素晴らしきサッカー仲間たち

9月10日の日本サッカー殿堂入り ベルリン・オリンピック代表チームとブラジル人のジーコ

2016/09/16(金)

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――9月10日に東京でのJFA殿堂入り式典に参加しましたね。いかがでしたか?

賀川:日本サッカー協会(JFA)の創設(1921年9月10日)を記念して9月10日はJFA創立記念日となっています。この記念日の行事に、その年の「殿堂入り」の式典があります。日本サッカーの発展にかかわり、大きな影響を及ぼした人たちを選んでの表彰です。

――13回目の今年から新しく「チーム表彰」の規定を設けたとのことで、1936年ベルリン・オリンピックの日本代表選手16人と監督、コーチ3人が選ばれました。19人の中には、すでに個人的に殿堂入りの人もいますが、今回はチーム全員ということです。そして個人の部でブラジル人のジーコも殿堂入りしました。賀川さんにはなじみのある人ですね。ジーコさんはもちろん、ベルリンの先輩たちも

賀川:Jリーグがスタートしたとき、ジーコは鹿島アントラーズで選手兼コーチをしていました。1978年にジーコが初めてブラジル代表としてワールドカップに出場したとき、そのデビュー試合をアルゼンチンのマル・デル・プラタで取材しましたよ。ピッチの芝がしっかり根つかず、ジーコがめくれた芝生を蹴っ飛ばしたのを見ています。

――ジーコは表彰式には出席しなかったのですね

賀川:会えるのを楽しみにしていましたが、来日していませんでした。ベルリン大会のチーム表彰で、当時のメンバーの遺族が多数出席していたので、表彰式もその他のレセプションも賑やかでしたが…

――1924年生まれの賀川さんから見れば1936年のベルリン・オリンピック代表は?

賀川:1936年は私が小学校6年生のときですから、日本サッカーが勝ったという話はそのころはあまり話題にならず私も聞いていません。ラジオのベルリンからの中継放送では女子水泳の「前畑ガンバレ」が有名でした。私も、深夜にベルリンからの中継放送をラジオで聞いた記憶があるが、どの放送だったか…のちに記録映画が日本でも上映されました。第一部の「民族の祭典」はとても人気になりました。サッカーは第二部の「美の祭典」に収録されていました。合宿や練習風景とイタリア対オーストリアの決勝が短い時間で紹介されました。日本の試合の場面はありませんが、このフィルムは懐かしく、戦後再上映されたときは、何度も映画館に足を運びました。

――ドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールの作品で映画としてもよくできているとの評判でしたね

賀川:そうですね。わたしが見たのはベルリン大会の翌年、たしか神戸一中に入学してからだったと思います。

――ベルリンの代表では神戸一中の先輩は案外少数ですね

賀川:早大が主力でしたからね。神戸一中はその少し前の時代から旧制高等学校を通じて東大や京大へ進学し、早大へは少数でした。慶應の方が多かったのです。ベルリンでは一中のOBは右近徳太郎さん(慶應)でした。

――その早大の先輩たちと戦後の付き合いがありましたね

賀川:ベルリンの対スウェーデン戦のヒーローのひとり川本泰三さんとは大阪クラブで天皇杯で一緒にプレーしたこともあり、またサッカー専門雑誌の企画で何度も話しました。釣りが好きで山の中の川へ行くのに、山に多少通じていた私が同行するようになり、そんな折にもベルリンのころの話をよく聞きましたよ。川本さんは兄・太郎のプレーを高く買っていたこともあり、「戦後、僕がサッカーをするのに賀川太郎や岩谷俊夫には随分迷惑もかけた。彼らのサッカーにも多少、役に立ったかもしれないがな」などと言っていましたよ。釜本邦茂の成長にも影の力になった人ですよ。

――ボールの扱いがとても上手だったとか…

賀川:僕は川本さんと一緒にプレーするようになって、ボールタッチに天賦の才があると知りましたよ。若い頃からボールを止め損なうのを見たことがないと言われていました。そのボール扱いからシュートの名人と言われるようになった成長過程については別の機会に譲りますが、先輩のこういう人がいたから、私は日本サッカーが戦後のある時期、長く低迷していたときにも、いつかもっとみんなが上手になると思い、諦めることはなかったのです。

――ベルリンで負けたスウェーデンについても調べましたね

賀川:1992年にスウェーデンでヨーロッパ選手権(EURO1992)が開催されたときに大会の取材とともに「1936年ベルリン」について調べたいと思いました。

――それで

賀川:驚いたのは、国内航空で隣席の人をはじめ、たくさんの人に36年のベルリンの話をすると、ほとんどの人が知っていたことです。父から聞いた、祖父が言っていた、叔父さんが話していた、といろいろなエピソードを語ってくれました。日本チームの動きが速く運動量が多かったこと、技術が優れていたこと。「ラジオのアナウンサーが実況放送で『そこにもヤパーナ(日本人)、ここにもヤパーナ』と日本選手の方が多く見えると、ヤパーナ、ヤパーナを繰り返したので、しばらくそのアナウンサーはヤパーナのあだ名で呼ばれていたこと、日本人はシュネール(速い)と繰り返しアナウンサーが読んでいたこと。

――敗れたスウェーデンの人たちの内で戦後も語り伝えられていたのですね

賀川:サッカーのスウェーデン社会での大きさや歴史を改めて感じましたね。このときは…

――日本でも2016年に「殿堂」のおかげでもう一度歴史を振り返ることができました。

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ペレの映画をみました

2016/07/18(月)

賀川:大阪駅のステーションシネマで上映中のペレの映画を見ました。映画が終わった時、冷房が効いているはずなのに、体が熱くなっていました。もちろんテーマがペレさん、ということもありますが、映画そのものも、よくできていて感動しました。サッカー好きはもちろん、スポーツに興味のある方々、ブラジルに関心のある皆さんに、ぜひご覧になっていただきたいと思いました。

――映画のタイトルは「ペレ 伝説の誕生」でしたね。

賀川:ペレの生い立ちと、ブラジルのフチボール(サッカー)の当時の背景がかなり詳しく紹介されています。プロ選手だった父親との、少年ペレとのボールのやり取りの場面や少年チームの試合などでは、ボールを扱う技術が上手でした。

――アメリカの製作者ですが、撮影はすべてブラジルで行ったそうですね

賀川:私はテレビででも映画でも、映像の製作者の努力にいつも敬意を払うのですが、今回は全世界の人がペレを知っていることを考えれば、作る側はとても大変だったでしょう。9歳と16歳の少年が選ばれ、それぞれの年代のペレを演じていて、これもよかった。

――ペレさんは1940年10月23日生まれで、現在75歳です。映画の中にも、今のペレさんが登場します。もちろん58年のワールドカップは試合のフィルムでも挿入されているので、ペレさんの実際のプレーも見ることができます。

賀川:ブラジルのサッカーがジンガ(GINGA)という黒人たちのフットボールを基礎にしているところ、このボール扱いの巧みさを競う遊びがブラジルのフチボールを支えているところをうまく描いています。

――賀川さんはペレのことは何度も書いていますが、月刊グランにも連載中ですね

賀川:中日新聞が発行しているグランパスのファン向けの月刊誌「グラン」にはずいぶん前から「人もの」の連載のページをもらっているのですが、ペレさんの映画のことを全く知らなかったのに7月号(6月発行)でペレさんを初めて書き、8月号(7月12日発行)がその2回目でした。

――内容は1、2回ともペレがサントスFCのメンバーで来日して、日本代表と試合をした時のプレーでした

賀川:サントスFCが3-0で勝った1972年5月26日、国立競技場での試合で、ペレはチームの2点目と3点目となる2得点をあげました。そのことから入って、ペレさんの紹介をしようとしています。

――1970年、ペレの3度目のワールドカップのときは取材に行けなかった。それだけに72年の来日での試合取材は賀川さんにはいいチャンスでしたね

賀川:私のいた新聞社では、私にサッカーの取材だけをさせてくれたわけではありません。それでも大阪から東京へ出かけて行ってペレの試合を生で見たのですから、とても幸いでした。

――72年のサントスでの現役としての来日の後、ペレさんは何度も来日しましたね

賀川:釜本選手が日本代表から離れる時もペレは来日しました。私が彼とゆっくり時間を持ったのは1984年の釜本邦茂の引退試合に来日してくれたとき。日本サッカー協会と日本サッカーリーグ、そして釜本のいたチーム、ヤンマーなどと話し合い、8月25日に国立競技場でヤンマー対日本リーグ選抜の試合を行い、リーグ選抜に特別招待選手としてペレさんとドイツのボルフガング・オベラートの2人に加わってもらったのです。

――あの引退試合で、国立競技場が満員になりました。80年代は日本代表もアジアで勝てなくて、代表の試合でも観客が少なかったのに、引退試合は文字通り満員でした

賀川:釜本邦茂という選手の人気や運の強さもあったのでしょうが、ペレさんが来てくれたこともあって、大成功でしたね。

――試合の後で、ペレが釜本を肩車して歩きましたね

賀川:釜本は引退試合でゴールするという彼ならではのプレーを見せましたが、ペレも試合の大半の時間をプレーし、オベラートとともに、この試合を盛り上げてくれました。試合中に彼は自分の気持ちの高まりとともに素晴らしいプレーをするのですが、この試合でもオーバーヘッドキックまで披露しましたよ。そして、その高揚した気持ちが試合後に肩車にあらわれたのです。41歳の小柄なペレさんが、あの釜本を担いだのです。

たくさんの人がこの映画をきっかけに、私たちはペレと同時代に生きたという幸せを味わってほしいと願っています。

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小堀俊一さんとサッカー切手

2016/02/06(土)

2月1日、東京のサロン2002の集まりに出席したとき、久しぶりに小堀俊一さんに切手の話を聞かせていただいた。

小堀さんは切手収集で有名、サッカー切手ということでは、日本での第一人者と言われている。今回はパリ(1924年)、アムステルダム(1928年)の両オリンピックの記念切手や第2回ワールドカップ(イタリア)、第3回ワールドカップ(フランス)の記念切手などを見せてもらい、解説を聞いた。

ワールドカップの第1回ウルグアイ大会(1930年)には記念切手の発行はないのだが、それでも小堀さんは大会の組織委員会の公式封筒や大会開催特別記念消印付の絵葉書を入手しておられた。収集家の執念と言うべきだろう。

記念切手はその図柄などとともにその時々の政策の家庭から、当時の大会の背景となる社会についても知ることになる。小堀さんの話を聞きながら、あらためてこの人の知識の深さと収集のすごさに感嘆し、神戸でサッカー切手の催しができないか、などと思った。

「手のひらの上のサッカー史」

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デットマル・クラーマーを思う

2015/09/24(木)

 9月17日にクラーマーさんが亡くなって、一週間が過ぎた。日本サッカーの恩人である偉大なサッカー指導者の訃報を多くの新聞が報じ、関係者の悼む言葉も掲載された。
 スポーツジャーナリストという立場にある私も、このブログでクラーマーさんの業績について、人柄について、皆さんとともに語り合わなければならないのだが、彼を失ったという心の空白は大きく、しばらくペンを持つことも出来なかった。
 遅すぎる感はあるが、デットマル・クラーマーとの55年間の交流、私にとってもサッカーの師匠であり、得難い友人であった彼との日々を思い、その珠玉の言葉を反すうすることで、クラーマーさんを偲ぶことにしたい。

 デットマル・クラーマーに初めて会ったのは、1960年10月29日、東京オリンピックを4年後に控え、サッカー日本代表強化のため、日本サッカー協会の招きで初来日したときだった。
 その記者会見で、有名になった「ヤマトダマシイ(大和魂)を日本選手に植え付けたい」という話が出たのだが、私にはスピーチの前に壇上に上がった彼が、自分の前に置かれた飲料水のビンを見て「この飲料水は合成飲料でピュアなオレンジジュースではない。体のためには全く役に立たない。プロフェッショナルコーチである私はこういうものは飲まないのです」と言ったのが印象に残った。後から思えばスポーツマンは常に体調管理に心を配るべきだという彼の日ごろの実践が、そのまま口に出たのだろうが…

 幸いなことに、そのころ私は産経新聞の東京本社運動部にいた。東京オリンピックの開催に備えて東京の編集局内でもスポーツの強化が注目され、大阪本社運動部長の木村象雷(しょうらい)さんが東京の部長となり、私もその下で働いていた。クラーマーさんが初来日した1960年の2か月、あるいはその次の1961年も東京にいたおかげで、彼と再三顔を合わせ、日本代表の強化の進み具合や、彼が代表あるいは代表候補を指導する現場を直接見ることができた。
 初来日のころは、彼は公式にはドイツ語で語っていた。私が「学生時代にドイツ語の勉強を怠ったために、あなたと十分話ができないのが残念」というと、クラーマーさんも「私ももっと英語を自由にしゃべれるといいのだが…」と言っていた。翌年に再来日したときは、彼は見違えるほど英語が上手になっていた。「英語で語った方が、日本選手には(ドイツ語より)はるかに有効だ」と考えて、英語の勉強をやり直したと言っていた。

 1925年4月4日生まれで、初来日のころは35歳、私は彼より3か月早く生まれ(1924年12月29日)ていて、ほぼ同年齢だった。ともに戦中派で、彼はパラシュート部隊でクレタ島やサハラ砂漠などでの戦いを経験し、私は陸軍のパイロットで互いに軍隊経験もあり、話も合った。
 東京オリンピックでのアルゼンチン戦で1勝をあげるまでの4年間の代表の努力とクラーマーの指導のうまさについては、私は何度も書き、またその4年後のメキシコオリンピック銅メダル獲得にも、彼の直接間接の指導やアドバイスがあったことはよく知られている。

 日本代表の成長と、日本サッカー界全般の向上は、クラーマーの卓見と、彼の直弟子、長沼健(故人、第8代日本サッカー協会会長)、岡野俊一郎(第9代日本サッカー協会会長)たちをはじめとする多くのサッカー人の努力の賜物だが、「メキシコ」以降も私とクラーマーさんとの交流は続き、74年の西ドイツワールドカップ取材以来、ワールドカップの際に現地で彼の話を聞き、日本の雑誌に掲載するのが慣例になった時期もあった。
 面白いのは、いつも会うたびに彼が最初に言う言葉は「トゥルーフレンドが来た」だった。ミュンヘンでも、九州でもそう言った。2006年のドイツワールドカップで彼の家を訪ねた時も、そう言った。74年大会の時もそうだった。
 それは1961年に日本代表が東京での日韓戦(63年ワールドカップチリ大会アジア予選)で敗れた日に、私が本郷の合宿所を訪れた時の話に由来している。ケーキの箱をぶら下げて部屋へ行くと、高橋英辰監督や選手たちとともに、フトンの上でごろ寝をしていたクラーマーが私の顔を見て言った。「トゥルーフレンドが来た。ドイツでも勝った時にはたくさん人が来るが、負けると来ない。負けた時に来てくれる人こそ真の友人(トゥルーフレンド)なのだ」
 初来日以来の努力にもかかわらず、なかなか代表強化の成果の見えないころだったから、彼には心に残ったのだろう。

 私にとっては、年齢は少し若くても、デットマル・クラーマーは1954年のワールドカップ優勝以来、長く世界のトップに立っていたドイツサッカーのトップコーチであり、FIFAのコーチとして世界90か国で指導した“世界”のコーチだった。いつも豊富な話題の持ち主であり、サッカーの技術、戦術史の生きたテキストでもあったから、彼と会った後はいつも頭がすっきりし、心が大きく膨れるのだった。

 今年1月12日に私はFIFA会長賞受賞ために、チューリヒに招待された。クラーマーさんの病状がよくない、と聞いていたので、ぜひ見舞にゆきたいとFIFAにスケジュールの調整を頼んで、授賞式の後、オーストリアとの国境に近い彼の自宅を訪れた。
 久しぶりの再会に喜び、FIFA会長賞のお祝いを言ってくれたが、その後で自分はもう長くないから、ここにあるアルバムを日本に持って帰ってほしい、と言うので「4月4日にはあなたの90歳の誕生日が来る。私も昨年12月に90歳になったところだ。元気になって90歳の2人のトークショーを日本でしようじゃないか」と言った。彼は「じゃあ、4月までがんばる」と言い、二人の90歳を約して別れたのだった。

 4月にバイエルン・ミュンヘンFCが90歳の誕生日を祝ったと聞いた。そして9月に訃報が届いた。
 折にふれて、デットマル・クラーマーとの日々と、彼の珠玉の言葉を書き残してゆきたいと思っている。

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関連リンク

2002年に神戸で行われたトークイベント

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サンテレビの特番 皆さんありがとう

2014/11/10(月)

――11月9日夜8時のサンテレビジョンの番組で賀川さんの半生記の放送がありました。「開局45周年記念番組 日本のサッカー発祥地は神戸だ」という題名で、カネカPRESENTSとありましたね

賀川:今年4月末に神戸の中央図書館の一室に「神戸賀川サッカー文庫」が設けられて、私の図書のうち目録分類のできた3500冊を本棚に並べ、来館者が閲覧できるようになりました。火、木、土の3日間、午後1時半から5時半までと、開館日も時間もまだ少ないのですが、徐々に訪問者も増えてきました。

――そのサッカーの街、神戸市にとってひとつのエポックではあります。その賀川文庫の主が90歳になろうという歳にブラジルワールドカップの取材に出かけるというのがニュースになり、そういうところからサンテレビジョンが番組を思い立った?

