くことは、阪神大震災の例からみて、とても大切です。広いグラウンドは、災害時のヘリの発着、物資の集積などの点から見ても必要でしょう。
 もちろん、大観衆を集めるサッカーと同時にすでにオランダなどでも見られる、スタジアムそのものがショッピングセンターと結びついているやり方もあり、関西経済を元気づけることにもなるでしょう。

――関西には甲子園という野球のメッカがあります。東京では後楽園球場とは別に東京オリンピックの国立競技場があり、また、オリンピック誘致を目指して大スポーツセンターの計画もできています。地方の時代というのなら、関西にもこういう施設がほしいですね。

賀川:70年の大阪万博が終わったあと万博公園ができたのだが、そのときにも関西のスポーツ団体が署名運動をして万博跡地にスポーツ施設をつくれ――という運動をした。そして、ささやかな陸上競技場がつくられた。それが93年のときにガンバ大阪のホームスタジアムとなったのですヨ。
 ガンバをバックアップする松下さんの力でピッチが整えられ、スタジアムが改修された。もともと規模の小さいものだったから、いまのガンバの人気からすると手狭な感じはするが、それでもあの場所にサッカーのできる陸上競技場があったからこそ、とりあえずガンバ大阪のホームスタジアムになったわけだ。

――今回は計画も大きいだけに、関西総力という感じで力を入れたいところですね。

賀川:それには、まずサッカー人が立ち上がることですヨ。もちろん2022年を招致できるとは決まっていないが、そうでなくても、大阪の中心部に人が集まるサッカースタジアムを持つことは、先ほどからの話のように、経済効果、防災効果とともにエコを標榜するスタジアムはとても意義がありますヨ。

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ヨハン・クライフの“弟子”と“後輩”の戦いにクライフの心情を思う(下)

2010/07/15(木)

――協会や指導者の考え方ですかね?

賀川:いささか不勉強でそこまでは語れないが、2006年ドイツ大会でもファンバステン監督の代表チームが最後になるとロングボールでゆきだしたのには正直言って、まだこれをやるのかと思ったネ。

――勝ちたいという気持ちがあるのでしょうが……

賀川:スペイン代表は、オランダ代表に比べると小柄な選手が多く、その小柄の特長である「敏捷性」と「短い足は、長い足より早いタイミングでボールを蹴れる」という特性、さらに小兵選手の足は小さい(サッカーシューズも小さい)からボールをインステップで捉えられること、アウトサイドを使いやすいことなどといったボール扱いの技法にオランダとは少し違ったところがあり、その技術と体力――近代のプロは90~120分走り切る体力・走力が要求されている――が練り上げられていること――もちろん一人ひとりのバランスの良いこと――といった良さが随所に出ていた。
 試合の終わり頃に、右からのスペインのクロスをオランダのDFが自分の足元に来ているのに止められなかった場面があるが、これなどは明らかに長身選手の不利が出ていた。

――それでも、決勝は120分で1-0。スペインの得点量は少なかったですね。

賀川:ボールをキープする、今でいうボールポゼッションの率が高ければ、その間に動いていても相手より疲れないし攻められないのだから、相手の動きが鈍くなった時期(早い遅いは別にして)にゴールすればいいという考え方もあるが、今回は必ずしもそうではなく、やはりフェルナンド・トーレスというストライカーがケガなどで不調のままだったことが響いているのでしょう。
 彼は身長もあって、シャビイニエスタたちとは別のテンポの動きをする。だから相手は対応しにくい。ビジャ(ビリャ)はゴールゲッターではあるが、イニエスタたちとテンポが似ているプレーヤーだから、異質なトーレスが働けなかった分だけゴールという点で損をしていたように推察しています。

――今回はここまでにしましょう。具体的な話を含めて、第2回を早く聞かせて下さいね。

【了】

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ヨハン・クライフの“弟子”と“後輩”の戦いにクライフの心情を思う(上)

2010/07/14(水)

――一番間近な決勝、オランダスペインはどうでしたか

賀川:スペイン・サッカーでバルセロナFCが現在のようなスタイルに変わり、そして、それが今のスペイン代表の流儀のようになったのはヨハン・クライフがバルサの監督となってからでしょう。

