素晴らしきサッカー仲間たち

高橋ロクさんのこと

2010/02/19(金)

 日本サッカー史研究会のメンバー阿部さんからの連絡で、先月1月18日の会のテーマが高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんであったことを知りました(阿部さん、ありがとうございます)。

“ロクさん”こと高橋さんは私より8歳ほど年長の先輩であるとともに、尊敬する仲間でした。第1回のアジアユース(1959年)マレーシア大会の監督をされたときに私はマネージャー兼報道係として同行し、ロクさんの選手たちへの細かな気配りに感心したものです。
 ちょっと皮肉っぽい言い方をしつつ、心の優しいロクさんは、デットマール・クラマーが来日した60年から62年まで代表監督をしながらクラマーの全国行脚にも付き合い忙しい日々を送りながら、時を構わず電話する私の問いにも応じてくれました。
 私の兄の太郎の結婚式のときにも、仲人であった竹腰重丸さんのサッカー芸術論の大スピーチ論とは違って、ロクさんらしいサビの効いた短いスピーチをされたことをいまも覚えています。

 長沼健さん、岡野俊一郎さんの若い2人に日本代表監督を譲ってしばらく日立の工場勤務となったとき、「暇だからゴルフの道具を揃えたよ」と言いながら嬉しそうでなかった……。日本リーグで低迷する日立を建て直すために日立サッカー部に返り咲いたときは、田辺製薬にいてかつてロクさんとはライバルであり、且つ、ロクさんのリンクマンぶりをいつも推奨していた兄・太郎が「これで日立も強くなるだろう」と言っていたのを覚えています。

 それから、しばらくしてロクさんが大阪の新聞社へ訪ねてきてくれて2人で食事をしたとき、ロクさんが「ボクも変わったからネ」と言ったのを忘れられません。
 ベルリン世代とそのずいぶん後の次の世代の間で苦労したロクさんが、あり余るほどのサッカーの知識と経験の中から“いまの日立”に必要な“走るサッカー”を強調した頃でした。

 ロクさんのおかげで、私はクラマー来日初期には日本代表の合宿に仲間と同じ扱いで出入りすることができ、サッカー復興の若い仲間と友人になれました。それは今の私の大きな財産の一つ。ロクさんを偲ぶとき、いつも、いい先輩に巡り会えたと改めて感じるのです。


book関連記事(賀川サッカーライブラリー)
現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(下)

2010/02/07(日)

100206kfc
神戸FCの周年記念史。右から20周年、30周年、そして今回の40周年
表紙の赤と白のデザインは、チームのユニフォームを模している



――昭和39年の勝利が昭和5年の極東大会に結びつくわけですか。

賀川:そのころ、私も不勉強ではあったが、前から昭和5年の勝利が次の11年(1936年)の“ベルリンの奇跡”につながるという程度のことは聞いていた。

――そこで……

賀川:田辺さんのスピーチは素晴らしかった。あとはまあ、あのプレーが良かった、とかいうような話が多かったのだが、そのなかでボクが例の思いつきでつい口に出してしまった。

――どんなことをです?

賀川:私は先輩たちのバックアップのおかげで、1959年、高校選抜日本代表チームとともに第1回アジアユース(マレーシア)へ行きました(マネージャー兼報道役員として帯同)。
 そのときのいわばアジアユース1期生の中から杉山隆一宮本輝紀、継谷昌三の3人のオリンピック代表が出たことはご存知でしょう(釜本邦茂は第4期生)。しかしその1期生たちと一緒にプレーしてみて、彼らのボールテクニックはまだまだだと思った。
考えてみたら、彼らがボールを蹴るようになったのは新制中学に入ってからです。私たちのときは、特に教えてはもらわなかったが、雲中(うんちゅう)小学校や御影師範付属小学校などでボールを蹴っていた。正式でなくても、ゴムマリ(軟式テニスのボール)のサッカー遊びもしていた。そのことから思えば、いまの代表選手たちはボールを蹴り始めたのが遅いから、ボール扱いが上手でないのは当然。ここを考えて、まず小学生のサッカーを考えたい、と言った。

――それで?

賀川:そのときはフムフムという感じだったが、翌日、加藤ドクターから電話がかかってきた。「賀川君、昨晩のあの話、やろうじゃないか」とね。

――それが少年サッカースクール45周年の始まりですね。

賀川:加藤ドクターの大車輪の活動が始まり、友の会主催で少年サッカースクールが誕生。その成功から今度は母体の友の会を改編して社団法人のクラブへ――ということになった。

――面白い話。でも今回はこのあたりにしておきましょうか。KFCの交友録も、また改めて聞かせて下さいね。


book関連記事
速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)


【了】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(中)

2010/02/06(土)

100205kfcbook
記念冊子
左:神戸少年サッカースクール10年のあゆみ
右:目で見るK.F.C.



――それから?

