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2015年1月

90歳の冬の旅 〜 舞台に上がりFIFA会長賞を

2015/01/29(木)

ベストイレブン(2人欠席)の表彰を受けた9人が私の目の前の階段を降りて行くのを見て、ぼつぼつ私の出番かな、と思っていたら、女子のワールドプレーヤーオブザイヤー候補の映像が映し出された。

ドイツのナディーネ・ケスラー、25歳のボルフスブルクのプレーヤーで、クラブのドイツ女子ブンデスリーガ優勝と欧州チャンピオンズリーグ優勝に貢献、ドイツ女子代表でも活躍していて、すでに2013-14のUEFA(欧州連盟)女子ベストプレーヤーなどに輝いている。彼女のゴールシーンを何度か見せ、あわせて今回も候補に挙がっているブラジルのマルタとアメリカのワンバックの姿も映し出された。不勉強であまりケスラーに馴染みのない私はプレーの画面に引き込まれ、彼女の右足アウトサイドでのシュート場面では私の少年時代のアウトサイドでのゴールを思い出したりした。

そんな、いささか私の余分な脳の動きに「かまけ」て壇上にFIFA会長のブラッターさんが登場するのをなんとなく眺めていた。
(ここで、さあボクの出番と気付くべきなのに…)

ぼくのことだと気がついたのは、ブラッター会長のプレジデンタル・アワードという言葉を聞いてからだった。会長が私の名を呼んだので、つい立ち上がってしまい、ブラッターさんがまだ早いと手で制したようだった。映像を見せるので、そのあと檀上に上がれということでしばらく自分の写っている画面を見る。前日にビデオ撮りしたもので、日本語でインタビューし、日本女性の通訳で構成してくれることになっていたが、画面と私の語りが全く合っていない。各国語で聞く場内の皆さんはどんな感じかな、と思ったりした。不満はないではないが、クライフやマラドーナやルムメニゲやケンペスなどを見れば、日本にもいろいろなスターが来たこともわかってくれるだろうと思っているうちに、こちらが舞台へ上がることになった。出番までの時間が予想外に長かったので、少し疲れていたのか、杖をついて階段を上がるとき、一度杖が空を突いた。ブラッターさんがやんわりと迎えてくれて「重いですよ」と言いながら会長賞のトロフィーを渡してくれた。受け取ったが、ほんとうに重くて、上にかざすわけにはゆかず、すぐに台に戻すと、ひとこととアブドさんに言われ、英語でお礼を言った。

原稿は私が日本語で書き、自分で作るよりも、と若いサッカー仲間のひとり、ベン・メイブリーという英国人に英文にしてもらった。オックスフォード大学出身の彼の英語はさすがにしっかりしていたが、はじめに作ったのは5分以上になりそうなので、どんどん縮めて、お礼の言葉と、1979年に初めてブラッターさんに会ったこと、そしてちょっとしたジョークだけにした。

世話役のブラウンさんが、その文章をバロンドールの台紙に貼り付けてくれたのだが、多分檀上ではライトなどの関係で字が読めないかもしれないと予想し、中学生のころのように暗唱できるまで練習した。もともと声の通りがどうかと心配していたのが、マイクが立派なのか、わり合いに自分の耳にもいい声に聞こえて安心した。

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©KaiSawabe

スピーチ原稿オリジナル版(日本語)
スピーチ原稿オリジナル版(英語)

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90歳の冬の旅 〜プスカシュ賞とベスト・イレブン

2015/01/22(木)

最初はプスカシュ賞、1950年代から60年代にかけてハンガリー代表とレアル・マドリードで活躍したストライカー、私もこの選手のことはたびたび書いた。今も彼の「キャプテン・オブ・ハンガリー」(英語版)は大事に持っている。そしてその表紙裏に彼のサインをもらったのは彼がハンガリーのクラブチームとともに来日したときだったと思いおこした。

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そのストライカーを記念しての2014年のグレイテスト・ゴールで、みごとなゴール10シーンが画面に映し出され、その中から3ゴールを候補にノミネートしたという。

