« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »

2014年6月

進化したはずの日本の技術が相手より低かった

2014/06/28(土)

――1対1となって前半が終わり、誰もが後半に期待をかけました

賀川:コロンビアは1次リーグ突破は決まっているが、ここで負けるわけにはゆかないと後半の頭からハメス・ロドリゲスを投入してきた。

――バルデラマの後継者と言われるパスの名手

賀川:左足のパス、シュートがうまい。バルデラマのような人を食ったような感じではないのに、意表を突くプレーをする選手です。

――彼が入ってコロンビアはイキイキしてきた

賀川:後半4分に右から中へドリブルし、日本のDFをかわしてシュートし、右CKになった。チームを元気づけたでしょう。このドリブルは、日本側には厄介な相手が来たな、という印象を植え付けたでしょう。若くてスピードがあるからね。8分のペナルティエリア左角外からのFKも、鋭いカーブで誰も触らなかったが、ゴール前を抜けて、日本側はヒヤリとした。

――くせ玉を蹴る選手ですね

賀川:10分、彼からのパスを受けたジャクソン・マルティネスが決めて1-2となった。コロンビアが右サイドでキープした時は、日本側の守りの人数は揃っていたが、左にいたロドリゲスが小刻みなステップで内へ入ってきて、右からのボールを受け、左足で持ってシュートの形を見せながらのキープで日本DFをひきつけ、ノーマークのマルティネスにパスをしたのです。

――ロドリゲスに幻惑された?

賀川:若くてもベテランのようなプレーができるんだな、と改めて思いました。それにしてもこれだけの選手がいることを知っているはずだから、マンマークの対策とか、彼特有の防ぎ方を考えて徹底するはずですがね。

――古い話だが、アマチュアのメキシコ五輪銅メダルチームは1次リーグの対戦相手の写真を持たされて自分のマークの相手の顔を覚えたと聞いています

賀川:まあ事前準備に対しても、いい選手の方でも対応はするでしょう。このあたりまで、いささかロドリゲスにやられすぎの感じでした。

――これで1-2となり、1次リーグ突破という望みは困難になった

賀川:リードして守りに入り、ボールを奪えばカウンターというコロンビアには申し分のない展開となった。日本はシュートを打つが決定的なものとはならず、相手はピンチとみるとエリア外ではファウルを犯すことも平気になった。

――本田のFKで惜しいのもあったが…

賀川:19分に本田~内田と渡って、内田が速いクロスを送り、大久保が右足に当てたが、ゴールにはゆかなかった。決まっておれば、内田のマタ抜きダイレクトクロスとして記録に残るのだが。

――大久保が走りこむタイミングにボールが強すぎたのかもしれない。この時も、相手のマークはついていた

賀川:いずれはJFAの強化本部でも問題点になるだろうが、トップクラスの選手のキック能力をこの日の試合でも感じることになる。体の強さとも関係があるが、ボールを正確に強く蹴ることは外国にゆかなくても日本にいてもできることですからね。

――いいシュートもあったが、GKの正面にいった

賀川:ペナルティエリアの外、数メートルで蹴るよりエリア内に入ってシュートした方がいいのだが、それができない。香川がその意欲を見せたが、むずかしかったね。それにこちらのクロスを相手がヘディングでカットすると、そこからの早いカウンターがあって、そのたびにDFは全速力で帰陣することになって疲れが重なった。

――それでさらに失点することになる

賀川:37分には3点目を奪われた。攻め込んで右から左へボールを動かして中央へもどし、本田がキープした時につめられて奪われた。8人が攻撃に出ていて、そのボールがロドリゲスに渡って、彼がボールを右サイドで受けた時には日本は自陣に2人だった。左にいたマルティネスが右前へ走って、大きく内田のマークを外し、ペナルティエリア内側でボールを取り、追走してきた内田を切り返してかわし、吉田がつめる前に左足シュートを左隅に決めた。

このチームの一番のストライカーのファルカオが怪我でメンバーから外れた時に、ぺケルマン監督がうちには彼におとらぬいいFWがいると言ったほど。ポルトガルリーグではすでに定評ある力通りのシュートだった。

――1-3。やられました

賀川:望みを失っても、なお攻めようとする日本選手は見ていて痛々しい感じだった。3点のリードにも彼らは日本の攻めには9人の守りで対応した。40分には彼らの古くからの仲間、モンドラゴンを交代で登場させる余裕も見せた。

――43分に柿谷の左からのクロスが相手に渡り、コロンビアの攻めにかわり、左サイドにいたロドリゲスが中央へ出たボールを取ってドリブルで吉田をかわし、4点目を決めました

賀川:せっかく走って奪いに行った吉田が、ロドリゲスのフェイントでかわされシュートを決められた場面は、言いようのないさびしいものだった。厳しい現実だったが、これがワールドカップなのでしょう。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (1) | トラックバック (0)


岡崎慎司の十八番ゴール

2014/06/26(木)

――コロンビアは南米予選で2位、世界ランク6位でC組では一番強いとされていました。それに勝つ試合をしなければならなかった

賀川:世界ランキングの順位の差はあまり大きく考えなくてもよいと専門家たちは言います。それはそうですが、コロンビアの代表のひとりひとりはなかなかの選手がそろっています。

――彼らの先発メンバーは第1、2戦とは大幅に違っていました。8人が新しい顔で攻撃の組立て役、ロドリゲスもいなかった

賀川:といって11人のうち9人がヨーロッパで働き、2人がアルゼンチンのリーグです。国内リーグの選手はMFのメヒア(アトレチコ・ナシオナル)だけのはず。1987年の南米選手権でそれまでは評価の低かったこの国の代表が評判になり、90年イタリアワールドカップでは注目のチームでした。私は87年にたまたま南米でバルデラマという金髪のプレーメーカーを見て驚いたものです。イギータという前進してDFのようにドリブルで相手FWをかわすGKもいたが、足の速い攻撃陣が魅力的でした。

――94年アメリカ大会で敗れて帰国した後、選手が殺害されました

賀川:代表が負けたために賭けで損をしたマフィアがらみという話もあった。何しろ当時は麻薬で有名なところだった。いい時期の後の暗い時期を切り抜けて、サッカーのレベルアップが進み、代表も強化された。

――そう。もっと古い話で、ワールドカップ開催国となったが後で辞退した?

