ヨーロッパ選手権

バルサ流スペイン 攻撃の本領

2012/07/04(水)

――スペインに対してイタリアがどれだけ抵抗するかと期待していたら、スペインの完勝でした。

賀川:イタリアはドイツとの試合で、まさにイタリア的なゲーム展開で快勝して決勝に残った。スペインはその前の日にポルトガルに苦戦し、0−0のあとPK戦で勝った。その準決勝の勢いがどう決勝に向かうかと思ったら、スペインは教訓として生かし、イタリアは徒労を残したという形になりましたね。

――スペインはいい教訓にした。

賀川:選手たちの気迫がキックオフ直後のランにあらわれていたでしょう。動きの速さが違っていた。たてに出る動きが鋭く、またドリブルを多用した。中盤で短いパスをつないでボールをポゼッションというこれまでの感じからボールを動かしつつどんどん前へ突っかけていった。

――最初の2分間にファウルが2つあったが、ともにスペイン側だった。

賀川:最初はセルヒオ・ラモスがバロテッリを背後から倒した。2つ目は左ライン際のヘディングでシャビ・アロンソがイタリアのアバーテとジャンプヘッドで競り合った時だった。イタリアはファウルも辞さない激しいタックルで知られているが、スペインも昔からこの点ではひけを取らない。その強さを示したね。

――近頃はパスワークに目がいくが

賀川:なにしろ、ディエゴ・マラドーナがバルサに入った時に痛めつけられて半シーズン働けなかったところだからね。そういう激しいリーグで育ったスペイン代表のこの日の覚悟というか、意気込みがこのあたりにもあらわれていた。

――イタリア側へのデモンストレーションでもあったか?

賀川:今日はともかく負けないという気持ちの表れでしょうね。そのキックオフ直後のスペイン側の激しさと前へゆこうという姿勢に、今日はこれまでと違うという感じを受けた。

――最初のシュートはイタリアのピルロでした。

賀川:左サイドに開いたカッサーノのところで何人かが奪い合って、そこから出て来たボールをピルロがシュートしたが、威力はなかった。

――激しく早くがポルトガル戦の教訓のひとつ?

賀川:準決勝でFWにアルバロ・ネグレドを起用してうまくゆかなかった。それまでもワントップかゼロトップかという言い方で、日本の専門家たちも議論していたが、形の問題ではなくプレーの質の問題だと私は思っていた。異質の選手、大型のCFタイプを置くのはいいが、その時もプレーのレベルは同じでないとね。監督さんは、考え直したのだろう。メンバー表ではセスク・ファブレガスをトップに置いているが、彼は戻ってボールを受けるし、サイドへも出てくる。彼のいなくなったスペースへ誰かが入ればいいのだからね。

――バルサへセスク・ファブレガスが帰ってきたとき、何故中盤の選手ばかりそんなに集めるのだろうか…と疑問を持ったものも少なくなかった。

賀川:ちょっと横道にそれるが、これは今度の大会を通じて恐らく誰もが再認識したことのひとつに「サッカーはボールを止めて蹴ること、そしてボールを運ぶ(ドリブル)」の個人技術の高さで決まる…ということでしょう。

――昔からの当たり前の話ですが、スペインはまさにそうでした。

賀川:止める、蹴る、かわす、と、どのレベルでどの高い質で行うかということですよ。スペインの多くのプレーヤーはその技術を持っている。それを発揮するためのランプレーであり、選手の組合わせであり、フォーメーションであるわけです。

――それが一気に吹き出したのが1点目でした

賀川:7分までに25メートルのFKがあり、右CKがあり、スペインのチャンスが増えはじめた。

――イタリアは4DFのラインの前に4人が守る2段構えだったが…

賀川:一見厚く見える守りだが、イニエスタ、シャビ、シルバ、そしてセスクの目まぐるしい動きと両サイドを使った幅広い展開に第2列がちょっととまどったのかな。その最終ラインと第2列の間に入ってくる相手を第2列が戻るのではなくて、最終ラインの誰かがマークしにゆく、そうするとスペインが後方から飛び出してそのスペースへ走り込んでくる。

――日本なら長谷部や遠藤がカバーすることもあるが…

賀川:入ってくる選手がシルバでもイニエスタでもセスクでも、誰でも高速で走り込んで、自分ノところへ来たボールをピタリととめて、自分のものにする。だからタックルに行っても確実に奪えないで、リバウンドのボールが危険地帯に転がる。そこへまたスペイン側がやってくるという形になる。

――10分過ぎにイタリアが攻めたが、モントリーボが倒されてレフェリーボールになって中断した。ちょっとイタリアがたち直したように見えたが、14分にスペインに先制ゴールが生まれた。

賀川:このゴールの発端は
(1)相手のロングボールが直接カシージャスに来て
(2)彼からセルヒオ・ラモスに渡り、ここでひとつパス交換のあと、一気に右へロングパスが出て、
(3)ハーフウェイラインを越えた10メートルのところで右DFのアルベロ・アルベロアに届いた。
(4)アルベロアは内側のシャビに
(5)シャビはターンして、内へドリブルし、イニエスタに短いパスを送る。
(6)中央ゴール正面30メートルで受けたイニエスタはペナルティエリア内へスルーパス
(7)イタリアのキエッリーニの内側を通るパスにセスクが走ってキエッリーニより早くボールを取り、ゴールラインから
(9)中央後方へクロスを送る
(10)このライナーのクロスにシルバが走り込んでヘディング。ボール矢のようにGKブッフォンを抜いてゴールに飛び込んだ。