賀川:タイガース放送の実績あるサンテレビはもともとスポーツに熱心なプロデューサーもいて、私がサンケイスポーツにいたころから付き合いもありました。そうした古い仲間のよしみで作ってやろうということになったのでしょう。

――とてもよかったという声が、番組を見た人たちから寄せられています

賀川:私自身は声の通りもよくないし、90歳のしわだらけの顔を画面にさらすのは、見る人に不快感を与えるのじゃないか、と心配していたのですが、プロフェッショナルの人たちのカメラワークや音声の調整でなんとか50分見てもらえたようです。

――かつて賀川さんのところで、秘書役をしていた根本さんから「50分では語りつくせませんが、よくまとまっていました。賀川さんもダンディに映っていました」とのメールがありましたよ

賀川:見てくれていたことがありがたいことです。ダンディは身内のひいき目でしょうが…。これまでは自分の作っている新聞紙上(スポーツも含めて)書き続け、また気心の知った長い付き合いの雑誌社での連載を書かせてもらっていたのが、10月に東邦出版から著書を出してもらいました。「90歳の昔話ではない 古今東西サッカークロニクル」というのですが、この時にも書物を一冊世に出すということは、毎日の新聞の中でのスペースをもらってものを書くのとはまた別の「小さくてもひとつの活字文化としての集積」なんだなと思いました。テレビでも、こうした番組は映像文化に携わる人たちの努力の結集によってできていることを改めて感じたものです。

――もちろん視聴者の方々から見ればご不満もあるかもしれませんが、とりあえず50分番組が出来上がり、放映されたので、周囲の皆さんも喜んでいます。この番組がまた皆さんのサッカー論の叩き台になってほしいと思っています。

賀川:秋が深まり、リーガエスパニョーラをはじめ欧州の試合がいよいよ佳境に入っています。サムライブルーも11月にまた2試合を戦います。このページでまた私もサッカー談義に加わりたいと思っていますが、とりあえず今回はテレビ番組の放映についての御礼ということに。

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サロン2002の公開シンポジウムでスポーツクラブの法人化を語る

2014/04/09(水)

――東京ではフットサルの大会だけでなく、「サロン2002」の公開シンポジウムで話をしてきたとか

賀川:サロン2002というスポーツ仲間の集まりのクラブが法人化を考えようということで、シンポジウムを開催し、そこで神戸FCの経緯を少し話しました。

――神戸FCは1970年に社団法人になりました。JFA(日本サッカー協会)の法人化よりも数年早い。いわば日本での最初の法人格市民スポーツクラブと言えます

賀川:まあ、その時の様子や経験をサロン2002の会員の皆さんにお話ししました。加藤正信ドクター(故人)というすばらしい推進者のおかげでできたのですが、法人化というのは、それまで任意団体であったスポーツクラブが社会のなかで一つの組織として認められる、いわば一本立ちすることになります。組織をつくり、公的なルールのもとで運営していくことになるので、いわば加藤ドクターのような偉大なリーダーがいなくなっても会員の力、あるいは会員が選ぶ専従の事務局スタッフの努力などで運営を続け存続してゆけるということになります。

神戸FCは法人化以後44年、半世紀近くたっていて、その間に阪神大震災やJリーグのスタート、つまりプロ化があり、社会全体でもサッカー界でも大変動を経験しながら、現在も各年代の会員たちがサッカーを楽しんでいます。女子ももちろん、設立当初から織り込んで、未就学つまり小学生より下の年代層もひとつのカテゴリーに入ります。

――そんな話はこのブログでもっと聞かせてください

賀川:このシンポジウムでは、東京のラグビースクールをはじめ、とても興味ある講演もありました。それらついては、また別の機会にお話ししましょう。

――サロン2002は賀川さんの仲間、本多克己さんも代表の中塚義実さんとともに中心メンバーとして仕事をしているようですね

賀川:中塚さんは東京の筑波大学附属高校の先生ですが、サロン2002という集まりを主催しているだけでなく、サッカー界でとても幅広い仕事をしている人です。こういう、本業とは別にボランティアで超人的働きをしてきた人たちのおかげで日本のサッカーがマイナースポーツから、いま野球と並ぶビッグスポーツになってきたといえます。もちろんJFA(日本サッカー協会)のすばらしい働きがあってのことですが、協会とは別にかつての加藤ドクターや、今の中塚先生といったたくさんのボランティアの功績を否定できる人はいないでしょう。その中塚先生の個人力でもってきたサロン2002が法人化によってどのように変わっていくのかも楽しみなことです。

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(下)

2011/10/20(木)

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皆木3兄弟の次兄・良夫さん(後列中央)


賀川:ボクの1年下の岩谷俊夫たちはほとんど小学校からボールに慣れていていい選手が揃っていた。1年あとの彼らは体は丈夫そうだがボール扱いが下手だった。神戸一中が全国で優勝を続けるためにはどの年度もレベルアップしなければならないと、この45回生はずいぶん練習させた。ときには恨まれたこともあったがネ。

――鴇田正憲、岡田吉夫という日本代表が出ましたね。

賀川:それも嬉しいことだが、ここで一つ言っておきたいのは、ボクが同志社大学の夏の合宿のコーチを頼まれたときに、この45回の面々に集まってもらって実演したことがあった。

――関学のキャプテンだった鴇田さんにドリブルをさせ、それを同志社の選手が200メートル走っても追いつかなかったという話を聞きました。

賀川:それもあるが、別の日に皆木肇とやっチン、鴇田、飯田、岡田に来てもらって、同志社の練習のハーフマッチで、かねてから考えていた攻めの動きをテストした。

――ふーむ、どのような

賀川:3FBを基礎とするマンマークを外してゴールを奪うために、ボールを持たない選手が動くこと、それも単純な縦や横でなく、斜めにクロスして走るのをやった。ボクはクリス・クロスの交差(十字の交差)と名付けたのだが、これで面白いようにノーマークをつくり点を取った。もちろん相手の力が下ということもあるが、ボクは自分の考えが間違っていないのを喜んだ。このあとで来日したスウェーデンヘルシンボリが同じ動きをしたのを見て、我が意を得たりというところだった。

――ヘルシンボリについては最近のサッカーマガジンの『日本とサッカー、90年』にも書かれていますね。
 それはそうと、話のなかに皆木肇という名前がありましたが、皆木3兄弟とは?

賀川:親類でも何でもなく、同姓で、彼は中学5年で海軍兵学校へ行き戦争が終わって神戸大学へ入りプレーした。お尻が大きいので「モケ」というアダ名だった。彼は事あるごとに、あの同志社のときは面白かったといっていた。気の毒に、阪神大震災で自宅が倒壊し、その中で死んでしまった。

――皆木吉泰さんから45回生全体の話になりました。

賀川:彼らは少年期に厳しい練習をしながら、大戦争で中断された。ボクや兄・太郎たちと同じ戦中派だけに、彼らのことはいつも頭に残っています。それでも45回生、またはそれより1~3歳下の学年よりはまだマシな時期だったかもしれない。いずれにせよ、ひどい時代に育った仲間ですよ。ドクターになった“やっチン”や飯田純クンにはいろいろ世話になった。改めてお礼を言いたいね。


【了】

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(上)

2011/10/19(水)

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皆木3兄弟の長兄・忠夫さん(前列左端)
その後方は賀川浩の兄・太郎さん
昭和13年、兵庫県中学校10マイルレースで神戸一中が団体優勝したとき



――前・神戸市サッカー協会会長・皆木吉泰さんがサッカー選手だったとは聞いていましたが、3人の兄弟がそれぞれ実績を持っていたのですね。

賀川:3兄弟は神戸の諏訪山(すわやま)小学校出身で、体は大きくはなかったがそれぞれ特徴のあるいいプレーヤーでしたヨ。
 長兄の忠夫さんが神戸一中に入学したのが昭和9年だから、このときの最上級生が36回の大山政行、二宮洋一(第2回サッカー殿堂入り)津田幸男、前川光男、笠原隆、直木和、田島昭策といった錚々たるメンバー。4年生に大谷四郎(第6回サッカー殿堂入り)がいた。

――いわば戦前の神戸一中黄金期ですね。

賀川:そう、河本春男先生が着任して3年目。このすぐれた指導者を得て神戸一中サッカー部が伝統のうえにさらに新しい力を加える時期だった。忠夫さんは神戸一中で全国準優勝と優勝を経験し、第六高等学校でも旧制インターハイのチャンピオンになった。京大を卒業して住友金属工業に就職し、会社のサッカー部でも活躍するとともに、サッカー部長をも務めた。実業団時代は全国優勝はなかったが、このクラブがのちに鹿島アントラーズとなってジーコとともにJリーグをリードするクラブとなったのは皆さんもご存知のこと。忠夫さんは稲作でいえば苗床(なえどこ)をつくったことになるだろうか。

――すごい話ですね。

賀川:良夫さんは早大に進んだ。同じ一中の後輩では岩谷俊夫(44回/第2回サッカー殿堂入り)岡田吉夫(45回)たちが早大へやってきたから、強いチームをつくることができた。

――吉泰さんは、プレーヤーとしての大事な時期に太平洋戦争にぶつかった。

賀川:彼が中学3年生のときに戦争が始まった。それでも次の昭和17年は、先述したとおり全国大会があり、4年生のときはタイトルも取った。5年生のときも強いチームだったが、全国大会は戦局のために開催されず夏と秋に兵庫県の大会が1回ずつ行なわれ、どちらも優勝したが全国で試すチャンスはなかった。

――大戦後は

賀川:ボクや兄も軍隊から復員してすぐにボールを蹴り始めた。彼は父君の後を継いでドクターへの道を進んだ。それでも戦後しばらくはサッカーの集まりに顔を出していた。確か、戦後初めての日本代表候補の強化合宿が静岡県・三島で行なわれたとき彼も参加したハズですよ。

――代表候補だったのが“やっチン”さんのプライドですね。

賀川:彼や鴇田正憲(第2回サッカー殿堂入り)、飯田純、岡田吉夫、三木武、鶴岡襄治、そして皆木肇、伊藤光一といった神戸一中45回生、つまり私の2年下の7人の一人ひとりはボクの秘蔵っ子でもあった。

――というと

【つづく】

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ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰

2011/10/12(水)

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1942年全国大会優勝の神戸一中FW
前列右が皆木吉泰、隣は鴇田正憲。
後列左から岩谷俊夫主将、竹一能文、吉森宏之(後年、宏行と改名)



――神戸市サッカー協会の前会長・皆木吉泰さんが10月3日に亡くなり、4日にお通夜、五日に葬儀、告別式が神戸平安祭典(神戸市灘区浜田町)で行なわれました。

賀川:4日のお通夜にゆきたかったが、体調が良くなかったので告別式に出席しました。ちょうど7日にホームズスタジアム神戸で代表の試合があるから、そのときには、また顔を見られると楽しみにしていたのですが……

――すっかり足腰が弱ってからも、ヴィッセル神戸の試合には欠かさずスタジアムまで出かけておられました。そう、賀川さんもスタジアムで会われたのでしたね。

賀川:そういえば、昨年に私が殿堂入り表彰を受けたあと、神戸のヴィッセルの試合のときに兵庫県協会やヴィッセルの関係者の計らいで、私の殿堂入りを祝うセレモニーを試合前にして下さった。そのときにスタンドの隣の席に彼がいた。比那子(ひなこ)夫人とお嬢さんが付き添って、車イスで来ていた。声をかけたら、とても嬉しそうな表情をしてくれました。あれから1年近く経ってしまった。もっと早く、顔を見にゆけばよかったのに……

――神戸市の医師会の会長として、阪神大震災のときにも立派な仕事をされた話を聞いていますが、ご本人はドクターとしての天職と同じように、若い頃サッカーに打ち込んだことが誇りで、また、いつもサッカーのことを考え、バックアップしようとしておられたそうですね。

賀川:皆木家はドクターの家系だが、3人の男兄弟は長兄の忠夫が神戸一中40回、次兄・良夫が42回、末弟の吉泰が45回。3人とも一中サッカー部黄金期のいい選手でした。

――賀川さんは43回でしたね。兄・太郎さんは41回だから、忠夫さんと同じチームで……

賀川:そう、忠夫さんは4年生(旧制中学は5年制)のときからレギュラーで当時3年生だった私の兄とともにインサイドFWだった。今でいう攻撃的MFです。全国大会決勝で埼玉師範に敗れて準優勝、次の5年生の年には優秀した。予選から決勝まで無失点、朝鮮半島(当時は日本領だった)代表の崇神商業をはじめ、東京の豊島師範といった強チームをなぎ倒しての優勝だった。
 次兄の良夫さんは私より1年上で、キャプテンとして苦労したが全国大会にはゆけなかった。本人はのちに早大のキャプテンも務めた選手。4年生のときには兄・太郎のチームで明治神宮大会に優勝したメンバーで、今でいう守備的MFだった。
 吉泰は、「よしやす」という名から、仲間内では「やっチン」でとおっていた。足が速く、すり抜けるドリブルのうまいプレーヤーで、CFとして4年生からレギュラーになり、昭和17年(1942年)夏の全国中等学校総合大会のサッカーの部で優勝(毎日新聞主催の、今の全国高校選手権大会の前身である中学選手権は中止されていた)、秋の明治神宮大会では決勝で青山師範と引き分け両校1位となっている。彼はこのときの準決勝、朝鮮半島代表の培材中学との試合で1ゴール(2-0で勝利)している。
 そういえば、長兄の忠夫さんも昭和13年(1938年)夏の全国大会の対崇神商業(2-0で勝利)で1ゴールしているから、兄弟で中学生時代に朝鮮地方代表からゴールを奪ったという珍しい記録の持ち主ですよ。

【つづく】

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NHKサンデースポーツ「ベルリンの奇跡」、いい番組をありがとう

2011/08/30(火)

――8月14日(日)夜のNHKサンデースポーツ「ベルリンの奇跡」見ましたよ。なかなか良かったですね。賀川さんも画面に登場しましたね。

賀川:突然、老人の顔が出て、見ている人はビックリしたのじゃないかな(笑)。終戦の8月15日前夜の番組として、1936年ベルリン・オリンピックの奇跡的な対スウェーデン逆転劇と、そこで活躍した何人かの選手たち、いわばいまの代表の先輩が戦争で生命を失ったという悲しいエピソードは、いま平和で、しかもサッカーが盛んになっているときに、多くの人の胸を打つ話でしょう。

――そのベルリンの戦いぶり、体の大きなスウェーデン選手を相手に小柄な日本選手が戦うという構図は、なでしこジャパンのワールドカップでも、また、SAMURAI BLUEの男子代表にも当てはまりますからね。賀川さんのアドバイスですか?