賀川:86年大会の開催国に決まっていたのが、経済状態が悪化して大会を返上した。それで70年大会の経験あるメキシコがアメリカと争って開催権を得た。アメリカは94年開催に回ったのです。つまりそれくらいサッカーに熱心な国なのです。87年の南米選手権の時にアルゼンチン代表監督のカルロス・ビラルドさん(86年ワールドカップ優勝)が「人口も多いコロンビアでサッカー強化が進むと、将来は南米でブラジル、アルゼンチンと並ぶ強国になるだろう。ウルグアイやパラグアイは伝統はあるが、人口は少ないからね」と言っていましたよ。

――そのコロンビアが今度の南米予選で評判になった

賀川:先述の通り、いい選手を生み出す素地はブラジルと同じようにあります。今度の代表を指揮したのがアルゼンチンのホセ・ぺケルマン(64歳)、プレッシングサッカーの信奉者らしく、この体力的にきついやり方を選手に厳しくやらせて効果を上げたらしい。

――ぺケルマンさんは2006年のドイツ大会でアルゼンチン代表の監督もつとめました。ドイツとの準々決勝でPK戦で負けましたが…

賀川:粒ぞろいの選手を練達の監督が見て、チーム力を上げたのでしょう。日本戦でも、当然のことながら日本の攻撃プレーに対してしっかり守ってカウンターに出た。守りも積極的で彼ら特有の「足を出す速さ」で日本を苦しめ、狡猾なファウルやアフタータックルで日本の攻撃展開を妨害した。

――日本はPKで1点を失った

賀川:奪ったボールを一つタメて一気にオープンスペースに出す、あるいはタメないでそのまま出す。いずれにしても広い場所で彼らの得意の1対1を仕掛けてきた。

――日本側には一番厳しいやり方ですね

賀川:日本のペナルティエリアの内に入ったところにアドリアン・ラモスがボールを持ちこんだ時、今野がスライディングタックルに行って相手を倒した。今野はボールに届くと判断したのだろうが、相手が右足でボールをカバーして、その足に今野がタックルした形になった。ちょっと厳しすぎるように思えたが、倒れ方がうまかったから笛が鳴ったという感じ。スロービデオで見ても、確かにラモスの右足に今野の足が当たっているから、取られても仕方ないが、身びいきでなく今野には気の毒だった。

――それだけ相手もうまかったし

賀川:エリア内でのタックルは慎重にということでしょう。

――その後相手のファウルに対してレフェリーは厳しくなりました

賀川:PKの基準を上げたからだろうか、日本にはよかった。もう少しファウルした選手に「重いことをしたのだぞ」という態度をみせてもらえばもっとよかったのだが…

――失点の前に、日本の攻撃でチャンスもあった

賀川:大久保のドリブルシュート、長谷部のシュートもあった。

――PKをフアン・クアドラドがど真ん中に決めました

賀川:GKの素人である私たちが言うのはおこがましいが、こういういきなりのチャンスでサイドネットへきっちり蹴るという心臓の持ち主はなかなかいないもの。相手のクアドラドのシュートのデータがどうだったのかは知らないが、蹴る瞬間まで動かない方が得な場合があります。

――岡崎慎司が見事なヘディングで1-1にしました

賀川:これも攻め込まれて奪ったボールを内田がすばらしいドリブルで持ち上がり、外へ開いた本田へパス、本田が左足でゴール正面の岡崎へライナーの低いクロスを送り、慎司が得意のヘディングで決めました。

――内田が自陣のペナルティエリアからドリブルを始め、ハーフウェイラインを越えた時に日本側は右の本田、中央付近に岡崎、左タッチ際に大久保、そしてセンターサークル内に香川がいた

賀川:それに対して相手は、4DFとその前のボランチ2人がいて6人だった。自分たちが攻め込んだ後のカウンターにもこれだけの人数が対応できるのが、前半の戦いぶりだった。それを内田のさらなる前進と本田のパスと、岡崎の十八番でゴールにしたのです。

――内田がドリブルし、相手ボランチの一人を前にして右外タッチ際にいた本田へ。本田が受けた時には、自分の前方には相手の4DFと中央の岡崎と、はるか左の大久保がいるだけだった

賀川:そこから本田がドリブルし、アルメロを前にしてペナルティエリア右角まで持ち込んで、得意のフェイントの後の左足キックでパスを出した。

――後方からペナルティエリア内に香川が切り込んできた

賀川:本田の蹴ったクロスは香川と、それをマークした相手の後方を通って中央へ。

――そこに岡崎がいた

賀川:内田から本田にパスが出た時、岡崎はエリア外10メートル、ほぼゴール正面にいた。本田がエリア右外角からクロスを蹴る前に、相手と位置取りを争いながら、キック直前に一歩後ろ(外へ)に下がり、キックの一瞬前に相手の前へ体を入れて飛んでくるボールに頭を当てた。

――岡崎の真骨頂ですね

賀川:パスが出る瞬間に相手DFの目はボールに注がれる。その少し前に岡崎は体をくっつけ合って位置取りをしていた態勢から相手を離れ、相手の注意がボールに集中するときにニアサイドへ体を持っていったのです。いわゆる消えて、出るストライカーの一瞬の妙技です。