――左から右への大きなサイドチェンジとその後の細かい縦の動きの後のスルーパスですね。

賀川:横に大きく振った後、短く相手DFラインの前で横にボールを動かして、守る側の足を止めておいて、ボールを注視させる。そしてイニエスタのスルーパスが入る。しかもスルーパスだぞ…という感じで彼独特の「なにげない風」で右足でボールをピシャリと叩いた。コースもスピードも文句なしだった。

――セスクがいい位置にいて、スタートしたからキエッリーニの反応が一瞬遅れて、それが深いところへの食い込みを許した。

賀川:これこそバルサ、スペインの攻撃だった。シャビとイニエスタの2人がゴール正面25メートルでガチガチにマークされずにいたのだからどんなことでも出来るのだが、今回は一番効果的な裏にスペースのあるタイミングを選んだのだろう。もちろんこれは、見ている第3者の後からの解釈で、彼らにとっては「とっさ」の判断ですからね。セスクのスタートもすばらしく、まさに「あうん」の呼吸というところですよ。

――キエッリーニに代わって、イタリアはフェデリコ・バルザレッティ(6番)を入れました。故障のためですね。故障を抱えた選手も何人かいたけども、27分にはクロスのチャンスがありカッサーノがエリア内左からのシュートもあった。

賀川:カッサーノのシュートは惜しかったね。30分頃までイタリアの同点への意欲が見られて試合は緊迫感があってとても面白かった。バロテッリのロングシュートもあった。

――互角の形が続いていたときにスペインの2点目が出た。

賀川:41分のジョルディ・アルバのゴールだった。シャビのスルーパス1本、アルバの長い疾走というシンプルな攻撃で、その発端はカシージャスのロングキックからですね。イタリアが仕掛け、左サイドを攻めたのをスペインが防いだ。シルバが持って出て、シャビに渡すとシャビは自陣35メートルからGKへバックパスした。そしてカシージャスのキックです。

(1)カシージャスは左足のキックで左サイドタッチラインへ蹴った。左に開いていたセスクがハーフウェイライン近くでヘディングして、後方から走り上がるアルバに渡した。
(2)アルバは内側のシャビにパスを送り、シャビがドリブルで進む。イタリアはDFが4人いた。
(3)ドリブルでシャビが進む横をアルバが追い抜き、2人のDFの間を走り抜ける。
(4)その前へシャビからのスルーパスが通った。
(5)アルバはこのボールを左足でニアサイドで流し込むように決めた。

――アルバの長い疾走にシャビのパスがピタリと合った。

賀川:アルバはMFだったのをバレンシアの監督がウイングバックとして起用するようになり、代表でもその攻撃的な能力を期待されていたという。それが決勝のこの場面で生きた。走り勝ってゴールキーパーとの1対1になったときも落ち着いていた。スローを見ると、小さくボールを浮かせるようにキックしゴールキーパーにとられないよう気を配っていた。

――そこへ出て来て何が出来るか、いつも賀川さんが言っていることですね。落ち着いてボールを蹴る技術ですかね。

賀川:このゴールは、そこに到る過程でも、相手の攻めをしのいで互いにほっと一息ついたわずかなスキをつかんだスペインのうまさが光っている。

――賀川:故障車が多いこともあるだろうし、ドイツとの大激戦で疲れていることも(イタリアは中2日、スペインは中3日)あるかもしれないが、筋肉隆々のイタリアDFが軽快に奪取するアルバ、早いモーションで精密なパスを出せるシャビというスペインの小型選手特有の“すばやい”プレーについていけなかったのだろう。

――前半で2−0

賀川:スペインの守備力と全体のキープ力、チームのこの日の調子から見て、勝負あったということですね。

――もちろんサッカーは90分。イタリアのがんばりや、メンバー変更での後半の巻き返しが期待されたのだが…

賀川:日本のイタリア好き、イタリアサポーターには後半は語るにしのびないという感じになるのだが…・

続く

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バルサ流スペイン vs ロナウド・ナニの個性派ポルトガル、技術を高めた北方巨人のドイツ vs 老獪イタリア

2012/06/27(水)

――EURO2012もあっという間にベスト4まで来ました。準々決勝でポルトガルがチェコを1-0、スペインがフランスを2-0、ドイツがギリシャを4-2、イタリアがイングランドを0-0(PK戦4-2)で退けて準決勝へ進んだ。ほぼ予想通りですかね?

賀川:ベスト4の各チームの登録選手を見て、納得されるサッカーファンは多いでしょう。

――スペインがやはり?

