スポーツ全般

錦織の快挙

2014/09/08(月)

――テニスの錦織の全米オープン決勝進出、すごいですね

賀川:深夜の準決勝、見ましたよ。第2セットを奪い返した世界ランク1位のジョコビッチがここから盛り返してくると思ったが、錦織は第3セットをものにして勢いに乗った。ひとつひとつの打球に力が入っていて、特に両手打ちのバックハンドがすごかったように思います。

――賀川さんはテニスも好き、ウインブルドンも何回か見たそうですね。そう、96年のイングランドでの欧州選手権で、ウインブルドンに出かけたことも書いていましたね

賀川:ワールドカップや欧州選手権といったサッカーの大きな大会はヨーロッパの夏に開催され、それがロンドンの夏のスポーツの象徴であるウインブルドンと日程が重なるのですよ。スポーツ紙の編集局長をしていた時に、有能なテニス記者をウインブルドンの取材に派遣したこともあって、私も82年のワールドカップの最中に初めて訪れました。サッカーのような全く大衆のスポーツと違って、テニスはいわば貴族的で上流階級のスポーツ。なかでも、ウインブルドンはそのセンターコートのチケットを手に入れるということがステイタスでもある、というほどですね。

――その話はゆっくり聞きたいが、日本テニスにもいよいよ世界に通じる選手が出てきた
賀川:錦織圭という24歳のテニスプレーヤーによって、これまで日本人にとっては最も世界上位へゆきにくい個人競技の一つとみていたテニスで世界のトップに立てるプレーヤーが生まれる気配です。ネットを隔てて打ち合う、ボールもコートも小さな卓球では、日本はかつて世界の頂点に立ったことがあり、いま中国とともに日本選手も上位にいます。テニスは走ることも必要だし、腕力や上半身の強さも大切で、私たちにはハンデのあるはずですが、有能な素材が努力すれば、ここまで来れることを見せました。

――決勝が楽しみです

賀川:もちろん優勝も大切です。しかしここまでの試合ぶりで、彼はすでにNO1に近い評価を受けています。今度の決勝進出には、マイケル・チャンというコーチによる自信の植え付けの効果もあり、また技術面での進歩もあったそうです。

――競技は違いますが、ブラジルワールドカップで、いささか気落ちしたスポーツ界の新しい話題ですね

賀川:テニスに一歩先んじられたのは一面、口惜しいという気もしますが、サッカーも世界のトップを目指しましょう。

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サンスポ時代の仲間たち

2011/05/31(火)

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 大阪サンケイスポーツ新聞の古い仲間のフォトです。第2列の左から3人目に長尾幸太郎さん(ながお・こうたろう、1975年から大阪代表)の顔があるので、74年か75年の集まりでしょう。

 中央(長尾さんから右へ2人目)が私の師匠であり、大阪でサンケイスポーツを発刊した初代編集長・木村象雷(きむら・しょうらい)さんです。
 1928年アムステルダム・オリンピックの水泳日本代表で、早大卒業後、スポーツ記者となり、同盟通信記者のときにベルリン・オリンピック特派員。戦後は産経新聞で、ヘルシンキ(1952年)メルボルン(1956年)ローマ(1960年)と、オリンピック3大会を特派員として取材した、文字どおりの“大記者”。1952年に入社した私が、新米記者のときに木村さんのような優れた記者で部長の下で働いたことは、まことに幸いだったとと今も感謝している。

 ここにいる仲間の多くは自らも若いときにスポーツに打ち込んだ人も多い。前列左端の今木二郎(いまき・じろう)さんは戦前の市岡中学・早大・満鉄(南満州鉄道の野球部があった)で知られた二塁手。その右隣りの南卓(みなみ・たく)さんは明大で秋山登投手と同世代。その後ろの列の左から2人目、丸岡邦康(まるおか・くにやす)は甲陽中学で別当薫(べっとう・かおる)とともに戦前の甲子園で活躍した等々。

 ほとんどは向こう岸にわたり、私と何人かが今もサンスポOB会でときどき顔を合わせている。

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冬季オリンピック

2010/03/01(月)