――大一番でそれがゴールになった

賀川:岡崎慎司は滝川二高の時からヘディングがうまく、飛び込みのヘディングは彼の得意芸のひとつだった。

――彼の空中の強さが、得点の原点になっていると前に書いていました。今は足も上手になったが、コロンビア相手に本領が出た

賀川:今、言ってしまうものどうかですが、第一戦のゴールの本田のシュートは本田の一番いい形でボールを蹴る、つまり彼のフォーム、彼の角度で蹴っているのです。今度の相手のように強く、ゴールキーパーも上手な相手との試合で、2ゴールがそれぞれの得意な形であったこと、それだけしか得点できなかったことをよく考えておくべきでしょう。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (0) | トラックバック (0)


選手たちの努力に感謝しつつ、新しい経験と結果を分析

2014/06/25(水)

――日本代表、完敗でした

賀川:試合の流れはテレビでご覧になった通りです。選手たちは試合後、それぞれ自分たちの力が足りなかったと言っているはずです。私にはまず、彼らがアジア予選に勝ってこの大会に出場してくれたこと、それによって日本中がワールドカップという世界のスポーツの一大祭典をハラハラ、ドキドキして楽しむことができました。そのことにまず、代表全員に感謝したい。

大会のグループリーグC組で、3戦1分2敗で得点2失点6という冷徹な記録は日本代表の歴史にも残ることになるのだが、少なくともアジア予選を勝つ抜いてきたからこそ、こういう経験も出来たのだと考えたい。ただし、日本サッカーの前進のためにはプレーヤー自身が試合のひとつひとつの局面を振り返り、何が勝ちに結びつかなかったのかを考えてみてほしいもの。サポーターの皆さんも何がよかったか、何が悪かったか、惜しい場面、うれしかったシーンを思い出し、ビデオを見直して、サッカーへの造詣を深めていただきたい。
今は思い起こすのも残念でも、ここからの反省がなければ、前へ進めない。日本のサッカーは極東にあって遠くヨーロッパや南米のフットボール先進地から離れ、ベースボールという手でボールとバットを扱う全く異質のスポーツが盛んになっている中で、100年がかりで少しづつ広めて、東京オリンピックを足場にその速度を上げ、1993年のプロ化と2002年のワールドカップ共催で大幅に国民の間に浸透しました。そのプロ化から20年余がたち、ワールドカップ出場の経験も積んで、こんどこそと望みを抱いた人も少なくなかったでしょう。私はワールドカップのようなトーナメント(1か所に集まる大会)は1か月の短期決戦で長期のリーグと違い、チーム全体、選手の調子、そして試合地の気候、風土(暑い・寒い)、相手側のコンディションによっては第2ラウンド進出も可能で、日本の選手たちがベスト4や優勝を目指しても当然と思っていた。この大会では、必ずしも第1戦では心理的にも体調の面でもベストであったかどうかは疑問ですが…

――その点では悲観もあるでしょう

賀川:こちらがベストの条件で環境がよければという望みがなくなって、第1戦を落としたのが後々大きく響いて、このグループのなかで一番強いコロンビアに最終戦で勝たなければいけないという苦しい立場に自らを追い込んでしまった。

――反省や分析はまずそこから

賀川:いや、その前に頑張って試合をしたのだから、そこから見ることになるでしょう。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (1) | トラックバック (0)


FIFA.comに掲載されました

2014/06/23(月)

FIFA.comに「An old master’s long journey」として賀川浩の記事が掲載されました。

http://www.fifa.com/worldcup/news/y=2014/m=6/news=an-old-master-s-long-journey-2379769.html

Dsc_0059s


固定リンク | お知らせ | コメント (0) | トラックバック (0)


ギリシャ戦 0−0

2014/06/21(土)

――C組第2戦(6月19日・ナタル・エスタディオ・ダス・デュナス)で日本はギリシャと0−0で引き分けました。1分1敗、勝点1、ゴール数は得1、失1です。数字の上ではまだグループリーグ突破の可能性がありますが、第3戦の相手が強いコロンビア(2勝)ですから、実際には苦しい立場です。

賀川:いい攻めもあったし、危ないピンチを逃れた見事な守りもあった。しかし勝てなかった。威勢のいい嘉人(大久保)がイエローをもらわないことを念じていたが、その嘉人に対するカツラニスのファウルが、2枚目のイエローとなり、退場処分、10人となった。その10人を相手に、後半は攻め続けながら1点も取れなかった。もったいないことだった。

――後半の頭から遠藤保仁が入り(長谷部誠と交代)、12分に大迫勇也に代えて香川真司を送り込んだ。相手の状態を見て、いい交代でしたか?

賀川:大迫は第一戦よりずいぶんよくなっていた。長谷部もしっかりやっていた。相手が一人少なく、疲れてくることを考えても、2人のパスの名手を投入したのは妥当なことでしょう。結局はゴールは生まれなかったが…

――その賀川から右へ振って、内田篤人が深いところから中へ通して、ファーポスト際で大久保が走り込んだが…

賀川:記者席で、私も立ち上がりましたよ。だが、彼が左足に当てたボールは高く上がり、バーを越えた。

――インステップで叩けとブラジルの記者席で声を出している姿を想像しました

賀川:さあ、スロービデオで見直していないので、何とも言えませんが、バウンドが予想外に高く上がったのでしょう。彼には生涯つきまとう悔しいシュートかもしれませんね。ここで決めておけば、功績者、大久保義人のゴールとして語り継がれる場面でしたね。

――若い頃から彼を見ている賀川さんには残念な局面でしたね

賀川:数多くの得点を記録している彼にとっても、ものにしてほしいゴールでした。この選手は若いときから、ここで一点とか、この試合では皆のためにも自分のためにもゴールがほしいという時に不思議にしっかりと点を取るプレーヤーなのです。スペインのマジョルカでの最初の試合でもゴールしました。高校の時も、Jリーグでも、そういうことの出来るプレーヤーなのです。