――1992年のトヨタカップでバルセロナが欧州チャンピオンとして南米のサンパウロと戦いましたが、そのときの監督がクライフでしたね。

賀川:そう。試合は2-1でテレ・サンターナ監督のサンパウロが勝ったが、そのとき初めてバルサを見て、これはオランダサッカーだと、クライフの指導力に改めて感服したものだ。

――それまでトヨタカップにスペイン勢は来ていなかった。

賀川:ヨハン・クライフとオランダ代表が74年ワールドカップ(W杯)で世界に衝撃を与えた試合ぶり、中盤でのプレッシング(囲い込み)と第2列、3列の選手もチャンスにはどんどん飛び出して前へ上がってゆく、いわゆるトータル・フットボールは世界に広まっていったが、イタリアでは1980年代の末からACミランがアリゴ・サッキ監督によってオランダ流つまり現代流への変化が始まり、スペインではクライフのバルサでの変革によってリーグ全体にも浸透したといえるだろう。

――そのクライフの弟子によって変化し進歩したバルサ・モデルのスペインと、クライフの後輩というべきオランダ代表がはるばる欧州を離れた南アフリカで戦うというのも不思議な話ですね。

賀川:あまり古い話を持ち出すとみなさんは退屈されるだろうが、サッカーも、今の形のプレーが行なわれるようになったのにはきっかけがあり流れがある。そうした歴史に目を向けることもまたスポーツの楽しみですから。

――クライフはどんな気持ちで見ていたのでしょう。

賀川:「オランダは醜く低俗だった」と言っているらしい。

――バルセロナでは、今では「クライフがこう言った」というのがまるで昔の「孔孟の教え」のような感じもありますからね。

賀川:ボクは試合の中継テレビを見ながら、スペインのサッカーが長い間のオランダ、ドイツという先進的サッカーからの遅れをクライフによって新しくし、その基盤の上にさらに進化させたのに、オランダはクライフ時代に世界の先端をゆきながら32年ぶりでW杯決勝に進んだ今もクライフの時代をこえていないのではないか――という気がした。
 もちろん、基礎技術などはずいぶん上がっていて、それぞれの選手たちは素晴らしいが、代表チームともなるとちょっともったいない気がする。


【つづく】

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ワールドカップ・南アフリカを終え

2010/07/13(火)

――日本が勝った、次はオランダデンマークだといっているうちにグループリーグが終わり、ノックアウトシステムの1回戦はPK戦で負けてテレビの前で涙しました。南米勢が強いのかと思ったらブラジルがオランダに敗れ、アルゼンチンもドイツに完敗。最後にスペインとオランダの決勝となり、スペインの優勝で閉幕しました。
 南アフリカ大会は大きな事件もなく大成功――。日本でもたくさんの人がテレビ観戦を楽しんだから、まずは良かったということでしょうか。

賀川:私自身はナマで見るためには体調が整わず、今回は何十年ぶりかで日本で見るワールドカップ(W杯)となったが、テレビや新聞をはじめメディアの克明な報道のおかげでずいぶん楽しんだヨ。民放各局とNHKの番組表を、その日の早朝の新聞のテレビ欄で見て録画をするのが大事な日課になっていた。なんだか現地で取材したこれまでの大会より今回の方が一日一日が忙しかったような気がする。

――深夜~早朝までありましたからね。

賀川:大会の前に産経新聞に、「今度の大会に治安が悪いとか運営がどうとか懸念する声もあるが、いつの大会にも懸念材料があり、その都度それを克服してサッカーは大会とともに発展してきた」と書いたが、まずはその通りに――。
 一部のメディアがブラッターFIFA会長についていろいろ批判し、それに追随する日本のジャーナリストもいないわけではなかったが、批判は批判としても、今回の南アフリカ大会はネルソン・マンデラさんに共鳴したブラッター会長をはじめとするFIFAの実力のあらわれと言えるだろう。閉会のときに会長は、FIFAではなく南アフリカに讃辞が贈られるべきだと、南アフリカと全アフリカの人たちの力を強調していた。