賀川:これまでに書いたものを読んでもらえれば理解できることでしょう。番組ディレクターのHさんがとても熱心で、戦死された松永行さん、シベリア抑留中に亡くなられた竹内悌三さんたちのこともずいぶん丁寧に調べておられたハズです。時間の都合で予定よりは短い放送となったらしいけれど、しかし短いなりにピシッと決まっていましたよ。

――日本代表の長谷部誠の案内役も良かった。

賀川:そう、彼の誠実な人柄が出ていて、先輩たちへの敬意も画面から伝わってきましたよ。ディレクターがドイツにいる彼に依頼したこと、その彼が引き受けてくれたことがまずとても良かったね。
 まあ、ベルリンについてはその6年前の1930年極東大会での日本代表の組織的サッカーの確立ということもあり、歴史を調べればまだまだ色々な話も出てくるのですが、いい放送でした。長谷部キャプテンにも番組の関係者にもお礼を言わないとね。

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80年前の先輩たちの心意気

2011/08/24(水)

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 JFA(日本サッカー協会)の機関誌と同じ1931年に出版された同人雑誌「蹴球評論」。関西の田辺五兵衛(当時・治太郎)さん(故人、第1回日本サッカー殿堂入り)が編集・発行人、発行所は大阪市東区横堀二丁目一七、蹴球同好会となっている。5月30日に印刷され8月20日発行。

 巻頭に田辺さんの挨拶と12人の名がある。ABC順で、濱田諭吉、市橋時蔵、岩野次郎、中島道雄、斉藤才三、杉村正三郎、高田正夫、竹腰重丸、田辺治太郎、田中芳一(会計)、玉井操手島志郎

 内容は濱田さんの「名選手一人一話」や竹腰さんの「断想」、玉井さんの早慶戦の思い出などなど。棒高跳びのオリンピック選手・中沢米太郎さんがドイツの体育学校で見たサッカー練習法の寄稿もある。

 この蹴球評論を、私は第4号まで持っている。何号まで出版されたかは明らかでないが、80年前の日本サッカー第一期上昇時代の先輩たちの心意気を示す貴重な資料となっている。

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トップチーム指導でも育成でも成果を挙げた、ウィル・クーバーさん

2011/06/30(木)

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1983年頃。ギュウちゃん(牛木素吉郎さん)とともに、指導の大家ウィル・クーバー、同夫人、加藤正信ドクター、バルコム コーチ、賀川浩(右から)


 ウィル・クーバー(Wiel Coerver)さんが亡くなったことを、『ワールド・サッカー』誌の6月号で知った。調べてもらったら、UEFA.comに「著名なオランダ人コーチ、ウィル・クーバー(86歳)が4月22日、ケルクラーデ市で亡くなった」とあった。彼がかつて監督を務めたフェイエノールトは、その週末の試合で喪章をつけてプレーしたらしい。

 1924年12月3日生まれだから、私と同年代で、彼の方が26日早く生まれた兄貴分――。
 選手時代にはオランダ・チャンピオンになったこともある。コーチ(監督)となり、1974年にはフェイエノールトを率いてUEFAカップに優勝するなど、トップチームでも成果を挙げたが、育成コーチとしても独自の「クーバー方式」を唱えてヨーロッパに広く知られた。

 日本には牛木素吉郎さんによって紹介され、1984年1月に『攻撃サッカー 技術と戦術』(旺文社刊、ウィル・クーバー著、牛木素吉郎・加藤久・榊原潔訳)が出版されて大きな反響を呼んだ。
 基礎技術の習得に独自の考えを導入したクーバー方式の中で、古今の名選手のフェイントやフォームを写真入りで解説し、その“型”を学び、マネをし、一連の動作としてドリブルを身につけることを勧めたやり方は、その著書と日本での短期間の講習会で日本の指導者たちに強い影響を与えた。クーバー方式を看板とする指導者グループも現れ、昨今の優秀なドリブラーを生む素地ともなっている。

 私自身も、彼の講習会に出席し、牛木さんたちと神戸で食事をともにし(写真)、サッカー談議をかわした。
 加藤正信さん宅にあった神戸FCの旧事務所を訪れたクーバーさんを事務所横の「田辺文庫」に案内し、『バドミントン・ライブラリー』の古書や蹴鞠の文献などを説明したとき、彼が「まるでイングランドの古いクラブのようだ」と目を輝かせたのを懐かしく思い出す。
 何かのときに、クーバーさんと会った話をデットマール・クラマーにしたら、彼は「素晴らしいコーチだよ」と言った。
 クラマーと同じように、トップチームを率いての試合にも成功し、少年育成や選手の個人指導もできる人だった。惜しいコーチ、そして同世代の仲間がまた一人去った。

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サンスポ時代の仲間たち

2011/05/31(火)

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 大阪サンケイスポーツ新聞の古い仲間のフォトです。第2列の左から3人目に長尾幸太郎さん(ながお・こうたろう、1975年から大阪代表)の顔があるので、74年か75年の集まりでしょう。

 中央(長尾さんから右へ2人目)が私の師匠であり、大阪でサンケイスポーツを発刊した初代編集長・木村象雷(きむら・しょうらい)さんです。
 1928年アムステルダム・オリンピックの水泳日本代表で、早大卒業後、スポーツ記者となり、同盟通信記者のときにベルリン・オリンピック特派員。戦後は産経新聞で、ヘルシンキ(1952年)メルボルン(1956年)ローマ(1960年)と、オリンピック3大会を特派員として取材した、文字どおりの“大記者”。1952年に入社した私が、新米記者のときに木村さんのような優れた記者で部長の下で働いたことは、まことに幸いだったとと今も感謝している。

 ここにいる仲間の多くは自らも若いときにスポーツに打ち込んだ人も多い。前列左端の今木二郎(いまき・じろう)さんは戦前の市岡中学・早大・満鉄(南満州鉄道の野球部があった)で知られた二塁手。その右隣りの南卓(みなみ・たく)さんは明大で秋山登投手と同世代。その後ろの列の左から2人目、丸岡邦康(まるおか・くにやす)は甲陽中学で別当薫(べっとう・かおる)とともに戦前の甲子園で活躍した等々。

 ほとんどは向こう岸にわたり、私と何人かが今もサンスポOB会でときどき顔を合わせている。

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強い体と強い心で歴史に残るMF八重樫茂生≪中≫ ~パーチョンを偲んで(2)~

2011/05/18(水)

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1956年メルボルン五輪予選、対韓国・第2戦のあと
抽選で本大会出場が決まり、歓喜の代表チーム
中央、メガネをかけているのは川本泰三コーチ



――メルボルン・オリンピックは早大在学中でしたね

賀川:1956年のメルボルン大会は南半球だから、本大会は12月、アジア予選は6月で相手は韓国だった。日本代表は1954年の第2回アジア大会のあと、戦中・戦前派から若手に切り替えて鴇田正憲岩谷俊夫(ともに第2回殿堂入り)とを残した。ボクが選手・八重樫のプレーを見たのはこのときが初めてだった。
 第1戦は、彼はCF(センターフォワード)だった。右前への大きな動きとそのあとのクロスで得点を生み出している。この試合は2-0で勝ったが、一国開催、同じ後楽園競輪場での第2戦は0-2で敗れた。内野が負傷して10人同様で(編集注:当時は交代がなかった)戦ったからね――。合計得点が2-2となり、延長戦は0-0。この延長戦で八重樫が持ち上がってシュートしてゴールしたのを、トロンケというフィリピン人の主審が韓国側のアピールを聞き、線審に確かめてオフサイドの判定にした。まあ最終的には抽選で日本が出場権を得たのだが……

――延長でも八重樫さんは頑張る力があったのですね

賀川:内野のケガで10人と同じ状態で、彼は攻守に動くことになったが、それでも気力をふりしぼってシュートまで持っていった。

――せっかく韓国から勝利をもぎ取ったけれど、本大会では1回戦で敗れました

賀川:この予選と本大会では川本泰三さんが監督をしていた。まあ選手たちは、今のように幼少期からボールに慣れているのと違って、まずボール扱いは上手ではなかった。走って頑張って、素晴らしい精神力で韓国に勝った。メルボルンではオーストラリアにノックアウト・システムの初戦で敗れた。0-2だった。

――相手は開催国だし体も強い。日本には勝たなければいけないと燃えていたでしょう

賀川:日本は大会直前に現地でユーゴなどと練習試合をして、まったく技術に違う相手との対戦で調子を狂わせた。そこへオーストラリアがラフプレーで日本選手を潰しに来た。八重樫は腫れあがるほど足を蹴られたという。まあそれをかわす術(すべ)も知らなかったのだから……。
 ボクはそのとき、相手を背にするプレーや半身(はんみ)で受けるプレーができていない彼は、CFよりもインサイド、つまりMFの方が適任だと思っていた。

――何といっても点を取れる選手が少ない頃でした

賀川:釜本(邦茂)が出現する前だからね。一人、いいCFの候補がいたけれど、結局代表に入らなかったこともある。

【つづく】

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強い体と強い心で歴史に残るMF八重樫茂生≪上≫ ~パーチョンを偲んで(2)~

2011/05/17(火)

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戦後初の訪韓のとき、日本代表チームと韓国側役員。
左から李時東(元韓国サッカー協会理事長)八重樫茂生、工藤孝一副団長、一人おいて川淵三郎、宮本征勝、裵宗鎬



――週刊サッカーマガジン(5月24日号)に、八重樫さんの追悼文を書いていましたね

賀川:亡くなったという知らせを聞いたときは大きなショックだった。一時、調子が悪いといっていたのが、良くなったと聞いていたからね。マガジンの国吉(好弘)さんにいわれて原稿を引き受けたのだが、いろいろな思いが重なって筆の進みは遅かったね。記者という立場からゆけば、このブログでももっと早く何か語るべきだったのだが……

――MF(ミッドフィルダー)として古河電工でも代表チームでも活躍しました

賀川:体が強くて運動量が多い、断然上手いというのではないが右でも左でも蹴れた選手。ドリブルで持ち上がり、ちゃんとシュートして点を取れた。

――足は速かったのですか?

賀川:格別速いわけではなかった。体も、強いが固い感じだった。身長もそれほど高くはなく171センチ(※「日本サッカーリーグ年鑑'68」参照)、当時でいえば普通サイズだ。

――とすると、努力

賀川:まず、負けず嫌い。「始めた以上、人に負けないぞ」ということだろう。まあ、最も大切な素質の一つだろう。それに体が強かったから、チームの練習の後でも自分の時間があればボールを蹴っていたらしい。

――早大の先輩の川本泰三さん(1936年ベルリン・オリンピック代表)にも、自分一人での練習の伝説があります

賀川:川本さんは、私にいわせると、少年時代からボールタッチに特異な才があった。いまの選手なら小野伸二のようにボール扱いがズバ抜けていた。その代わり体が弱かった。それが早大の予科(高等学院)時代の猛練習で強い体になった。八重樫はむしろ体の強さが資本だったハズですよ。

――体の強さ、ですか

賀川:スポーツをするのに、体が強いということはとても大切な資質です。その丈夫な体で努力を惜しまないという心の強さが彼の上達を早め、歴史に残るMFとなった。

――指導者にも恵まれたそうですね

賀川:盛岡中学(現・盛岡一高)でサッカーを始め、2年生のときに第29回全国高校選手権(1951年)に東北代表として西宮での本大会に出て1回戦で敗退した。そのころ関西では岸和田高校が強く、平木隆三(メキシコ代表コーチ)がいた。小田原高校(神奈川)には内野正雄(メルボルン五輪代表)もいた。

――賀川さんはそのとき八重樫さんを見ました?