――この日は、その運がなかったとしか言いようがないですね

賀川:まあそうだが、それで片付けてはいけません。この場面、なぜ彼のところでバウンドが少し高かったのか、彼が左足のどのスイングでボールをとらえ、ボールがゴール枠を外れたのか――などは、彼だけでなく、日本中のストライカー、コーチがこのビデオを見て分析すべきでしょう。

――もともとゴールを決めた、決めなかったの各局面の反省あるいは分析、勉強が不足していないか…が賀川さんの意見ですからね

賀川:やっていますよ、という指導者も多いことでしょうが、一つのプレー、一つのゴール、一つのミスをおろそかにしないのが、フットボールのプレーヤー、指導者には大切なことでしょう。いや、余計なことを言いました。試合の流れに戻しましょう。

――左右にゆさぶっての惜しい場面は内田にもありました

賀川:いいところへ走りこむ、彼の最もおいしいところに来たはずですが、サッカーの神様は意地悪ですかね。ただし、これも神様のせいにして終わりにしてしまってはいけないのです。その時のボールの状態、足の当て方をスロービデオで何度も振り返ってみれば、自ずから疑問が解消され、次のゴールにつながります。

――ポスト際で流れてきたボールを決め損ねた話を聞かせてもらったことがありましたね

賀川:1968年のメキシコオリンピックの銅メダルチームが67年の東京でのアジア予選で優勝した時、5カ国リーグの第3戦で韓国と当たり、3−3で引き分けました。(第4戦のベトナム戦に勝ってメキシコ行きを決めた)無敗同士の日韓の戦いは日本が前半に2−0とリードして有利になっていた。そして前半の終了近くに3点目のチャンスが来た。右からのクロスがゴール前を通り、ゴール正面左寄りで八重樫茂生が走り込んだ。3点目、これで勝ったと記者席でそう思ったら、八重樫のところでボールがイレギュラーバウンドして、彼の左足の上をボールが通りすぎてしまった。3−0となる前半が2−0で終わり、韓国が後半反撃して歴史に残る「3−3の日韓戦」となったのです。前半に3−0としておけば、ずいぶん楽になったはずでした。

――八重樫さんはメキシコ・オリンピックの日本代表のキャプテンでもあり、選手の人望も厚かった人ですね

賀川:そのすばらしいキャプテンの惜しい逸機を指導者たちは当日の雨で状態のひどかったグラウンドのせいにしたのかどうかは別として、こういう場面、つまりシュートの成功・失敗についてもっと日本サッカー全体が関心を持った方がいいでしょう。特に今はテレビが普及していますからね。

――日本はこの試合で結局16本のシュートをし、そのうち11本がゴールの枠内に飛びました。本田圭佑のFKもあり、大迫のいいフォームでのロングシュートもあった

賀川:ゴールキーパーと“ゴールを守る”人の体格が古い時代よりよくなった上、ゴールキーパーには専門のトレーナーがついて練習しています。体が大きく、バネがあり、性格がゴールキーパーに向いているかどうかも指導者は調べます。その素材を専門家が指導して練習するのです。世界のサッカー界でゴールキーパーのレベルが上がっているのは当然でしょう。ワールドカップの各国代表チームのゴールキーパーといえば、ゴールキーパーのなかの選りすぐりが来ているのですから、その人が守るゴールに向かってシュートをする攻撃側がどれほどシュート、足でも頭でも練習しているかということです。

もちろん、相手側は攻撃する側がまずシュートを出来ないように防ぐから、それを突破し、攻撃を展開してシュートのチャンスを作るための練習も必要ですが、その最終(フィニッシュ)のプレー、シュートに対しては専門家が守るのです。シュートの大切さを私が語ると、また賀川さんのシュートの話だという人も多いかもしれませんが、こんどのように一人少ない相手を攻めて、たくさんのチャンスの場面、シュートの場面をご覧になれば、改めてこの技術の重要さをみていただけたと思います。

――選手たちはがんばりましたね

賀川:皆が大好きなサッカーの日本代表になって、試合に出る人も出ない人も勝ちを目指してそれぞれの役割に徹したはずです。なにしろ選手自身が日本で一番のサッカー好きのはずです。その好きな道の最高の舞台に立っている幸福を噛みしめて、もう1試合戦ってほしい。

――コロンビアがうまい、強いといっても同じプロのサッカー人ですからね

賀川:代表チーム全体に気分が高まり、ひとりひとりの体の調子も良くなってきているはずです。2006年ドイツ大会も初戦(1−3 オーストラリア)を落とし、2戦目を引き分け(0-0 クロアチア)、第3戦がブラジル(1−4)でした。ブラジルとコロンビアでは格も選手もブラジルが上です。選手たちは絶好の腕試し、力比べのチャンスと思っているはず。第1戦、第2戦で進化し、前進もしているのだから、大一番を全員でつかみ取るとてもありがたいチャンスです。

ブラジルまで足を運んだサポーターの皆さんも、この地で新しい喜びを味わっていただきたいと祈っています。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (0) | トラックバック (0)


スペインが敗れる

2014/06/20(金)

第1戦でオランダに大敗したスペイン代表がB組第2戦でもチリに0-2で敗れ、セカンドラウンドへの望みを失った。バルサ(バルセロナFC)が確立し、クラブを世界一に押し上げたボールポゼッションと高い位置でのプレッシング重視するやり方を代表にも持ち込み、2008年と2012年のEURO(ヨーロッパ選手権)の連続優勝と、2010年ワールドカップ優勝で、世界の頂点にあったスペインの代表の敗退はこの大会初期の最大のショックといえる。