アイルランドのステファニー・ロッシとハメス・ロドリゲスとファン・ペルシ。後者2人はともにブラジルワールドカップのゴールで、ロドリゲスは対ウルグアイ戦の反転左足ボレー、ファン・ペルシはスペイン戦での左後方からのロングボールをダイビングヘッドでGKの上を抜いたもの。日本のファンにも私にも強い印象が残っている。

女子のステファニーのシュートも、ゴールを背にしてのフェイクからの反転ボレー、左足のシュートだった。いまさら不勉強を思い知らされるとともに、こういう女性のシューターもいたかと感嘆する。

グレイテスト・ゴールに選ばれたのは、ハメス・ロドリゲスだった。いまレアル・マドリードでプレーしているこのハンサムなコロンビア人には、ブラジル・ワールドカップで日本代表は痛い目にあわされた。

日本選手といえば、候補となった10人のゴールのなかにはJリーグの佐藤寿人(広島)の対川崎戦でのボレーシュートもあった。自宅にもどってからWOWOWの録画を見直すと、候補にあがったシュートの多くがボレーシュートだった。ゴールキーパーにはボレーシュートは読みにくく、とりにくいが、見た目にも華やかであるから選んでいるうちにそうなったのか…あるいは選者の好みなのか?


イタリアのファンにはたまらないデル・ピエロが登壇した。ベスト・イレブンの表彰のプレゼンターらしい(彼はあとで私に挨拶してくれた)。

アブドさんがGK、4人のDF、MFの3人、FWの3人を次々に紹介する。紹介の言葉の端々に彼女のサッカーの精通ぶりが表れている。
DFの2人が欠席、FWがロナウドとメッシと、オランダのロッベンだった。いまFWではロナウドとメッシの別格ぶりはあらためて浮き彫りになる。

それにしてもいつもヒゲ面のセルヒオ・ラモスが同じヒゲをつけての登場だが、こういう舞台の上でもスマートな紳士ぶりに、やはりヨーロッパの男だなと思ってしまう。

考えてみれば、90歳まで生きたおかげでペレやヨハン・クライフやフランツ・ベッケンバウアー、マラドーナなどを見て、あとでメッシやロナウドを見ることができるのだから、長生きも悪くはないなどと感慨がよぎった。

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90歳の冬の旅 〜 長身美人の司会で

2015/01/21(水)

式の始まる前にロナウドがやってきて席についた。
カメラマンが殺到してシャッターを切り始める。
「3人のノミネートだが、クリスチアーノ・ロナウドに決まったのかな。メッシやノイアーでなく、彼にこれだけカメラが集中するのは」と思う。こちらはそれですむが、会場係はそうはいかない。これからFIFA会長が入場し、最前列中央席に座るのだが、カメラの群れで通路がない。もう撮影はストップですと叫んでも、ロナウドの表情を撮ろうと懸命な彼らは動こうとしない。業を煮やした女性の会場係がしゃがみこむカメラマンを突き飛ばすという一幕もあって通路が開けてブラッターさんがようやく着席し、バロンドール表彰のショーが始まった。

司会はKATE ABDO(ケイト・アブド)さん、バロンドールの司会は初めて(昨年は別の人だった)だが、現在、英国スカイテレビのスポーツニュース番組のホストをつとめヨーロッパ・サッカーの放送にも顔を出している。英国育ち、ドイツのテレビで仕事をはじめ、ロンドンやアトランタで経歴を重ねてきたと言う。ヨーロッパのアナウンサーらしくFIFAの公用語も自在と見える。長身で、前日のリハーサルのときもこちらは見上げるのに大変だった。

そのアブドさんが次々に紹介し、こなしてゆく授賞式はWOWOWで日本でもご覧になった方は多いはず。むしろ、テレビでご覧になった皆さんの方が馴れない表彰者席にいた私よりもバロンドール全体を楽しまれたかも知れないし、式の流れもよく覚えておられるかも知れない。いまさら繰り返すまでもないのだろうが、私自身の記憶のためにも、もう一度、表彰式を思い出してみることにしよう。