――雪と氷の祭典、バンクーバーでの冬季オリンピックのNHK放送は、まったくすごい量でしたね。その終わりのころに、今度はチリ大地震と津波情報で日曜日はまる一日中、海面を眺めることになりました。

賀川:昔の冬のオリンピックは、スキーやスケートの種目も少なかったのが、このごろはずいぶん競技種目も増え、参加国も80をこえるまでになり、とても賑やかになった。

――といっても、日ごろ日本人にはなじみの薄い競技もあるのですが、オリンピックになると急に大々的に取り上げるのが面白くもあり不思議でもありました。

賀川:フィギュアスケートは、僕も少年時代に滑ったこともあるし、兄・太郎は神戸アイススケート場の場長さんが「毎日、私のところへ通わせてくれたらオリンピック選手にします」といったこともあるくらいで、我が家では父親も楽しんでいた。

――六甲山上の池で滑ったと、先日お聞きしましたね。

賀川:もっといろいろあるのだが……ここまでにしておこう。
 NHKの、スキーのジャンプと滑走のときの選手の筋肉の使い方などの科学的分析は面白かったね。ジャンプの横風やスキー板を水平に保つところなども、映像の威力を発揮した。

――フィギュアでは、浅田真央、キム・ヨナ、両選手のおかげで日本中が採点法やジャンプの回転などに興味を持つようになったでしょう。これは将来のフィギュア界のためにも大きいことでしょうね。

賀川:一つには、採点法がここ何年かの間に大幅に改正されて、古い時代のように審判の主観が入るのが少なくなった。

――日本のフィギュアはジャンプ主義のところがありますね。

賀川:戦後に外国に追いつこうとしたころは、スタイルや演技といったところはどうしても損だから、スポーツ的なジャンプ、つまり回転数の多い難しい技で得点しようという感覚が強かった。前にもいった、佐藤信夫コーチの(選手時代の)3回転もそうだった。伊藤みどりさんもそうだった。スタイルや演技力でも外国人と変わらぬようになってきた現在でもまだその考えが残っているのかナ。

――一つにはスポーツだから難しいものへの挑戦というのがある?

賀川:うんと古い時代は、アメリカがスポーツ的、ヨーロッパが芸術的といったふうだった。いまは国や地域での傾向というよりフィギュアの指導者、コーチ、あるいは選手個人によってどちらを好むかということだろうね。

――いくら大技に成功しても、ミスをすれば減点されるということで結局、浅田選手の得点はキム・ヨナに追いつかなかった。

賀川:大技を狙うと、そこで自分の力を振り絞る。すると、そのあとのスケーティングにも響くということがある。サッカーでも前半にとばして動き回って後半足が止まると大変ですヨ。試合は90分だからね。
 キムさんの方は、自分のできる範囲のことを完璧に余裕を持って――ということだろう。まあ、いろいろ楽しかったが、アジア勢がフィギュアでここまで充実したのも歴史的ですヨ。考えてみれば、バンクーバーつまりアメリカ大陸の西海岸というのは太平洋側と違って東洋への門戸だからね。
 僕は74年のワールドカップの帰途、ニューヨークからモントリオールを経てカナダの空を横断してバンクーバーへ着いたとき、アジア人の多いのに驚いたことがある。

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バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(下)

2010/02/24(水)

※バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(上)はこちら


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新聞社の企画で対談する佐藤久美子(写真左、旧姓・大川)と平松純子(右、旧姓・上野)


賀川:佐藤信夫コーチは、彼が中学校のときに日本チャンピオンとなったころから取材していたから、いわば“信夫ちゃん”のころから知っていますヨ。夫人の久美子さんは、これも大川久美ちゃんといった小学生のころからのつきあい。2人が結婚し、その娘さんの佐藤有香さんが世界チャンピオンになった。信夫クンはいまは小塚崇彦選手のコーチで、テレビによると、有香さんが振付をしたそうだ。

――ずいぶん詳しいですね。

賀川:信夫クンは68歳で、今度の大会の前に世界フィギュアスケートの殿堂入りしたということだ。彼は1965年の世界選手権で日本人男子としては初めて4位に入った選手。そのとき彼は3回転ジャンプに成功したのだが、当時では世界で4人目くらいだったハズだ。信夫クンはスケーティングが上手でね、トリプルジャンプも着氷した後の滑りがとてもきれいだった。彼が大阪のリンクで何度も練習を繰り返していたのを見ていたヨ。