賀川:ボクは新聞社に入る前で、取材はしていない。しかし、レフェリーで役員をしていた。試合の割り当ての関係で盛岡の試合は見ていないから、高校生の彼とはスレ違いだった。
 八重樫はこの盛岡時代に、盛岡中学の先輩であり日本代表や早大のコーチ、監督であった工藤孝一さん(1909-1971年)の教えを受けた。ベルリン・オリンピックのコーチを務めた工藤さんは八重樫の素質を見抜いて、この年5月に仙台で開催された天皇杯に彼を含む全盛岡というチームを作って出場している。目的は試合をするだけでなく、レベルの高いサッカーを八重樫少年に見せることだった。

――そういえば、川本泰三さんの「名人と語ろう」というシリーズの第1回目、八重樫さんがゲストの回でその話が出ていますね

賀川:工藤さんは盛岡の後輩が将来大きく伸びるためにそんな工夫もしたのですよ。その工藤さんは、早大の仲間である川本さんのことをよく後輩に語っていたらしい。

――八重樫さん、高校を出ると中央大学へ進んでいます

賀川:最初、中大に入ったが、2年後に早大に転校した。工藤さんが盛岡から上京して監督をするようになった早大は、彼を中心に関東大学リーグで3回連続で優勝する。

【つづく】

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12年間にわたりオリンピックに3回出場、銅メダルチームのキャプテンを務めた不屈の男・八重樫茂生 ~パーチョンを偲んで~

2011/05/16(月)

――八重樫茂生(やえがし・しげお)さん……あの1968年メキシコ・オリンピック銅メダルの日本代表チームキャプテンが5月2日に亡くなりました。八重樫さんのことは何度も書いておられますが、改めて、その功績を語り、プレーや人柄を偲びたいと思います。

賀川:日本のサッカー史のなかに大きな足跡を残した人ですヨ。代表チーム史上最大の功労者の一人――といって良いだろうね。

――56年のメルボルン大会、64年東京大会、68年メキシコ大会と12年間に3回のオリンピックに出場しています。

賀川:FIFA(国際サッカー連盟)が主催する最高の大会はワールドカップであることはよく知られているが、オリンピックはある時期、ほとんどのスポーツの最大の目標だった。そして世界でもオリンピック大会は権威があり、その大会に出場する、あるいは大会で勝つということは選手たちにとっても大きな実績だった。

――オリンピック・サッカーに3回出場の八重樫さんはすごいというわけですね。

賀川:1988年ソウル以後、U-23という年齢制限ができたから、サッカーではオリンピックに何回も出場するということは現在ではほとんど無くなっている。そういう制限の無かった時代でも、3回出場というのは世界で18人、そして12年間にわたっての本大会参加は世界で8人だけという記録がある。彼の長い選手人生のなかでの立派な勲章ですヨ。

――オリンピックで日本はアマチュア時代に1936年、56年、64年、68年と4回の本大会参加。U-23になってからバルセロナ大会(92年)は予選敗退で、このあとのアトランタ(96年)シドニー(2000年)アテネ(2004年)北京(2008年)と4大会連続で出場していますが、年齢制限もあってこういう記録は生まれませんね。

賀川:年齢制限のない女子のオリンピックでは澤穂希(さわ・ほまれ)さんの96年アトランタに始まる2008年北京までの12年3回の記録がある。彼女は来年のロンドンに参加すれば16年、4回になる。

――彼女はワールドカップも4回連続出場の大記録があります。

賀川:女子についてはともかく、早くから世界的に発達した(男子の)サッカーで、後発の日本にあって八重樫の記録は特筆ものということですヨ。

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サッカー仲間の悲しい知らせ 神戸三中で全国準優勝、神戸大学で天皇杯準優勝した名越由隆さん

2011/03/14(月)

――先月お亡くなりになった名越由隆さん(2月19日5時20分死去、86歳)は、賀川さんと同期でしたね。

賀川:名越さんは神戸三中の戦前の黄金期の選手で、私と同学年。いいライバルだったし、神戸商業大学(現・神戸大学)の予科では同じ3回生(昭和17年/1942年入学)だった。

――神戸三中は全国大会でも活躍しましたね。

賀川:ことしの滝川第二高校の優勝で、23年前、昭和13年(1938年)の第20回全国中等学校選手権(現・高校選手権)の神戸一中以来の同大会での兵庫県代表の優勝となっている。
 その次の第21回大会は、兵庫代表は兄・賀川太郎がキャプテンのときの神戸一中で、これは夏の大会のときに調子がよくなくて2回戦で敗退した。秋の明治神宮大会に優勝はしたが……

――次の22回大会以降、今の高校選手権の前身となる大会は中断しています。

賀川:いわゆる大毎(だいまい)――大阪毎日新聞社の戦前の大会は昭和15年が最後。このときに神戸三中が兵庫の代表となって出場し、1回戦で富山師範を4-2で破り、準々決勝で東京の青山師範に延長で4-2の勝利、準決勝でも滋賀師範に6-3で勝った。
 決勝の相手が朝鮮地方代表の普成中学。1回戦8-0(対湘南)準々決勝12-0(対函館師範)準決勝5-2(対明星商業)と圧倒的な強さを見せていた。
 三中は私の4年生のときには勝てなかった相手で、CFの工藤裕、左サイドの名越とウィングの瀬戸三郎のトリオが強く、また、HBの野口、芝田、CHの岡村の3人がしっかりしていた。
 だから普成中を相手にどれくらいやれるかと期待していたのだが、ちょっと歯が立たなかった。一つには、ロングパスや個々のドリブルで勝負するのでなく、もっと早い短いパスで攻めれば良かったのだが……(後半はそれで少し良くなった)。瀬戸の速さを生かす名越からのスルーパスといったのもほとんど出なかった。

――普成には勝てませんでしたが、青山師範など強チームを相手に勝ち抜いています。

賀川:兵庫のレベルは高かったから、代表になれば本大会でも上へのぼってゆくものと思っていた。名越さんはそのときの左インサイド、いわゆる攻撃的MFです。

――大学の予科で一緒だったということは、長いおつきあいですね。

賀川:1924年春に入学して以来70年にわたっての仲間ですよ。第2列から走り込んでのヘディングなども、体は小さいが上手だった。大戦後の社会混乱のときだったから、決して満足のゆくスポーツ生活ではなかったが、大阪クラブで一緒にすることもあり、ずっといい仲間でした。
 訃報を知らせてくれた河崎俊一さん、この人は灘高から来た足の速いスケールの大きいプレーヤーだが、「とうとう2人だけになった」と――。まあ、お互い80歳より90に近い方になってきたから、少なくなるのは当たり前と言い合ったものですがネ。
 中央左寄りにいて、内に入ると見せかけて外へターンするプレーなどいまもその姿を思い浮かべることができる。物静かで律儀な人。ある時期に凌霜クラブというOB会の会長も務めてくれた。歴史を担った人が、また向こう岸へ行ってしまったネ。

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サッカー仲間の悲しい知らせ ヤンマー草創期の古川能章さん

2011/03/02(水)

――2011年も2ヶ月を過ぎ、いよいよ3月。Jリーグも開幕します。しばらくみなさんにご無沙汰していますから、一つ消息を聞かせて下さい。

賀川:相変わらず記事を書き、本を読み、テレビを見たりインタビューをされたりと、結構忙しい年始めでした。寒い日が多いので外出も控えましたが、所要のあるときは東京へも出かけていますよ。
 サッカー仲間の悲しい知らせもありました。1月末にかつてのヤンマー・ディーゼルの監督だった古川能章(ふるかわ・よしあき)さんが、2月には学生時代からの友人・名越由隆(なごし・よしたか)さんが去ってしまった。

――古川さんは確か、鬼武健二さんの前の監督ですね。

――うん。広島の出身で昭和22年(1947年)に広島師範付属中学が第26回全国中等学校選手権大会(現・高校選手権)に優勝したときのメンバーです。

――学制改革の前で、まだ旧制中学の時代ですね。あの長沼健さん(故人・JFA第8代会長)たちと一緒ですね。

賀川:古川選手は右のHB(ハーフバック)で、長沼たち強力FWを支援した。早大へ進み、卒業後にヤンマーに入り、昭和32年(1957年)サッカー部創部のときからのメンバーですよ。

――東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグ(JSL)という企業チームの全国リーグが生まれました。このとき、関西からヤンマーが加わった。

賀川:創部した次の年に大阪実業団リーグの5部に加盟し、そこから階段を一歩一歩のぼるように昭和38年(1963年)に大阪社会人リーグの1部に昇格し、関西実業団選手権(ノックアウト制)に優勝するまでになった。

――JSLに加わったときは古川さんが監督で鬼武さんは選手でしたね。

賀川:ヤンマーサッカー部の第2代監督だが、JSLの2年間、古川監督は苦労した。下位にいたが降格を免れた。1967年に釜本邦茂たちが入社して大幅な戦力アップするのだが、その年からタケさん(鬼武健二)が監督となった。釜本の加入以降のヤンマーは日本のトップチームとなったが、古川さんはそれまでの基礎作りの仕事をしたわけです。

――セレッソの試合を見に来ているときにお目にかかりましたが、物静かな方でした。

賀川:健さん(長沼)たちと同世代、大戦後の物のないときに自分たちで工夫してサッカーをしてきた「頑張り屋さん」です。日本サッカーの復興からメキシコの栄光、そして今日のプロ時代へとバトンをつないできた仲間が、また一人去ってしまいました。

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賀川浩 日本サッカー殿堂入り 御祝いのメッセージ集

2010/12/28(火)

 11月25日(神戸)と12月7日(東京)の「賀川浩 日本サッカー殿堂入り祝賀パーティ」にはたくさんの方々のご出席を頂き、まことにありがとうございました。
 年末に向かう忙しい時期に神戸で150名、東京で100人もの方々が足を運んで下さいました。

 当日、会場でお配りした『賀川浩の歩み』というパンフレットで、「皆様からお寄せ頂いたお祝いのメッセージを賀川サッカーライブラリーに掲載させて頂く」と申し上げていましたが、そのメッセージ集が出来上がりました。ご高覧のほどをお願いいたします。

book賀川浩 日本サッカー殿堂入り 御祝いのメッセージ

 年末の繁忙の折り、また向寒の季節――皆様のご健康をお祈りいたします。

2010年12月吉日 賀川浩

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【フォトギャラリー】 賀川浩 祝賀パーティ@東京

2010/12/20(月)

賀川浩 日本サッカー殿堂入り祝賀パーティ
12月7日 19時~(グランドプリンスホテル新高輪)

写真提供:フォート・キシモト

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東京会場は12月初旬の寒いなか、元選手、メディアの仲間を中心に約100名の方がお越し下さいました

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発起人のみなさまと。セルジオさんは神戸に続いてのご出席。
(写真左から、藤縄信夫氏、野嶋庸平氏、中塚義実氏、長木義明氏、セルジオ越後氏、杉山隆一氏、賀川浩、国吉好弘氏、釜本邦茂氏、岡田武史氏、大住良之氏、大社啓二氏)

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ご親族の夏子ちゃん、翔平くんから花束を贈られる賀川。
お二人は賀川の兄・太郎さんのご子息 竜二郎氏のお子さま

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賀川浩スライドショー「賀川浩ヒストリー」「世界のスターと仲間たち」。
DJジャンボさん(中村義昭氏)の司会進行に、賀川が解説をつけ、85年の歩みをご覧いただきました

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メキシコ五輪銅メダルの主力メンバーと。
左から片山洋氏、杉山隆一氏、、賀川、釜本邦茂氏、森孝慈

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神戸高校、神戸大学の後輩たちに囲まれて。
元日本代表 細谷一郎氏(中列右端)も神戸高校の後輩

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メディア関係の仲間たちと。
牛木素吉郎氏、後藤健生氏をはじめ第一線で活躍する記者/ライター、カメラマン、編集者がずらり

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賀川とともに第7回殿堂入りされた浅見俊雄氏(元国際審判員)もお祝いに駆けつけて下さいました

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【フォトギャラリー】 賀川浩 祝賀パーティ@神戸

2010/12/20(月)

賀川浩 日本サッカー殿堂入り祝賀パーティ
11月25日 19時~(神戸ポートピアホテル)


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神戸フットボールクラブの選手たちにエスコートされ笑顔で入場、登壇する賀川。
フェアプレーフラッグは兵庫サッカー協会さんからお借りしました

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植月正章 神戸FC会長のご発声で乾杯。
この日は10人の発起人の方々がご出席下さいました。
(写真左から藤田信良氏、前野正氏、平松純子氏、中村和洋氏、セルジオ越後氏、叶屋宏一氏、金森喜久男氏、鬼武健二氏、稲垣嗣夫氏)

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サンテレビの取材を受ける賀川。
翌日の夕方、この会の司会も務めて下さった谷口英明アナウンサーの番組で取りあげて頂きました

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かつては取材相手だった元フィギュアスケーターの平松純子さん、元サッカー日本代表 森島寛晃氏から花束の贈呈

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神戸一中(高校)、神戸大学サッカー部の後輩たちと

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東京や京都、奈良からも、古くからの仲間たちが駆けつけて下さいました。
左から賀川、冨岡敬次郎氏、セルジオ越後氏(東京)、その右、釜本邦茂氏の恩師である池田輝也先生(京都)、万葉けまりの再現に尽力された倉井三郎氏(奈良)


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神戸FCを中心とする神戸、関西のサッカー仲間たちと。
賀川の左は発起人のお一人でもある彫刻家の流政之先生

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サッカーでも記者としても信頼する仲間だった大谷四郎さん、岩谷俊夫さんのご親族と。
左から大谷家:次男薫平氏、ふく子夫人、賀川、岩谷家:淑子夫人、長男省吾氏、次男 砂田純二氏

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神戸を拠点に活動するフラメンコダンサー・東仲マヤさん。
W杯優勝国スペインはカディスの曲『喜び』で会に華を添えて下さいました


写真:宮本亮氏、(株)シックス

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賀川浩の殿堂入りを祝う会。85歳をダシにみんなで楽しい会を――

2010/11/05(金)

――賀川浩のサッカー殿堂入りを祝う会の日取りが決まりましたね。11月25日に神戸のポートピアホテル、12月7日に東京のグランドプリンスホテル高輪ということです。案内状の発送も始まったのですか。

賀川:案内はすでにお送りしているようです。私自身は、自分が雑誌に日本サッカーの功労者と書いたり、ホームページで紹介してきた名選手たちや竹腰重丸さん、田辺五兵衛さんといった“神様”“博覧強記”の大先輩たちと同じところに掲額されるとは考えていなかったので気恥ずかしくもありますが、みなさんのご意見を聞き、この際、これまでお世話になった方々や仕事のうえで関わりのあったみなさんにもう一度お目にかかってお礼を申し上げ、またサッカーのお話もしたいと考えるようになりました。

――殿堂の表彰制度そのものが2005年からですから、賀川さんの世代から上では、こういういい方は失礼かもしれませんが、お元気なうちの表彰の例は少ないでしょう。

賀川:そうですね。もうすぐ満86歳ですから、平均寿命を試合の90分と見ればエキストラタイム、延長戦に入っていますよ。

――賀川さんの書き物はいっぱいあって、インターネットでの蓄積もすごいから、記事や意見は読めばよいわけですが、それでも、直接お会いして言葉をかわすのはまた格別でしょう。

賀川:私も、あの三段跳びの南部忠平さん(1932年ロサンゼルス五輪優勝、元毎日新聞 運動部長)や織田幹雄さん(1928年アムステルダム五輪優勝、元朝日新聞運動部長)の晩年にお目にかかったのはいまも強い思い出です(それまでにもお会いしてはいたが…)。
 そんな考えもあって、自分の育った関西、とくに出身地の神戸での会を計画してもらったのですが、東京、関東方面の方々に神戸までご足労願うよりこちらが出かければよいことだと、東京でも会を催すことにしたのです。

――釜本邦茂さん、杉山隆一さんといったメキシコ銅メダル組や、岡ちゃんこと岡田武史さんといった錚々たる選手・監督が発起人ですね。Jリーグの前チェアマン鬼武健二さん、世界的な彫刻家・流政之さんの名前もあります。

賀川:Jリーグの関西のクラブの社長さん方や神戸FC、私の出身校のみなさんが声を上げて下さることになりました。それから国際スケート連盟理事、フィギュアの平松純子さんも…全くありがたいことです。

――会の趣向は本多さん(シックス社長)や宮川さん(枚方FC代表)たちが企画されるのでしょうね。

賀川:色々考えてもらっているようです。案内を差し上げた方々は相当な数になりますが、それでも、ご案内すべきところへ全て届いているかどうか、ちょっと心配です(※)。もともと私は几帳面という方ではなく、頂いた名刺の整理なども不完全で、また近年は体の不調で年賀状をサボった年もあって、今度の会の実務で関わる人たちにもずいぶん迷惑をかけています。
 神戸FCや神戸高校(神戸一中)、神戸大学といった私の“実家”にはそれぞれの役員さんから声をかけて頂くことも考えていますが、このブログのご挨拶を読まれて、「賀川に会いに行ってやろう――」とおっしゃる方々にもし会の案内が届いていなければ当方の不行き届きですので、このインターネットを通じてご連絡を頂ければ幸いです。
 かの名選手だけでなく、若いプレーヤーやコーチ、指導者の方々も来られると聞いています。私の神戸大学の恩師、加藤一郎先生(故人)は90歳まで同窓会に出席され、その都度、「みんなはボクをダシに集まっているらしいが、いいダシだろう」と言っていました。今回は85歳の私がいいダシになって、みなさんの楽しい会になることを――。

