大西洋を眺めサン・テグジュペリを思う
サッカーの王国ブラジルへ来てワールドカップを見る、書くという夢のような日が5日間たちました。若い時のように大会前に入って、まずFIFA総会の取材から、開幕試合、グループリーグ、そして第2ラウンド(ノックアウトステージ)から決勝という一ヶ月以上の旅とちがって、さすがに年齢相応の体調を考えて短いスケジュールになりそうですが、スタジアムへゆき、プレスルームに入り、記者席でキックオフ前のセレモニーで両チームの国歌を聞き、、、と大会独特の雰囲気の中で、これまでの懐かしい記憶の上に、こんどの経験が加わって、私の心の内にまた新しいワールドカップが醸成されてくるような気がしてきました。
ブラジル人であり、日本人であるセルジオ越後が組んでくれた「セルジオと行くブラジルの旅」グループに加わったおかげで、レシフェとナタルに滞在する---もちろん日本代表の試合を追ってのことだが---というまたとない機会を得ました。
ブラジルにはこれまでの長期滞在や、試合や大会では縁がなかったけど、78年アルゼンチンワールドカップや、80年コパデオーロ、87年南米選手権などのためにアルゼンチンやウルグアイへの移動の途中、リオデジャネイロやサンパウロに立ち寄ったこともあり、この国の代表的な大都市のニオイだけは感じていた。
今度のレシフェやナタルはブラジルの北東部で、ヨーロッパやアフリカ、北米にも近く、リオ、サンパウロとはまた全く異なった風土に見えた。レシフェでコートジボワール - 日本、ナタルでアメリカ - ガーナの2試合を見て、後はテレビで観戦だったから、日本におられるサッカー仲間とはあまり変わることはないけど、大西洋の波が打ち寄せるこの北東ブラジルの地で、ホテルの室内から大西洋の長い、白い浜辺を眺めたことは、私のブラジル観にもとても大きな刺激となった。レシフェからここまでの4時間のバス旅行で広大なサトウキビ畑を見たのも、豊かなブラジルの新しい魅力だった。
大西洋は私にもう一つの感慨をもたらしてくれた。2回目のワールドカップ取材はアルゼンチン,
この国の西部、アンデス山脈に近いメンドーサは、あのサン・テグジュペリが訪れた地でもあった。「星の王子さま」や「夜間飛行」などの作家として有名な彼は飛行機乗りで、郵便物を運ぶという初期の飛行機の大切な役割を担い、ヨーロッパから大西洋を渡っての南米航路の開拓をした。
フランスを発して、モロッコを経て、アフリカの西部ダカールから、大西洋を越えて、ナタルに到ったはずだった。ここから南下して都市をつなぎ、ブエノスアイレスからメンドーサまで飛んだのだった。彼ほどの熟練のパイロットではなく、太平洋戦争の最中に陸軍航空で1年半操縦者であったにすぎない私だが、サン・テグジュペリの名は、物書きとしても、パイロットとしても、畏敬の先輩だった。大戦中志願してフランス軍の偵察機のパイロットとなって地中海上空で消息を絶ったこの人については、日本には私よりずっと詳しいファンが多いはずだが、戦中派のひとりがブラジル東北部のナタルの海岸でこの人を偲ぶのもまたワールドカップとしてお許し願いたい。
そうそう、98年のフランス大会で、大会中にマルセイユの新聞に大戦中の飛行機の残骸が発見され、「テグジュペリの飛行機か」とニュースになったことを思い出した。日本が初めて参加した大会だった。(資料が手元になく、間違いがあるかもしれません。もしそうならご指摘をいただきたい)
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