――そういう意味でも、賀川さんには現地で見てほしかったですね。

賀川:とても残念だが、現地に行っておれば、私にとっては交通や治安より問題は寒さだったかもしれない。しかし、まだ元気なうちに1ヶ月間の大会を国内で経験し、日本でのW杯報道を報道する側でなく注視する側にいたこともまた、おおげさにいえば85年の生涯でのありがたい経験ですヨ。
 まして今回は、私たちシックスのメンバーがJFA MOBILEのお手伝いをすることになって、日本の試合についてはその仕事の関係もあり仲間とともに深夜の我が家で一緒に対カメルーン、オランダ、デンマーク、パラグアイとテレビ観戦したのだから、とても面白かった。

――日本代表の岡田監督と23人の選手たちについては?

賀川:誰もがそれぞれの立場で努力し、その成果が出たのだからネ。欲をいえばもう一つ勝ってほしかったが、それまでの基礎技術やその基礎の力の習得にかけた努力の総体からゆけば、まあ16強1回戦敗退がいいところだったね。せっかくのチャンス、伸びるときだったから本当はもう一試合やらせたかった。

――その点では、パラグアイ戦は悔いが残ると

賀川:そのことについてはまた別の機会に話したいのだが……。まあ、これも日本サッカーの実力の一つでしょう。

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ワールドカップ・南アフリカ大会の前に

2010/06/11(金)

――いよいよ、開幕です。第19回FIFAワールドカップ(W杯)2010 南アフリカ大会は11日の午後2時(現地時間)から開会式があり、午後4時(同、日本時間 同日午後11時)に南アフリカ対メキシコの開幕試合が行なわれます。

賀川:今日は、このヨハネスブルクの試合よりも4時間遅いキックオフで、同じグループAのウルグアイフランスがあり、7月11日までの全64試合の大会がスタートする。
 日本代表の参加で現地からの報道は日本チームのことが主になるのは当然だが、開会式のセレモニーも、またショーも、南アフリカらしい楽しく見応えのあるものになるでしょう。

――ネルソン・マンデラさんも開会式には出席するそうですね。

賀川:そもそも、この南アフリカ大会は、アパルトヘイト(人種隔離政策)の撤廃に力を尽くし、新しい南アフリカの最初の黒人大統領になったネルソン・マンデラさんの強い希望に、FIFA(国際サッカー連盟)が同調したのだからね。
 南アフリカへの招致プレゼンテーションをマンデラさんが行なったとき、その熱意と心のこもった言葉にFIFAの役員はすべて心を打たれた――と、FIFA理事の小倉純二さん(JFA副会長)が言っていた。

――大変革をしたあとの南アフリカが一つになるためにも、サッカーのW杯は必要――ということですね。

賀川:FIFAは南アフリカ開催を決意しただけでなく、さまざまな援助をして大会の準備がはかどるようにした。南アフリカだけでなくアフリカ全土、各国にトレーニングセンターをつくって、アフリカ・サッカーの向上をバックアップしている。

――すでにアフリカの優れたプレーヤーたちがヨーロッパで働いていますが……

賀川:普及を図るだけでなく、各国のクラブやリーグの基礎がしっかりしたものになってほしいと、様々なテを打っている。

――賀川さん自身の、アフリカへの興味は?

賀川:子どものときにはアフリカを題材にした冒険物語をよく読みましたヨ。ライオンやゴリラの話も好きだった。
 サハラ砂漠を越えて南下してゆくアフリカ探検史なども熟読した。80年の欧州選手権(EURO)のあとで、パリからワシントンへ飛ぶときに、隣の席の人が、マリ共和国のトウンブクトウに実家があると聞いてとても嬉しかった。そこは西アフリカの大河ニジェールの上流にあって、古くからの交易の地だったからネ。

――アフリカのサッカーのことも、色々書いてきましたよね。

賀川:記者になるずいぶん前、神戸一中の4~5年のころに、アルベルト・シュバイツァー博士(1875-1965年)に傾倒した。この人の著書『水と原生林のはざまで』は、私にはバイブルだったヨ。
 19世紀に、宣教師でありアフリカで探検家でもあったディビッド・リビングストン博士の捜索をテーマにした『スタンレー探索記』という映画が同じ頃にあった。スペンサー・トレイシーという俳優がリビングストンを発見するスタンレー記者役、つまり主役だった。東アフリカのタンザニア湖畔での2人の劇的な会見の場面は心に焼きついたものです。

