1936年、JFAの代表選考に関西が異議を唱えたという昔の話から
――東京での日本サッカー史研究会はいかがでしたか
賀川:牛木素吉郎さんの主催している日本サッカー史研究会から話を聞きたいということで出かけました。JFAハウスの会議室で2時間越えたかな。参加者の熱心さにあっという間でした。
――テーマは
賀川:「関西から見た日本サッカー史」というテーマをもらいました。今の日本サッカーの成功は、日本サッカー界がひと握りの集団でスタートしたころから常に世界を念頭においてきたこと。私たち関西人も、特に私のような戦前の日本サッカーの最盛期に少年期を過ごし、戦後、自由な空気のなかで、再びサッカーに取り組んだ者は、グローバル・スタンダードでものを考えてきたのでした。
偉そうに言ってみても、まあ本場のイングランドやヨーロッパの先進地ドイツのまねに過ぎないのかもしれませんが…
――日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識という言葉がありましたが、これまでのスポーツはその趣が強かったから、その中でドイツのまねをするといっても大変だったはずですね。
賀川:関西には明治維新で京の都(みやこ)が東京に移った後、対東京の意識がありました。130年前から外国人が住んでいた神戸は、各種の競技の起点となったこともあり、関西では大正・昭和初期からスポーツが盛んになり、東京と試合をすることで、対抗意識が高まり、技術もアップしました。
――研究会で1936年のベルリン・オリンピックの選手選考で関西側が不満の声をあげた話をしたとか
賀川:これは研究会のメンバーの福島さんが出してくださったテーマと資料で、JFAが発表したベルリン・オリンピック代表候補のなかに大谷一二さん(故人、1934年極東大会日本代表)という関西を代表する選手が入っていなかったことから起こったことです。その背景となったのは、日本代表をチームワークのよいチームに補強することで作るのか、いい選手を集めた選抜チームにするのかという考え方の相違もあります。協会はそれまでの代表での成功と失敗から当時、日本で最も強かった早大を主にメンバーを選んだのです。関西側のいい分は、そうであっても大谷一二を外すのは不合理ということでした。私は当時、小学6年生で何もわからない歳でしたが、大戦後、関西代表で関東代表と試合するようになってから、関西の大先輩たちからかつてのこの「事件」の話をずいぶんと聞かされたものです。
――関西の先輩たちの、東への意識は植え付けられた?
賀川:もともとプロ野球でも、阪神が中日や広島と試合するときより巨人との試合の方が関西人には気になるはずです。まあ、そんな関西気質と歴史的な背景などをお話ししました。
――牛木さんが日本サッカーのグローバル・スタンダード施策などは、いま考えてみると関西からの提案が多かった、それも神戸一中のOBから出ているところに興味あるという発言もしていたとか
賀川:牛木さんは東大出で、学校の先生もしておられたから、締めくくりも上手だと思いましたね。
この話を続けると、今度は74年のワールドカップ優勝の西ドイツのメンバーがバイエルン・ミュンヘンとボルシア・メンヘングラッドバッハの2チームの混合という編成だった方に話が飛ぶことになりそうです。また当日の質問の、WMフォーメーションなどに触れると、もっと長くなるでしょう。今回はこのあたりまでにしましょう。
――フォーメーションについては、前にコーチを集めてのミーティングで聞きましたが、独自理論をもう一度聞きたいものです。
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コメント
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投稿: polo homme ralph lauren | 2013年5月29日 (水) 12時58分