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デットマル・クラーマーを思う

2015/09/24(木)

 9月17日にクラーマーさんが亡くなって、一週間が過ぎた。日本サッカーの恩人である偉大なサッカー指導者の訃報を多くの新聞が報じ、関係者の悼む言葉も掲載された。
 スポーツジャーナリストという立場にある私も、このブログでクラーマーさんの業績について、人柄について、皆さんとともに語り合わなければならないのだが、彼を失ったという心の空白は大きく、しばらくペンを持つことも出来なかった。
 遅すぎる感はあるが、デットマル・クラーマーとの55年間の交流、私にとってもサッカーの師匠であり、得難い友人であった彼との日々を思い、その珠玉の言葉を反すうすることで、クラーマーさんを偲ぶことにしたい。

 デットマル・クラーマーに初めて会ったのは、1960年10月29日、東京オリンピックを4年後に控え、サッカー日本代表強化のため、日本サッカー協会の招きで初来日したときだった。
 その記者会見で、有名になった「ヤマトダマシイ(大和魂)を日本選手に植え付けたい」という話が出たのだが、私にはスピーチの前に壇上に上がった彼が、自分の前に置かれた飲料水のビンを見て「この飲料水は合成飲料でピュアなオレンジジュースではない。体のためには全く役に立たない。プロフェッショナルコーチである私はこういうものは飲まないのです」と言ったのが印象に残った。後から思えばスポーツマンは常に体調管理に心を配るべきだという彼の日ごろの実践が、そのまま口に出たのだろうが…

 幸いなことに、そのころ私は産経新聞の東京本社運動部にいた。東京オリンピックの開催に備えて東京の編集局内でもスポーツの強化が注目され、大阪本社運動部長の木村象雷(しょうらい)さんが東京の部長となり、私もその下で働いていた。クラーマーさんが初来日した1960年の2か月、あるいはその次の1961年も東京にいたおかげで、彼と再三顔を合わせ、日本代表の強化の進み具合や、彼が代表あるいは代表候補を指導する現場を直接見ることができた。
 初来日のころは、彼は公式にはドイツ語で語っていた。私が「学生時代にドイツ語の勉強を怠ったために、あなたと十分話ができないのが残念」というと、クラーマーさんも「私ももっと英語を自由にしゃべれるといいのだが…」と言っていた。翌年に再来日したときは、彼は見違えるほど英語が上手になっていた。「英語で語った方が、日本選手には(ドイツ語より)はるかに有効だ」と考えて、英語の勉強をやり直したと言っていた。

 1925年4月4日生まれで、初来日のころは35歳、私は彼より3か月早く生まれ(1924年12月29日)ていて、ほぼ同年齢だった。ともに戦中派で、彼はパラシュート部隊でクレタ島やサハラ砂漠などでの戦いを経験し、私は陸軍のパイロットで互いに軍隊経験もあり、話も合った。
 東京オリンピックでのアルゼンチン戦で1勝をあげるまでの4年間の代表の努力とクラーマーの指導のうまさについては、私は何度も書き、またその4年後のメキシコオリンピック銅メダル獲得にも、彼の直接間接の指導やアドバイスがあったことはよく知られている。

 日本代表の成長と、日本サッカー界全般の向上は、クラーマーの卓見と、彼の直弟子、長沼健(故人、第8代日本サッカー協会会長)、岡野俊一郎(第9代日本サッカー協会会長)たちをはじめとする多くのサッカー人の努力の賜物だが、「メキシコ」以降も私とクラーマーさんとの交流は続き、74年の西ドイツワールドカップ取材以来、ワールドカップの際に現地で彼の話を聞き、日本の雑誌に掲載するのが慣例になった時期もあった。
 面白いのは、いつも会うたびに彼が最初に言う言葉は「トゥルーフレンドが来た」だった。ミュンヘンでも、九州でもそう言った。2006年のドイツワールドカップで彼の家を訪ねた時も、そう言った。74年大会の時もそうだった。
 それは1961年に日本代表が東京での日韓戦(63年ワールドカップチリ大会アジア予選)で敗れた日に、私が本郷の合宿所を訪れた時の話に由来している。ケーキの箱をぶら下げて部屋へ行くと、高橋英辰監督や選手たちとともに、フトンの上でごろ寝をしていたクラーマーが私の顔を見て言った。「トゥルーフレンドが来た。ドイツでも勝った時にはたくさん人が来るが、負けると来ない。負けた時に来てくれる人こそ真の友人(トゥルーフレンド)なのだ」
 初来日以来の努力にもかかわらず、なかなか代表強化の成果の見えないころだったから、彼には心に残ったのだろう。

 私にとっては、年齢は少し若くても、デットマル・クラーマーは1954年のワールドカップ優勝以来、長く世界のトップに立っていたドイツサッカーのトップコーチであり、FIFAのコーチとして世界90か国で指導した“世界”のコーチだった。いつも豊富な話題の持ち主であり、サッカーの技術、戦術史の生きたテキストでもあったから、彼と会った後はいつも頭がすっきりし、心が大きく膨れるのだった。

 今年1月12日に私はFIFA会長賞受賞ために、チューリヒに招待された。クラーマーさんの病状がよくない、と聞いていたので、ぜひ見舞にゆきたいとFIFAにスケジュールの調整を頼んで、授賞式の後、オーストリアとの国境に近い彼の自宅を訪れた。
 久しぶりの再会に喜び、FIFA会長賞のお祝いを言ってくれたが、その後で自分はもう長くないから、ここにあるアルバムを日本に持って帰ってほしい、と言うので「4月4日にはあなたの90歳の誕生日が来る。私も昨年12月に90歳になったところだ。元気になって90歳の2人のトークショーを日本でしようじゃないか」と言った。彼は「じゃあ、4月までがんばる」と言い、二人の90歳を約して別れたのだった。

 4月にバイエルン・ミュンヘンFCが90歳の誕生日を祝ったと聞いた。そして9月に訃報が届いた。
 折にふれて、デットマル・クラーマーとの日々と、彼の珠玉の言葉を書き残してゆきたいと思っている。

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2002年に神戸で行われたトークイベント

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 クラマーさんとご一緒の写真を拝見して、クラマーさんの着ていらっしゃるシャツに驚きました。この同じシャツを着たクラマーさんと私は1994年8月23日にSportschule Oberhachingで偶然お目にかかり、一緒に写真に収まって頂いたことがあるからです。私のホームページにクラマーさんの記事とそのときの写真がありますので、是非お時間のあるときにご覧ください。
 このシャツは、きっとクラマーさんのお気に入りの品だったのだと思います。それにしても、少なくとも21年間着続けたということは、いかにもクラマーさんらしいのではないかとも感じます。きっと青が好きな色だったのではないでしょうか。クラマーさんと会ったとき、3回とも青い服を着ていらっしゃったので。
 今後も賀川さんのクラマーさんとの思い出話、このブログで拝読できることを心から楽しみにしています。

投稿: 坂本 健二 | 2015年9月25日 (金) 16時31分

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