賀川:まあ、いま世界のトップのチームだと自他ともに認めているバルセロナからリオネル・メッシ(アルゼンチン)」が抜けているだけという感じでしょう。23人の登録メンバー19人がリーガ・エスパニョーラ、つまりスペインリーグで4人がプレミアリーグ(イングランド)に所属している。

――そうですね。バルサからFWのペドロ、MFのシャビ、イニエスタ、セスク・ファブレガス、セルヒオ・ブスケス、DFのピケ、GKのバルデスの合計7人が参加しています。

賀川:GKはレギュラーで出ているのはレアル・マドリードのカシージャスで彼とともにレアルからMFのシャビ・アロンソとDFのセルヒオ・ラモス、ラウル・アルビオル、ジョルディ・アルバの4人がいて、合計5人がレアル勢、これにリバプールのGKレイナやマンチェスター・シティのフェルナンド・トーレスが加わっている。2008年スイス・オーストリア大会で優勝した時のスペイン代表はバルサが3人、レアルはカシージャスとセルヒオ・ラモスの2人だけだった。

――バルサがスペインサッカーの主流であることを示しています。

賀川:バルサの考え方がスペインに浸透し、選手たちにも影響して、この大会でも選手たちはまるで何年間も同じチームでやってきたようにバルササッカーになっているでしょう。

――得点数はメッシがいない影響ですかね

賀川:個人のキープ力と短いパスのつなぎで圧倒的なボール保有率のスペインの得点が少ないのはひとつには無理やりに攻め込んでシュートまでゆこうとしないこと。アイルランドから4点取ったが、これはまあ力の差、スタイルの違いがゴールにあらわれたものでしょう。なんといっても、ボールをキープ(ポゼッション)する時間帯は相手に攻められないから安全なんですよ。まずその安全の上にたって相手の守りの隙間をつくり広げて、シュートを決めるやり方のようですね。

――バルサ、スペイン流をもっと聞きたいが、他のチームについても話してください。ポルトガルは?

賀川:スペインはスペインリーグの選手が主力。ドイツもブンデスリーガ、がほとんど。イタリアもそうです。しかしポルトガルは自国リーグは8人、スペインリーグが7人のほかにイタリア3人、トルコ2人、イングランド2人、ロシア1人となっています。いわばポルトガル、スペインリーグの選手を主力に合計6カ国のリーグ連合軍ですが、それだけに個性的な質の高い選手が揃っています。

――クリスチャーノ・ロナウドという最高のFWがいます。マンチェスター・ユナイテッドのナニというすごいサイド攻撃のタレントもいる。レアルの3人を含んでいるスペインリーグの7人はバルサ流についてもよく知っているわけですね。

賀川:私は今年のスペインリーグでバルサを倒して優勝したレアル・マドリードの選手たちが久しぶりの大仕事の後で、どれくらい回復するか、いささか心配もしていた。大会の途中からのロナウドの働きを見るとよくなってきているように見えるので、彼を切り札にするポルトガルのスペインへの挑戦はとても面白いでしょう。

――レアルといえば、バルサ戦で貢献したエジルがドイツ代表にいます。

賀川:そのエジルが復調してくればドイツもまたスペインに対していい戦いを仕掛けられるでしょう。

――その前にイタリアとの試合があります。

賀川:ドイツ対イタリアを久々に大舞台で見られるのはサッカーファンにはとてもうれしいことですよ。1970年のワールドカップ準決勝で、若かりしベッケンバウアーたちをファケッティたちのイタリアとの死闘を思い出します。このときはイタリアが勝ち、2006年のワールドカップ準決勝でもイタリアがドイツを2-0で破った。イタリアはこの大会で190センチの長身を3人メンバーに入れるというこれまでにないやり方で成功しチャンピオンとなった。ピルロの活躍はまだ目に残っていますよ。

――そのピルロが今度もイタリアの中心です。

賀川:ベスト4に残った4チームのうち、3チームはピレネー山脈の西南、アルプス山脈の南、つまりヨーロッパの南側の国々で、北側の国はドイツだけです。一般的に北方東北のヨーロッパはゲルマン系、スラブ系で体格は立派です。これまでのユーゴスラビアは別としてボールテクニックよりもスピードを活かそうとする傾向が強かった。その中でドイツとオランダが技術力アップに力を入れ、今度のドイツもスペインほどでなくても、ボールを止める、蹴るの技術は高くなっていて、このイタリア戦でその技術と体力をどのように活かすか楽しみですよ。

――イタリアはイングランドにPK戦で勝ちました。

賀川:イングランドはこの大会でもよくはなかった。プレミアリーグが外国人選手を多く抱えていいチームをつくり出しているが、イングランドの選手の育ちが遅いようです。イタリアにはバロテッリという、これまでほとんどいなかったアフリカ系のFWがいるでしょう。彼の独特のスタイルがドイツを悩ませるのかどうかという個人への興味もあります。シュバインスタイガーの負傷のうわさもきにかかりますが。

――ごひいきのウェイン・ルーニーは1点どまりでした。

賀川:攻撃の組み立てという点ではイングランドはもうひといきだった。それとイタリアの老獪さにてこずったかな。ルーニーのヘディングのチャンスにイタリアの選手はホールディングしておいてジャンプするという時に手を離す。つかんでいるとPKだからね。しかし、その瞬間までのホールディングはルーニーのヘディングにも影響していたようにみえる。そういう際どいイタリアの個々の駆け引きは今度もドイツ側を悩ますかも知れない。