6月18日午後6時からマラカナン競技場で行われたこの試合で、チリは前半20分に右からのクロスでつかんだチャンスをエドワルド・バルガスが決めてリードし、後半にもFKのリバウンドをチャルレス・アランギスが蹴り込んで2-0とした。スペインはいつもの通りボールキープとパスの巧さで上回ったが、シャビ・アロンソが近距離のシュートを防がれたのをはじめ、惜しいチャンスもあったが、全体としてはファウルを含むチリの当たりの強さ、ボール奪取の粘りに手を焼き、勝てそうな試合ではなかった。

試合後にデルボスケ監督は「まだチームの将来や私の進退について語る時期ではない」と語ったというが、スペインだけでなく、世界中のサッカーファンの間で多くの論議が持ち上がっているだろう。もともとこのチームはGKカシージャスをはじめ、シャビやイニエスタ、シャビ・アロンソなどの主力の年齢が高いこと、カシージャスはここりばらくリーグでプレーをしていないことなど、懸念を持たれていた。また、ボールポゼッションの能力は高くても、バルサにおけるメッシのようなストライカーがいないこと。また、サイドから攻撃に仕掛けるウイングタイプがいなくて、攻撃の幅が拡がらず、折角のパス攻撃の効果が薄い、という指摘もあった。

チリ戦をテレビで見た限りでは(シャビは出ていなかった)、チリ側の反則の多い接触プレーで特色のボールキープからの意表をつくパスがほとんど生まれなかったといえる。年齢が高いことは、長いシーズンを乗り切った後の疲労回復にも影響し、大会の第一戦(対オランダ)にベストコンディションでなかったという声もある。FIFAクラブラールドカップ決勝で、高い位置のプレッシングでバルサが南米代表のサントスの動きを制したことがあった。その流れのなかで、スペイン代表がEUROとワールドカップで輝かしい成果をあげたのだが、今後は相手にプレスをかけられて(ファウルが多かったのはスペインに気の毒だが)苦しむことになった。

プレッシング・フットボールがこの大会でこれからどのような成果を生むのか、眺めてゆきたいと思う。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (0) | トラックバック (0)


大西洋を眺めサン・テグジュペリを思う

2014/06/19(木)

サッカーの王国ブラジルへ来てワールドカップを見る、書くという夢のような日が5日間たちました。若い時のように大会前に入って、まずFIFA総会の取材から、開幕試合、グループリーグ、そして第2ラウンド(ノックアウトステージ)から決勝という一ヶ月以上の旅とちがって、さすがに年齢相応の体調を考えて短いスケジュールになりそうですが、スタジアムへゆき、プレスルームに入り、記者席でキックオフ前のセレモニーで両チームの国歌を聞き、、、と大会独特の雰囲気の中で、これまでの懐かしい記憶の上に、こんどの経験が加わって、私の心の内にまた新しいワールドカップが醸成されてくるような気がしてきました。

ブラジル人であり、日本人であるセルジオ越後が組んでくれた「セルジオと行くブラジルの旅」グループに加わったおかげで、レシフェとナタルに滞在する---もちろん日本代表の試合を追ってのことだが---というまたとない機会を得ました。

ブラジルにはこれまでの長期滞在や、試合や大会では縁がなかったけど、78年アルゼンチンワールドカップや、80年コパデオーロ、87年南米選手権などのためにアルゼンチンやウルグアイへの移動の途中、リオデジャネイロやサンパウロに立ち寄ったこともあり、この国の代表的な大都市のニオイだけは感じていた。

今度のレシフェやナタルはブラジルの北東部で、ヨーロッパやアフリカ、北米にも近く、リオ、サンパウロとはまた全く異なった風土に見えた。レシフェでコートジボワール - 日本、ナタルでアメリカ - ガーナの2試合を見て、後はテレビで観戦だったから、日本におられるサッカー仲間とはあまり変わることはないけど、大西洋の波が打ち寄せるこの北東ブラジルの地で、ホテルの室内から大西洋の長い、白い浜辺を眺めたことは、私のブラジル観にもとても大きな刺激となった。レシフェからここまでの4時間のバス旅行で広大なサトウキビ畑を見たのも、豊かなブラジルの新しい魅力だった。

大西洋は私にもう一つの感慨をもたらしてくれた。2回目のワールドカップ取材はアルゼンチン,
この国の西部、アンデス山脈に近いメンドーサは、あのサン・テグジュペリが訪れた地でもあった。「星の王子さま」や「夜間飛行」などの作家として有名な彼は飛行機乗りで、郵便物を運ぶという初期の飛行機の大切な役割を担い、ヨーロッパから大西洋を渡っての南米航路の開拓をした。

フランスを発して、モロッコを経て、アフリカの西部ダカールから、大西洋を越えて、ナタルに到ったはずだった。ここから南下して都市をつなぎ、ブエノスアイレスからメンドーサまで飛んだのだった。彼ほどの熟練のパイロットではなく、太平洋戦争の最中に陸軍航空で1年半操縦者であったにすぎない私だが、サン・テグジュペリの名は、物書きとしても、パイロットとしても、畏敬の先輩だった。大戦中志願してフランス軍の偵察機のパイロットとなって地中海上空で消息を絶ったこの人については、日本には私よりずっと詳しいファンが多いはずだが、戦中派のひとりがブラジル東北部のナタルの海岸でこの人を偲ぶのもまたワールドカップとしてお許し願いたい。

そうそう、98年のフランス大会で、大会中にマルセイユの新聞に大戦中の飛行機の残骸が発見され、「テグジュペリの飛行機か」とニュースになったことを思い出した。日本が初めて参加した大会だった。(資料が手元になく、間違いがあるかもしれません。もしそうならご指摘をいただきたい)