さきほどのアブドさん、美人の司会者がこの式では8つの賞があるが、まずはバロンドール(本来は男子の2014年最優秀選手賞だが、ここでは女子も同一にして)にノミネートされた3人ずつの登壇を告げた。

クリスチアーノ・ロナウドとナディーネ・ケスラー(ドイツ、ヴォルフスブルグ)、ついでメッシとマルタ(ブラジル、スウェーデンリーグ・ローゼンゴード)、最後にノイアーとアビー・ワンバック(USA、ウェスタン・ニューヨーク・フラッシュFC)が現れた。
女子として大型のワンバックもノイアーと並ぶとかわいく見える。
もともと美人だから――

簡単な紹介で6人が席に戻るといよいよ授賞式が始まる。

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90歳の冬の旅 〜 赤ジュータンを通って最前列席へ

2015/01/19(月)

1月15日、エミレーツ航空は無事に私と本多さんを関空まで運んでくれました。本来ならすぐにブログの続きを始めるところを、帰国するとテレビの取材などで机に向かうのが遅れて申し訳ありません。

帰って、我が家の録画を見直していました。WOWOWで式の模様を全て放送してくれたのは、まことに有難いことです。では、バロンドール授賞式本番の回想です。


FIFA BALLON D'OR 2014(FIFAバロンドール2014)は2015年1月12日午後6時15分からはじまることになっていた。

チューリヒ湖に面した私たちのホテル、ボーオーラック(Baur au Lac)から車で5分もかからぬところに、会場のコングレスハウスがある。午後4時45分にホテルロビーで会長秘書のブラウンさんと待ち合わせて、日曜日からずっと私のためにあてがわれている車で会場に着く。会場の前はすでにたくさんのファンがスター選手を見よう、サインをもらおうと待ちかまえていた。

彼らスター選手たちより前に到着した私にも声をかける少年たちもいた。レッドカーペットを通って入って行くのだが、左側を通ってくれと言われていたのが、ついついいつものクセで(スターを待ち構える側にいる職業病というのか)、スターたちとは別に右側の通路を通ってしまい、エントランスのところで待ち構えていたサワベカメラマンに呼び止められ、一枚パチリ。

ぞくぞくとスター選手が入ってくる様子をロビーで眺めていると澤穂希さんが入ってきて、アメリカのワンバックやブラジルのマルタといっしょになった。英語でスピーチすると言ったら、彼女は驚いた顔をした。

適当なイスに座ると、目の前にイニエスタがいた。好きな選手のひとりだから、さっそく自己紹介をした。ちょっと私の英語が聞き取れなかったのか怪訝そうな顔だったが、やがてテレビであなたのプレーを見ていつも感心していると言うとニコっとした。

最前列ですから込み合わないうちに席についてくださいとブラウン氏に促された。席についてみると、なるほど一番前で、すぐ右隣がFIFPro(国際プロサッカー選手会)の役員、その右がプラティニ、そしてその隣がブラッター会長夫妻となっていた。

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90歳の冬の旅 〜 ブラッター会長との再会

2015/01/16(金)

2015年1月11日から15日までのチューリヒゆきの短い旅を90歳の冬の旅として書いている。往路の途中に書きはじめたが、さすがにチューリヒでの行事の間には時間がなく、2本目以降は帰路の途中や空港で、それも原稿用紙でなく、小さなメモ用紙に記し、それを本多さんがPCに打ち込んでくれている。

この稿は帰路のドバイ〜関空の機内で、一眠りしたあと書きはじめた。目を覚ましてすぐ、というわけでなかったのは、例によって座席前のカメラの航路図、インドの南部を経て、ミャンマーを通り、中国南部を飛ぶことを知って、窓を小さく開け(睡眠中の旅客を邪魔しないように)大地をながめていたからだった。往路と違って雲がなく、インドや中国の大地を高空から見たのは、それこそ90年の人生で初めて。すっかり興奮したものだ。

さて、11日、FIFA会長秘書のブラウン氏とともに、指定のスケジュールに従い、コングレスホール(Kongresshaus)でのリハーサルやビデオ撮りなどをこなし、夜はカイ・サワベさん、根本いづみさんたちとにぎやかに食事をして、ホテルでベッドについた。Baur au Lacはチューリヒ湖畔にある格式のあるホテル。久しぶりでヨーロッパの気分を思い出し、味わう滞在となった。

