続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(下)
皆木3兄弟の次兄・良夫さん(後列中央)
賀川:ボクの1年下の岩谷俊夫たちはほとんど小学校からボールに慣れていていい選手が揃っていた。1年あとの彼らは体は丈夫そうだがボール扱いが下手だった。神戸一中が全国で優勝を続けるためにはどの年度もレベルアップしなければならないと、この45回生はずいぶん練習させた。ときには恨まれたこともあったがネ。
――鴇田正憲、岡田吉夫という日本代表が出ましたね。
賀川:それも嬉しいことだが、ここで一つ言っておきたいのは、ボクが同志社大学の夏の合宿のコーチを頼まれたときに、この45回の面々に集まってもらって実演したことがあった。
――関学のキャプテンだった鴇田さんにドリブルをさせ、それを同志社の選手が200メートル走っても追いつかなかったという話を聞きました。
賀川:それもあるが、別の日に皆木肇とやっチン、鴇田、飯田、岡田に来てもらって、同志社の練習のハーフマッチで、かねてから考えていた攻めの動きをテストした。
――ふーむ、どのような
賀川:3FBを基礎とするマンマークを外してゴールを奪うために、ボールを持たない選手が動くこと、それも単純な縦や横でなく、斜めにクロスして走るのをやった。ボクはクリス・クロスの交差(十字の交差)と名付けたのだが、これで面白いようにノーマークをつくり点を取った。もちろん相手の力が下ということもあるが、ボクは自分の考えが間違っていないのを喜んだ。このあとで来日したスウェーデンのヘルシンボリが同じ動きをしたのを見て、我が意を得たりというところだった。
――ヘルシンボリについては最近のサッカーマガジンの『日本とサッカー、90年』にも書かれていますね。
それはそうと、話のなかに皆木肇という名前がありましたが、皆木3兄弟とは?
賀川:親類でも何でもなく、同姓で、彼は中学5年で海軍兵学校へ行き戦争が終わって神戸大学へ入りプレーした。お尻が大きいので「モケ」というアダ名だった。彼は事あるごとに、あの同志社のときは面白かったといっていた。気の毒に、阪神大震災で自宅が倒壊し、その中で死んでしまった。
――皆木吉泰さんから45回生全体の話になりました。
賀川:彼らは少年期に厳しい練習をしながら、大戦争で中断された。ボクや兄・太郎たちと同じ戦中派だけに、彼らのことはいつも頭に残っています。それでも45回生、またはそれより1~3歳下の学年よりはまだマシな時期だったかもしれない。いずれにせよ、ひどい時代に育った仲間ですよ。ドクターになった“やっチン”や飯田純クンにはいろいろ世話になった。改めてお礼を言いたいね。
【了】
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