10389483_728108533917849_70788551_2


固定リンク | ワールドカップ | コメント (0) | トラックバック (0)


グループリーグの一回戦が終わって

2014/06/18(水)

ナタルのホテル、SHRES NATAL GRAND HOTELの私の部屋のすぐ下にフットサルピッチが1面ある。誰かがひとりでボールを蹴っている。美しい砂浜に魅かれてグループの旅行の仲間の小島さんと本多さんがランニングに降りていった。2014年6月17日の11時。

ワールドカップブラジル大会は、17日までで8グループの各組1回戦とA組のブラジル-メキシコの17試合が終わった。今日18日は、A組のカメルーン - クロアチア、B組のスペイン - チリ、オーストラリア- オランダの3試合が予定されている。開催国ブラジルはブロアチアに3−1で勝ち、第2戦のメキシコに0−0で引き分け。メキシコもまたカメルーンを破った後、ブラジルと引き分けた。両者の第2戦はホテルのバーにある大画面で観戦。ネイマールをはじめとするブラジル選手たちの技巧を堪能し、ファウルの応酬にはいささか悲しい気もした。メキシコのゴールキーパーの守りもすばらしかったが、ブラジルのシュートのタイミングや角度が少しでも違っていれば2ゴールぐらいは生まれたかも。

B組でのオランダの大勝(5−1 対スペイン)はくわしくは見ていない。5点取った後も前からプレッシングにゆくオランダ側に、この試合にかける彼らの意気込みを思った。バルサに代表されるボールテクニックと組織のスペインサッカーは現代の先端を進んでいたようにみられていたが、そのバルサの変革者ヨハン・クライフを生み出したプレッシング・フットボールの元祖のオランダにも意地があるのだろう。

それにしても、オランダのロッベンの「速さ」である。2006年の大会で初めて彼を見たときにも、ファンペルシーがボレーで蹴った相手DFライン裏へのボールに一気に走り込んで取ってゴールを決めた。ここしばらくの彼をテレビで見ていると、その緩急の取り方がさらに上手になったようにみえた。ヨーイドンの走りくらべでも追いつけない彼が、大きな落差の緩急を持つことになって、相手のDFにとってとても厄介な選手になった。スピードが落ちる頃に緩急を身につける人は多いが、彼は30歳にしてなおスピードを維持し、その天性の速さを活かせる術(すべ)を高めている。こういう大選手の進歩を見られるのも長生きの幸せというべきだろう。

C組の日本の初戦は記者席で見るのも辛い戦いだった。もちろん個々の力は相手が上であることは先刻わかっていること。それを一丸となって克服することになっていたはずだが…。本田圭佑がここまでの不調から脱したように見えた。前半は、ゴールも彼のシュートでとったのだが、後半はミスしたのだから、まだ本調子なのかどうか…。ごひいきの香川真司がいつになくボールコントロールのミスがあって、不思議に思っている間に試合は終わっていた。

日本からギリシャ戦はどうですか、という問いが来るけれど、互いに負けられない試合だから勝とうという意欲の強い方が勝つとしか言いようがない。こういう土壇場でこそ火事場の「なんとか力」を発揮してほしいもの。自分たちの満足がゆく試合が、代表ひとりひとりの人生にも大きなこととなる。

アメリカ合衆国の代表がこのホテルに泊まっていた。彼はナタルで実に見事な試合をし、勝手早朝に発ってキャンプ地にもどった。副大統領も応援に駆けつけていた。そういえばドイツの試合の前に、メルケル首相がスタンドの席でドイツ国歌を歌っていた。USAの代表のファイトあふれる試合はすばらしかった。日本代表にも、明日の試合で、USA代表と同様に「サムシング」を見せてほしい。

10436010_728127070582662_4456610732

固定リンク | ワールドカップ | コメント (0) | トラックバック (0)


レシフェの悔しい敗戦の後

2014/06/17(火)

6月16日の朝をブラジルのナタールのホテルで迎えました。14日22時のレシフェのペルナンブコ・スタジアムで行われたC組第1戦で日本代表がコートジボワールに1−2で敗れたのを取材しました。次の日、11時にバスでレシフェのホテルを出て、4時間走った後、ナタールのセルス・ナタールグランドホテルに到着。旅の疲れが今頃に出始めたのか、自分でも驚くほどバスの中で眠っていました。実は例によって車中で原稿用紙を取り出したのが、ガタン、ガタンと時折のバウンドを交えての小刻みのガタガタ振動で、結局は書くのを諦めました。せっかくのブラジルの旅の中断が1日以上になってすみません。

日本代表の残念な結果については、すでにテレビや活字、インターネットなどで、大量のレポートが皆さんのお手元に届いていることでしょう。2日遅れての話ですから、経過よりも(実はその経過の一つ一つのプレーやひとつの局面でのプレーが一番大切ですが)全般の感じをお話すると、力の上である相手のコートジボワール側がとても慎重な戦いぶりをしたこと。

ご存知のように、ヨーロッパのトップリーグに14人もの代表がいるこのチームは、個人レベルの高いことで知られています。36歳のドログバは現在はトルコのチームにいますが、アフリカでもヨーロッパでも有名なストライカーです。彼にとっては3度目のワールドカップで、今度はこれまでの1次リーグ敗退から、セカンドステージへ進むことが強い願いなのですが、その大スターをスターティングラインナップには入れずに彼らはメンバーを組みました。

彼らのキックオフで始まった前半は、ボールをキープすれば3DFに、日本ボールになるとすぐに4DFにする様子がとてもはっきりしていました。そうした慎重な戦いぶりで前半を0−1とリードされても、後半に挽回し、ドログバを投入して逆転しました。ヤヤ・トゥーレの長いドリブル突進をはじめ、それぞれの攻撃姿勢が目立つようになり、日本は前半よりも受け身に回る時間が増えました。危うく見えても、シュートのミスや、DFの粘りで何とか防いでいた日本でしたが、後半17分にドログバがディエに代わって入ってくると空気が変わりました。

