エウゼビオ
――エウゼビオが亡くなりました
賀川: 1942年1月25日生まれ。Eusebio da Silva Ferreira、エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラという名だが「エウゼビオ」で世界中通っていた。
1966年ワールドカップイングランド大会でポルトガルが3位になった時のFW、東アフリカのロレンソ・マルケス(当時ポルトガル領)の黒人家庭に生まれ、少年期から注目されてベンフィカに入り、このクラブの黄金期をつくるとともに、ワールドカップでのポルトガルの名声を高めた。66年大会では1次リーグ3組でハンガリー(3-1)、ブルガリア(3-0)、ブラジル(3-1)を破り、準々決勝で北朝鮮と対戦して0-3とリードされながら彼自身の4ゴール(うち2PK)を含めての大逆転(5-3)のヒーローとなった。準決勝でイングランド(優勝国)に2-1で敗れ、3位決定戦でソ連を倒した。ポルトガルの6試合のうち、彼は9ゴール(4PK)を叩きこんで、大会得点王となった。
エウゼビオはベンフィカとともに1970年大阪万博の年の8月に来日し、8月25日(神戸)、29日、9月1日(国立)と日本代表を相手に3試合して3戦全勝した。(3-0、4-0、6-1)神戸の試合の2日前に彼らが御崎で練習するのを見た後、控室で彼の自叙伝「マイ・ネーム・イズ・エウゼビオ」にサインしてもらった。「わが名はエウゼビオ」というこの英文のペーパーバックは彼がよくペレと比較され、ペレ2世などと言われるのに対して、私はペレでもなく、ペレの亜流でもない、私はエウゼビオだと言ったことから書名となったもの。ついでながら、66年ごろの日本の新聞の多くは彼のことをオイセビオと呼んでいた。これは当時日本サッカーを指導していたデットマル・クラマーが彼の名をドイツ語式にEUをオイと呼んだためで、私は田辺製薬の貿易部のポルトガル語に詳しい人に聞いて、エウゼビオと書いたのだが、会社の記事審査室から「他の新聞がオイセビオなのになぜ産経だけがエウゼビオなのか」と問題にされた。日本サッカーがまだ世界に目の向いていないころの話である。
私が彼のサインをもらっている時、当時の日本代表のひとり、釜本邦茂もサインをもらっていた。彼にしては珍しいことだが、66年ワールドカップの得点王のシュート力に68年オリンピック得点王も一目置いていたのだろう。今から思えば、釜本がエウゼビオからサインをもらうところをカメラに収めておけば、とてもよい記念になったのに…
エウゼビオのシュートの特色については、賀川サッカーライブラリー「わが心のゴールハンター」でご覧になってください。
エウゼビオ(1)C.ロナウドの活躍から思う、ポルトガルの“ブラックパンサー”
エウゼビオ(2)ストリートサッカーに勝利し、ボールやシューズを手に入れた少年
エウゼビオ(3)名将ベラ・グッドマンの執着。東アフリカから名門ベンフィカへ
エウゼビオ(4)対サントス、対ペニャロール。強豪相手のゴールで一躍スター
エウゼビオ(5)レアルを倒して欧州王座に。追撃、勝ち越し、突き放しのシュート
エウゼビオ(6)63年の世界選抜でスタート名を連ね、66年W杯の激戦で本領発揮
エウゼビオ(7)0-3からの逆転劇を演じ66年大会の得点王となり釜本邦茂にも影響を与えた
エウゼビオ(8)68年メキシコ五輪の得点王釜本が抑えの利いたシュートを学んだ
エウゼビオ(9)多才な芸の中でひときわ目立った抑えの利いたシュート
エウゼビオ【番外編】「ペレでも、キングでもない。私はエウゼビオ」
エウゼビオ【特別編】「PKは落ち着いて、思い切って蹴るだけ」。上から叩くシュートは、低い弾道でゴールに飛び込んだ
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