1月12日の式典の当日は午前中に時間があるので、FCチューリヒのクラブ事務所を訪問することになる。私にはスイスのクラブと言えば、グラスホッパーの名が親しい。1936年のベルリンオリンピック代表が大会後にここで試合し、初のナイター、照明下の試合を経験した。1964年の日本代表は欧州での試合のしめくくりで戦い快勝。現地の新聞は日本代表の方が現代的なサッカーをしたと讃辞、長沼健監督以下、チーム全員が東京オリンピックへの自身を深めた。

FCチューリヒの事務所はスタジアムとは別に市内にあって、ガラス張りの明るく広い部屋でゆったりと仕事をしていた。人口の少ないこの地で2万人の観客が来るというからたいしたものだ。スイスリーグは世界各国から選手が来るようになってレベルアップ。欧州のトップクラブを目指す若者たちにはここでいいプレーを見せることが将来を開く道になる。スイス代表はワールドカップでもなかなかのものだが、その基盤となるリーグの各クラブもしっかりしているのだろう。クラブの歴史を記した一冊を賀川文庫へ頂戴したが、その立派なこと。JFAの出した75周年史に匹敵する大きさと重さで、ここでも歴史を重んじるヨーロッパを見た。

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12時すぎからHOME OF FIFAでブラッター会長にお目にかかる。会長応接室で待つ間に4人にもブラウン氏にも緊張が漂ったが、部屋に入ってきたブラッターさんは昔からの気さくな調子。

「ミスターカガワに会長賞を贈ることが出来るのは、とても光栄なことだ」

と言われると、「まことに有り難いこと」と言うほかない。

私がブラッター会長に初めて会ったのは、1979年の第2回ワールドユース大会が日本で開催されたとき。この人がFIFA職員で、大会の責任者として来日したからだ。その古い話に及ぶと、例によって驚くべき記憶力を発揮し、この大会を仕掛けた電通の担当者の名前までひっぱりだしていた。

楽しい時間はあっという間に過ぎて、授賞式で会いましょうと別れ、HOME OF FIFAを見学。ホテルで休息の後、いよいよ本番のコングレスハウスへ。

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90歳の冬の旅 〜 ドバイへ向かう機中で授賞式を振り返る

2015/01/16(金)

2015年1月14日14時、私と本多さんはドバイへ向かうエミレーツ航空機に搭乗している。いま、アナウンスがあって、機は離陸の体勢に入った。すぐに離陸し脚が引っ込んだ音がした。5時間15分の飛行がはじまった。

ともかくも式に出席し、FIFAのブラッター会長と面談の時間を持ち、クラマーにも会った。旅の日程をこなして、あとはこの機がドバイ空港へ運んでくれるだけだとちょっと安心する。そしてチューリヒに着いてからの11~12日の忙しさを振り返る。


チューリヒ空港に着くと出迎えが待っていた。空港の担当者の人たち、ひとりは日本の女性でスイスに長年住んでおられるとか。一般客とは別の出口から入国検査などもすませると、大きなスーツケースはすでに別の係の人が受け取ってくれていた。2人の係員に見送られて外に出ると、今回の旅に付き添ってくれるシャペロンのエドワード・ブラウンさんが待っていた。本多さんとは何度もメールでやり取りをしていたが、顔を合わせるのはもちろん初めて。ブラッター会長の秘書のひとりだという。

案内されたホテルは、ボーオーラック(Baur au Lac)。フランス語でLACは湖だから、チューリヒ湖のそばにある高級ホテル。バロンドールの候補プレーヤーたちは同宿ではなく、どうやらFIFAの理事さんたちが泊まっているらしい。

まず、それまでメールでやり取りしたスケジュールの再確認。この日は会長との面談はなく、次の日に。午後4時から当日のショーのリハーサルと、式で私を紹介するビデオの撮影をするという。本多さんが送信しておいた何枚かの写真、19歳のマラドーナと1979年に写したもの、ヨハン・クライフにインタビューした時に撮ったものなどを盛り込んだ、賀川浩紹介ビデオというのだろう。