賀川:12月29日に前後して、28、29、30日、つまり年末の時期に磯上、神戸高校、そして西宮の3ヶ所で順次に中高生対象のサッカー教室を開いた。講師は岩谷俊夫(故人)。当時の日本協会技術委員で毎日新聞の記者。今の高校選手権大会はそのころ毎日新聞社の主催で、岩谷君は指導者としても記者としても知られていたから、中高生には人気があった。

――小学生は

賀川:低年齢に及ぶのは後々の話。とりあえず、若い人にサッカーを教え、皆でボールを蹴ろう、そして国際試合で日本代表を応援しよう、その前にちゃんとしたグラウンドを作ろう――などいろいろな目的があった。
 そのころ日本には芝生のサッカーグラウンドはなく、国立競技場は1959年の第3回アジア競技大会の会場となったあと、64年オリンピックのための改装中だった。63年のオリンピックのためのリハーサルでも、会場は秩父宮ラグビー場。そののちに御崎にグラウンドができたのも、友の会の運動からだった。

――少年サッカースクールの45周年は……

賀川:友の会は講習会をしたけれど、不定期だった。少年サッカースクールのきっかけは東京オリンピック直後の会合だった。

――といいますと?

賀川:1964年10月の東京オリンピックで日本代表はアルゼンチンに逆転勝ちして開催国の面目を保つことができた。大会が終わったあと、デットマール・クラマーが帰国する前のお別れパーティの席上で、この1勝を足場にしての日本が次に打つ手を皆に言い残した。

――有名な、“クラマーの5ヶ条”ですね。

賀川:僕はその会に出てから関西へ帰ってきた。大会の少し前から、東京の新聞社のデスクで働いていたのから解放されて、当時、武庫之荘にあった家に戻ったら加藤正信ドクターから連絡がきて、田辺五兵衛さんから皆に集まってほしいという要請があったということだった。何月何日だったかは覚えていないが、三宮のどこかでご飯を食べながら、田辺さんが言ったのは、
「東京での対アルゼンチンの1勝は、1930年(昭和5年)の東京での第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち中華民国と引き分けて念願の極東1位を果たした(※)のに匹敵する、サッカー史上のエポック・メーキング事件です。これを将来につなぐために、私たちは何をすべきかを考えてほしい」。
 ※編集注:当時は得失点差で順位を決める規則ではなく、1勝1分けで2チームが同率優勝となった


book関連記事
ローマ、東京、メキシコ(11)
ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)


【つづく】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(上)

2010/02/05(金)

100130kfc
祝賀パーティ会場で
左から大仁邦彌JFA副会長、藤井さち代さん、前野正KFC理事長



――1月30日に、神戸のポートピアホテルで神戸フットボールクラブ(KFC)の40周年記念式典と祝賀パーティがありましたね。参加者が260人もあったとか……盛況でしたね。

賀川:そうネ。昨年には枚方フットボールクラブの40周年のパーティもあった。学校のクラブや企業のクラブとは別の形の、市民スポーツクラブが半世紀近くの歴史を持つようになってきたのですヨ。

――創設の発起人でもあり、「兵庫県サッカー友の会」のころからの関係者として、KFCのパーティは感慨ひとしおというところだったでしょう。

賀川:枚方の40年のときも古い仲間に会えて嬉しかったが、今度は神戸だからね――。同じテーブルにJFAの大仁邦彌副会長、クラブの植月正章会長、米田准三名誉会長、前野正理事長、細谷一郎副理事長、それから来賓のアシックス佐野俊之取締役、ニチレクの田淵和彦社長、クリムゾンフットボールクラブの叶屋宏一社長などの顔があった。
 植月さんはアシックス時代からの長いおつきあい。大阪女子マラソン以来ずーっと世話になっている。この人はオニツカタイガーのランニングシューズを世界的に広めた人だヨ。
 米田さんは神戸一中で私の3年下だが河本春男(故人)会長のあとを引き受けてもらって、ずいぶんクラブに尽くして頂いた人だ。

――メインテーブルですね。

賀川:そうだったネ。今ごろ気が付いている。まあ一番の年長者で、今のクラブでも顧問ということになっているのだが……。こうした市民クラブはそれを自分たちで運営するクラブ員の力が大切なのだが、たくさんの人々の応援やバックアップのおかげでもある。そうしたお世話になった人や昔からの仲間に会えたのは何よりだった。
 今度の40周年記念史にも書いておいたのだが、20周年のときに、KFCや神戸少年サッカースクールの由来について書いておいた。いずれ、このブログにも再録しておきたいと思っているが、そもそものスタートは「兵庫サッカー友の会」からなんだ。
 これは、加藤正信ドクターという旧制神戸一中(現・神戸高校)で私よりも12歳年長の先輩が、
「戦前の神戸や兵庫はサッカー王国で、全国大会でもずーっと勝っていた。日本代表選手もたくさん育った。この東京オリンピックを控えたサッカー興隆の好機に、もう一度、兵庫のサッカーを強く盛んにしたい」
と考え、自分たちのライバルであった御影師範学校(神戸大学教育学部、現・発達科学部)のOBたちの賛同を得て、大橋真平さん(故人)に幹事長を引き受けてもらって1963年12月29日、「兵庫サッカー友の会」を発足した。

――友の会というのは? 阪急友の会とか、大丸友の会みたいなもの?