――それもこのクラスのサッカーのひとつですね。

賀川:そうそう。イタリアとイングランドのPK戦だが、どちらもPKはもともと強くはないし、大舞台でも負けている。

――イングランドは特にそうです。

賀川:今度は、そのイングランドがリードした。それを3人目のピルロがゴールキーパーの動きを見て「フワリ」ボールで決めた。このフワリはイタリアを落ち着かせるためだったのかもしれないが、ここから流れが変わって、イングランドに失敗が出てしまう。古代ローマ帝国以来、権謀術数の伝統かもしれない。

――ヨーロッパのサッカーを見る面白味ですね。

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ドイツサッカーの力と精密 バルサ・スペイン流とは別の流儀の進化

2012/06/21(木)

――Bグループでドイツとポルトガルが1、2位となり、オランダとデンマークが敗退しました。強豪が集まり「死のグループ」などと言われたが、オランダは残念ですよ。

賀川:2010年ワールドカップの準優勝国ですからね。デンマークとの初戦を0-1で失ったのが痛い。こういう短期決戦では初戦が重要ですからね。

――ファンペルシーもロッベンも、スナイデルもいたのに、そのオランダを第2戦で破ったドイツはいいようですね。

賀川:そのオランダを相手に2ゴールを奪ったのがゴメス。189センチの長身ストライカーで、彼は対ポルトガルでも右からのクロスにあわせてヘディングを決めた。

――右からの攻めで、ボールが外へ動き、エジルがクロスを送ったのがDFにあたってボールが伸びてCDFペペの背後を狙っていたゴメスの上に来た。

賀川:ゴールエリアの外からだったが、ゴメスのヘディングシュートは右上隅へ飛んで、GKは防げなかった。右から攻め込んでから相手の抵抗にあって、いったん後ろの内側へ戻し、シュバインスタイガーがボールを取った。彼はひと呼吸置いて右外のエジルに渡し、エジルがダイレクトで強いクロスを送った。ゴメスという長身のストライカーに合わせることは当然ポルトガルのDFたちも読んでいたはずだが、ボールがDFの体に触れてちょっと高さが変わってゴメスのところへ飛んだ。

--エジルがダイレクトで蹴ったのがポイント?

賀川:それも強い球をね。クロスを防ぐには、そのキッカーに近いDFがコースに入ること、そして落下点で相手にヘディングさせないことだが、エジルが止めないで蹴ったためにコースに体を持ってゆく間もなくボールが来て体をかすめ、ボールのコースが変わったようにみえた。

--ポルトガルはついてなかった

賀川:クロスがはコースとともにキックのタイミングも大切ということでしょう。86年のワールドカップのフランス対ブラジルで右からのフランスのクロスがブラジルのCDFの体に当たって方向が変わってゴール前に流れ、プラティニが決めたゴールがあった。

--ああ、ブラジルがPKで負けた試合、ジーコもソクラテスもいた。

賀川:次のオランダ戦の2ゴールもパスのタイミングということで、ドイツの連係プレーのうまさに感心した。

--というと。

賀川:2ゴールとも右サイドから攻め込み、シュバインスタイガーがペナルティエリアの10〜15メートルあたりからエリアいっぱい、ゴメスにパスを送った。
(1)右タッチ際からミューラーが中へドリブルして
(2)ゴール正面25メートルあたりにいたシュバインスタイガーにパスを送り自分はそのまま中へ走り込む
(3)シュバインスタイガーの前方はゴールまで広く開いていた。彼はノーマークでボールを止め、右足のインサイドキックで自分の右斜め前方にいるゴメスにパスした
(4)DFの2人の間、ペナルティエリアいっぱいでボールを受けてゴメスは反転して右足でシュートした。
(5)オランダ側のDFはオフサイドトラップをかけそこなったのか、シュバインスタイガーのシュートと感じたのか…

--ゴメスはノーマークでシュートしましたね

賀川:名前のとおり、スペイン人の父とドイツ人の母との間に生まれたこのCFはバイエルンミュンヘンでは得点を重ねているが、代表ではもう一つのびないと言われていた。ベテランのクローゼと比較されるからね。彼はこれで自信をつけただろう。仲間の信頼も深まっただろう。

--シュバインスタイガーとは同じチームですね。

賀川:この日の先発の7人がバイエルンミュンヘンですよ。2点目は右サイドにゴールキーパーからロングボールが飛んで、ミュラーが競り合い前方へ落ちたのをゴメスがタッチ近くで拾ったところからです。
(1)ボール落下点で相手を背にしてボールを止めたゴメスは
(2)タッチライン際、後方にいるエジルにバックパスした
(3)エジルがボールを後方へ動かす間に
(4)ゴメスは内へ走り込み、マーク相手を置き去りにする
(5)エジルが左足で内側15メートル(ゴールラインから25メートル)にいるシュバインスタイガーにパスを送った
(6)シュバインスタイガーは今度はダイレクトでゴメスの前へパスを流し込む
(7)ゴメスは内側からつめてくるヴィレムスより早く右足でシュートをファーポストいっぱいに決めた。

--シュバインスタイガーのダイレクトのサイドキックの正確さですか

賀川:2ゴールともシュバインスタイガーのラストパスだが、この2本のパスを出す時の局面をスロービデオで見るとパスの丁寧なのが見えますよ。頑丈な体で動きの量もすごい。いわばがんばるドイツの代表格のタイプに見えるこの選手のこういう時のプレーやポジションどりの巧みさを見ると、ドイツサッカーのもうひとつの精密さ、技術を大切にするところが見えてきます。

--その意味、今年のドイツは期待できる。

賀川:ドイツ人の特徴である大きさ(190センチ級がチームの半数)とともに、バルサ、スペイン流と違ったサッカーを追求するドイツのこの後が楽しみです。もちろんスペインもイタリアも、そしてクリスチャーノ・ロナウドが調子を取り戻してくれるだろうし、イングランドはルーニーが戻ってくる…と考えれば、ますます楽しいですね、EURO2012は。

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EURO2012は面白い

2012/06/18(月)

――6月8日からはじまったEURO2012、テレビ観戦はいかがですか?

