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2013年5月

1936年、JFAの代表選考に関西が異議を唱えたという昔の話から

2013/05/24(金)

――東京での日本サッカー史研究会はいかがでしたか

賀川:牛木素吉郎さんの主催している日本サッカー史研究会から話を聞きたいということで出かけました。JFAハウスの会議室で2時間越えたかな。参加者の熱心さにあっという間でした。

――テーマは

賀川:「関西から見た日本サッカー史」というテーマをもらいました。今の日本サッカーの成功は、日本サッカー界がひと握りの集団でスタートしたころから常に世界を念頭においてきたこと。私たち関西人も、特に私のような戦前の日本サッカーの最盛期に少年期を過ごし、戦後、自由な空気のなかで、再びサッカーに取り組んだ者は、グローバル・スタンダードでものを考えてきたのでした。

偉そうに言ってみても、まあ本場のイングランドやヨーロッパの先進地ドイツのまねに過ぎないのかもしれませんが…

――日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識という言葉がありましたが、これまでのスポーツはその趣が強かったから、その中でドイツのまねをするといっても大変だったはずですね。

賀川:関西には明治維新で京の都(みやこ)が東京に移った後、対東京の意識がありました。130年前から外国人が住んでいた神戸は、各種の競技の起点となったこともあり、関西では大正・昭和初期からスポーツが盛んになり、東京と試合をすることで、対抗意識が高まり、技術もアップしました。

――研究会で1936年のベルリン・オリンピックの選手選考で関西側が不満の声をあげた話をしたとか

賀川:これは研究会のメンバーの福島さんが出してくださったテーマと資料で、JFAが発表したベルリン・オリンピック代表候補のなかに大谷一二さん(故人、1934年極東大会日本代表)という関西を代表する選手が入っていなかったことから起こったことです。その背景となったのは、日本代表をチームワークのよいチームに補強することで作るのか、いい選手を集めた選抜チームにするのかという考え方の相違もあります。協会はそれまでの代表での成功と失敗から当時、日本で最も強かった早大を主にメンバーを選んだのです。関西側のいい分は、そうであっても大谷一二を外すのは不合理ということでした。私は当時、小学6年生で何もわからない歳でしたが、大戦後、関西代表で関東代表と試合するようになってから、関西の大先輩たちからかつてのこの「事件」の話をずいぶんと聞かされたものです。

――関西の先輩たちの、東への意識は植え付けられた?

賀川:もともとプロ野球でも、阪神が中日や広島と試合するときより巨人との試合の方が関西人には気になるはずです。まあ、そんな関西気質と歴史的な背景などをお話ししました。

――牛木さんが日本サッカーのグローバル・スタンダード施策などは、いま考えてみると関西からの提案が多かった、それも神戸一中のOBから出ているところに興味あるという発言もしていたとか

賀川:牛木さんは東大出で、学校の先生もしておられたから、締めくくりも上手だと思いましたね。

この話を続けると、今度は74年のワールドカップ優勝の西ドイツのメンバーがバイエルン・ミュンヘンとボルシア・メンヘングラッドバッハの2チームの混合という編成だった方に話が飛ぶことになりそうです。また当日の質問の、WMフォーメーションなどに触れると、もっと長くなるでしょう。今回はこのあたりまでにしましょう。

――フォーメーションについては、前にコーチを集めてのミーティングで聞きましたが、独自理論をもう一度聞きたいものです。

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Jリーグ20周年レセプションでの感慨 〜 このときというタイミングで見事に立ち上げ、その後の発展に努力したJの関係者にまずお礼を

2013/05/18(土)

――5月17日のJリーグ20周年のレセプションパーティに出席されたそうですね

賀川:立派な招待状をもらったので、まずはお祝いを申し上げるだけでも、と出かけました。その前の週にも20周年について雑誌社のインタビューがありましたよ。

――まあJリーグはいまや社会現象のひとつですからね。パーティは盛会だったでしょう

賀川:すごい人でしたが、川淵さん、鬼武さん、大東さんたち歴代のチェアマンにも、大仁会長にもおめでとうだけは言うチャンスがありました。JFA名誉総裁の高円宮妃殿下にも、こういうレセプションではいつもご挨拶するのですが、たくさんの人の列で機会を逸しました。