――そんな映画もあったのですか。

賀川:南アフリカについては『リーダーズ・ダイジェスト』か何かで、あのウィンストン・チャーチル首相(1874-1965年)が若いころ、従軍記者としてボーア戦争(1899-1902年)の取材にあたった話を読んだのだが、それが興味を持つきっかけとなった。
 東京オリンピックの大会直前にFIFAの総会が初めて日本(東京)で開催された。このときに70年W杯の開催地がメキシコに決まった。立候補のライバル・アルゼンチンを投票で破ったのだが、このときの総会のもう一つの決議で、当時アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカはFIFA参加資格停止処分となった。IOC(国際オリンピック委員会)の資格停止はもっと後のハズです。
 象やライオンといったアフリカのイメージにサッカーが重なってきたのは、66年W杯のエウゼビオあたりからですヨ。

――サッカーマガジンではなくサッカーダイジェスト誌でしたか、国のことを連載したのは

賀川:1988年から93年まで足かけ6年。ダイジェストに「サッカー くに(国)ひと(人)あゆみ(歩)を連載させてもらった。
 74回まであって、40ヶ国ばかり紹介した。例によって年表もつけ、スペースも使ってもらったから、面白いかどうかはともかく、しっかりしたものだったと思ってます。そのなかで、カメルーン、モロッコガーナ、南アフリカ、コートジボワールとアフリカの5ヶ国を紹介した。
 南アフリカを取り上げたのは、1990年にマンデラさんが27年の獄中生活から解放され、南アフリカはアパルトヘイト撤廃に向かい、92年にはFIFAは南アの資格停止解除を検討した。こうした世界の動きがあるので、ダイジェスト誌の編集担当と相談して、5月号に南アフリカを掲載したのですヨ。

――いま読んでも、よく書けていると思います。

賀川:ありがとう。アフリカの現代史は、遠く離れた私たちには実感がなく、いまの西アフリカのサッカー強国、カメルーンコートジボワールナイジェリアなども、それぞれかつてフランス領であったり英国領であったりして事情も違う。南アフリカにも複雑な歴史がある。そういう流れを理解しておかないと、サッカーという大衆の競技について話すのは難しいのですヨ。
 南アフリカについては、この項のために東京の駐日大使館まで出かけて話を聞いた。そのとき広報官に、景色も気候も良く、動物もたくさんいて、パラダイスのようなところだと説明された。金やダイヤモンドが産出するというだけでなく、全てにとても豊かなのだと語られて、ヘェーと思ったものだ。

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日本で見るワールドカップ

2010/06/11(金)

――それで賀川さん、今回の大会は……

賀川:フリーランス記者として、まずJFAの許可をもらい、FIFAのOKをもらい、例によって全期間取材に出かけるつもりで準備した。僕の級友の故・岩谷俊夫の次男の砂田純二クンが旅行の専門家なので、2006年のときと同様、旅程を組んでくれて、6月7日、関西空港発の航空機に乗ればいいことになっていたのだが……

――腰の具合ですか

賀川:生田ドクターのおかげでリハビリにも精を出すようにしていたが、調子は良くない。今年は寒さが長かったのかもしれない。他にも不調のところが出てきて、これでは現地で仲間の足手まといになる恐れもあると考えて取りやめにした。
 ボクは1974年以来、9回のW杯は全て現地へ出かけていた。2002年は日韓共催だから、日本にもいたけれどほとんど毎日のように飛び回っていた。だから、日本が参加するようになって、日本にいて、テレビや新聞の放送を通じて大会の模様を見るというのは実は初めての経験なんですよ。今回、周囲の皆さんのおかげで進めた現地取材を取りやめるのはまことに残念だったが……。
 サッカーマガジンの連載は、これまでの『ワールドカップの旅』でなく、大会中は『日本で見るワールドカップ』ということにさせてもらい、このブログで十分書き込みたいと思っている。どんなものになるか――これまでとは取材のやり方がまったく違うけれど、また異なる面が出ればいいと思っていますよ。

――1970年のメキシコ大会も、FIFAのアクレディテーションを取りながら結局行かなかったのですよね。

賀川:あのときは、当時のサンケイスポーツの編集局長さんに「運動部長のキミがいなくては新聞を作れないじゃないか」と1ヶ月間留守をしたいという願いを却下された。今度は誰も止めないのに、自分の体の声「やめなさい。何かあったときに周囲に迷惑をかけることになる……」が出発を押しとどめた。

――この大会で、賀川さんは何が見たいですか?