賀川:WOWOWのおかげでヨーロッパ選手権の全試合を見られるのだから、ありがたいし、楽しいね。

――1980年のイタリア集結大会から現地取材をしたのは日本では賀川さんだけでしょう?

賀川:30年前は雑誌社の人だけで新聞社の記者は日本から行っていなかったね。フリーのカメラマンたちの方が、数が多くて私は彼らのバイタリティに感心したものですよ。

――今度はポーランドとウクライナの二カ国開催ですね

賀川:1960年にはじまり、1976年までは準決勝に残った4チームがひとつの国に集まってファイナルトーナメントをしていた。80年からそれが8チームによる大会となり、84年フランス大会、88年西ドイツ大会、92年のスウェーデン大会の後、96年イングランド大会から16チームになった。

――ワールドカップの参加国が増えたように拡大していきました。

賀川:規模が大きくなって2カ国開催も増えた。2000年大会はベルギーとオランダ両国で2008年はスイスとオーストリアで。

――2004年はポルトガルでした。

賀川:ギリシャが優勝という大番狂わせだった。決勝で開催国のポルトガルが敗れ、ここの代表を長く支えてきたフィーゴが、デコが涙を飲んだ。若いクリスチャーノ・ロナウドは高い評価を受けた。

――2008年では、細かくつないでエリア内に攻め込むバルサ流のスペイン代表が優勝し、2010年のワールドカップにも勝って、バルサ・スペインのスタイルが世界中を魅きつけました。

賀川:ヨーロッパではチャンピオンズリーグというクラブによるタイトル争いがある。昔はチャンピオンズカップと言ったが、仕組みを変えてビッグクラブ、強豪クラブの参加が増えて、毎年人気を集めている。選手は国籍に関係なく選ばれる。ブラジル、アルゼンチンなどの南米選手、アフリカのプレーヤーも加わって来て、ハイレベルのチームの上位争いは毎年世界の注目を集めている。

――それでも4年に1回の国の代表の試合も人気がありますね。

賀川:何といっても国という単位でのスポーツの試合は、いまのエンターテインメントのなかでの最高のもののひとつですよ。特にヨーロッパのように国や民族の交流に長い歴史のあるところでは、その歴史的背景も加わって、互いに勝ちたいと思うからね。

――だから各国が大会を招致しようとする。

賀川:ポーランドやウクライナは、西欧からみれば、かつての東欧社会主義の国で、ソ連の崩壊で社会の情勢も変わった。UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)は90年代後半からそういう東欧諸国のサッカーに援助もし、発展を助けてきたのですよ。

――いま、欧州全体が苦しんでいますからね

賀川:そういう危機意識のなかで大会が行われ、多くの人が熱狂するのが面白いところですよ。ギリシャにしても何が起こるかもしれないという情勢のなかで、ギリシャ代表チームがこの大会に出場し、A組の第3戦で大国ロシアを倒して8強入りしたのですからね。

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vol4. ベルギー、オランダ2ヶ国共催で国境なきフットボール

2008/08/05(火)

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左:6月28 日、ブリュッセルでの準決勝試合前のセレモニー。(左) フランス(右) ポルトガル。ピッチには両国国旗
右:ブリュッセルで。74 年西ドイツワールドカップ以来の記者仲間、ドイツに住むルーマニア人のモンテアウ氏と(左は筆者)



FOOTBALL WITHOUT FRONTIER

 サッカーの母国・イングランドでの96年ヨーロッパ選手権大会のスローガンは「FOOTBALL COMES HOME(サッカー故郷へ帰る)」だった。
 4年後のEURO2000のスローガンは「FOOTBALL WITHOUT FRONTIER(フットボールに国境なし)」―ベルギーとオランダの二国共催大会だったから、参加16チームも、サポーターも、ベルギーとオランダのそれぞれの4会場の間を往来した。
 大会は6月10日、ブリュッセルでのベルギー対スウェーデンに始まり、7月2日、ロッテルダムでのフランス対イタリアの決勝で終わった。
 インターネットでの取材申請となったこの大会では、私は、何とか申請して承認を受けながら、それを確認するのが遅れて現地に入ったのは6月24日、アムステルダムでの準々決勝、ポルトガル(A組1位)対トルコ(B組2位)から、10日ばかりの短いEUROとなった。

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左:アレーナの内部。屋根の構造の美しさが新しさを強調している
右:アヤックス・アムステルダムの本拠地、アレーナ。スタジアムの周囲に商業施設があって、ひとつの街の様相