――第2代チェアマンの鈴木さんは

賀川:顔が見えたからゆこうと思ったら、誰かにつかまって結局言葉を交わせないまま残念でした。鈴木さんは六甲高校出身、小学校は雲中小学校で私の後輩になります。

――珍しい顔に会いましたか

賀川:第1回のアジアユース大会の選手だった山田通夫くんに声をかけられました。東京高師附属で、当時2年生でしたが、上手なプレーヤーでね、1959年の紅顔の少年も白髪のおいじさんになっていたが、顔も雰囲気も昔のまま。彼は慶応を出てからサンケイスポーツへ入社し、テレビ局に移ったので、Jがスタートしたとき、私がマッチコミッショナーで試合を見に行って会いました。そんな話をしている時に成田十次郎先生に声をかけられ、先生が山田くんを教えたことがあるそうで話がはずみました。成田先生はドイツ留学中にデットマル・クラーマーの評判を聞いてJFAの野津謙会長にレポートしてクラーマー来日の道を開いた人ですからね。

――東京教育大学サッカー部史の年度別名簿を見ると、成田先生は昭和30年卒ですね

賀川:たしか亡くなった藤枝東の長池実さんや、共同通信の大記者になった村岡 博人さんたちと同じくらいのはずですよ。もっとも会場にいたセレッソの森島寛晃くん(モリシ)に1959年のユース代表に会ったよと言うと「スゴい!ボクは生まれていません」と言いましたがね。

――20年前を振り返ると

賀川:国立競技場での川淵チェアマンの挨拶もよかったし、すべてが新鮮で感動的でした。JFAの副会長だった長沼健さんが「サッカーは完全に変わりました」と言っていました。70〜80年代の低迷期に少しずつJFAの基礎を固めグローバル・スタンダードの形をとるようにして、Jの開幕に漕ぎ着けた。

――動きの鈍かったJFAが一気にプロ化に向かって動き出したという感じでしたね。関西から見ていると

賀川:後から見れば、この時期だという時に、この人だというチェアマンがいて、その仲間が一気に駆け出したという感じ。ある時、準備室を訪れて、まさに分刻み、秒刻みの仕事ぶりに感嘆したことを覚えていますよ。

――20年いろいろありましたが

賀川:関係者当事者、バックアップしてくださったスポンサーの皆さんたちの努力と智力でここまで来た。93年のプロ化とともに、2002年のワールドカップ招致に向かって動いたのも、すごいことだった。

――大づかみに言えば、プロ化で少なくとも10チームが、芝生のピッチの最低1万5千人収容のスタジアムを持つことになった。2002年のワールドカップ招致で各国代表チームの練習場を作ることになり、地方に芝生のグラウンドが整備されることになった

賀川:東京オリンピックは首都、あるいは首都圏でのスポーツ一極集中化につながったが、ワールドカップはJリーグとともに、地方に上質のピッチをたくさん生むことになった。

――プロ化によって、選手たちの意欲も上がった

賀川:プレーヤー、選手にとってはお金のこともあるが、世界と同じカテゴリーで戦えるということが大きかったと思う。もちろん家族たちにとっては子どもの素質、努力によってその子の好きな道を職業に選ばせる可能性ができた。

――Jリーグの20年の入場者が1億人を超えました。ワールドカップの本番に出ることが当たり前のようになった。女子はワールドカップで勝てるようになった。すごい成果です

賀川:まずJのファンが増え、その底力の上に、代表が世界に向かうことになる。もちろん、代表の好成績はJの値打ちを高め、ファンの興味を高めることにもなる。いまはそれが比較的にうまくいっています。指導者層、それぞれのチームやカテゴリーのコーチのレベルも上がっているし、多くの子どもたちがサッカーを好きになる環境も整っています。香川真司のマンチェスター・ユナイテッドでの活躍は、日本サッカーのレベルアップを示すものですが、まだまだ十分ではありません。

――レセプションでいろいろ考えられたことがあるでしょうから、追々Jの20年について聞くことにします

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