ポジションの取り方がうまく、日本側は対応も困難になり、一方日本側には中盤での小さなミスからピンチになる場面も増えました。64分にボニー、66分にジェルビーニョがゴールを決めました。同点ゴールしたボニーはプレミアのスウォンジー・シティにいる選手。昨年はオランダリーグの得点王(36試合、36ゴール)となった選手です。

2点目を決めたジェルビーニョはアーセナルで名を上げ、セリエAのローマの攻撃で評価を高めているプレーヤーです。オーリエが右足サイドキックで丁寧に送った後方からの速いクロスに内田のニアサイドでとらえた見事なヘディングでした。

いささかコートジボワール側から見た書き方になりましたが、彼らの多くはすでに欧州で高い評価を受けている選手が多く、ドログバやヤヤ・トゥーレはワールドクラスと言われているのですが、その相手側が日本代表のプレーを研究し、自分たちの戦略を進めた。ザック監督が「相手がよかった」と言いましたが、そういう形になったということを申し上げたかったわけです。

この大会の日本代表はこれまでも再三、お話しているように日本のサッカー史上でも最も(ボールテクニックの)上手な選手の多いチームで、だからこそこういう個人力のある、あるいは攻撃力のあるチームが多いこの大会に「攻撃志向」を掲げて乗り込んできたのですが、彼らが日本以上にうまい試合運びだったということです。

そういう相手に対して、日本代表は確かに自分たちの力を見せはしたが、十分に発揮したとは言いがたい試合でした。個人的な強さに劣るということは、サッカーではある意味で決定的なものですが、それを日本特有の組織的な戦いで互角以上に持ち込むためには局面での粘りとパス攻撃を活かすためのラン(走ること)が大切なのです。これだけボール扱いが上手になっている選手が揃っているのですが、活動量が足りなければ日本流サッカーのよさは十分には出せません。選手たちの気持ちの持ち方が、はたしてどうだったでしょう。日本は上手になったと言っても、「動き」が伴わないと、私たちの特性である「敏捷性」が生きないのは1930年に初めて日本代表が結成されてから、何十年変わることのないことです。

イトゥの合宿にいる木ノ原旬望記者の話によると、選手たちも当夜は眠れなくて、やはり全力を発揮できなかったことを話し合っていた者もいたとのことです。せっかく予選を突破した日本代表ですから選手ひとりひとりがここでワンステップ上のレベルに上がるためにはこの次の対ギリシャ戦で「十分戦った」というプレーをしてほしいものです。

チーム全体として、日本では守備は否応なく力を尽くすことになり、立派な戦いだったと思います。攻撃陣に注文をつけることができるのは、ある意味では日本全体の実力アップの証(あかし)でもあります。前半のゴールも左の長友のスローインを香川、長友とつないで、長友からの速い横パスを受けて、本田が決めたものですが、一瞬相手側はなぜ空白地帯ができたのか、と意外そうでした。

日本代表の攻撃には独特のバリエーションもあり、その時々の局面で普段の力を発揮すれば、相手をガクンとさせる力をもっているはずです。

もう一度、挑戦し、いい結果を出してほしいものです。

王国ブラジルの大会だけあって、テレビも新聞も大量のニュースを報道しています。

89歳の私は選手には「活動量」を要求しても自分の動く範囲の狭いのにはこれまでの9回の大会からはひどい落ち込みようで、その点はいささか残念ですが、セルジオ越後さんや、本多克己さんはじめグループの仲間の助けで大会を引き続き取材し、旅を楽しむことができそうです。

そうそう、FIFAドットコムが私をこの大会に集まった取材記者のなかでは最年長ということで取材に来ました。すぐにではなく、そのうちに掲載されるということです。そちらの方もお楽しみください。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (2) | トラックバック (0)


2014ブラジルワールドカップの旅

2014/06/13(金)

2014ブラジルワールドカップの旅を始めます。

これまではサッカーマガジン誌に連載させていただきましたが、今回は新しい試みです。

神戸で生まれ育った私はブラジルといえば、まず頭に浮かぶ歌があります。

 行け、行け、同胞海越えて
 遠く南米ブラジルへ
 御国(みくに)の光、輝ける
 今日の船出の勇ましき…

小学生の頃、神戸の港から南米へ向かう移民の人たちを、日の丸を振って送り出したものだ。小さな島国で資源が少ないと思い込んでいた当時の日本は、海外へ移住者を送るのが国の政策のひとつでもあった。その日本からの多くの移住者が大変な苦労を重ねてブラジルの市民としての地位を築いたことは、よく知られている。

少年期からなじみの国名だったブラジルだが、フットボールに興味を抱き、それを書くことを仕事にするようになると、日本サッカーのブラジルの影響の大きさを知ることになる。

今度のブラジルゆきも、自分の年齢とブラジルのさまざまの事情で、出かけていって周囲の人に迷惑をかけては、とも考えたが、セルジオ越後が「自分の生まれ育ったブラジルでの大会だから、ぜひ見てくださいよ」という強い勧めでセルジオグループでの旅行という形で太平洋を渡り、アメリカのダラスを経由して、ブラジルに向かうことになった。

■ダラスで

成田からダラスまでの9時間、AA(アメリカン航空)60便、777機の飛行は快適だった。機長さんの腕ということになるのだろうが、西風を利用して、10時間の予定を1時間短縮した。音もなくランディングした時には、拍手したくなったほどだった。