 98年のワールドカップで優勝したフランスをはじめ、イタリア、スペイン、オランダ。ポルトガル、ドイツ、イングランドと、欧州の常連が顔をそろえたが、ドイツは低迷期に入っていて、イングランドもまた不振、1次リーグA組でポルトガル(3勝)ルーマニア(1勝1分け1敗)に上位を奪われ、イングランドは3位(1勝2敗)ドイツ(1分け2敗)はこの組の最下位で大会を去った。
 準決勝はフランス(2-1)ポルトガル、イタリア(0-0、PK3-1)オランダで、決勝はフランスが90分間1-1の後の延長(ゴールデンゴール制を採用)で103分のトレゼゲのゴールで制し、ワールドチャンピオンとEUROの2冠となった。

 短い滞在の中で、アムステルダムのアヤックスFCのホームのモダンな屋根つきスタジアム「ドーム」に驚き、古都ブルージェではチョコレートの名店ゴディバを訪ねた。
 ロッテルダムの決勝では、古くから馴染みの欧州の記者たちの懐旧談(かいきゅうだん)をかわし、フランスの決勝ゴールのときは隣席の大記者、ブライアン・グランヴィルが「カンナバーロがヘディングのミスをした。彼ももう衰えたのかナ」と囁(ささや)いたのを思い出す。
 そのカンナバーロは2006年のワールドカップでジダンのフランスを制して優勝した。ただし今度の大会では彼の負傷による不参加と、ピルロの欠場が準々決勝止まりの理由となった。


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左:EURO2000 準決勝、フランス対ポルトガルのプログラム(6月28 日、ブリュッセル)
右:EURO96 決勝、チェコ対ドイツのプログラム(6月30 日、ウェンブリー)


プロのスリの腕前とストライカー

 この大会で私は生まれて初めて旅行中に荷物を盗まれるという苦い経験をした。
 アムステルダムの中央駅で列車に乗り込んで、日本の記者仲間と顔を合わせ、同じ車輌で荷物を網棚に上げるなどしていたときだった。いつも一人旅で油断はしないのだが、道連れが出来てホッとしたのかも知れない。複数のスリ仲間のようで、一人が私たちに英語で話しかけ、そちらに注意が向いた間に、私の足元、つまり話し手の方へ顔を向けて「視野の外」となった手さげバッグを持っていった。
 5秒ほど遅れて気がついて列車を降りてプラットホームを探したが、彼らの影はなかった。その小カバンの中に航空券と小型のカメラ、そして手帳が入っていた。航空券は再発行してもらい、カメラはまた買えるけれど、手帳にはサッカー史の年代順の書き込みや旅行スケジュールと、そのメモも記入されていた。まことに惜しいことをしてしまった。
 次の日、ロッテルダムの駅の警察に出向いて被害届けを出し、初めての経験だと苦笑いしたが、振り返ってみれば盗みの専門家たちの手口の鮮やかさに改めて感心する。一人に話しかけられて、こちらの気が荷物から離れ、さらに視線も相手の顔に向いてしまう。その一瞬、私の視野の外にあるバッグを、さり気なくさっと持っていった。そのタイミングの妙。
 ストライカーの記事の中にも「相手から消える」という言葉を使う私だが、これは相手の視野からストライカーがいったん消えてボールが来たときに飛び込むのがそれ―――泥棒くんたちがディフェンダーである私の視野から一瞬荷物が消えたときに盗ったところがすごい――相手の虚をつくという攻めのコツを彼らから学ぶことになるとは――EURO2000のとんだ収穫の一つだった。


(月刊サッカー通信BB版 2008年7月号掲載)

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vol3. 母国サッカー界大改革の成果とヨーロッパの一体をかみしめた

2008/07/23(水)

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(左)ウェンブリー・スタジアムでの開会式直前オープニングショー
(右)イングランドの古いクラブの古いスタジアムが、大会の際に立派に改修・新設された。それを賞賛するUEFA のメッセージと各スタジアムの写真

 サッカーの母国イングランドで開催されたEURO96は、大会直前の5月31日に2002年のFIFAワールドカップの日韓共催が決まったこともあって、私にはとても印象の強いヨーロッパ選手権となった。
日本はちょうどバブル経済の頂点から崩壊に向かう時期だったのに対して英国経済は力強く立ち直っていた。そして、イングランドのサッカーもまた、設備の老朽化やフーリガン横行の80年代から大改革をとげていた。

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(左)6月10日、ニューカッスル・ユナイテッドのホーム競技場セント・ジェームズ・パークでのフランス対ルーマニア戦。整列する両チーム
(右)オールド・トラフォードの会場案内板。今はこの当時より、スタジアムが大きくなっている