賀川:そういうのがありましたネ。京都サッカー協会会長の藤田静夫さん(故人・日本サッカー協会会長)が一足早く京都で協会をバックアップするファンの組織をつくったことからヒントを得た。

――それで、何をしたのですか

賀川:友の会の目的に、“5つの夢”として、
(1)少年サッカーの育成
(2)国際サッカー場の創設
(3)芝生の少年サッカー場の創設
(4)クラブチームの編成・強化
(5)サッカー王国 兵庫・神戸の復活

という5項目を掲げた。
 役員などを決めて、神戸高校の同窓会館で設立総会をした。会員の申込み、登録は1,007人だったから、反響は大きかったといえるだろう。


book関連記事
世界の“常識”を求めて(1)
兄は社長に、弟は生涯一記者に 日本サッカーの指標となった大谷一二、四郎兄弟(下)
普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(中)
京都と日本のサッカーに捧げた90年 第6代藤田静夫(下)


【つづく】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


“GK大特集” 清水和良カメラマンの新基軸の写真集

2009/12/22(火)

091222gk
サッカーベストシーンEX.3 最強GK列伝(コスミック出版)


――フリーのカメラマン、清水和良さんのGK(ゴールキーパー)の写真集が出ていますね。

賀川:僕は今、週刊サッカーマガジンにストライカーの話を連載しているのだが、そのストライカーの対極にあるポジションがGKと言えるだろう。11人のプレーヤーの中で唯一人、手を使うことの許されているポジションでゴールを守るスペシャリストは、まあピッチの上でも特殊な存在。それをフォトグラファーの視点でまとめたらしい。コスミック出版からことし夏に出版した。コスミック社のムック版というのか、サッカーベストシーンというシリーズの一つ。「世界にただ1冊! GK大特集本」とある。

――夏の出版から、ちょっと日が過ぎていますが……

賀川:実は、この本を見てすぐこの欄で話題にしようと思ったのだが、この原稿のあしらいにと考えた清水さんと僕が一緒に写っているフォトがなかなか見つからない。最近になって出てきたので、遅ればせながら本の紹介を――ということになった。

――GKの特集という視点が面白いですね。

賀川:フリーのフォトグラファーとは何人かとときどき話をするが、彼らは書き手の記者(Written Press)よりもずっと選手に近いところにいて、スタンドの記者席とはまた違うところから、しかもレンズを通して見ている。僕にもいろいろ参考になる意見を聞かせてくれるんだよ。

――清水さんとは?

賀川:そんなに深いつきあいというわけじゃないが、初めて会ったのが1978年のワールドカップ(W杯)、ブエノスアイレスだからかれこれ30年来の長いつきあいですよ。確かあのときは、彼は宿舎の予約もしないでブエノスアイレスへ飛んできて、始めのうちはホテルの従業員の家に泊めてもらったという。

――フリーのカメラマンは行動力があると、いつも話してますよね。

賀川:言葉(外国語)のできる人もいるし、それほど話せない人もいるけれど、カメラマンは写すとなるとまるで人が変わったかと思うほど粘るし、押しが強くなる。アルゼンチンW杯の頃の清水さんは、まだボンボンのような若い感じだったが、サッカーを撮るという意欲に感心させられた。

091222_2
EURO80 イタリア大会、ローマでフリーランスカメラマンたちと食事。
テーブル左から、富越正秀、清水和良、賀川、一人おいてサッカーマガジン千野圭一編集長



――ローマでフリーのカメラマンと一緒に食事をしている写真がありましたね。

賀川:80年の欧州選手権(EURO80)のときですよ。このときは、日本からは新聞社はもちろんサッカー専門誌でもたかだか一人ずつくらいしか取材に来ていなかった。記者の数よりフォトグラファーの方が多いのだから、それも全部フリーランスだった。

――ゴール裏からGKを撮影できるのはすごいですね。

賀川:当時でもW杯などはカメラマンの数が多くて、ピッチで撮影するのに場所の割り当てが大変だった。簡単に動き回れる所じゃないから運もあるけれど、皆しっかりした写真を撮っていた。
 ゴール裏のカメラマンにしてみると、GKはいつも背中をみせて守っている。相手チーム側は自分の方へ向って攻めてくる。ただし、その相手のストライカー、昔ならセンターフォワード(CF)は、やはりフォトグラファーに背を向けていることも多い。彼らはそうした、僕たちスタンド席とは違う角度から見ているから、いっぱい面白い話を持っている。

――本の内容も、盛りだくさんですね。

賀川:いつもGKを身近に眺めている清水さんの彼らへの思い入れがぎっしり詰まっている。ピーター・シュマイケル川口能活のインタビューもあるし、各国の名GKの見事なプレーや迫力あるプレーがあって、それぞれの国のGKの系譜にも思いを馳せることができる。GKについての理解が深まり、サッカーがより楽しくなる1冊ですよ。なにしろ特別付録でヤシンやバンクスといった伝説のGKたちから現役のカシジャスにいたる名手のセービングのDVDまで付いているのだから――。

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


記者として、サッカー人として 大谷四郎

2009/11/20(金)

2009年11月 サロン関西
・日 時:2009年11月26日(木)19~21時(その後、同会場にて懇親会)
・会 場:神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KR & AC)
     神戸市中央区八幡通2-1-20(「三宮」駅から徒歩約7分)
・会 費:1000円 ※懇親会は、フリードリンク 3500円
・テーマ:記者として、サッカー人として 大谷四郎
・報告者:賀川浩(サッカーライター)黒田和生(ヴィッセル神戸)