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式場となるコングレスハウスでの私のリハーサルは、私の名が呼ばれ、壇上へ上がり、会長からのトロフィーを受ける仕草をして、そのトロフィーを置いて、用意したスピーチをし、舞台から降りる。その階段はわずか5段くらいだが、照明の関係で高さがわからず、杖をついてゆっくり上がり降りする。スピーチは日本語で考え、友人の英国人ベン・メイブリー(オックスフォード大卒)に英訳してもらったが、思いのほか長いので、ごく簡単にした。リハーサルの1回目でトチって、2回目が終わると、ディレクターが拍手してくれて、あとは当日ということになった。

夜は日本からやってきた根本いづみさん、ドイツからやってきたカイ・サワベさんとの夕食会とした。根本さんはかつて私のところで、秘書兼物書き修行をしてくれ、今は古くからの友人の小林澄生さんのフロムワンにいる。2人が当日会場に入るのは難しそうだったが、ブラウン氏のかけ合いでOKとなった。

チューリヒに来た。式のリハーサルもした。お礼のコメントもJFAにもFIFAにも既に送って見てもらい、OKとなっている。あとは私がちゃんと1分半ほどのスピーチをこなし、階段を踏み外さないようにするだけとなった。

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【お知らせ】番組出演の予定

2015/01/16(金)

昨日、関空より無事に帰国いたしました。
皆様のご協力ありがとうございます。

早速いくつかの取材の依頼をいただいており、本日は17日放送の以下の番組の取材を予定しています。

フジテレビ
めざましどようび
朝6時〜

TBS
情報7days ニュースキャスター
夜10時〜

※都合により放送内容が変更になる場合があります。ご了承ください。


Unnamed


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90歳の冬の旅 〜 衣装合わせ

2015/01/15(木)

数々の不朽の名作を残したフランツ・シューベルトが歌曲集「冬の旅」をつくったのが、28歳の若さだった。彼はその後、10年ほどで若い一生を終えてしまった。その冬の旅のタイトルを勝手に使わせてもらうのはいささか申し訳ないが、こちらの冬の旅は、まさに人生の冬の時期にかかっている我が身のことを言いたかっただけのこと。それにしても、戦中派の私たちには神戸一中から神戸商大予科(現神戸大学)に入ったころは音楽映画の新作・旧作が三宮の映画館で上映され、私たちは「ベートーベンの生活」や「シューベルト」などを見て涙したものだった。

感受性の強い十代後半の若者たちは、耳の聞こえなくなった偉大な音楽家については岩波新書で熟読したが、シューベルトの映画は質屋に金を借りにきたシューベルトの顔が現れるところから、未完成交響曲の未完の章とともに、「わが生涯に悔ゆることなし」の字幕に続けて、しばらく仲間たちも涙が止まらなかったことを覚えている。

私の周辺の仲間たちには気を使わせることになった。神戸市中央図書館の賀川文庫の仲間は言う。
1)FIFAの授賞式だから、もちろん参加費用はFIFA持ちですね (その通り)
2)これまでのバロンドールの授賞式を見ると、受賞者はタキシードを来ていた。賀川さんは衣装を持っているのですか。

服装については、とりあえず一番最近につくった英國屋製がある。ただし、つくったころに比べると細くなった(特にお尻の肉が落ちてしまった)体にはパンツがダブついて見える。そんな話をたまたま根本いづみさんにしたら、彼女から神戸FCの喜田さんに伝わった。喜田さんはパーティで、まるで「吉本」とサッカー仲間で言われているが、本来はテーラーで「それなら私に任せろ」ときた。日がないからと飛んできて、寸法合わせをしたついでに、この服もいいが、もう少し黒っぽいので賀川さんと同じサイズのがありますよ、という。喜田さんはぼくよりも大きいサイズのはずだが、そこは本職で出発直前にお祖父さんが来ていたオーバーも着てくださいと――昔作ったカシミアのオーバーの袖が痛んだままなので、それも借用となり、とりあえず衣装の準備はテーラー喜田のおかげで完了。ネクタイは芦屋市サッカー協会、体育協会会長の西田俊一さんのお見立てのプレゼントをそのまま着用することにした。

