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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(上)

2011/10/19(水)

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皆木3兄弟の長兄・忠夫さん(前列左端)
その後方は賀川浩の兄・太郎さん
昭和13年、兵庫県中学校10マイルレースで神戸一中が団体優勝したとき



――前・神戸市サッカー協会会長・皆木吉泰さんがサッカー選手だったとは聞いていましたが、3人の兄弟がそれぞれ実績を持っていたのですね。

賀川:3兄弟は神戸の諏訪山(すわやま)小学校出身で、体は大きくはなかったがそれぞれ特徴のあるいいプレーヤーでしたヨ。
 長兄の忠夫さんが神戸一中に入学したのが昭和9年だから、このときの最上級生が36回の大山政行、二宮洋一(第2回サッカー殿堂入り)津田幸男、前川光男、笠原隆、直木和、田島昭策といった錚々たるメンバー。4年生に大谷四郎(第6回サッカー殿堂入り)がいた。

――いわば戦前の神戸一中黄金期ですね。

賀川:そう、河本春男先生が着任して3年目。このすぐれた指導者を得て神戸一中サッカー部が伝統のうえにさらに新しい力を加える時期だった。忠夫さんは神戸一中で全国準優勝と優勝を経験し、第六高等学校でも旧制インターハイのチャンピオンになった。京大を卒業して住友金属工業に就職し、会社のサッカー部でも活躍するとともに、サッカー部長をも務めた。実業団時代は全国優勝はなかったが、このクラブがのちに鹿島アントラーズとなってジーコとともにJリーグをリードするクラブとなったのは皆さんもご存知のこと。忠夫さんは稲作でいえば苗床(なえどこ)をつくったことになるだろうか。

――すごい話ですね。

賀川:良夫さんは早大に進んだ。同じ一中の後輩では岩谷俊夫(44回/第2回サッカー殿堂入り)岡田吉夫(45回)たちが早大へやってきたから、強いチームをつくることができた。

――吉泰さんは、プレーヤーとしての大事な時期に太平洋戦争にぶつかった。

賀川:彼が中学3年生のときに戦争が始まった。それでも次の昭和17年は、先述したとおり全国大会があり、4年生のときはタイトルも取った。5年生のときも強いチームだったが、全国大会は戦局のために開催されず夏と秋に兵庫県の大会が1回ずつ行なわれ、どちらも優勝したが全国で試すチャンスはなかった。

――大戦後は

賀川:ボクや兄も軍隊から復員してすぐにボールを蹴り始めた。彼は父君の後を継いでドクターへの道を進んだ。それでも戦後しばらくはサッカーの集まりに顔を出していた。確か、戦後初めての日本代表候補の強化合宿が静岡県・三島で行なわれたとき彼も参加したハズですよ。

――代表候補だったのが“やっチン”さんのプライドですね。

賀川:彼や鴇田正憲(第2回サッカー殿堂入り)、飯田純、岡田吉夫、三木武、鶴岡襄治、そして皆木肇、伊藤光一といった神戸一中45回生、つまり私の2年下の7人の一人ひとりはボクの秘蔵っ子でもあった。

――というと

【つづく】

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