ダラス空港では、テロ対策の影響か、思わぬ時間がかかる。乗り換えてサンパウロまでゆくだけのトランジットなのに、靴まで脱いで所持品を検査するほどだった。

日本にいて世界のことはテレビで見る生活がしばらく続いていた私のような年寄りでも、改めてアメリカという国の大変さを知った。それでもアメリカ人は気さくで親切。杖をついて空港内を歩く私に車いすを持って、使ったらどうかと言ってくれる。サンテレビに頼まれて、同行の本多さんがカメラを回すと、あちこちから私を見て何歳ですか、うちの親より若く見えるなどと言ってくれた。

サンパウロへ飛ぶ963便までの待ち時間に、レストランに入って、この原稿を書くことにした。実は空港のラウンジのテレビでブラジル対クロアチアの開幕試合を見るつもりでいたが、画面にはゴルフの全米オープンが映っていた。それでもスポーツニュースではネイマールのシュートなどを映してくれた。

私には縁遠いiPhoneで本多さんが経過を逐一教えてくれるので、いまさらまさに伝達手段の高速化「瞬時に世界中の情報を知ることのできる」時代にいることを改めて実感する。

その過程で78分にブラジル2−1を知る。リードされての逆転で盛り上がるだろう。クロアチアは引き分けたいと攻めに出れば、ブラジルの3点目もありうると思っていたら、アディショナルタイムで3点目が生まれたので、ちょっとニンマリ。点を取ったのが、ネイマールとともに私のごひいきのオスカルだから、もう一度ニンマリ。

工事の遅れやデモが大きく報じられて、完璧主義の日本人の目からは大丈夫かと危ぶむ声の多かった大会も、これで一気に盛り上がるだろう。王国ブラジルのワールドカップは1950年第4回大会のマラカナンの悲劇があるだけに油断はできないにしても、今日の夜のブラジルは喜びに沸き立っただろう。

大会は期待通り行われるだろうと言っていたFIFAのブラッター会長も笑顔のはずだ。

固定リンク | ワールドカップ | コメント (2) | トラックバック (0)


神戸賀川サッカー文庫のこと

2014/06/08(日)

しばらくご無沙汰していました。お詫びとともに、近況の報告をさせていただきます。

2014年4月21日に神戸市の中央図書館内に神戸賀川サッカー文庫を開設しました。これはこのブログでも、またこれまでの書き物のなかでも折に触れて申し上げていた計画で、仕事のために集めた図書資料3500点を私たちが少年期から大倉山の図書館として呼んで親しんでいた中央図書館(地下鉄西神・山手線三宮駅から二つ目の大倉山駅下車)に寄託し、市民に読んでいただこうということにしました。5000冊のうち、サッカー仲間がボランティアで2年がかりで目録を作ってくれた3500冊をとりあえず運び込み、4月21日オープンとなったのです。

私自身は70歳になればどこか一室に図書資料を置き、そこを仕事場兼サッカー仲間の集まれる場にしたいと考えていました。自宅のある芦屋市にそういう場所をみつけ、その資料室兼仕事場にボツボツ仲間にも集まってもらおうとした時、阪神大震災がやってきて計画はストップしました。それから20年近くかかりました。

その間、関西サッカー協会、大阪府サッカー協会、兵庫県サッカー協会、神戸市サッカー協会、芦屋市サッカー協会、神戸フットボールクラブなど多くの団体やサッカー関係者のご支援をいただき、場所の選定や場所の選定や、運営をどうするかなどについて何度も相談に集まっていただきました。改めてお礼を申し上げます。また、私の出身校である神戸高校、神戸大学サッカー部OB会、また灘高校サッカー部OK会の有志が図書目録の登録に毎週3回も我が家に足を運んで地味な作業を続けて下さったことは、ただ感謝あるのみです。

神戸市は私の言う、サッカー発祥の地ではありますが、明治開港の昔からKR&AC(神戸レガッタ・アンド・アスレティッククラブ)という外人のスポーツクラブがあって、市の行政もかかわってきた歴史を持っていて、今から45年前に、当時日本で初めてのナイター施設を持つ球技(サッカー、ラグビー)専用の御崎スタジアム(現在のノエビアスタジアム)を建設したのもそのあらわれでしょう。今回の図書館内でのサッカー文庫設立案を推進された三木館長2002年ワールドカップの時の神戸会場の運営のメンバーであり、また大会前の兵庫県各地での「サッカーフォーラム in 兵庫」シリーズで尽力された方でもあります。

いわば、神戸のサッカー仲間と、市の協力によって生まれたサッカー文庫です。図書館という、「静」の中へスポーツという「動」の文化を持ち込んだことになりますが、スポーツは「する」「見る」といった直接的な喜びのほかに「語る」「読む」「書く」楽しみもあります。すでに日本の各地で図書館とサッカークラブ、スポーツクラブの協力体制が始まっています。神戸賀川サッカー文庫で多くのスポーツ人、サッカー人がサッカーの図書や資料を読むこと、語ること、時には手にすることでより深いスポーツの楽しみを味わっていただけると思います。

開所から半月ばかりの間に訪れた数はさほど多くはありませんが、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語などの図書を目にしてサッカーの巾の広さを、また各国の100年史でその長い歴史に驚かれる方もあり、また日本サッカーの歴史に70~80年前にも国際試合があり、日本代表に優秀な選手がいたことを初めて知ったという方もおられました。図書の整理がまだパーフェクトではなく、まだまだ貸し出しについての制限はありますが、まずは一度足を運んでいただければありがたいと思います。

「神戸賀川サッカー文庫」の開設と記念講演会の開催(神戸市)
賀川浩氏の寄贈による「神戸賀川サッカー文庫」が開設(SoccerKING)
神戸賀川サッカー文庫(賀川サッカーライブラリー)

固定リンク | コメント (1) | トラックバック (0)


« 2014年5月 | トップページ | 2014年7月 »