賀川:大会の全てですヨ。
 しかし、まず見たいのは……今年の大会はいいストライカーが多い。クリスチアーノ・ロナウド(ポルトガル)リオネル・メッシ(アルゼンチン)ディディエ・ドログバ(コートジボワール)ウェイン・ルーニー(イングランド)フェルナンド・トーレス(スペイン)ルイス・ファビアーノ(ブラジル)などなどサッカー好きならすぐ10人程度の名前が出てくるでしょう。
 守備の戦術や技術が高くなり、ゴールキーパーという「専守」のポジションの選手の体格が良くなり能力が上がってきた現代の一流の試合では、手を使わないでゴールへボールを叩き込むのはなかなかのことだ。その仕事で、日頃のリーグや欧州チャンピオンズリーグあるいは国際試合で実績を積んでいるプレーヤーの活躍を予想し、実際に、あるいはテレビ画面で見るのは、舞台が大きいだけにとても面白いものです。

――どこが優勝するかは

賀川:大いに興味はありますが、ヨーロッパのブックメーカー、つまり「賭け屋」の予想を見るのはとても参考になりますヨ。

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日本代表23人が決まり、いよいよ本番へ向かう

2010/05/11(火)

◆代表発表会で

――2010FIFAワールドカップ代表が決定しました。発表会場にも出向いたそうですね。

賀川:岡田武史監督の顔を見ておこうと思って、出かけたんですヨ。

――どうでしたか。

賀川:大仁邦彌JFA副会長(今度の選手団団長)原博実技術委員長と岡田監督と、3人が出席した。ずいぶん多くのメディアが来ていたね。

――人気低迷などと言っていても、やはりワールドカップ(W杯)代表ともなればということですかね。

賀川:まあ、そういうことだろうが……。日本のメディアというのは人事関連ニュースが好きだから。政治の話でも、誰がどんな政策をということより、誰と誰がくっつくか――といった話の方を大きく取り上げる。


◆5月5日の香川、アマラウのゴール

――5月5日のJリーグの試合でも、試合の面白さより代表候補がどんなプレーをしたかということに終始していました。

賀川:セレッソ鹿島アントラーズに2-1で勝った試合でも、香川真司がこの試合のゴールで代表に選ばれるのではないか――といった調子でネ。もちろん、香川はいいシュートをした。新しい型のシュートを決めたということで、これは彼には喜ぶべきことだが……。チームにとっては、この試合でMFのアマラウが積極的に潰しにゆくのが目立った。その彼の姿勢が、1-1からの2点目につながってセレッソの勝利になった。

――鹿島のGK曽ヶ端が野沢(またはその手前の味方選手)に投げたボールをアマラウが奪い取ってシュートしたゴール。

賀川:曽ヶ端がアンダーハンドで30mくらい前方の野沢にボールを送ったところ、それにアマラウがダッシュした。野沢が気付いてコースへ入ろうとしたが、アマラウの方が速かった。このときの接触でアマラウはバランスを崩しかけたが、持ち直して、大きく踏み込んで右足で強く叩いた。弾丸シュートがゴール左に入った。低い弾道、しかも途中で一度バウンドしたから、曽ヶ端のセービングも届かなかった。

――アマラウの積極プレーに驚いたと?