――ふーん。小塚選手の4回転も、そういう伝統の流れがあるわけだ。

賀川:彼の世代に日本のフィギュアが大幅にレベルアップして、そこからしばらく中断期があった。いまのトップクラスの充実でフィギュア日本などと言われるようになったのも、戦後の彼らの世代が世界に一つのステップを刻んだからですヨ。

――サッカー発展の歴史も面白いですが、フィギュアはサッカーほどの広がりはなくても、やはり先人たちの努力があるのですね。

賀川:稲田さんのお弟子さんに上野純子、福原美和たちがいて、稲田さんより少し若い山下艶子(やました・つやこ)さんのお弟子さんが佐藤信夫、大川久美子といったふうに続いている。信夫クンと同じころに名古屋には小塚一家がいて、このファミリーが中京のスケートの基盤となり、伊藤みどりさん、いまの浅田真央ちゃんなどに続いているのですヨ。ここに名前を出した以外にも、たくさんの先人たちによってフィギュアスケートの今日の隆盛が築かれたことは覚えておきたいネ。

――ものには始まりがあり、継承がある。サッカーもスケートも一緒ですね。


【了】

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バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(上)

2010/02/23(火)

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右端、現役時代の佐藤信夫氏(バンクーバー五輪代表・小塚崇彦選手のコーチ)。


――テレビの冬季オリンピック放送がずいぶん賑やかですね。

賀川:NHKテレビの競技解説や滑降、ジャンプの科学的な分析などいろいろ趣向もあって、冬のオリンピック種目への理解も深まるだろう。
 もともと、スキー、スケート、つまり雪の上と氷の上の競技は、スケートは室内リンクのできる前から観客席で見ることができたが、スキーは、ジャンプはともかくあとはコース全体を見ることのできないスポーツで、スキーヤーの多い割には“見るスポーツ”というわけではなかった。それがテレビによって滑降や回転、あるいは距離競技などもコース全体を見ることができるようになりとても面白くなった。

――カーリングなどという、日本では新しいスポーツも見るとずいぶん面白いですね。テレビといえばフィギュアスケートは視聴率も高いそうです。

賀川:戦前からフィギュアは冬季五輪の花と言われていたヨ。

――関西は昔からいいフィギュアスケーターが出ていましたよね。

賀川:日本でのスケートの発端は長野県の諏訪湖と言われていて、そこでの下駄スケートが有名。下駄の裏に鉄製のエッジをつけてね。神戸では外国人がスポーツを持ち込んだことはよく知られているが、六甲山上にある溜め池が冬に凍結するのに目をつけた外国人が六甲山上の池で滑り始めたのが起こりですヨ。

――へぇ、六甲の池で……

賀川:ボクも小学生のころ滑りましたヨ。八代池(やつしろいけ)というのが大きくて、父の貿易商仲間の外人さんの別荘の裏にある星野池というプライベートなリンクは氷の状態も良かった。

――1936年ベルリン・オリンピックと同じ年にドイツで冬季五輪があったとき、日本からは12歳の少女が出場したそうですね。

賀川:私と同じ年齢の、稲田悦子さん。皆、悦っちゃん(えっちゃん)と呼んでいた。大阪の商家のお嬢さんで、そのころ神戸市の新開地にできた神戸アイススケート場へ通っていた。

――オリンピックでは?

賀川:メダルや入賞とはゆかなかったが、11位か12位で、半分より上の方だったハズ(編集注:10位)。出場最年少というので話題になった。

――女子フィギュアの草分けですね。

賀川:いやいや悦っちゃんの前にも女子フィギュアは既に始まっていた。いまのISU(国際スケート連盟)の国際審判のトップにいる平松純子(旧姓・上野)さんのお母さんの上野衣子(うえの・きぬこ)さんや、プロコーチの佐藤信夫さんのお母さんもそうだった。
 そうそう、サッカーの加納孝さん(第1、2回アジア大会日本代表)の夫人も、そのお姉さんも滑っておられたんですヨ。

――それはまたずいぶん古い話ですね。


【つづく】

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