――大谷さんの話をする会があるのですね。

賀川:ことし9月11日にJFAの第6回殿堂入りの表彰式があって、大谷四郎さん(1918-90)高橋英辰さん(1916-2000)国際審判員だった丸山義行さん(1931-)それから68年メキシコ五輪銅メダルの一人松本育夫さん(1941-)が表彰された。
 大谷さんと高橋さんは私より6歳~8歳年長の先輩で、大谷さんは朝日新聞の記者、高橋さんは日本代表のコーチ、監督あるいは日立(現・柏レイソル)の監督として、どちらもその時代では有名だったが、若いサッカー仲間にはいささか遠い人となっているようだ。

――松本さんは60歳をこえた今もJ2サガン鳥栖での強化本部長、丸山さんは中央大学の大先輩として尊敬されていますね。そうした4人のなかから大谷さんの話が浮かんできたのは、やはり関西出身ということですね。

賀川:大谷さんは記者として優れた記事を書き、サッカーの普及とレベルアップに功があったわけだが、関西では神戸FCの設立に関わり運営にも力を尽くしたことでも知られている。クラブの技術委員長をしているときに、大学を出たばかりの黒田和生さんが、FCの専属コーチになった。黒田さんはのちに滝川第2高校の監督として成功し、いままたヴィッセル神戸の育成の責任者になっていて、いわば関西での選手育成の第一人者といえる。その黒田コーチが、若いころに大谷さんの指導を受けたことが大きなプラスとなったといっている。

――大谷さんは選手としても上手だったとか

賀川:今でいうストライカーだった。神戸一中時代、4年生と5年生(最高学年)のときに連続して全国優勝しているが、大事な試合でよく点を取った。当時の毎日新聞にも「超大型CF大谷云々」の記事があったハズ。東大のときにも関東大学リーグで、「リーグで最も目覚ましかったのは、早大の裵宗稿と東大の大谷四郎のシュートだった」と書かれたこともある。

――へぇー。いろんなエピソードがありますね。

賀川:ボクは新聞記者としてもこの道の後輩にあたるのだが、同じ仕事仲間として毎日新聞にいた岩谷俊夫(1925-1970)と3人いつも一緒だった。記者として、人間としても素晴らしい大谷さんについて語ればキリがないけれど、故・加藤正信ドクターをリーダーに、大谷さんをはじめ皆でつくり上げた神戸FCは今も「法人格市民スポーツクラブ」の一つの見本となっている。

――神戸一中サッカー部の後輩で、記者という同業者であり、大阪クラブや神戸FCでのクラブ仲間であり……というところですね。

賀川:大谷四郎さんの兄さんに、大谷一二(いちじ)さんがいて、ベルリン・オリンピック世代の名選手だった一二さんは神戸一中、神戸商大(現・神戸大)で私の先輩にもあたる。直接プレーも教えてもらったこともあり、私の兄・太郎ともども最も尊敬するサッカー人の一人。殿堂入りの表彰のときにはチラリと大谷一二さんの話が出そうになったのだが、結局は一言だけに終わっている。四郎さんが日本サッカー史に造詣が深かったのも、身近に兄さんをはじめ優れたプレーヤーを見た経験も大きな基盤になっていると思う。

――黒田先生との話は、2時間で終わるんでしょうかね。

賀川:戦前派の大谷四郎さんと現代の少年指導の現場にいる黒田さんの話を通じて、この人の素晴らしい人となりを少しでも紹介し、日本サッカーの歴史の深さの一端を知って頂ければ嬉しいのですがネ。

固定リンク | お知らせ | 日本サッカーアーカイブ | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (1) | トラックバック (1)


ライブラリーの新コーナー「Hiroshi Kagawa in the Press」

2009/10/30(金)

 長い記者生活で自分の新聞に書き雑誌に寄稿し、フリーランスになってからも書く仕事を続けてきました。年をとってくると、取材して書くだけでなく取材され記事に書かれることも多くなりました。

 最初に取材されたのは1974年西ドイツワールドカップのとき。有名なビルト・ツァイトゥング(Bild-Zeitung)というタブロイドの夕刊紙でした。
 84年のヨーロッパ選手権のときにはBBSのラジオで語らされ、こんな英語をロンドンの皆が聞いたらどう思うだろうかと心配したこともありました。

 そんな遠い国の話でなくても、どういうわけかここしばらく日本のメディアに、ときに老齢まる出しの顔写真とともに私の話が掲載され、有難いやらなんとなく面映ゆく、申し訳ない気もしています。そんな、人の目と書きものも一つに集めることに……。

◆「Hiroshi Kagawa in the Press」はこちら
 (賀川サッカーライブラリーbook> Stories> Hiroshi Kagawa in the Press)

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | 賀川サッカーライブラリー | コメント (0) | トラックバック (0)


サッカー狂会の会報『FOOTBALL No.138』

2009/10/22(木)


091022_3

 日本サッカー狂会会報『FOOTBALL』の2009年10月号(No.138)が届いた。“サッカー和尚”こと鈴木良韶(すずき・りょうしょう)さんが1962年にこの会を設立された頃からのおつきあい。熱心な会員の方からの投稿が詰まっている会報は毎回楽しく拝見しているが、このFOOTBALLの創刊は1965年11月だから45年間――よくぞまあ続けられるものと感嘆の他はない。
 138号は、1)大山信一さんの「FIFA FUTSAL WORLD CUP BRAZIL 2008 観戦記(5)」 2)五十嵐雅人さんの「サッカー文化論の研究(3)日本人はサッカーに向いていない・前半」と、早くからこの会報に投稿していたアルゼンチン在住の故・太田一二さんの「アルゼンチン便り」の再録で、今度が14回目、などなど……。