賀川:ときおり見せる右足のシュートに、「強く叩ける」プレーヤーだとは見ていたが、いつも中盤でボールがくるとすぐマルチネスに渡していて、ブラジル人にしては控えめだと感じていた。それが、この試合でははじめから積極的で、曽ヶ端の位置を見てハーフラインからロングシュートをしたりもしていた。

――面白いので、セレッソの話が長くなりました。代表の方へ話を戻しましょうか。

賀川:代表選考への注目が高いために、せっかくのサッカーの試合の面白さが話題にならないのがもったいないと思う。

――それがまた、日本の今のサッカー風景というところなのでしょう。さて、代表の顔ぶれは……それこそ残念ながら香川クンは入らなかった。

賀川:岡田監督といまのチームがやろうとしたサッカーを攻守にわたって最後の詰めをする。そして本番へ持ってゆく――と考えての選考だろうからネ。

――監督のこれまでのやり方から見て、まずは妥当でしょうかね。

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羽田の積極性が生んだ、香川の会心シュート

2010/04/23(金)

――セレッソが2勝目を挙げました。香川真司が5ゴールで得点ランキングのトップですね。ガンバの新しい顔、平井将生も5得点。関西人として嬉しいのではありませんか?

賀川:まさか……。まあ得点するのはいいことだがネ。
 平井は23歳、香川は21歳。年齢からゆくとどんどん点を取り始めておかしくない頃です。平井は太ももの肉離れでしばらく休むらしい。せっかく調子が出たときに惜しいことだ。彼は左へ流れたときにシュートの一つの“角度”があるから、期待していたのですよ。

――ガンバがなかなか勝てなくて、2勝したセレッソが関西勢で順位が一番上です。

賀川:ガンバのように、技術が高く、パスをつなぐことの上手なチームは、突っかける選手がいないとボールを回すだけに終わることがある。私たちの世代の全関西チームにもそういう傾向があった。こういうときに突破力のあるハズのブラジル人の調子が悪ければなおさらですヨ。まあ、底力のあるチームだから、むしろ今は攻撃云々よりもディフェンスからもう一度建て直す方がいいでしょう。ようやく復帰した山口のもとで、中沢や高木といった大型DFの基礎からのアップを図ること。中央の守りがしっかりすれば、左右のサイドも役柄がはっきりする。あとは明神キャプテンをはじめ、役者が揃っているのだから、きっかけさえあれば戻るだろう。

――セレッソは?

賀川:先週の湘南ベルマーレ戦は面白かった。
 攻めながら(終盤まで)PKの1点だけ。ロスタイムに湘南のパワフルな攻撃で同点にされた。相手は「しめた」と、長居のサポーターは「また引き分けか」と思ったときに勝ち越しゴールを奪った。

――シンジのドリブルシュートが見事に決まり、スタンドが沸きました。

賀川:私がいつも言っている「長居へ来れば甲子園とはまた違った興奮が味わえる」というシーンだった。
 香川のプレーも良かったが、ボクは、その前に羽田が中盤(相手側センターサークル付近)でドリブルして香川へパスを出したのが良かったと思っている。彼はこの日、何度か激しいぶつかり合いで体を痛めたハズだが、チャンスと見て攻撃の糸口をつかみ、しかもまだ周囲に余裕のある間に香川に渡したのが効いた。これが決勝ゴールを生む第一のポイントだったと思う。いわば、羽田はこの日の殊勲者ですヨ。

――ふーむ。

賀川:相手のゴールキックを高橋がヘディングし、右ライン近くでが取って羽田に渡した。いわば相手のボールを奪ってからの処理だが、羽田がこのとき、仕掛けようと前に出てきた積極性がとても良かった。もう時間切れ、ここだと彼は思ったハズ。

――ずいぶん誉めますね。

賀川:いいプレーをしたときには一緒に喜ぶべきでしょう。香川はおそらく自分で決めようと思ったのだろう。中へドリブルして、3つ目のはずしでシュートへ持っていった。一つ余計のようだが、それが効いたネ。
 相手は同点にしたあと、おそらく疲れとホッとしたのとで体がついてこなかったのじゃないかな。ここらがサッカーの面白いところで、20分前なら成功しなかったプレーが、このときにはゴールに結びつくのだからネ。香川にとっても会心のシュートの一つだろう。

――この得点で、香川は5ゴールになりました。

賀川:他のゴールはあまりよく見ていないが、テレビでちらりと見た場面でも、彼は今年、パスを出したあと前へ出て、仲間のシュートのときにゴール前へ詰めようとしているのがいい。