出発前日の自宅での衣装合わせはプロフェッショナル喜田さんのOKで終了した。

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90歳の冬の旅 〜 エミレーツ機中での夢想

2015/01/14(水)

今、1月14日11時、ミュンヘン空港にいます。

1月10日に関空を発ち、中東のドバイ経由で11日の昼にチューリヒに着き、そこから12日のFIFAバロンドールの授賞式に出席し、13日に畏友のデットマール・クラマーを訪問。その後は、ミュンヘンに泊まり、14日ミュンヘン発のエミレーツ航空で関空に向かう、その予定の最後の部分で、搭乗前の時間を利用して、この稿を書いています。冬の旅の書きはじめは、たしか往路のドバイまででした。そのドバイからチューリヒまでも、誠に快適な飛行で、座席の前のテレビで航路の表示を眺めて、ひとりで悦に入っていました。

ドバイ空港は初めてだったが、石油の国の豊かさだけでなく、現代の航空路での欧州とアジア、アフリカの中継地としてのこの空港のスケールを改めて知りました。トルコのイスタンブールを右下に(といっても、雲の下で何も見えませんが)、ソフィアの上空を経て、チューリヒに向かう機中で、74年のワールドカップを初めて見て以来、いつかはイスタンブールでボスポラス海峡を見下ろすどこかで、トルココーヒーを飲みながらヨーロッパとアジア、そしてヨーロッパとアジアのサッカーを語り合いたいと思っていたのだが、ついに果たすことなく90歳を迎えたことを思いました。今の仲間となった本多克己さんの弟の彰さん(神戸高校サッカー部だから私の後輩になる)がボスポラス海峡のトンネル工事の設計にかかわったという人の縁も、不思議なもの。

ソフィア上空ではサッカー狂の仲間たちとドナウ河を東から船で旅し、ドナウ流域のサッカーのクラブや国際試合を味わい、さらにライン河を今度は下って、ドイツ、フランス、オランダなどのフットボールを眺めるという旅を夢想したことを思い出していた。

それは、1960年にクラマーがやってきて、ハンガリーのサッカーを語ったとき、ウィーンのワルツのようなドナウのサッカーという彼の言葉の魔術に打たれたからでもあった。その願望がワールドカップだけでなく、ヨーロッパ選手権への連続取材になったのかもしれない。

そんな、ぼくの夢想に魅かれて若い人たちがサッカー記者に憧れた、とは大記者・大住良之の言い分だが…

11日にチューリヒに着くと、そんな追憶は消し飛んで、FIFAのスケジュールに組み込まれてしまった。ここからはブラッター会長の客として、会長秘書のエドワード・ブラウンというイギリス生まれのスタッフが組んでくれた予定にあわせて、ひとつひとつの授賞式の準備、リハーサルをこなし、翌日の12日朝にブラッター会長との久しぶりのミーティングが待っていた。

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バロンドール授賞式スピーチ 最終稿(英語)

2015/01/13(火)

みなさまのおかげで、無事にバロンドール授賞式会場で、FIFA会長賞を受賞することができました。
当日のスピーチの原稿です。

FIFA President Mr. Blatter, ladies and gentlemen.
I am very proud to be able to attend this wonderful ceremony for the FIFA Ballon d’Or.
It is simply the greatest honour to be presented with the prestigious FIFA Presidential Award.

In 1979, Mr. Blatter was part of the FIFA organising committee at the second FIFA World Youth Championship in Japan, where 19-year-old Diego Maradona played.

Unfortunately, my English has not made any progress since that tournament, so I was a little bit hesitant about actually coming to the ceremony today. But my young friends in Japan were very encouraging and said I must come – if only to meet Manuel Neuer, Cristiano Ronaldo, and Lionel Messi. They told me not to forget to bring them back some autographs.

