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ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰

2011/10/12(水)

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1942年全国大会優勝の神戸一中FW
前列右が皆木吉泰、隣は鴇田正憲。
後列左から岩谷俊夫主将、竹一能文、吉森宏之(後年、宏行と改名)



――神戸市サッカー協会の前会長・皆木吉泰さんが10月3日に亡くなり、4日にお通夜、五日に葬儀、告別式が神戸平安祭典(神戸市灘区浜田町)で行なわれました。

賀川:4日のお通夜にゆきたかったが、体調が良くなかったので告別式に出席しました。ちょうど7日にホームズスタジアム神戸で代表の試合があるから、そのときには、また顔を見られると楽しみにしていたのですが……

――すっかり足腰が弱ってからも、ヴィッセル神戸の試合には欠かさずスタジアムまで出かけておられました。そう、賀川さんもスタジアムで会われたのでしたね。

賀川:そういえば、昨年に私が殿堂入り表彰を受けたあと、神戸のヴィッセルの試合のときに兵庫県協会やヴィッセルの関係者の計らいで、私の殿堂入りを祝うセレモニーを試合前にして下さった。そのときにスタンドの隣の席に彼がいた。比那子(ひなこ)夫人とお嬢さんが付き添って、車イスで来ていた。声をかけたら、とても嬉しそうな表情をしてくれました。あれから1年近く経ってしまった。もっと早く、顔を見にゆけばよかったのに……

――神戸市の医師会の会長として、阪神大震災のときにも立派な仕事をされた話を聞いていますが、ご本人はドクターとしての天職と同じように、若い頃サッカーに打ち込んだことが誇りで、また、いつもサッカーのことを考え、バックアップしようとしておられたそうですね。

賀川:皆木家はドクターの家系だが、3人の男兄弟は長兄の忠夫が神戸一中40回、次兄・良夫が42回、末弟の吉泰が45回。3人とも一中サッカー部黄金期のいい選手でした。

――賀川さんは43回でしたね。兄・太郎さんは41回だから、忠夫さんと同じチームで……

賀川:そう、忠夫さんは4年生(旧制中学は5年制)のときからレギュラーで当時3年生だった私の兄とともにインサイドFWだった。今でいう攻撃的MFです。全国大会決勝で埼玉師範に敗れて準優勝、次の5年生の年には優秀した。予選から決勝まで無失点、朝鮮半島(当時は日本領だった)代表の崇神商業をはじめ、東京の豊島師範といった強チームをなぎ倒しての優勝だった。
 次兄の良夫さんは私より1年上で、キャプテンとして苦労したが全国大会にはゆけなかった。本人はのちに早大のキャプテンも務めた選手。4年生のときには兄・太郎のチームで明治神宮大会に優勝したメンバーで、今でいう守備的MFだった。
 吉泰は、「よしやす」という名から、仲間内では「やっチン」でとおっていた。足が速く、すり抜けるドリブルのうまいプレーヤーで、CFとして4年生からレギュラーになり、昭和17年(1942年)夏の全国中等学校総合大会のサッカーの部で優勝(毎日新聞主催の、今の全国高校選手権大会の前身である中学選手権は中止されていた)、秋の明治神宮大会では決勝で青山師範と引き分け両校1位となっている。彼はこのときの準決勝、朝鮮半島代表の培材中学との試合で1ゴール(2-0で勝利)している。
 そういえば、長兄の忠夫さんも昭和13年(1938年)夏の全国大会の対崇神商業(2-0で勝利)で1ゴールしているから、兄弟で中学生時代に朝鮮地方代表からゴールを奪ったという珍しい記録の持ち主ですよ。

【つづく】

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