――“ごっつぁん”みたいなゴールをもらっていると、言ってます。

賀川:ゴール前へ行こうという気が出いているのがいい。あとは、乾が意欲を燃やすことだ。

――家長も、この試合は先発で出ました。播戸はいつもどおり終わり頃からでしたが。

賀川:能力のあるプレーヤーのポジションプレーが認められるようになって、チームの組織力がつけば、セレッソは少しずつ良くなるだろう。もちろん、まだまだ不満はあるけれど……。

――それについてはまたの機会に。

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春の嵐

2010/03/12(金)

――天候不順で、九州や神戸で3月に雪が降ったりしました。9日に等々力であったACL(AFCチャンピオンズリーグ)E組の川崎対北京国安は、試合中の降雪がピッチに積もるという状態でしたね。

賀川:春の大雪といえば、私たち古いサッカー人には1954年のW杯・アジア予選の日本韓国第1戦(3月7日)が、前日、東京一帯を襲った大雪が残っていてひどいコンディションだった。

――最初の日韓戦ですね。

賀川:そう。韓国の李承晩大統領の有名な「負けたら玄界灘に身を投げろ」という激励があったというエピソードつきの試合です。
 当時の明治神宮競技場は、いまの国立競技場になる前、メインはコンクリートのスタンドで、バックスタンドは土盛り芝生といったときのこと。降雪は止んだが、ピッチに積もった雪をシャベルでかき出して西側に積み上げてプレーした。雪が溶けて水たまりとなり、薄氷が張っているという状態だった。

――賀川さんはなにか、「試合をしたのが間違いだ」と書いたそうですね。

賀川:英国人の主審が、「こういう状態は選手の健康にもよくない。中止延期もあるよ」と勧告したんですヨ。

――それを、強行した。

賀川:のちにいろいろな話も出たが、そのころはサッカーやラグビーはどんなコンディションでも約束どおり試合をするのが当然のように考え、それが英国流スポーツだと思っていたらしい。

――それで1-5の大敗……

賀川:勝ち負けという視点からゆけばもちろん、健康の面でも中止して日を改めるべきだったと思っている。竹腰重丸さん、当時の代表監督でありJFA理事長であったノコさん(竹腰さんのこと)の決定らしいが、まあこれはミスだったろうネ。
 何しろ、試合のはじめごろにスライディングしたDFの山路修が泥まみれになり、それがピッチの風で冷えて試合中、感覚が無かったというのだから。しかもこういう泥濘戦には弱い関西出身の選手を使ったからネ。

――若い長沼健、木村現といった関学の現役選手も登場して、長沼さんが先制ゴールを挙げたとか。

賀川:韓国側もはじめは動きが鈍かったが、それからバンバン攻め立てて前半1-2。後半に大きく3点を奪われた。

――選手たちは体が凍えたと?

賀川:こういう日の対策なんて誰も知らなかった。

――韓国側は?

賀川:彼らが日本に来る前、ソウル一帯はすごく寒く、地面が凍てついて練習できないぐらいだったという。

――その寒いところから来たのだから、まあ寒さに強いですね。それに対して日本代表は西日本、関西の選手だった。東京の泥土の試合は下手でしょう。

賀川:ボクの兄の太郎二宮洋一さんといったベテランもいたが。彼らは雪上の試合の経験もあったが、寒さはちょっと別格だったらしい。山路選手は凍りついた泥と氷をハーフタイムにお湯をかけて落としたら、後半よけいに冷えたという。
 太郎があとで韓国の選手に聞いた話では、韓国ではこういうときには靴の中に唐辛子を入れておくのだといっていたそうだ。

――キムチの国ですね。寒中の試合も知っていたわけだ。

賀川:まあ、そんな古い話を持ち出したのは「こんなこともあった」ということですヨ。

――その、雪の等々力でフロンターレはどうでした?