(※編集注:ご案内は11/4から順次お送りしております。到着が多少前後する場合がございますが、あらかじめご了承くださいませ)

以下は、「賀川浩殿堂入り祝賀パーティ事務局」からのご案内です

・日時/場所:【神戸】
         11月25日(木)午後六時半開場 午後七時開会
                 神戸ポートピアホテル 南館 大輪田の間
        【東京】
         12月7日(火)午後六時半開場 午後七時開会
                 グランドプリンスホテル高輪 プリンスルーム

・会費:       一万円

・御出席いただける場合は、準備の都合上誠に勝手ながら11月19日(金)までに御出席の旨を事務局あてにファックスまたはメールにて御連絡賜りたくお願い申し上げます。
御氏名、御連絡先とあわせ、賀川浩へのメッセージもお送りください。メ ッセージは御名前とともに、賀川サッカーライブラリーに掲載させていただきます。

・会費は会場にて徴収させていただきます。


freedial賀川浩殿堂入り祝賀パーティ事務局
  大阪市中央区平野町3-1-8 株式会社シックス内
  Tel :06-6209-6626
  Fax :06-6209-6625
    Mail: kagawa@six6.jp

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89年の歴史の歩みに乾杯! 殿堂入り表彰式と9月10日、JFA創設の日を思う(下)

2010/09/18(土)

賀川:そして盛んにしてゆく過程で、スポーツ本来の姿である地域に根をおろしたクラブというものを基盤と考え、プロフェッショナルのクラブもそうあるべきと考えた。だから鹿島アントラーズというクラブはもともと住友金属という企業のサッカー部が前身であって、住金をはじめ多くの企業がバックアップしてくれても、鹿島という地域を基盤にした独立したスポーツクラブということになる。
 私が駆け出し記者でプロ野球を取材していたとき、近鉄バファローズの選手の宿舎をたずねたらその建物に「近畿日本鉄道野球部」という表札が出ていた。プロであっても近鉄という大企業の一部という形だった。

 そしてまた、協会の登録をヨーロッパと同様に年齢に切り替えた。プロのクラブと同じようにここでもあくまでスポーツが主体で、スポーツをするのに社会的身分は関係ないということです。高校生は高等学校で学ぶ学生ではあるけれど、その同じ高校生という社会的な身分の者たちが高校大会を行なうのは決して不思議ではない。
 しかし高校生でなく中学校を出て職業についている人がサッカーをしたいときに高校大会だけしかなければ、公式の試合をする場所がないわけです。だから、スポーツをするのにそういうカテゴリーでなく年齢別のカテゴリーにすれば誰もが同じ世代同士で試合できることになる。プロ化より15年近く早い頃、1979年にJFAは登録制度を年齢別に変えていた。このことの意味が、まだ日本の他の競技団体ではほとんど理解されていない。

――Jのクラブに下部組織として年齢別の育成組織もつくられました。

賀川:プロ化で代表を強くし、また外国から上手なプロを招いて観客動員のプラスをはかるといった表面だけのことでなく、スポーツの在り方を、これまでの日本の常識を根本から変えたところがJFA、Jリーグの関係者のいいところなんですヨ。

――そういえますね。

賀川:いつもいうとおり、この自分たちの好きなスポーツを、それぞれの生活している地域で、自分たちの手でクラブをつくり、少年や大人の健康と楽しみの増設をはかるというのは、いわば民主主義の根幹と通じるものがあると思っています。明治以来、富国強兵のために中央集権でやってきた日本が戦争で負けて、さあ今度は民主主義だといい始めたけれど、身についた中央集権的発想はなかなか抜けない。大阪府の橋下知事たちは、自分が知事になってみて地方の自主性ということに気がついて、いま地方主権を唱えているけれどネ。

――サッカーはすでに新しくいい方向に向かっている、と。

賀川:少なくとも、ここまで来ていることは誇りにしていいと思っていますヨ。

――その大演説は、会場では話さなかったのですね。

賀川:うーん、そういう話をする気がなくなってしまった。まあ、表彰される側としては、いかにも「私もその一人だ」といっているように聞こえても――などと思ったのかもしれないし、今日は大人しくしておこうと胸にしまいこんでしまった。

――89年前に創設されたJFAの誕生日の9月10日のお祝いと、90年にわたって歩み続けてきたサッカーファミリーとともに、このブログでお互いおめでとう――ということにして、賀川さんの表彰のお祝いにしましょう。

賀川:ありがとう、みなさん。


【了】

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89年の歴史の歩みに乾杯! 殿堂入り表彰式と9月10日、JFA創設の日を思う(上)

2010/09/17(金)

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――殿堂入りの式典はいかがでしたか。9月10日のJFA(日本サッカー協会)創立記念日の催しで、賀川さんはこれまで殿堂委員で選考する側でしたよね。式典にも毎年参加されていたのが、今度は表彰される側になったわけでしょう。

賀川:立派な先輩やいい仲間、後輩に恵まれて自分が育ってきたサッカー界のこと、その先輩や後輩たちのことを皆に知ってもらいたいと書き記したり、日本や世界のサッカーの見聞を文字にしたりといった、いわば好きなことをしてきただけなのに、表彰して頂くとなると気恥ずかしい感じがしますヨ。
 小倉JFA会長からレプリカをもらい、大畠さんや浅見さん、モクさん(鈴木良三)、それに落合選手、故・ネルソン吉村の息子さんたちと一緒に表彰されたのですが、取材のときの図々しさよりもその気恥ずかしさの方が先に立ったらしく、大ベテランのアナウンサー、金子さんのインタビューでもあまり気のきいた話を返していなかったような気がする。

――何か言いたいことがあったでしょう?

賀川:こういうフットボールファミリーの集まりのとき、とくにJFAという日本サッカーのために働いている人たちとそれを囲むメンバーに「ここまで日本サッカーを発展させてくれてありがとう」と言うハズだったのが、どこかへ消えてしまった。

――日本サッカーに不満も多いのに……

賀川:もちろん、欲を言えばいくらでもあります。しかしベースボール、野球というスポーツがひと足早いうちに盛んになってしまった日本で、野球とは全く異質の競技であるフットボール、サッカーがこれほど浸透し、レベルアップしているのは実はすごいこと――世界でも例外的なのですヨ。

――まあ、野球は世界でそれほど広まっていませんが。

賀川:USA(アメリカ合衆国)で始まった野球は、太平洋を西へ渡って日本、そして日本を通じて朝鮮半島の韓国へ、一時的にアメリカ領であった南のフィリピンにも広まった。北米大陸ではメキシコの北部とカリブ海の島々、つまりUSAに近いところに浸透した。北隣のカナダもそうです。
 野球は手でボールを扱い、バットで打つ。ベース(塁)をまわってホームへ戻ると1点となる仕組みを決まった回数プレーすることで試合が展開してゆく。ストライク3回なら1アウト、ボールが4つになると進塁できる。3回アウトになると攻撃交代となる。
 サッカーは手を使ってプレーしてはいけない。競技は一定時間内で終わる。すべてが野球と反対。プレーそのものが停止球、まずピッチャーが投げることから始まり、一つのアウト、一つのヒットごとにプレーは中断し、また投球から始まる。つまり全ていったん停止してから再開する野球に比べると、フットボールは何から何まで違うスポーツです。だから、野球の楽しみを覚えた人がサッカーを面白いと感じるのはそう簡単ではない。
 そういうなかで、JFAとそれを支える人たちは今のようにサッカーを発展させてきた。そのことにまず自信を持ち、自ら「相当なことをしたのだ」と思ってほしいし、それに関わってきたお互いを讃えていいと思う。

――なるほど……。


【つづく】

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みなさん、ありがとう ~サロン2002からの贈りもの~

2010/09/09(木)

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 宇都宮徹壱さんの南アフリカの話を聞かせてもらう集いに出席したら、同氏から著書『フットボールの犬 欧羅巴1999‐2009』を、会主催のサロン2002からAIGLE社製のリュックサックを、殿堂入りのお祝いに頂きました。ありがとうございます。

 バッグはフランスのメーカーらしく粋なデザインで、不思議にサロン2002のクラブマークとうまく合っています。「ブラジルへ持って行け」との中塚先生をはじめみなさんのご好意に感謝しながらも、手術が成功して、ひょっとして腰の痛みがなくなり昔のように回復すれば、これに弁当を入れてロックガーデン(すぐ近くのハイキングコース)に行けるかも――などと妄想しきりです。

 商品表示の「ナイロン」の文字と、小さなトリコロール(3色旗)を眺めると、1950年に世界初の8,000メートル峰の登頂に成功したフランスの登山隊が、当時めずらしかったナイロンの軽量装備であったことや、隊長のモーリス・エルゾーグ著、早稲田の近藤等(こんどう・ひとし)』教授の名訳『処女峰アンナプルナ』を、涙を流しながら読んだ駆け出し記者の頃を懐かしく思い出します。

 ロックガーデンはともかく、ブラジルと、向こう岸への渡渉のときにはぜひ持ってゆきましょう。ありがとうございます。

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サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(下)

2010/08/22(日)

――ワールドカップ(W杯)の取材は、1974年西ドイツ大会からですね。

賀川:1954年にW杯予選の日韓戦があったが、関心はオリンピックの方が強かった。そのオリンピック東京大会のホスト国として恥ずかしくない成績を収めるために、デットマール・クラマーを西ドイツから招いた。彼によって日本のサッカーが、トップの代表だけでなく様々なところで大変革することになった。
 ちょうどボクが東京に勤務していた時期と彼の来日1~2年目とが重なったのも、ボクには幸運だった。代表監督がロクさん(高橋英辰)だったから、代表の合宿所へも気楽に出入りして、クラマーとも内輪のつきあいになった。

――クラマーさんは、賀川さんを“トゥルーフレンド(True Friend)”と言うとか?

賀川:そのエピソードはどこかに書いたから省略しましょう。彼とは、以来50年のつきあい。私のサッカーの知識も、彼のおかげで飛躍的に伸びた。ドイツのサッカーが戦後の荒廃からW杯のチャンピオンとなって世界の頂点に立ち、少し停滞して、今また盛り返しているその50年の歴史の全てをクラマーは見ているから、いつ会って、話を聞いても新鮮で楽しい。

――W杯に目を向けつつ、関西サッカーの興隆には“気”が入っていましたよね。早稲田の釜本選手が三菱でなくヤンマーへ来たのも、東京オリンピックのときの大阪トーナメントも、賀川さんが関わっていたと聞いています。

賀川:それは、川本泰三というすごい先輩の仕事を手伝っただけですヨ。神戸の少年サッカー育成や神戸FCの創設なども、加藤正信ドクターの熱意に引っ張られてのことです。

――W杯では、出かけるたびにサッカーマガジンで『ワールドカップの旅』という連載を続けてきましたね。

賀川:あれは楽しんで書かせてもらいました。1959年の第1回アジアユース大会を報道役員として同行取材したとき、大阪のサンケイスポーツにその紀行を連載したのだが、阪急電鉄の事業部にいたサッカー好きがこれを読んで「賀川クンがもう少し早く生まれていたら、サッカーの面白さをもっと早くにたくさんの人が知るようになったハズだ」と言ってくれた。ボクよりも年長の人にそう言われて、紀行形式のサッカー物語を書いてみようと思っていた。それを74年大会から始めた。

――ことし2010年は南アフリカへ行けず残念でしたね。2014年ブラジル大会での連載を期待しています。

賀川:あまり長く続けて質が落ちると出版社にも迷惑をかけるからネ。まあ、ボクより若くて優秀なサッカー記者はたくさんいる。国際舞台の試合を見る数も、ボクなどとは比べものにならぬほど多い。サッカーの世界はどんどん進んでいるし、メディアもずいぶん進化してきている。

――国際試合をパソコンの画面で見られるようになりましたからね。

賀川:写真や動画とともに文字でゲームを再現し、文字でサッカーを伝える仕事がどう変わってゆくかは分からないが、私はまだしばらくこの面白みを続けてゆきたい。それから、いま取り組んでいるインターネットの「日本サッカーアーカイブ」という、日本の歴史を紹介し語ってゆくウェブサイトを充実するだけでなく、出版物なども積極的に取り組んでゆこうと思っている。
 長い間、新聞の仕事に携わり、スポーツを眺め続けてきたボクにとっては、みなさんの関心の強いサッカーの歩みを一緒に見つめることで、日本という国の現代史をもう一度考え直すことになるとも思っている。歴史を学ぶことの大切さは、スポーツも政治や経済でも変わることはないと考えています。

――殿堂入りのお祝いから、ずいぶん話が長くなりました。

賀川:とにもかくにも、みなさんありがとうございます。集まってサッカーを語る機会がもしできれば、そのときにも改めてお礼を申し上げたいと思っています。


【了】

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サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(中)

2010/08/21(土)

――復員後、学校を出てから記者になるまでしばらく年月がありますね。

賀川:自分が何をするのか、人生の模索期というところだね。

――略歴には、1952年(昭和27年)1月に産経新聞入社とあります。

賀川:「スポーツ記者は面白いヨ」という大谷四郎さんのアドバイスもあった。面接で話を聞いてくれた木村象雷(きむら・しょうらい)という大記者の人柄にも魅力を感じた。まあ入社したというより入れてもらったという感じだね。産経新聞は当時どんどん成長していて、運動部でもボールゲームの専門家を探していた。

――特別に何かしたのですか?