091022osyou_2
名古屋のサッカー和尚・鈴木良韶さん

 鈴木さんご自身の書きものでは「フットボールあれこれ」や編集後記もあり、フットボール切手蒐集家でもある鈴木さんらしく南アフリカ大会の切手のこと、また、新潟国体のフットボール切手(50円)がこの号の表紙に使われている。
 鈴木さん、ありがとう。大山さんは何年か前の会報で“するのも見るのもフットサルが多くなった”とあったが、そのおかげで詳細なブラジル大会の話を読ませてもらえてまことにありがたいこと。五十嵐さんは文化論や人種論を背景にした「日本人はサッカーに向いていない」といった“識者”たちの日本サッカー批評に対して鋭く切り込んでおられるのを感心しながら読ませてもらっています。
「それは練習不足」「工夫が足りない」「練習法が悪い」という程度で私なら片づけることの多い日本サッカーの問題点を、サッカー好きの日本のファンはどうわけか国民性や人種論に結び付けたくなる人が多い――私にはそのことが面白く、同時に、こんなに簡単なルールで世界中で広がって盛んになっているスポーツに“向いている”“向いていない”ということをマジメに語り合うところがとても面白いと思っています。

 ともあれ、鈴木さんや畦地治さんはじめ、このユニークで年月を狂会――英文は「JAPAN FOOTBALL ENTHUSIASTS SOCIETY」――の発展をお祈りして、和尚さんへの謝意とさせて頂きます。

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (2) | トラックバック (0)


ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(下)

2009/07/24(金)

090724_2


――コーチたちには刺激になったでしょうね。

賀川:そうね。指導者もプレーヤーと同じで、いくら人の言葉、人からのヒントを聞いても自分で掴まないといけないものだろう。もちろん、そのためには謙虚な心、勉強する気持ちを忘れてはいけないからね。
ボクが感心したのは、亡くなった第8代JFA会長の長沼健さん。この人が関学を卒業して中大にもう一度学士入学し、サッカーもみっちりプレーするということになった年の冬に、西宮球技場のスタンドでの立ち話であることを彼に言った。余計なことかもしれないが、せっかくサッカーをもう一度しっかりやるというのだからと、思わず口から言葉が出た。それを健さんは覚えていて、専務理事時代に何かの用事で彼の車で送ってもらっているときに運転席から振り向いて「あの話、まだ覚えてますよ」と言った。ヘェー、そうなのかと嬉しかったね。中大・古河電工のときのプレーは関学時代と変わったが、そのことについて私も健さんと話すことはなく、技術指導者を経て専務理事になってからポツンと「覚えてますよ」と言ってくれた。

――すごい話……

賀川:ボクが何か彼のプレーの成長を手伝ったのかというのではなく、ボクのような者の話でも健さんは聞き入れ、それが何か自分の役に立つかを考えたのだと思っている。そこに、選手として素質いっぱいに腕を上げ、コーチ、監督として国際舞台で実績を積み、専務理事としてJFAを改革し、会長として2002年W杯招致をはじめ多くのお仕事をした健さんの“素(もと)”があると思う。

――ちょっとスケールが大きすぎるかも?

賀川:コーチ一人ひとりが健さんのようにというわけにはいかないが、他人の話を謙虚に聞く耳はやはり大切ということですヨ。

――聞き耳がよければいい――と言っている風にもとれなくもないですね。

賀川:それはまぁ、ご随意に。



【了】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (1)


ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(中)

2009/07/23(木)

090722

「zibunshi.xls」をダウンロード



――3回目は?

賀川:3回目は彼らが私からどういう話を聞きたいか――にした。最初の集まりのときに、コーチ各人の自分史を年表(写真)にし、それを大まかなサッカー史と対比して書いてもらったのだが、自分の育ってきた時代が何かを考えることで自分を見つめるきっかけにして欲しいこと、そして、話す私の方も、彼らのキャリアを知って、どういうことが必要かを考えたいと思ったからですヨ……。

――コーチたちの反応を見たかったですね。

賀川:色々ありましたヨ。Jリーグでプレーヤーとして活躍した人、日本代表で国際舞台でしっかり試合をした人もあれば外国に留学してコーチの勉強をしてきた人もいる。そうした多くの人材がいまヴィッセルのコーチ陣にいるんですよ。

――彼らは何を聞きたいと?

賀川:私が出会ったコーチや選手の名前を前もって紹介しておいたのだが、やはりヨハン・クライフが多かったネ。

――クライフのうまさや考え?

賀川:74年W杯では利き足の右でのプレーがほとんどだったが、6年後、ワシントン・ディプロマッツでの試合(ワシントン)を見たら右足を故障していて、プレーは左足一本。左足でボールを止め、左足でパスを出していたという話。そこから、この大選手の右左のバランスについてを説いた。そして彼に、彼の足の速さを尋ねたら「どれだけ速く走るかよりも、いつ走るかが大切なのだ」と一本とられた話もした。彼のエピソード、80年のサッカーマガジン以外に世界中のどの雑誌にも載っていない、78年W杯に出場しなかった理由などもネ。

――日本流についても聞かれたとか?