Thank you very much.
ARIGATO

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バロンドール授賞式スピーチ オリジナル版(英語)

2015/01/13(火)

Mr. Blatter, ladies and gentlemen.
I am very proud to be able to attend this wonderful annual ceremony for the FIFA Ballon d’Or.
It is simply the greatest honour to be presented with the prestigious FIFA Presidential Award.

It came as a great surprise to me when I received the message from Mr. Blatter last December informing me about this prize.

I have been writing for the past 62 years as a journalist for sports – and above all football. I have covered ten different World Cups in person, from the 1974 Finals in West Germany to the Brazil World Cup last year, and my articles have filled many pages in newspapers and magazines. But although I am somewhat proud of their volume and contents, the truth is that everything I have ever written has been for a Japanese audience, and in the Japanese language. My work has not been read around the world. And so compared to some of the globally renowned football journalists I have befriended over my career, I am little more than a local writer for Japan.

When I received the message, I wondered why FIFA would seek to honour a single journalist from the Far East with the Presidential Award. I came to the conclusion that Mr. Blatter must have recognised the media’s contribution to Japanese football’s rapid growth over the past few years, and decided to offer the prize to me as the oldest surviving member of the Japanese football press.

Japanese football actually has a long history, with the JFA in existence for 94 years since its foundation in 1921. During this time, many excellent journalists have gone before me, and various television pundits have served as pioneers for our sport. There were several other fine writers in my generation, and even today, I have friends who continue to travel to the World Cup Finals beyond the age of 80.

To these friends, and to the ever-increasing ranks of younger journalists in the Japanese media, I would like to stress that my receiving this great honour as the oldest football journalist in Japan shows how much importance FIFA places in the media.

In 1979, Mr. Blatter was part of the FIFA organising committee at the second FIFA World Youth Championship in Japan, where a 19-year-old Diego Maradona played a starring role. I remember that there was no French interpreter at the press conferences for the FIFA President, João Havelange. So Mr. Blatter would translate his French into English, which I then translated into Japanese for the local journalists. Ever since, Mr. Blatter has always been very favourable towards Japanese football, and I would like to express to him my deep gratitude for his longstanding support.

Unfortunately, my English has not made any progress since that tournament, so I was a little bit hesitant about actually coming to the ceremony today. But my young colleagues in Japan were very encouraging and said I must come – if only to meet Manuel Neuer, Cristiano Ronaldo, and Lionel Messi. They told me not to forget to bring them back some autographs.

Thank you very much.

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バロンドール授賞式スピーチ オリジナル版

2015/01/13(火)

ブラッター会長、ご列席の皆さま。
バロンドールの表彰という、年に一度のFIFAのすばらしいセレモニーに出席できて光栄に思います。
またFIFA会長賞というとても大きな賞を頂くことはこの上ない名誉です。

昨年12月にブラッター会長からメールが届いたときには本当に驚きました。
私は62年間ジャーナリストとしてスポーツとりわけサッカーのレポートを書きつづけてきました。74年以来、2014年ブラジル大会までの10回取材をしたワールドカップについても、新聞や雑誌で多くのページを使いました。その量と内容には多少の自負もありますが、すべてが日本語の文章で日本文の記事でした。したがって世界中で読まれることもなく、私の友人の世界的なフットボールジャーナリストにくらべると、日本というローカルの記者にすぎません。

そうした極東の一記者がFIFA会長賞を受けてよいのだろうかと、しばらく考えました。そして日本サッカーが近年に急速に成長したこと、その成長についてメディアが多少の役割を果たし、そのメディアのなかでの最年長者として会長は私を表彰して下さるのだと思うようになりました。

日本のサッカーには長い歴史があり、JFAには1921年から94年の流れもあります。その歴史のなかに優れた記者の先輩やテレビでのサッカー開拓者もおられます。私と同世代にも立派な記者がいただけでなく80歳をこえてなおワールドカップを取材している仲間もいます。
そうした仲間、さらにはどんどんあらわあれてくるメディアの後輩たち、つまりは日本のフットボールジャーナリストの最年長者としてこの受賞の名誉をうけることで、FIFAがメディアを大切なものと考えていることを伝えたいと思います。