賀川:よく頑張ったヨ。しかし中村憲剛を故障で欠いているこのチームには苦しかったネ。こんな日にはサイドキックでパスをつなぐということは難しい。むしろ悪いコンディションを利用して、こちらは前を向いて走り、相手は自分のゴールへ向かって動かなければならないように持っていくのがいい。もちろん、そのときにボールの奪い合いで負けないぞという気迫が必要だがネ。

――そうなると、体格・体力もモノをいう。

賀川:もちろんそうだが、雪でボールが転がらないのだから、ロブ(高い)のボールを蹴る方が得なのだ。それにはボールの底を蹴る蹴り方をすべきだが、どういうものか、日本では今、プロの技術者なのにこういうキックができない。

――代表チームでも、右からのクロスが一番手前のDFをこえないですからね。

賀川:川崎には、ホームでありながら気の毒な試合だった。

soccer3月9、10日 ACL日本勢の結果

3月9日
E組 川崎フロンターレ(日本) 1-3 北京国安(中国)
F組 全北現代(韓国) 1-2 鹿島アントラーズ(日本)

3月10日
G組 ガンバ大阪(日本) 1-1  河南建業(中国)
H組 浦項(韓国)2-1 サンフレッチェ広島(日本)

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チリ大地震

2010/03/03(水)

――南米・チリで大地震がありましたね。日本は津波の警戒が強調されたおかげというべきか、その割にはというべきか被害は少なかったですが、チリ国内は大変らしい。

賀川:阪神大震災の体験者としてはまったく、チリの人たちに同情しますよ。地震の恐ろしさとそのあとの苦労は本当に……。
 チリの大地震といえば、私は1960年を思い出す。

――日本の三陸にも大津波がきたのでしょう?

賀川:その経験があるから、気象庁は今回ずいぶん警戒したのだが、この60年はサッカーとも関係があるんですヨ。

――というと

賀川:私たちには、1960年というのは日本サッカーの再出発の年です。ローマ・オリンピック予選で負け、60年ローマ大会に日本選手団が出てゆくなかにサッカーのチームはいなかった。64年東京オリンピックを控えているので、それまでメダルに遠いからといっていた競技も4年後を考えて大挙してローマへ行った。しかし大陸予選で敗れたサッカーは外れていた。

――ああ、そうでした。そこでデットマール・クラマーを招くことにした。

賀川:そう。そのローマ大会や、クラマーに日本代表選手たちがドイツで出会う前の5月22日(現地時間)にチリ大地震が発生し、その大津波が5月24日にやってきて北海道南岸から三陸にかけて大被害を受けた。三陸地方はリアス式海岸で、湾の奥まで津波が入り込んだ。4万6,214戸の家屋が破壊され、142人が亡くなった。

――記録を調べたら、地震そのものも、このときは(モーメント)マグニチュード9.5(表面波マグニチュード=8.5)で今回の8.8(気象庁マグニチュード=8.6)よりも大きく、チリでの被害もすごかった――今回の被害実態はまだつかめていないという――そうです。死者も2,000人をこえたとか。

賀川:私たちは日本の津波被害などに気を取られて、チリでの惨状についてはこのときはあまり知識はなかったが、首都サンチアゴでも建物が倒壊してすごいことだったらしい。
 スタジアムも破壊した。ローマ・オリンピックへ選手団を送らないと決めたという記事をみて、それほどなのかと思ったのだが、そのチリは62年ワールドカップの開催国に決まっていた。これは開催返上も致し方ないかとみていたら、この年の10月のFIFA(国際サッカー連盟)総会で、チリは大会を開催すると約束した。
 そのときの大会組織委員会のカルロス・ディットボーン会長の言葉が、「チリは全てを失った。だからこそW杯は開催する」だった。W杯の開催がチリ国民の希望となり、彼らを勇気づけるというのだった。

――大会は立派に運営され、62年大会ブラジルが優勝しました。

賀川:倒壊したスタジアムは新設され、4会場で16チームが戦い、チリは3位となった。この話は私たちに南米人のサッカーへの思い入れの深さを強く印象づけたものだ。

――東京オリンピックを控えて、クラマーさんを招いて代表強化を図りつつ、また世界へ目を開き始めた日本のメディアにとっても、チリ大会は格別ですね。
 地震や津波が太平洋の向こうとつながっていることは今度のことでもよく分かりましたけれど、サッカーは地震や津波にもつながって話が出てくるものですね。

賀川:まあ、それほど世界中と関わりのあるスポーツ、ということでしょう。



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