 あの89年の「ヒルズバラの悲劇」、リバプールのファンが96人も死亡した大事故を調査したテーラー判事の報告書、テーラー・リポートは、「サッカーという最も大衆に愛されているスポーツの観戦という点で、すべてのイングランドの施設は、あまりにも貧弱で、安全性に欠け、快適性からは程遠い。この状態を根本的に解決しなければ、フーリガニズムを排斥し、市民がサッカーを安心して楽しむことは出来ない」として、フットボール・プール(サッカーくじ)の税金の一部をスタジアムの改修・新設にあてることにし、またフーリガン対策にも力を入れた。大会の会場となったアストン・ビラのビラパーク(バーミンガム市)リーズ・ユナイテッドのエランド・ロード(リーズ市)ニューカッスル・ユナイテッドのセント・ジェームズパーク(ニューカッスル市)日本でも超有名なマンチェスター・ユナイテッドのオールド・トラフォード、そしてリバプールのアンフィールド、前記シェフィールドのヒルズバラ、ノッティンガム・フォレストのシティ・グラウンド(ノッティンガム市)、さらに聖地ウェンブリー競技場といった8会場は美しく便利に改装されていた。
 リバプールのホーム、アンフィールドもゴール後方の立見席(コップ)が取り壊され、全てがイス席となっていた。


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(左)メガショップの中は欲しいものがいっぱい。マーク入りの子供用ベッドもあった
(右)マンチェスター・ユナイテッドのホーム、オールド・トラフォードにある記念品販売のメガショップで列を作る観客。お巡りさんも出動

 そうしたスタジアムの改良とともに、ベイ・テレビのB・スカイ・Bによるプレミアリーグの放映権が各クラブに大きな収入をもたらし、その後のイングランド・サッカーの活況(かっきょう)となるのだが、その重要な時期に“本家”を訪れることができたのは、とても有難いチャンスだった。
 そして、それまでの参加8チームから16チームに拡大した大会は、まことにヨーロッパの祭りにふさわしく華やかで、レベルが高く、しかも、激しい中にプレーヤーの節度があって随所にヨーロッパの一体感があり、サッカーの国際試合は現在の地球での最高のエンターテイメントという私の持論を改めてかみしめることができた。
 優勝したのは結局ドイツだったが、彼らが翌日のタイムス紙に全面広告を掲載し、イレブンのフォトとともに快適で立派なスタジアムでプレーできたことを心から感謝するとのお礼の言葉を残した。


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サッカーの母国の聖地ウェンブリー・スタジアムは、この大会のあと大改修工事に入る


(月刊サッカー通信BB版 2008年6月 第2号掲載)

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vol.2 回想ヨーロッパ選手権

2008/07/20(日)

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記者仲間と。左は筆者、中央は大住良之


EURO84 デアバル辞任とシュスター

 EURO84――欧州選手権フランス大会が開催された1984年6月は、第二次大戦の終結への大きなポイントとなった連合軍のノルマンディー上陸の40周年だった。その記念式典に参加するために、かつての軍人とその家族の多くがアメリカから訪れていた。 この年私は10年続けたスポーツ紙の編集局長を退任し、新しい企画会社の社長となった。その会社の企画の一つとして釜本邦茂の引退試合と、芦屋でのロードレース開催を夏と秋に控えていたが、周囲の好意のおかげで、フランスに出向くことが出来た。
 年齢もまだ若く60歳だったから、フランス語不得手というハンデにも関わらず6月11日から7月1日までの大会は楽しいものだった。


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EURO 92のポスター

 西ドイツ代表の調子が上がらず、1次リーグで敗退し、その責任を取ってユップ・デアバル監督が解任された。80年EURO優勝、82年W杯準優勝の実績を上げながら、EUROの1次リーグ敗退の“不成績”で追われる強国の監督の厳しさを見た。80年大会で注目されたベルント・シュスターが、82年でもこの大会でも代表に加わらなかったのがデアバルさんの不運だったが……シュスターはスペインリーグで名を上げたが、代表として国際試合で活躍すればマラドーナと並んで時代の大スターになっていたハズなのに……そのデアバルさんが亡くなり、ベルント・シュスターは今年レアル・マドリードの優勝監督となっている。時の歩みというべきか――。


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EURO 92のプレス用プログラム


EURO92とベルリン・オリンピック

 ミシェル・イダルゴ監督とミシェル・プラティニ、2人のミシェルによるフランス代表の黄金期は、14年後の98年フランス・ワールドカップでの優勝への大きなステップとなった。98年はアフリカ系プレーヤーの大幅な増加という変化はあったが、フランス流の“攻め”のフットボールは変わることはなかった。
 88年の西ドイツ大会は、企画会社の大きな仕事のために取材に行けなかった。マルコ・ファンバステンのあの歴史に残る決勝ボレーシュートをナマで見なかったのは残念――。


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記者席での筆者。手前は後藤健生氏

 92年の開催国スウェーデンは日本に縁の深い国。このときの“ヨーロッパ選手権の旅”(サッカーマガジン連載)を“わがセンチメンタルジャーニー”と名付けたのはベルリン・オリンピック(1936年)でスウェーデンを破った、日本代表の私より少し年長の先輩たちを偲ぶ気持ちからだった。
 ストックホルムの図書館で当時のスウェーデンの新聞を眺め、その敗戦の驚きぶりを見た。飛行機の隣席の若い人、プレスの話、そしてハンス・ヨハンソンUEFA会長。多くのスウェーデン人が世代を超えてこのベルリンの敗戦を記憶していた。日本では知る人が少ないのに――。UEFAの総会取材でヨハンソン会長に1936年のことも調べていると言ったら会長さんは「あの時は大変だった」と手で顔をおおってみせた。
 日本サッカーの歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。