賀川:時間が少なかったので中途半端になってはいけないと思い、まず、体格のことだけを取り上げておいた。最近の日本には大きい選手もいるが、やはり体格の面では小さい方が多い。そのときに、体の大小は大が長所、小が短所というのでなく、それぞれの特徴に過ぎないこと、小さいのは敏捷だからそれを生かすことが大事という話をした。それが昭和5年(1930年)以来いまの日本代表につながっているのだから――。
 もちろん、大きいプレーヤーの必要なポジションには大柄を持ってくることはチームにとって必要だが、指導者にとっては小さい者に急に大きくなれと言っても無理だから、その特徴を生かせる工夫をすることが大切なのですヨ。プロ野球のタイガースの吉田義男内野手の話を聞いてもらったよ。

――賀川さんはスポーツ紙の運動部長、編集局長でしたからね。

賀川:松木謙治郎というタイガースの監督さんをはじめ、ヨッさん(吉田義男)ノムさん(野村克也、現・楽天監督)など素晴らしい野球人が私のスポーツ紙の評論家だったから、いい話をいっぱい聞かせてもらった。みんな野球の話になるとバッティングがどうの、そのときの守りがどうの、投げ方がどうのと、何日でも語りますヨ。



【つづく】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (1)


ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(上)

2009/07/22(水)


090724


――ヴィッセルのコーチたちへの講義はどうでしたか。

賀川:ヴィッセル神戸育成担当の黒田和生さん、あの滝川第二の監督であった先生が、神戸・兵庫のサッカーの歴史と日本・世界のサッカーとのかかわりについて話して欲しいとおっしゃる。自らの足元を見つめ、自分たちの歴史に誇りを持って欲しいという考えなのだろうが、単に昔に強い時代があったというのでなく、日本のサッカーが今日のかたちになるまでに先輩たちがどれだけ努力したか、そしてその間に何をどう考えてきたか――そういう日本サッカー発展の中で神戸はさまざまな実績を積み、あるときは技術・戦術の先頭に立ち、あるときは少年育成やクラブというもののモデルを全国に先んじて行なってきたことを語っておこうと思った。

――3回ともそんな感じですか?

賀川:第1回は総論から入って、まず、Footballとは何か、そして明治・大正から昭和初期の神戸と日本のサッカー。例の第9回極東大会で日本流サッカーを選手たちが考えて実行したときにも神戸出身のプレーヤーが大いに働いたことまで、そしてそれが1936年のベルリン・オリンピックの逆転劇につながる――という流れをしょうかいした。
 第2回は、ベルリンと1940年の幻の東京オリンピック、そして戦中・戦後、さらにクラマーの指導による東京・メキシコ両オリンピックの成功、そのあとの停滞時代、その東京オリンピックの直後にいち早く少年サッカースクールが神戸でスタートして、全国への普及の始まりとなり、1970年の神戸FCの創立とその会員登録を年齢別にしたこと、それがJFA(日本サッカー協会)の79年の登録制度の変革へとつながり、後のプロ化へのスムーズな移行の基盤となったことなどを話した。

――いまのホームズスタジアム神戸も、1969年にサッカー専用競技場をつくるという神戸のサッカー人の署名運動で、まず御崎競技場が生まれ、2002年のワールドカップ(W杯)のときに新しいスタジアム建設となったのですよね。

賀川:その話は時間がなくて省いたけれど、市の中にサッカーのスタジアム(陸上競技のトラックと併用ではない)を持つのは当然という空気がW杯開催の前にすでにあったのは、1969年の御崎サッカー場があったからですよ。このことはまたの機会にとっておいたのだが、こういう歴史とそれにまつわる“考え方”、クラブとは? 年齢別とは――といった理念についてコーチの皆さんが考えるヒントにして欲しいとの願いだった。



【つづく】

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


日本サッカー史研究会で、1930年日本代表について語る

2009/07/21(火)

090531


――6月、7月としばらく休みました。

賀川:少し間があきましたネ。

――スピーチが続きましたしね。

賀川:
 5月31日 東京の日本サッカー史研究会の集まりで「1930年 第9回極東大会」について
 6月17日 神戸でヴィッセル神戸コーチ研修会(1)
 6月24日 同(2)
 7月1日 同(3)