会長は1979年第2回ワールドユース日本開催、ディエゴ・マラドーナが19歳で活躍した大会に、FIFAの担当者として大会の運営にあたられました。そのときアベランジェ会長の記者会見でフランス語の通訳に適任がなく、会長のフランス語をブラッターさんが英語に訳し、その英語を私が日本語で記者たちに伝えたこともありました。そのとき以来、ブラッター会長は日本サッカーに対して常に好意的であり、バックアップして下さることをいつも感謝しています。

私の英語はそのとき以来進歩していないので、今日の授賞式参列もいささかちゅうちょしたのですが、私の若い仲間たちから、ノイアーやロナウドやメッシに会えるだけでもいいじゃないか、大スターたちのサインをもらうことを忘れないで、と励まされ送り出されました。

ありがとうございます。


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90歳の冬の旅

2015/01/12(月)

ドバイを出たエミレーツ航空EK89便チューリヒ行きのエアバス機は快調に北東に向かっていた。席の前にあるモニターで航路を見ると、トルコの上あたりらしい。さすがに、イランの上空は飛ばないのだと思わぬところでイスラム国騒動を思い出した。

11時45分(ローカルタイム)の表示がある画面の中に、ザルツブルグの名もあった。オーストリアだから、すぐ隣はスイス、もうすぐ到着だなと思う。

2015年、90歳になって14日目の私は、いま「冬の旅」の2日目にいるが、外国旅行といえば、サッカーの試合を見ることが目的であったため、国際大会の日程にあわせた6〜7月が多いのだが、今回は珍しくも真冬の旅となった。1月12日スイスのチューリヒで開催されるFIFAのバロンドール授賞式の時に、FIFA会長賞を贈るからぜひ出席を、という通知をもらい、そのための冬のヨーロッパの旅となった。

なにしろ、若い50〜60歳代とちがって、体は脊柱管狭窄症にはじまり、目も耳もすっかり能力が衰えている。そんな90歳の旅は若い仲間の本多克己さんの同行がなくてはできないし、またFIFAとのスケジュールなどのやりとりで、JFAの国際部・コミュニケーション部をはじめとして、直接間接にとても多くの人の手助けなしには出発できなかった。

1月10日の夜、関空発のエミレーツでまず大阪を発ち、ドバイで乗り換えて、今チューリヒに向かいつつある。ワールドカップの旅を1974年から書きはじめ、ヨーロッパ選手権の旅を1980年から。それぞれのサッカーマガジンの連載は読者に楽しんでいただくとともに、自らの楽しみでもあった。今度の旅は試合を見るのではなく、表彰式という異質のピッチへの出場だから、どういうふうになるのか、私自身も読めていない。

とりあえず、皆様のバックアップと厚意に感謝しながら、これからの旅に入ってゆきたいと思っているところ。さて、どうなることやら。

画面は、ザルツブルグを右に、チューリヒに向かう飛行機の画が映し出されていた。

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「新年ごあいさつ」FIFA会長賞へのお祝いへのお礼とともに

2015/01/05(月)

2015年明けましておめでとうございます。
老齢を理由にここしばらく賀状交換を怠っていますが、あいかわらず多くの皆さまから年賀状を頂き恐縮の限り。このブログで、おめでとうを申し上げることにさせて頂きます。

昨年暮に「FIFA会長賞を贈るので1月12日のバロンドール表彰のときに来てほしい」というメールが届きびっくり仰天しましたが、その賞にも多くの皆さんからお祝いの言葉が届けられました。

JFA大仁邦彌会長から立派な花束を頂き、小倉純二名誉会長から心のこもったメールを頂戴しました。デットマール・クラマーからもドイツの友人を通じてお祝いの言葉が伝わってきました。台湾でコーチをつづけている黒田和生先生からも台湾らしいデザインの年賀状が届き会長賞への賛辞も添えられていました。

おひとりおひとりにお礼を申し上げるべきところですが、年賀状と受賞のお祝いの言葉を頂いたことに、心からのお礼を申し上げます。

年が明けて5日目、90歳になって8日目、長生きをしているおかげで、こういう喜びもあるのだとつくづく感じています。

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