(月刊サッカー通信BB版 2008年6月 第1号掲載)

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vol.1 回想ヨーロッパ選手権

2008/07/17(木)

※先のユーロ(欧州選手権)2008に際し、「月刊サッカー通信BB版」に連載したユーロの回想記です。
 写真とともにお楽しみください。

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80年大会優勝西ドイツ代表チーム。後列(立っている)左から4人目がルンメニゲ(現・バイエルン・ミュンヘン会長)、前列左から2人目はシュスター(現・レアル・マドリード監督)

 今年夏、オーストリアとスイスの2ヶ国の8会場でヨーロッパ選手権(EURO 2008)が開催される。サッカーの“大国”でもなく“強国”でもない両国だが、ヨーロッパの中央部にある景色の美しいこの地での大会を想像するだけでも楽しい思いがする。

 初めてヨーロッパ選手権を取材したのは1980年のイタリア大会だった。
 1960年にはじまった4年に一度のナショナルチームによる欧州ナンバーワンを目指す争いは、ホーム・アンド・アウェーで勝ち残った4チームが1ヶ所に集まっていたのを、この年から地域予選を勝ち抜いた7チームと開催国がイタリアに、集結することになった。
 すでに74年(西ドイツ)78年(アルゼンチン)と2度のワールドカップを経験していたが、欧州の8ヶ国のナショナルチームをまとめて見られるのは何より――と出かけたのだった。
 以来84年フランス大会、92年スウェーデン大会、96年イングランド大会、さらには2000年のベルギー・オランダ共催の大会にも顔を出す仕儀となる。88年の西ドイツ大会はちょうど、私の企画会社の大きな仕事と重なって動きが取れずに見送った。そのため、マルコ・ファンバステン(オランダ)の歴史に残る決勝ボレーシュートを見損なったが・・・・・・。


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EURO80のプレス用プログラム。英、仏、独、伊の4ヶ国語で紹介。表紙に大会マスコットのピノキオと大会のシンボルマークが付けられている

イタリア大会と八百長事件

 80年大会は、当時のイタリアは経済も低調で、日本への国際電話が通じるのにとても時間がかかった。大会直前に明らかになった八百長事件で代表ストライカー、パオロ・ロッシにも疑いがかかって出場停止処分を受けた。開催国としてはまことに不首尾だった。私には新しい西ドイツ代表の監督が、かつて釜本邦茂を指導したユップ・デアバルだったから、いい取材もできた。

 フランス大会は運営もしっかりしていたし、開催国のチームには将軍ミシェル・プラティニをはじめ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナたちがいて、実力を発揮して優勝した。
 ドラガン・ストイコビッチ(ユーゴ)ミカエル・ラウドルップ(デンマーク)エンゾー・シーフォ(ベルギー)などの若い俊才もいた。


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ローマのレストランで取材の仲間たちと乾杯(中央、筆者)

BBCラジオで…

 80年、84年ともに日本からの取材は少なく、フリーランスのカメラマン数人と、サッカーマガジンやイレブンの記者だけだったか――。
 ワールドカップであれば(そのころの日本は本大会には出場していないが)日本にも関係のある大会、ヨーロッパ選手権となると、アジア連盟所属の日本とは直接関係はない。そんなところから、「何故、日本からわざわざ取材に来たのか」とBBC(英国国営放送)のラジオにつかまって取材をされる羽目になった。
「ヨーロッパではサッカーが社会に根付いている。その各国代表が戦う大会は、ある意味からゆけば、ヨーロッパ社会、ヨーロッパの文化をそのままうつしているように私からは見える。」「この大会では、フランス代表が攻撃的なのが面白い。彼らがこのまま勝ち進めば、守備的傾向の強いヨーロッパで大きな刺激となるだろう。だから私はフランスに勝って欲しいと思っている。」などと答えたものだが……果たしてどこまで通じたかどうか……。


イタリア人の心を知るスペルガの丘

 ワールドカップに比べると試合数が少なく、取材日程にも余裕があったから、試合以外にも、見るべきものを見た。トリノのスペルガの丘へ車を走らせ、あのFCトリノの飛行機事故(1949年5月4日)の現場を訪れた。当時のイタリア最強のチームが激突した山腹につくられた碑の前に立ち、その供花がたえることのないと聞いた。犠牲になった選手ひとりひとりの名を読んで子どもに語りかけるおじいさんの姿を目にしながら、イタリア人のいうシンパチコ(相手を思いやる心)とこの国の人とサッカーとの結びつきの強さを知った。

 ブライアン・グランヴィルという英国の大記者との付き合いも“欧州”からだった。イタリア人と同じように早口でイタリア語をしゃべる、背も高くハナも高い彼を知った。
 マンチェスター・ユナイテッドのかつての名選手、デニス・ロウにローマで日本製の手鞠(てまり)を進呈した。彼は“ネバー・シーン(初めて見た)”をくりかえし喜んでくれた。ワールドカップなどでボビー・チャールトンに会うと、彼の方から「デニス・ロウは元気ですヨ」とか「彼の娘がユナイテッドのオフィスにいる」とか声をかけてくれるのはデニス・ロウがボビーに伝えたからかも知れない。


(月刊サッカー通信BB版 5月号掲載)

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