といった調子で、その間にキリンカップの取材(5月27日 日本対チリ、31日 日本対ベルギー)やW杯アジア予選の日本対カタール(6月10日 横浜)などもあった。

――6月6日の日本対ウズベキスタン(タシケント)17日の日本対オーストラリア(メルボルン)もあったから、テレビ観戦でも気合が入ったことでしょう。

賀川:そうね。あっという間の6月の予選シリーズに続いて、若いコーチ相手のおしゃべりがあったからね。

――今回はまず、東京での会について。日本サッカー史研究会とサロン2002の合同の会でしたね。

賀川:牛木素吉郎さん主宰のサッカー史の会で一度語ってほしいという話があって、キリンカップの対ベルギー戦の午後がいいだろうということで、日本サッカーミュージアムの部屋を借りた。中塚先生、本多さんのサロン2002の会も一緒になって、40~50人くらい集まった。
 テーマは1930年の日本代表チーム。あの第9回極東大会でフィリピンに勝ち(7-2)中華民国と引き分け(3-3)中華民国とともに1位となったときのチームが日本流サッカーの原点というもので、それに至る歴史的背景、ビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンのコーチを受けた鈴木重義監督をはじめ東京高等師範附属中学(旧制)の出身者、神戸一中の出身者、そして直弟子の竹腰重丸さん、さらにはドイツ人捕虜の指導によってレベルアップした広島からの手島志郎、野沢正雄たちといったいわばボールを短くつないで早く攻めるという同じ考えの――いまでいうコンセプトが同じ、かな――プレーヤーによって日本流が生まれたという、私の持論を話した。
 手島、野沢の広島附属―広高―東大組は、神戸一中や東京高師附属といった“都会派”でなく、もう少し骨太のサッカーだったハズだが……。

――反応はどうでしたか。

賀川:どうですかね。選手一人ひとりのプレーや特徴、エピソードなどを聞かせてもらってとてもよかったと言ってくれる人もいた。例によって時間が少なく、熱心な質問にすべて満足ゆく答えを出せたかどうかは別として、参会者のなかには「サッカーのプレーはしていないが社会現象としてのサッカーを勉強し、その日本の歴史を知りたい」という人もおられて、様々な人がサッカーの歴史に興味を持って下さるのだなと思ったものです。

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)


サッカーという名の戦争

2009/04/15(水)

090402

『サッカーという名の戦争』(定価1700円)という本が、新潮社から出版された。著者は日本サッカー協会(JFA)の元専務理事・平田竹男(ひらた・たけお)氏。2002年から2006年までJFAの専務理事として日本代表の国際試合を取り仕切ってきた、いわばサッカーという世界最大のスポーツの国際舞台のウラの事情に通じた人が明かす、サッカー外交の裏舞台の話。副題も「日本代表、外交交渉の裏舞台」となっていて、アテネ五輪予選やドイツW杯アジア予選などの試合日程を組んでゆく話が分かりやすく克明に語られている。

 ほとんどの国でその国のメジャースポーツとなっているだけに、サッカーでは各国とも代表の試合に勝とうとし、より有利な日程を組みたいと考えるなかで、公正公平なフォーマットを考え、しかも日本の不利にならないように交渉してゆく過程が見事に描かれていてとても面白い。

――平田竹男さんは大阪の出身でしたね。

賀川:1960年生まれで、小学生(大阪市立新森小路小学校)の頃からボールを蹴っていて、中学校(大阪市立旭東中学校)でサッカー部に入り、府立大手前高校でもずいぶん熱心だったらしい。

――ローマ五輪(1960年)に負けて、日本サッカーがどん底から64年の東京五輪、68年のメキシコ銅メダルへと急成長してゆくときが少年期ですね。

賀川:ご本人に言わせると、サッカーマガジンに私が連載していた「ワールドカップの旅」の愛読者だったらしい。いつだったカナ…JFAでばったり会ったとき、そんな話をしてくれましたヨ。

090402_2
今年3月、サインを入れて贈って下さった


――もともとはお役人

賀川:サッカーを通じて世界への興味を持ち、82年に横浜国立大学を卒業すると通商産業省(現・経済産業省)に入り、ハーバード大学のJ.F.ケネディスクールを88年に卒業している。通産省でしっかり仕事をしただけでなく、91年から外務省へ出向してブラジルの日本大使館一等書記官を務めたりしている。

――やり手ですね。

賀川:エネルギー政策なども担当したから、中東やカスピ海諸国にも顔が広い。2002年からJFAに入って専務理事として手腕をふるった。

――川淵三郎キャプテン(当時)の下でですね。

賀川:サッカーが好きで、外国相手のビジネスには手慣れている。言葉もできて交渉ごとはしっかりしているから、いい仕事をたくさんした。
 実務がすごくできるというだけでなく、本当にサッカーが好きだし、サッカーを通じて世界と仲良くし、日本のことを世界に理解してもらおう、日本側もまたサッカーを通して世界を理解してほしいという夢を持っているようだ。

――賀川さんがこれまで書いてきたものと同じ志ですかね。

賀川:2002年W杯開催で日本のサッカーはそれまでとはまた別の広い世界、広い舞台へ出ることになった。2002 FIFA ワールドカップ KOREA/JAPANのおかげで、日本と韓国がぐっと近い国になったのはご存じの通りだが、スポーツ、特にサッカーの交流はとても大事なこと。それを知ってもらうためにも、読んで欲しい一冊でもある。

――JFAを退いたあと、早大の大学院スポーツ科学研究科を創設して、今はその教授ですね。

賀川:あの野球の桑田真澄(元投手)が学生になっているところでしょう。自分でも2004年に東大の工学系研究科の博士課程に入学、勉強して、東大工学博士となっているくらいだから…。その科学的手法をACL(アジアチャンピオンズリーグ)の改革のために用いたりもしたという。ボクたちの時代とは比べものにならないくらいに広がった日本サッカーにとっても、それを内側から見るにも外側から見るにもこの人のような視野は大切だろうネ。

――面白い人ですね。

賀川:この本の中に、そのキャリアも出てくる。そこも楽しい読みものですヨ。

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (1) | トラックバック (0)