賀川:京都の新聞に寄稿していた記事や、自分が京都の高校生を集めて講習会を開いたときに作ったテキストなどを送って木村さんに見てもらっていた。

――以来、ざっと60年

賀川:新聞社に入ったのが27歳だから、少しスタートは遅れている。それからしばらく、吸収するのに一生懸命だったことは確かですヨ。木村部長をはじめデスクにも先輩記者にも優秀な人が揃っていたのもありがたかった。大相撲の“熱戦一番”の北川貞二郎さんもいた。木村さんは入社早々のボクに、「デスクの山田宏は原稿に手を入れるのがとてもうまい。原稿のうまさでは北川クンを見習いなさい」と言っていた。山田さんはボクより2歳上、北川さんは1歳上。

――司馬遼太郎さんも同じ編集部にいたそうですね。

賀川:文化部のデスクだった。格調あるカコミを書いていたヨ。同じ文化部と社会部にも、そしてうちにも山田デスクといった文章家がいた。司馬さんに競争心を持っていた人たちが多く、編集局内は活気があったヨ。

――そんな雰囲気だと楽しいでしょうね。

賀川:会社に寝泊まりすることが多かったネ。野球場からナイターの記事を送ってくるのを電話で受けて書き取ったりという時代だから、万事手仕事、今から思えば無駄なようだが……。木村さんが徹底的に平易・簡明な文章をと指導してくれた。一言一句、助詞の使い方も細かく。道を歩きながら、「ここは『~が』か『~は』か」と考えたものだ。

――その中でたくさんのスポーツを取材し、記事もたくさん書いた。

賀川:オリンピック記者を目指していた。高校野球も大学野球もプロ野球も取材に行った。もちろんサッカーも、フィギュアスケートは今のプロコーチ、佐藤信夫・久美子夫妻の少年・少女期から取材した。色々な競技を見たことがサッカーを見るうえでもプラスになった。まあ、あっという間の60年ですヨ。


【つづく】

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サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(上)

2010/08/20(金)

――殿堂入り、おめでとうございます。

賀川:ありがとう。JFA(日本サッカー協会)のプレスリリースが17日にあり、明朝の新聞のいくつかに掲載されたのですが、発表当日に、JFAのウェブサイトを見たとお祝いの電話がかかってきたのには驚きました。電報や電話をたくさん頂戴して恐縮しています。

――長い記者生活でサッカーの楽しさを多くの人に伝えたこと、色々なプレーヤーや監督とのおつきあいの中で日本のサッカーに貢献したこと、また、サッカーの興隆に直接関わる様々な事業を興したこと――などはよく知られています。

賀川:さあ、どうでしょうネ。少年のころからサッカーに関わってきたから、ざっと75年。メディアでは足かけ60年ですが、それほど仕事をしたわけでもありません。スポーツが好きで、書くことが好きで、それを長くやってきただけ。日本の生んだ素晴らしいプレーヤーや監督、あるいはJFAの発展に直接関わり立派な業績を残された人たちと同じところにレリーフを掲げてもらう――となると、いささか忸怩(じくじ)たる思いもしますヨ。

――そんな先輩や後輩たちのことをたくさんの人に知らせて来たのだから、私たちは当然だと思っています。
 一昨年に亡くなった長沼健・元JFA会長もよく、賀川さんにサッカーを教えてもらったと言っていましたよ。セルジオ越後さんも、賀川さんにお世話になったとどこかの会で話しているのを聞いたことがある。そうそう、岡田武史・前日本代表監督は、取材に来た記者に賀川さんとの話をするそうです。

賀川:長く記者の仕事をしていれば、色んな人との出会いもありますよ。

――話を膨らませるのもどうかと言われるでしょうけれど、様々なアドバイスをしてきた中で良かったと思う、一番いい例を一つ教えて下さい。

賀川:いや、一番いい例ではなくてネ……。ボクがスポーツ記者稼業で一番残念だったのは、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手が、メキシコ大会の前に自殺したことですヨ。色々な事情があっただろうに誰も気づかなかったのか、地味な人柄のようだったが、東京の3位といえば大ヒーローです。その彼の悩みを誰も気づかなかったとは――。しばらく暗然とした気持ちでした。

――大器・釜本邦茂さんは順調に伸びてメキシコ五輪で活躍できたのに……

賀川:これはまあ、本人の運の強さ、日本サッカー界、関西サッカー界をあげて彼をバックアップしたからでしょう。

――「自分はこれをした」というのは言いたくないようですから話を変えましょう。85年の人生の前半部のハイライトは?

賀川:のちのサッカー人生のためには、神戸一中(旧制中学)の蹴球部にいたことでしょうね。ここで素晴らしい先輩たちに恵まれた。
 そういえばボクは、小学校でもいい先生に出会った。5年のときに成績が良くなかったのが6年になって、当時「別勉強」という言い方だった今の家庭教師に、別の学校のベテランの先生に来てもらうようになってから一気に力がついた。自分でも、どの科目でも理解が進むのを自覚したほどです。すごい先生だったと今でも思っている。

――それで、夏期試験で全校1位、翌年神戸一中へ、というわけですね。

賀川:ボクの性格を見抜いた授業だったのだろうネ。これは21歳で陸軍の飛行機の操縦訓練を受けているときに、上手な教官に同乗してもらって、その日一日で編隊飛行のコツをのみこんだときとよく似ている。

――いいコーチの素晴らしさを、そういうところで感得したと。

賀川:小学校の担任の先生と、この別勉強の先生のおかげで神戸一中に入り、その蹴球部で過ごしたこと。

――部には兄・太郎さんもいたのですよね。

賀川:兄を含めて、いい先輩に恵まれた。軍隊でも先の教官のように、操縦技術の訓練でも地上教育でもいい人に巡り会えた。当時25~26歳の教官たちがボクたちの教育に精魂を傾けてくれたからね。


【つづく】

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有難うございます

2010/08/19(木)

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殿堂入りのニュースが出てから、たくさんの祝詞や励ましを頂戴しました。まことに有難うございます。
サッカーでも軍隊でも仕事場でも、いつも立派な先輩、いい仲間、しっかりした後輩に恵まれて、好きなことをしてきただけなのに、賞のようなものを頂きちょっと面映ゆく感じています。

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高橋ロクさんのこと

2010/02/19(金)

 日本サッカー史研究会のメンバー阿部さんからの連絡で、先月1月18日の会のテーマが高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんであったことを知りました(阿部さん、ありがとうございます)。

“ロクさん”こと高橋さんは私より8歳ほど年長の先輩であるとともに、尊敬する仲間でした。第1回のアジアユース(1959年)マレーシア大会の監督をされたときに私はマネージャー兼報道係として同行し、ロクさんの選手たちへの細かな気配りに感心したものです。
 ちょっと皮肉っぽい言い方をしつつ、心の優しいロクさんは、デットマール・クラマーが来日した60年から62年まで代表監督をしながらクラマーの全国行脚にも付き合い忙しい日々を送りながら、時を構わず電話する私の問いにも応じてくれました。
 私の兄の太郎の結婚式のときにも、仲人であった竹腰重丸さんのサッカー芸術論の大スピーチ論とは違って、ロクさんらしいサビの効いた短いスピーチをされたことをいまも覚えています。

 長沼健さん、岡野俊一郎さんの若い2人に日本代表監督を譲ってしばらく日立の工場勤務となったとき、「暇だからゴルフの道具を揃えたよ」と言いながら嬉しそうでなかった……。日本リーグで低迷する日立を建て直すために日立サッカー部に返り咲いたときは、田辺製薬にいてかつてロクさんとはライバルであり、且つ、ロクさんのリンクマンぶりをいつも推奨していた兄・太郎が「これで日立も強くなるだろう」と言っていたのを覚えています。

 それから、しばらくしてロクさんが大阪の新聞社へ訪ねてきてくれて2人で食事をしたとき、ロクさんが「ボクも変わったからネ」と言ったのを忘れられません。
 ベルリン世代とそのずいぶん後の次の世代の間で苦労したロクさんが、あり余るほどのサッカーの知識と経験の中から“いまの日立”に必要な“走るサッカー”を強調した頃でした。

 ロクさんのおかげで、私はクラマー来日初期には日本代表の合宿に仲間と同じ扱いで出入りすることができ、サッカー復興の若い仲間と友人になれました。それは今の私の大きな財産の一つ。ロクさんを偲ぶとき、いつも、いい先輩に巡り会えたと改めて感じるのです。


book関連記事(賀川サッカーライブラリー)
現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)

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神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(下)

2010/02/07(日)

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神戸FCの周年記念史。右から20周年、30周年、そして今回の40周年
表紙の赤と白のデザインは、チームのユニフォームを模している



――昭和39年の勝利が昭和5年の極東大会に結びつくわけですか。

賀川:そのころ、私も不勉強ではあったが、前から昭和5年の勝利が次の11年(1936年)の“ベルリンの奇跡”につながるという程度のことは聞いていた。

――そこで……

賀川:田辺さんのスピーチは素晴らしかった。あとはまあ、あのプレーが良かった、とかいうような話が多かったのだが、そのなかでボクが例の思いつきでつい口に出してしまった。

――どんなことをです?

賀川:私は先輩たちのバックアップのおかげで、1959年、高校選抜日本代表チームとともに第1回アジアユース(マレーシア)へ行きました(マネージャー兼報道役員として帯同)。
 そのときのいわばアジアユース1期生の中から杉山隆一宮本輝紀、継谷昌三の3人のオリンピック代表が出たことはご存知でしょう(釜本邦茂は第4期生)。しかしその1期生たちと一緒にプレーしてみて、彼らのボールテクニックはまだまだだと思った。
考えてみたら、彼らがボールを蹴るようになったのは新制中学に入ってからです。私たちのときは、特に教えてはもらわなかったが、雲中(うんちゅう)小学校や御影師範付属小学校などでボールを蹴っていた。正式でなくても、ゴムマリ(軟式テニスのボール)のサッカー遊びもしていた。そのことから思えば、いまの代表選手たちはボールを蹴り始めたのが遅いから、ボール扱いが上手でないのは当然。ここを考えて、まず小学生のサッカーを考えたい、と言った。

――それで?

賀川:そのときはフムフムという感じだったが、翌日、加藤ドクターから電話がかかってきた。「賀川君、昨晩のあの話、やろうじゃないか」とね。

――それが少年サッカースクール45周年の始まりですね。

賀川:加藤ドクターの大車輪の活動が始まり、友の会主催で少年サッカースクールが誕生。その成功から今度は母体の友の会を改編して社団法人のクラブへ――ということになった。

――面白い話。でも今回はこのあたりにしておきましょうか。KFCの交友録も、また改めて聞かせて下さいね。


book関連記事
速さの杉山とともに成長したアジアユース1期生 宮本輝紀(上)
時代を見通した博覧強記 田辺五兵衛(下)


【了】

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神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(中)

2010/02/06(土)

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記念冊子
左:神戸少年サッカースクール10年のあゆみ
右:目で見るK.F.C.



――それから?

賀川:12月29日に前後して、28、29、30日、つまり年末の時期に磯上、神戸高校、そして西宮の3ヶ所で順次に中高生対象のサッカー教室を開いた。講師は岩谷俊夫(故人)。当時の日本協会技術委員で毎日新聞の記者。今の高校選手権大会はそのころ毎日新聞社の主催で、岩谷君は指導者としても記者としても知られていたから、中高生には人気があった。

――小学生は

賀川:低年齢に及ぶのは後々の話。とりあえず、若い人にサッカーを教え、皆でボールを蹴ろう、そして国際試合で日本代表を応援しよう、その前にちゃんとしたグラウンドを作ろう――などいろいろな目的があった。
 そのころ日本には芝生のサッカーグラウンドはなく、国立競技場は1959年の第3回アジア競技大会の会場となったあと、64年オリンピックのための改装中だった。63年のオリンピックのためのリハーサルでも、会場は秩父宮ラグビー場。そののちに御崎にグラウンドができたのも、友の会の運動からだった。

――少年サッカースクールの45周年は……

賀川:友の会は講習会をしたけれど、不定期だった。少年サッカースクールのきっかけは東京オリンピック直後の会合だった。

――といいますと?

賀川:1964年10月の東京オリンピックで日本代表はアルゼンチンに逆転勝ちして開催国の面目を保つことができた。大会が終わったあと、デットマール・クラマーが帰国する前のお別れパーティの席上で、この1勝を足場にしての日本が次に打つ手を皆に言い残した。

――有名な、“クラマーの5ヶ条”ですね。

賀川:僕はその会に出てから関西へ帰ってきた。大会の少し前から、東京の新聞社のデスクで働いていたのから解放されて、当時、武庫之荘にあった家に戻ったら加藤正信ドクターから連絡がきて、田辺五兵衛さんから皆に集まってほしいという要請があったということだった。何月何日だったかは覚えていないが、三宮のどこかでご飯を食べながら、田辺さんが言ったのは、
「東京での対アルゼンチンの1勝は、1930年(昭和5年)の東京での第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち中華民国と引き分けて念願の極東1位を果たした(※)のに匹敵する、サッカー史上のエポック・メーキング事件です。これを将来につなぐために、私たちは何をすべきかを考えてほしい」。
 ※編集注:当時は得失点差で順位を決める規則ではなく、1勝1分けで2チームが同率優勝となった


book関連記事
ローマ、東京、メキシコ(11)
ゴールを奪うMFで優しい指導者 歴史を掘り起こした記者 岩谷俊夫
普及と興隆の機関車となった偉大なドクター 加藤正信(続)


【つづく】

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神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(上)

2010/02/05(金)

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祝賀パーティ会場で
左から大仁邦彌JFA副会長、藤井さち代さん、前野正KFC理事長



――1月30日に、神戸のポートピアホテルで神戸フットボールクラブ(KFC)の40周年記念式典と祝賀パーティがありましたね。参加者が260人もあったとか……盛況でしたね。

賀川:そうネ。昨年には枚方フットボールクラブの40周年のパーティもあった。学校のクラブや企業のクラブとは別の形の、市民スポーツクラブが半世紀近くの歴史を持つようになってきたのですヨ。

――創設の発起人でもあり、「兵庫県サッカー友の会」のころからの関係者として、KFCのパーティは感慨ひとしおというところだったでしょう。

賀川:枚方の40年のときも古い仲間に会えて嬉しかったが、今度は神戸だからね――。同じテーブルにJFAの大仁邦彌副会長、クラブの植月正章会長、米田准三名誉会長、前野正理事長、細谷一郎副理事長、それから来賓のアシックス佐野俊之取締役、ニチレクの田淵和彦社長、クリムゾンフットボールクラブの叶屋宏一社長などの顔があった。
 植月さんはアシックス時代からの長いおつきあい。大阪女子マラソン以来ずーっと世話になっている。この人はオニツカタイガーのランニングシューズを世界的に広めた人だヨ。
 米田さんは神戸一中で私の3年下だが河本春男(故人)会長のあとを引き受けてもらって、ずいぶんクラブに尽くして頂いた人だ。

――メインテーブルですね。

賀川:そうだったネ。今ごろ気が付いている。まあ一番の年長者で、今のクラブでも顧問ということになっているのだが……。こうした市民クラブはそれを自分たちで運営するクラブ員の力が大切なのだが、たくさんの人々の応援やバックアップのおかげでもある。そうしたお世話になった人や昔からの仲間に会えたのは何よりだった。
 今度の40周年記念史にも書いておいたのだが、20周年のときに、KFCや神戸少年サッカースクールの由来について書いておいた。いずれ、このブログにも再録しておきたいと思っているが、そもそものスタートは「兵庫サッカー友の会」からなんだ。
 これは、加藤正信ドクターという旧制神戸一中(現・神戸高校)で私よりも12歳年長の先輩が、
「戦前の神戸や兵庫はサッカー王国で、全国大会でもずーっと勝っていた。日本代表選手もたくさん育った。この東京オリンピックを控えたサッカー興隆の好機に、もう一度、兵庫のサッカーを強く盛んにしたい」
と考え、自分たちのライバルであった御影師範学校(神戸大学教育学部、現・発達科学部)のOBたちの賛同を得て、大橋真平さん(故人)に幹事長を引き受けてもらって1963年12月29日、「兵庫サッカー友の会」を発足した。

――友の会というのは? 阪急友の会とか、大丸友の会みたいなもの?

賀川:そういうのがありましたネ。京都サッカー協会会長の藤田静夫さん(故人・日本サッカー協会会長)が一足早く京都で協会をバックアップするファンの組織をつくったことからヒントを得た。

――それで、何をしたのですか

賀川:友の会の目的に、“5つの夢”として、
(1)少年サッカーの育成
(2)国際サッカー場の創設
(3)芝生の少年サッカー場の創設
(4)クラブチームの編成・強化
(5)サッカー王国 兵庫・神戸の復活

という5項目を掲げた。
 役員などを決めて、神戸高校の同窓会館で設立総会をした。会員の申込み、登録は1,007人だったから、反響は大きかったといえるだろう。


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【つづく】

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“GK大特集” 清水和良カメラマンの新基軸の写真集

2009/12/22(火)

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サッカーベストシーンEX.3 最強GK列伝(コスミック出版)


――フリーのカメラマン、清水和良さんのGK(ゴールキーパー)の写真集が出ていますね。

賀川:僕は今、週刊サッカーマガジンにストライカーの話を連載しているのだが、そのストライカーの対極にあるポジションがGKと言えるだろう。11人のプレーヤーの中で唯一人、手を使うことの許されているポジションでゴールを守るスペシャリストは、まあピッチの上でも特殊な存在。それをフォトグラファーの視点でまとめたらしい。コスミック出版からことし夏に出版した。コスミック社のムック版というのか、サッカーベストシーンというシリーズの一つ。「世界にただ1冊! GK大特集本」とある。

――夏の出版から、ちょっと日が過ぎていますが……

賀川:実は、この本を見てすぐこの欄で話題にしようと思ったのだが、この原稿のあしらいにと考えた清水さんと僕が一緒に写っているフォトがなかなか見つからない。最近になって出てきたので、遅ればせながら本の紹介を――ということになった。

――GKの特集という視点が面白いですね。

賀川:フリーのフォトグラファーとは何人かとときどき話をするが、彼らは書き手の記者(Written Press)よりもずっと選手に近いところにいて、スタンドの記者席とはまた違うところから、しかもレンズを通して見ている。僕にもいろいろ参考になる意見を聞かせてくれるんだよ。

――清水さんとは?

賀川:そんなに深いつきあいというわけじゃないが、初めて会ったのが1978年のワールドカップ(W杯)、ブエノスアイレスだからかれこれ30年来の長いつきあいですよ。確かあのときは、彼は宿舎の予約もしないでブエノスアイレスへ飛んできて、始めのうちはホテルの従業員の家に泊めてもらったという。

――フリーのカメラマンは行動力があると、いつも話してますよね。

賀川:言葉(外国語)のできる人もいるし、それほど話せない人もいるけれど、カメラマンは写すとなるとまるで人が変わったかと思うほど粘るし、押しが強くなる。アルゼンチンW杯の頃の清水さんは、まだボンボンのような若い感じだったが、サッカーを撮るという意欲に感心させられた。

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EURO80 イタリア大会、ローマでフリーランスカメラマンたちと食事。
テーブル左から、富越正秀、清水和良、賀川、一人おいてサッカーマガジン千野圭一編集長



――ローマでフリーのカメラマンと一緒に食事をしている写真がありましたね。

賀川:80年の欧州選手権(EURO80)のときですよ。このときは、日本からは新聞社はもちろんサッカー専門誌でもたかだか一人ずつくらいしか取材に来ていなかった。記者の数よりフォトグラファーの方が多いのだから、それも全部フリーランスだった。

――ゴール裏からGKを撮影できるのはすごいですね。

賀川:当時でもW杯などはカメラマンの数が多くて、ピッチで撮影するのに場所の割り当てが大変だった。簡単に動き回れる所じゃないから運もあるけれど、皆しっかりした写真を撮っていた。
 ゴール裏のカメラマンにしてみると、GKはいつも背中をみせて守っている。相手チーム側は自分の方へ向って攻めてくる。ただし、その相手のストライカー、昔ならセンターフォワード(CF)は、やはりフォトグラファーに背を向けていることも多い。彼らはそうした、僕たちスタンド席とは違う角度から見ているから、いっぱい面白い話を持っている。

――本の内容も、盛りだくさんですね。

賀川:いつもGKを身近に眺めている清水さんの彼らへの思い入れがぎっしり詰まっている。ピーター・シュマイケル川口能活のインタビューもあるし、各国の名GKの見事なプレーや迫力あるプレーがあって、それぞれの国のGKの系譜にも思いを馳せることができる。GKについての理解が深まり、サッカーがより楽しくなる1冊ですよ。なにしろ特別付録でヤシンやバンクスといった伝説のGKたちから現役のカシジャスにいたる名手のセービングのDVDまで付いているのだから――。

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記者として、サッカー人として 大谷四郎

2009/11/20(金)

2009年11月 サロン関西
・日 時:2009年11月26日(木)19~21時(その後、同会場にて懇親会)
・会 場:神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KR & AC)
     神戸市中央区八幡通2-1-20(「三宮」駅から徒歩約7分)
・会 費:1000円 ※懇親会は、フリードリンク 3500円
・テーマ:記者として、サッカー人として 大谷四郎
・報告者:賀川浩(サッカーライター)黒田和生(ヴィッセル神戸)

――大谷さんの話をする会があるのですね。

賀川:ことし9月11日にJFAの第6回殿堂入りの表彰式があって、大谷四郎さん(1918-90)高橋英辰さん(1916-2000)国際審判員だった丸山義行さん(1931-)それから68年メキシコ五輪銅メダルの一人松本育夫さん(1941-)が表彰された。
 大谷さんと高橋さんは私より6歳~8歳年長の先輩で、大谷さんは朝日新聞の記者、高橋さんは日本代表のコーチ、監督あるいは日立(現・柏レイソル)の監督として、どちらもその時代では有名だったが、若いサッカー仲間にはいささか遠い人となっているようだ。

――松本さんは60歳をこえた今もJ2サガン鳥栖での強化本部長、丸山さんは中央大学の大先輩として尊敬されていますね。そうした4人のなかから大谷さんの話が浮かんできたのは、やはり関西出身ということですね。

賀川:大谷さんは記者として優れた記事を書き、サッカーの普及とレベルアップに功があったわけだが、関西では神戸FCの設立に関わり運営にも力を尽くしたことでも知られている。クラブの技術委員長をしているときに、大学を出たばかりの黒田和生さんが、FCの専属コーチになった。黒田さんはのちに滝川第2高校の監督として成功し、いままたヴィッセル神戸の育成の責任者になっていて、いわば関西での選手育成の第一人者といえる。その黒田コーチが、若いころに大谷さんの指導を受けたことが大きなプラスとなったといっている。

――大谷さんは選手としても上手だったとか

賀川:今でいうストライカーだった。神戸一中時代、4年生と5年生(最高学年)のときに連続して全国優勝しているが、大事な試合でよく点を取った。当時の毎日新聞にも「超大型CF大谷云々」の記事があったハズ。東大のときにも関東大学リーグで、「リーグで最も目覚ましかったのは、早大の裵宗稿と東大の大谷四郎のシュートだった」と書かれたこともある。

――へぇー。いろんなエピソードがありますね。

賀川:ボクは新聞記者としてもこの道の後輩にあたるのだが、同じ仕事仲間として毎日新聞にいた岩谷俊夫(1925-1970)と3人いつも一緒だった。記者として、人間としても素晴らしい大谷さんについて語ればキリがないけれど、故・加藤正信ドクターをリーダーに、大谷さんをはじめ皆でつくり上げた神戸FCは今も「法人格市民スポーツクラブ」の一つの見本となっている。

――神戸一中サッカー部の後輩で、記者という同業者であり、大阪クラブや神戸FCでのクラブ仲間であり……というところですね。

賀川:大谷四郎さんの兄さんに、大谷一二(いちじ)さんがいて、ベルリン・オリンピック世代の名選手だった一二さんは神戸一中、神戸商大(現・神戸大)で私の先輩にもあたる。直接プレーも教えてもらったこともあり、私の兄・太郎ともども最も尊敬するサッカー人の一人。殿堂入りの表彰のときにはチラリと大谷一二さんの話が出そうになったのだが、結局は一言だけに終わっている。四郎さんが日本サッカー史に造詣が深かったのも、身近に兄さんをはじめ優れたプレーヤーを見た経験も大きな基盤になっていると思う。

――黒田先生との話は、2時間で終わるんでしょうかね。

賀川:戦前派の大谷四郎さんと現代の少年指導の現場にいる黒田さんの話を通じて、この人の素晴らしい人となりを少しでも紹介し、日本サッカーの歴史の深さの一端を知って頂ければ嬉しいのですがネ。

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ライブラリーの新コーナー「Hiroshi Kagawa in the Press」

2009/10/30(金)

 長い記者生活で自分の新聞に書き雑誌に寄稿し、フリーランスになってからも書く仕事を続けてきました。年をとってくると、取材して書くだけでなく取材され記事に書かれることも多くなりました。

 最初に取材されたのは1974年西ドイツワールドカップのとき。有名なビルト・ツァイトゥング(Bild-Zeitung)というタブロイドの夕刊紙でした。
 84年のヨーロッパ選手権のときにはBBSのラジオで語らされ、こんな英語をロンドンの皆が聞いたらどう思うだろうかと心配したこともありました。

 そんな遠い国の話でなくても、どういうわけかここしばらく日本のメディアに、ときに老齢まる出しの顔写真とともに私の話が掲載され、有難いやらなんとなく面映ゆく、申し訳ない気もしています。そんな、人の目と書きものも一つに集めることに……。

◆「Hiroshi Kagawa in the Press」はこちら
 (賀川サッカーライブラリーbook> Stories> Hiroshi Kagawa in the Press)

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サッカー狂会の会報『FOOTBALL No.138』

2009/10/22(木)


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 日本サッカー狂会会報『FOOTBALL』の2009年10月号(No.138)が届いた。“サッカー和尚”こと鈴木良韶(すずき・りょうしょう)さんが1962年にこの会を設立された頃からのおつきあい。熱心な会員の方からの投稿が詰まっている会報は毎回楽しく拝見しているが、このFOOTBALLの創刊は1965年11月だから45年間――よくぞまあ続けられるものと感嘆の他はない。
 138号は、1)大山信一さんの「FIFA FUTSAL WORLD CUP BRAZIL 2008 観戦記(5)」 2)五十嵐雅人さんの「サッカー文化論の研究(3)日本人はサッカーに向いていない・前半」と、早くからこの会報に投稿していたアルゼンチン在住の故・太田一二さんの「アルゼンチン便り」の再録で、今度が14回目、などなど……。


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名古屋のサッカー和尚・鈴木良韶さん

 鈴木さんご自身の書きものでは「フットボールあれこれ」や編集後記もあり、フットボール切手蒐集家でもある鈴木さんらしく南アフリカ大会の切手のこと、また、新潟国体のフットボール切手(50円)がこの号の表紙に使われている。
 鈴木さん、ありがとう。大山さんは何年か前の会報で“するのも見るのもフットサルが多くなった”とあったが、そのおかげで詳細なブラジル大会の話を読ませてもらえてまことにありがたいこと。五十嵐さんは文化論や人種論を背景にした「日本人はサッカーに向いていない」といった“識者”たちの日本サッカー批評に対して鋭く切り込んでおられるのを感心しながら読ませてもらっています。
「それは練習不足」「工夫が足りない」「練習法が悪い」という程度で私なら片づけることの多い日本サッカーの問題点を、サッカー好きの日本のファンはどうわけか国民性や人種論に結び付けたくなる人が多い――私にはそのことが面白く、同時に、こんなに簡単なルールで世界中で広がって盛んになっているスポーツに“向いている”“向いていない”ということをマジメに語り合うところがとても面白いと思っています。

 ともあれ、鈴木さんや畦地治さんはじめ、このユニークで年月を狂会――英文は「JAPAN FOOTBALL ENTHUSIASTS SOCIETY」――の発展をお祈りして、和尚さんへの謝意とさせて頂きます。

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ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(下)

2009/07/24(金)

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――コーチたちには刺激になったでしょうね。

賀川:そうね。指導者もプレーヤーと同じで、いくら人の言葉、人からのヒントを聞いても自分で掴まないといけないものだろう。もちろん、そのためには謙虚な心、勉強する気持ちを忘れてはいけないからね。
ボクが感心したのは、亡くなった第8代JFA会長の長沼健さん。この人が関学を卒業して中大にもう一度学士入学し、サッカーもみっちりプレーするということになった年の冬に、西宮球技場のスタンドでの立ち話であることを彼に言った。余計なことかもしれないが、せっかくサッカーをもう一度しっかりやるというのだからと、思わず口から言葉が出た。それを健さんは覚えていて、専務理事時代に何かの用事で彼の車で送ってもらっているときに運転席から振り向いて「あの話、まだ覚えてますよ」と言った。ヘェー、そうなのかと嬉しかったね。中大・古河電工のときのプレーは関学時代と変わったが、そのことについて私も健さんと話すことはなく、技術指導者を経て専務理事になってからポツンと「覚えてますよ」と言ってくれた。

――すごい話……

賀川:ボクが何か彼のプレーの成長を手伝ったのかというのではなく、ボクのような者の話でも健さんは聞き入れ、それが何か自分の役に立つかを考えたのだと思っている。そこに、選手として素質いっぱいに腕を上げ、コーチ、監督として国際舞台で実績を積み、専務理事としてJFAを改革し、会長として2002年W杯招致をはじめ多くのお仕事をした健さんの“素(もと)”があると思う。

――ちょっとスケールが大きすぎるかも?

賀川:コーチ一人ひとりが健さんのようにというわけにはいかないが、他人の話を謙虚に聞く耳はやはり大切ということですヨ。

――聞き耳がよければいい――と言っている風にもとれなくもないですね。

賀川:それはまぁ、ご随意に。



【了】

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ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(中)

2009/07/23(木)

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「zibunshi.xls」をダウンロード



――3回目は?

賀川:3回目は彼らが私からどういう話を聞きたいか――にした。最初の集まりのときに、コーチ各人の自分史を年表(写真)にし、それを大まかなサッカー史と対比して書いてもらったのだが、自分の育ってきた時代が何かを考えることで自分を見つめるきっかけにして欲しいこと、そして、話す私の方も、彼らのキャリアを知って、どういうことが必要かを考えたいと思ったからですヨ……。

――コーチたちの反応を見たかったですね。

賀川:色々ありましたヨ。Jリーグでプレーヤーとして活躍した人、日本代表で国際舞台でしっかり試合をした人もあれば外国に留学してコーチの勉強をしてきた人もいる。そうした多くの人材がいまヴィッセルのコーチ陣にいるんですよ。

――彼らは何を聞きたいと?

賀川:私が出会ったコーチや選手の名前を前もって紹介しておいたのだが、やはりヨハン・クライフが多かったネ。

――クライフのうまさや考え?

賀川:74年W杯では利き足の右でのプレーがほとんどだったが、6年後、ワシントン・ディプロマッツでの試合(ワシントン)を見たら右足を故障していて、プレーは左足一本。左足でボールを止め、左足でパスを出していたという話。そこから、この大選手の右左のバランスについてを説いた。そして彼に、彼の足の速さを尋ねたら「どれだけ速く走るかよりも、いつ走るかが大切なのだ」と一本とられた話もした。彼のエピソード、80年のサッカーマガジン以外に世界中のどの雑誌にも載っていない、78年W杯に出場しなかった理由などもネ。

――日本流についても聞かれたとか?