コーチ歴30年、平田生雄さん逝く

2009/04/08(水)

サッカーのコーチとして長い実績を持つ平田生雄さん(58)が平成21年4月3日に亡くなり、4月4日にお通夜、5日に葬儀告別式が大阪市鶴見区の鶴見斎場で行なわれた。
広島の似島(にのしま)中学、皆実(みなみ)高校、法政大学でサッカーを磨き、日本サッカーリーグ(JSL)の永大産業でプレー、会社の事業不振で1977年にサッカー部が廃部となったあと78年からセルジオ越後の「さわやかサッカー教室」に関わり、JFA(日本サッカー協会)公認の全国巡回教室で日本中の子どもたちにサッカーを教えた。その後も関西を中心に少年指導に力を尽くした。
明るい人柄と親切な指導、楽しい語りは各層のサッカー仲間の心をとらえ、子どもたちにも指導者仲間にも尊敬され愛されたコーチだった。
告別式ではJFAの関西トレーニングセンターの星原隆昭さんが弔辞を捧げ、個人の業績を讃えたほか、多くの仲間が旅立ちを見送った。


090603 
2007年3月24日、キリンチャレンジカップ2007の日本対ペルー戦後に新横浜で、平田生雄さんと。


――平田さんの訃報は、教えを受けた子どもたちやサッカー仲間にショックでしたね。

賀川:1950年6月17日生まれだからまだ58歳――脳腫瘍という難しい病だった。それほど度々会っているわけじゃなかったが、30年来のつき合いだから悲しいね。
 彼はサッカーどころ・広島の出身で、それも似島中学。似島は第1次世界大戦で中国の青島(チンタオ)にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
 平田さんはその似島中学でサッカーを覚えた。その頃その学校の先生でサッカー部長だったのが、かつての日本代表GK渡部英麿(わたなべ・ひでまろ)さん。第2回アジア大会(1954年)の日本代表ですヨ。

――高校は広島皆実でしたね。

賀川:ことし1月、大迫勇也の鹿児島城西に勝って優勝したところだ。

――このブログで、賀川さんが「広島サッカーの厚みを見せつけたチーム」と言っていました

賀川:似島中学、皆実高校でみっちりサッカーを学んだんだろうネ。いわば日本サッカー先進地・広島の筋金入りのサッカー人で、そこから法政大学へ進み、卒業後、永大産業へ入った。

――当時だから、日本サッカーリーグですね。

賀川:法政は早大や慶応などに比べるとサッカー界ではまだ実績は少なかったが、彼が卒業した次か、その次あたりで関東大学リーグで優勝している。上昇期だったのだろう。
 永大産業は大阪に本社があるのだが、山口県の平生町に工場があり、そこに練習施設を持って自ら選手育成からスタートし、74年からJSL1部に入った。平田さんも74、75年のシーズンにDFとして登録され、11試合に出場している。

――ブラジルから選手を受け入れて強化しました。

賀川:大久保賢が監督で創部し、76年からセルジオ越後がコーチとして加わった。ジャイロ・マトス、ジャイール・A・ノバイスという2人のブラジル人が活躍し、75年元旦の天皇杯決勝に進んだのを覚えている。

――その永大が事業不振でサッカーをやめてしまった。

賀川:JSLの77年シーズンに入る前の3月1日に永大側が発表した。72年1月に誕生してから5年で永大のサッカーは終わった。永大産業そのものも78年に倒産(2月)するのだが…。

――なんだか、今の世にも似ています。

賀川:75年から不況が深刻になっていた。その対策に赤字国債を発行するようになって、このとき2兆円だったかな。

――平田さんも辛かったでしょうね。

賀川:好きなサッカーだが、ここから選手生活でなく少年指導の道を選んだ。
 セルジオ越後とともに「さわやかサッカー教室」の実現と実際の運営に努力した。越後という素晴らしいコーチに会ったのが縁だが、この教室の成功には彼の力も大きかったハズだ。私は彼とセルジオが子どもを教える現場を何度か見たよ。

――「さわやか」のあともずーっと指導の現場でしたね。

賀川:彼に指導してほしいというクラブも多くて、関西はもちろん頼まれればどこでも飛んで行ったらしい。

――いつも日に焼けた元気な顔で、お酒も好きで、サッカーの話もとても面白かった…

賀川:仲間にも愛された人柄だが、何よりもサッカーを教えること、語ることが好きだった。本当にサッカー一筋の人生だった。平田さんたちの50年世代は釜本邦茂杉山隆一たち40~45年世代、あの東京・メキシコオリンピック世代より5~6歳若く、いわば国を挙げてのサッカー推進の少しあとだったから、サッカー界は上昇期にあっても、まだ今のように底の厚いときではなかったから、必ずしも恵まれた環境ではなかった。だが平田さんはそういうなかでサッカーのコーチという道を選んで、まっしぐらにそれに突き進んだ人だった。
 ことし1月2日に指導者の中では先輩格の平木隆三さん(元・名古屋グランパスエイト監督、元・JFA技術委員長)が亡くなったが、向こう岸で平木さんたちとサッカー指導の話をしているかもしれないネ。

――ご冥福をお祈りします。

固定リンク | 素晴らしきサッカー仲間たち | コメント (0) | トラックバック (0)