賀川:時間が少なかったので中途半端になってはいけないと思い、まず、体格のことだけを取り上げておいた。最近の日本には大きい選手もいるが、やはり体格の面では小さい方が多い。そのときに、体の大小は大が長所、小が短所というのでなく、それぞれの特徴に過ぎないこと、小さいのは敏捷だからそれを生かすことが大事という話をした。それが昭和5年(1930年)以来いまの日本代表につながっているのだから――。
 もちろん、大きいプレーヤーの必要なポジションには大柄を持ってくることはチームにとって必要だが、指導者にとっては小さい者に急に大きくなれと言っても無理だから、その特徴を生かせる工夫をすることが大切なのですヨ。プロ野球のタイガースの吉田義男内野手の話を聞いてもらったよ。

――賀川さんはスポーツ紙の運動部長、編集局長でしたからね。

賀川:松木謙治郎というタイガースの監督さんをはじめ、ヨッさん(吉田義男)ノムさん(野村克也、現・楽天監督)など素晴らしい野球人が私のスポーツ紙の評論家だったから、いい話をいっぱい聞かせてもらった。みんな野球の話になるとバッティングがどうの、そのときの守りがどうの、投げ方がどうのと、何日でも語りますヨ。



【つづく】

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ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(上)

2009/07/22(水)


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――ヴィッセルのコーチたちへの講義はどうでしたか。

賀川:ヴィッセル神戸育成担当の黒田和生さん、あの滝川第二の監督であった先生が、神戸・兵庫のサッカーの歴史と日本・世界のサッカーとのかかわりについて話して欲しいとおっしゃる。自らの足元を見つめ、自分たちの歴史に誇りを持って欲しいという考えなのだろうが、単に昔に強い時代があったというのでなく、日本のサッカーが今日のかたちになるまでに先輩たちがどれだけ努力したか、そしてその間に何をどう考えてきたか――そういう日本サッカー発展の中で神戸はさまざまな実績を積み、あるときは技術・戦術の先頭に立ち、あるときは少年育成やクラブというもののモデルを全国に先んじて行なってきたことを語っておこうと思った。

――3回ともそんな感じですか?

賀川:第1回は総論から入って、まず、Footballとは何か、そして明治・大正から昭和初期の神戸と日本のサッカー。例の第9回極東大会で日本流サッカーを選手たちが考えて実行したときにも神戸出身のプレーヤーが大いに働いたことまで、そしてそれが1936年のベルリン・オリンピックの逆転劇につながる――という流れをしょうかいした。
 第2回は、ベルリンと1940年の幻の東京オリンピック、そして戦中・戦後、さらにクラマーの指導による東京・メキシコ両オリンピックの成功、そのあとの停滞時代、その東京オリンピックの直後にいち早く少年サッカースクールが神戸でスタートして、全国への普及の始まりとなり、1970年の神戸FCの創立とその会員登録を年齢別にしたこと、それがJFA(日本サッカー協会)の79年の登録制度の変革へとつながり、後のプロ化へのスムーズな移行の基盤となったことなどを話した。

――いまのホームズスタジアム神戸も、1969年にサッカー専用競技場をつくるという神戸のサッカー人の署名運動で、まず御崎競技場が生まれ、2002年のワールドカップ(W杯)のときに新しいスタジアム建設となったのですよね。

賀川:その話は時間がなくて省いたけれど、市の中にサッカーのスタジアム(陸上競技のトラックと併用ではない)を持つのは当然という空気がW杯開催の前にすでにあったのは、1969年の御崎サッカー場があったからですよ。このことはまたの機会にとっておいたのだが、こういう歴史とそれにまつわる“考え方”、クラブとは? 年齢別とは――といった理念についてコーチの皆さんが考えるヒントにして欲しいとの願いだった。



【つづく】

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日本サッカー史研究会で、1930年日本代表について語る

2009/07/21(火)

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――6月、7月としばらく休みました。

賀川:少し間があきましたネ。

――スピーチが続きましたしね。

賀川:
 5月31日 東京の日本サッカー史研究会の集まりで「1930年 第9回極東大会」について
 6月17日 神戸でヴィッセル神戸コーチ研修会(1)
 6月24日 同(2)
 7月1日 同(3)

といった調子で、その間にキリンカップの取材(5月27日 日本対チリ、31日 日本対ベルギー)やW杯アジア予選の日本対カタール(6月10日 横浜)などもあった。

――6月6日の日本対ウズベキスタン(タシケント)17日の日本対オーストラリア(メルボルン)もあったから、テレビ観戦でも気合が入ったことでしょう。

賀川:そうね。あっという間の6月の予選シリーズに続いて、若いコーチ相手のおしゃべりがあったからね。

――今回はまず、東京での会について。日本サッカー史研究会とサロン2002の合同の会でしたね。

賀川:牛木素吉郎さん主宰のサッカー史の会で一度語ってほしいという話があって、キリンカップの対ベルギー戦の午後がいいだろうということで、日本サッカーミュージアムの部屋を借りた。中塚先生、本多さんのサロン2002の会も一緒になって、40~50人くらい集まった。
 テーマは1930年の日本代表チーム。あの第9回極東大会でフィリピンに勝ち(7-2)中華民国と引き分け(3-3)中華民国とともに1位となったときのチームが日本流サッカーの原点というもので、それに至る歴史的背景、ビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンのコーチを受けた鈴木重義監督をはじめ東京高等師範附属中学(旧制)の出身者、神戸一中の出身者、そして直弟子の竹腰重丸さん、さらにはドイツ人捕虜の指導によってレベルアップした広島からの手島志郎、野沢正雄たちといったいわばボールを短くつないで早く攻めるという同じ考えの――いまでいうコンセプトが同じ、かな――プレーヤーによって日本流が生まれたという、私の持論を話した。
 手島、野沢の広島附属―広高―東大組は、神戸一中や東京高師附属といった“都会派”でなく、もう少し骨太のサッカーだったハズだが……。

――反応はどうでしたか。

賀川:どうですかね。選手一人ひとりのプレーや特徴、エピソードなどを聞かせてもらってとてもよかったと言ってくれる人もいた。例によって時間が少なく、熱心な質問にすべて満足ゆく答えを出せたかどうかは別として、参会者のなかには「サッカーのプレーはしていないが社会現象としてのサッカーを勉強し、その日本の歴史を知りたい」という人もおられて、様々な人がサッカーの歴史に興味を持って下さるのだなと思ったものです。

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サッカーという名の戦争

2009/04/15(水)

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『サッカーという名の戦争』(定価1700円)という本が、新潮社から出版された。著者は日本サッカー協会(JFA)の元専務理事・平田竹男(ひらた・たけお)氏。2002年から2006年までJFAの専務理事として日本代表の国際試合を取り仕切ってきた、いわばサッカーという世界最大のスポーツの国際舞台のウラの事情に通じた人が明かす、サッカー外交の裏舞台の話。副題も「日本代表、外交交渉の裏舞台」となっていて、アテネ五輪予選やドイツW杯アジア予選などの試合日程を組んでゆく話が分かりやすく克明に語られている。

 ほとんどの国でその国のメジャースポーツとなっているだけに、サッカーでは各国とも代表の試合に勝とうとし、より有利な日程を組みたいと考えるなかで、公正公平なフォーマットを考え、しかも日本の不利にならないように交渉してゆく過程が見事に描かれていてとても面白い。

――平田竹男さんは大阪の出身でしたね。

賀川:1960年生まれで、小学生(大阪市立新森小路小学校)の頃からボールを蹴っていて、中学校(大阪市立旭東中学校)でサッカー部に入り、府立大手前高校でもずいぶん熱心だったらしい。

――ローマ五輪(1960年)に負けて、日本サッカーがどん底から64年の東京五輪、68年のメキシコ銅メダルへと急成長してゆくときが少年期ですね。

賀川:ご本人に言わせると、サッカーマガジンに私が連載していた「ワールドカップの旅」の愛読者だったらしい。いつだったカナ…JFAでばったり会ったとき、そんな話をしてくれましたヨ。

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今年3月、サインを入れて贈って下さった


――もともとはお役人

賀川:サッカーを通じて世界への興味を持ち、82年に横浜国立大学を卒業すると通商産業省(現・経済産業省)に入り、ハーバード大学のJ.F.ケネディスクールを88年に卒業している。通産省でしっかり仕事をしただけでなく、91年から外務省へ出向してブラジルの日本大使館一等書記官を務めたりしている。

――やり手ですね。

賀川:エネルギー政策なども担当したから、中東やカスピ海諸国にも顔が広い。2002年からJFAに入って専務理事として手腕をふるった。

――川淵三郎キャプテン(当時)の下でですね。

賀川:サッカーが好きで、外国相手のビジネスには手慣れている。言葉もできて交渉ごとはしっかりしているから、いい仕事をたくさんした。
 実務がすごくできるというだけでなく、本当にサッカーが好きだし、サッカーを通じて世界と仲良くし、日本のことを世界に理解してもらおう、日本側もまたサッカーを通して世界を理解してほしいという夢を持っているようだ。

――賀川さんがこれまで書いてきたものと同じ志ですかね。

賀川:2002年W杯開催で日本のサッカーはそれまでとはまた別の広い世界、広い舞台へ出ることになった。2002 FIFA ワールドカップ KOREA/JAPANのおかげで、日本と韓国がぐっと近い国になったのはご存じの通りだが、スポーツ、特にサッカーの交流はとても大事なこと。それを知ってもらうためにも、読んで欲しい一冊でもある。

――JFAを退いたあと、早大の大学院スポーツ科学研究科を創設して、今はその教授ですね。

賀川:あの野球の桑田真澄(元投手)が学生になっているところでしょう。自分でも2004年に東大の工学系研究科の博士課程に入学、勉強して、東大工学博士となっているくらいだから…。その科学的手法をACL(アジアチャンピオンズリーグ)の改革のために用いたりもしたという。ボクたちの時代とは比べものにならないくらいに広がった日本サッカーにとっても、それを内側から見るにも外側から見るにもこの人のような視野は大切だろうネ。

――面白い人ですね。

賀川:この本の中に、そのキャリアも出てくる。そこも楽しい読みものですヨ。

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コーチ歴30年、平田生雄さん逝く

2009/04/08(水)

サッカーのコーチとして長い実績を持つ平田生雄さん(58)が平成21年4月3日に亡くなり、4月4日にお通夜、5日に葬儀告別式が大阪市鶴見区の鶴見斎場で行なわれた。
広島の似島(にのしま)中学、皆実(みなみ)高校、法政大学でサッカーを磨き、日本サッカーリーグ(JSL)の永大産業でプレー、会社の事業不振で1977年にサッカー部が廃部となったあと78年からセルジオ越後の「さわやかサッカー教室」に関わり、JFA(日本サッカー協会)公認の全国巡回教室で日本中の子どもたちにサッカーを教えた。その後も関西を中心に少年指導に力を尽くした。
明るい人柄と親切な指導、楽しい語りは各層のサッカー仲間の心をとらえ、子どもたちにも指導者仲間にも尊敬され愛されたコーチだった。
告別式ではJFAの関西トレーニングセンターの星原隆昭さんが弔辞を捧げ、個人の業績を讃えたほか、多くの仲間が旅立ちを見送った。


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2007年3月24日、キリンチャレンジカップ2007の日本対ペルー戦後に新横浜で、平田生雄さんと。


――平田さんの訃報は、教えを受けた子どもたちやサッカー仲間にショックでしたね。

賀川:1950年6月17日生まれだからまだ58歳――脳腫瘍という難しい病だった。それほど度々会っているわけじゃなかったが、30年来のつき合いだから悲しいね。
 彼はサッカーどころ・広島の出身で、それも似島中学。似島は第1次世界大戦で中国の青島(チンタオ)にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
 平田さんはその似島中学でサッカーを覚えた。その頃その学校の先生でサッカー部長だったのが、かつての日本代表GK渡部英麿(わたなべ・ひでまろ)さん。第2回アジア大会(1954年)の日本代表ですヨ。

――高校は広島皆実でしたね。

賀川:ことし1月、大迫勇也の鹿児島城西に勝って優勝したところだ。

――このブログで、賀川さんが「広島サッカーの厚みを見せつけたチーム」と言っていました

賀川:似島中学、皆実高校でみっちりサッカーを学んだんだろうネ。いわば日本サッカー先進地・広島の筋金入りのサッカー人で、そこから法政大学へ進み、卒業後、永大産業へ入った。

――当時だから、日本サッカーリーグですね。

賀川:法政は早大や慶応などに比べるとサッカー界ではまだ実績は少なかったが、彼が卒業した次か、その次あたりで関東大学リーグで優勝している。上昇期だったのだろう。
 永大産業は大阪に本社があるのだが、山口県の平生町に工場があり、そこに練習施設を持って自ら選手育成からスタートし、74年からJSL1部に入った。平田さんも74、75年のシーズンにDFとして登録され、11試合に出場している。

――ブラジルから選手を受け入れて強化しました。

賀川:大久保賢が監督で創部し、76年からセルジオ越後がコーチとして加わった。ジャイロ・マトス、ジャイール・A・ノバイスという2人のブラジル人が活躍し、75年元旦の天皇杯決勝に進んだのを覚えている。

――その永大が事業不振でサッカーをやめてしまった。

賀川:JSLの77年シーズンに入る前の3月1日に永大側が発表した。72年1月に誕生してから5年で永大のサッカーは終わった。永大産業そのものも78年に倒産(2月)するのだが…。

――なんだか、今の世にも似ています。

賀川:75年から不況が深刻になっていた。その対策に赤字国債を発行するようになって、このとき2兆円だったかな。

――平田さんも辛かったでしょうね。

賀川:好きなサッカーだが、ここから選手生活でなく少年指導の道を選んだ。
 セルジオ越後とともに「さわやかサッカー教室」の実現と実際の運営に努力した。越後という素晴らしいコーチに会ったのが縁だが、この教室の成功には彼の力も大きかったハズだ。私は彼とセルジオが子どもを教える現場を何度か見たよ。

――「さわやか」のあともずーっと指導の現場でしたね。

賀川:彼に指導してほしいというクラブも多くて、関西はもちろん頼まれればどこでも飛んで行ったらしい。

――いつも日に焼けた元気な顔で、お酒も好きで、サッカーの話もとても面白かった…

賀川:仲間にも愛された人柄だが、何よりもサッカーを教えること、語ることが好きだった。本当にサッカー一筋の人生だった。平田さんたちの50年世代は釜本邦茂杉山隆一たち40~45年世代、あの東京・メキシコオリンピック世代より5~6歳若く、いわば国を挙げてのサッカー推進の少しあとだったから、サッカー界は上昇期にあっても、まだ今のように底の厚いときではなかったから、必ずしも恵まれた環境ではなかった。だが平田さんはそういうなかでサッカーのコーチという道を選んで、まっしぐらにそれに突き進んだ人だった。
 ことし1月2日に指導者の中では先輩格の平木隆三さん(元・名古屋グランパスエイト監督、元・JFA技術委員長)が亡くなったが、向こう岸で平木さんたちとサッカー指導の話をしているかもしれないネ。

――ご冥福をお祈りします。

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