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2011年10月

フットウェアの保温効果に唐辛子入り繊維……よみがえる半世紀前の日韓戦の寒さの記憶

2011/10/27(木)

――朝晩がめっきり冷えるようになりました。

賀川:10月も下旬だから「つるべ落とし」といわれるくらいに日の沈むのが早くなり、暗くなると一気に気温が下がる。天気の良い日はそれが顕著だね。秋への嬉しさでもあり、淋しさでもある。冷え込みから10月27日のNHKの朝の番組でフットウェアの話が出ていた。

――朝のって、ごひいきの有働由美子さんが司会している番組ですね。

賀川:ストッキングやタイツといった、足をあたたかくする女性のフットウェアがとてもファッショナブルになっているということで、色んな色合いやデザインのものが次々に登場していた。

――足に関心があるといっても、賀川さんにはめずらしいことですね。

賀川:その最後のあたりで、保湿効果のあるストッキングだったかの素材に「唐辛子」を織り込んだものがあると聞いたので感心したんですヨ。

――唐辛子ねぇ

賀川:1954年のワールドカップの予選で、最初の日韓戦が東京で行なわれたのは知っているでしょう。

――第1戦が3月7日で、天候が前日に急変して雪が降り、明治神宮競技場(旧・国立競技場)のピッチは最悪の条件。いったん雪が溶けて、当日朝の寒さで薄氷が張っていたとか。

賀川:その第1戦は1-5で韓国に敗れ、第2戦(3月14日)は同じグラウンドで天気も良かったが、2-2で引き分け、韓国が東アジアの代表としてスイス大会に出場した。

――それが、唐辛子と……?

賀川:第1戦で、寒さに慣れない日本選手は参ってしまったのに、寒いソウルからやってきた韓国の選手は苦にしなかった。泥水の中でスライディングしたDF山路修は、そのあと上半身が痺れたようになったという。

――だいたい、こんな日に試合をするのも難しいですね。

賀川:英国人のレフェリーは中止を勧告したのだが……。
 それは別として、今日のボクの話は、日本選手の常識に無かった寒い悪コンディションに、韓国側が元気なプレーをしているので、兄・太郎が彼らに尋ねたら……

――賀川太郎さんは第1戦も第2戦もフル出場でしたね。

賀川:韓国の選手はこういう日に、靴の中に「唐辛子」を入れておくと、とても温かいといっていたそうだ。

――なるほど、それが朝のテレビの話題と結びつくわけか。

賀川:いまなら常識になっているようで、「唐辛子」効果も57年前の日本サッカーではコーチも選手も知らなかった。

――そういえば、太郎さんは51年のニューデリーでもレモンの話を持って帰りましたね。

賀川:あれは寒さでなくて、インドの3月の乾燥期の暑さでの経験。水を飲むと喉が引っ付いてしまう感じになったそうで、インドの人たちはレモンの小片を口に入れるといいといっていたらしい。

――いろいろな経験を積んで、日本のサッカーは少しずつ積み上げてきたということですね。

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(下)

2011/10/20(木)

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皆木3兄弟の次兄・良夫さん(後列中央)


賀川:ボクの1年下の岩谷俊夫たちはほとんど小学校からボールに慣れていていい選手が揃っていた。1年あとの彼らは体は丈夫そうだがボール扱いが下手だった。神戸一中が全国で優勝を続けるためにはどの年度もレベルアップしなければならないと、この45回生はずいぶん練習させた。ときには恨まれたこともあったがネ。

――鴇田正憲、岡田吉夫という日本代表が出ましたね。

賀川:それも嬉しいことだが、ここで一つ言っておきたいのは、ボクが同志社大学の夏の合宿のコーチを頼まれたときに、この45回の面々に集まってもらって実演したことがあった。

――関学のキャプテンだった鴇田さんにドリブルをさせ、それを同志社の選手が200メートル走っても追いつかなかったという話を聞きました。

賀川:それもあるが、別の日に皆木肇とやっチン、鴇田、飯田、岡田に来てもらって、同志社の練習のハーフマッチで、かねてから考えていた攻めの動きをテストした。

――ふーむ、どのような

賀川:3FBを基礎とするマンマークを外してゴールを奪うために、ボールを持たない選手が動くこと、それも単純な縦や横でなく、斜めにクロスして走るのをやった。ボクはクリス・クロスの交差(十字の交差)と名付けたのだが、これで面白いようにノーマークをつくり点を取った。もちろん相手の力が下ということもあるが、ボクは自分の考えが間違っていないのを喜んだ。このあとで来日したスウェーデンヘルシンボリが同じ動きをしたのを見て、我が意を得たりというところだった。

――ヘルシンボリについては最近のサッカーマガジンの『日本とサッカー、90年』にも書かれていますね。
 それはそうと、話のなかに皆木肇という名前がありましたが、皆木3兄弟とは?

賀川:親類でも何でもなく、同姓で、彼は中学5年で海軍兵学校へ行き戦争が終わって神戸大学へ入りプレーした。お尻が大きいので「モケ」というアダ名だった。彼は事あるごとに、あの同志社のときは面白かったといっていた。気の毒に、阪神大震災で自宅が倒壊し、その中で死んでしまった。

――皆木吉泰さんから45回生全体の話になりました。

賀川:彼らは少年期に厳しい練習をしながら、大戦争で中断された。ボクや兄・太郎たちと同じ戦中派だけに、彼らのことはいつも頭に残っています。それでも45回生、またはそれより1~3歳下の学年よりはまだマシな時期だったかもしれない。いずれにせよ、ひどい時代に育った仲間ですよ。ドクターになった“やっチン”や飯田純クンにはいろいろ世話になった。改めてお礼を言いたいね。


【了】

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続・ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰(上)

2011/10/19(水)

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皆木3兄弟の長兄・忠夫さん(前列左端)
その後方は賀川浩の兄・太郎さん
昭和13年、兵庫県中学校10マイルレースで神戸一中が団体優勝したとき



――前・神戸市サッカー協会会長・皆木吉泰さんがサッカー選手だったとは聞いていましたが、3人の兄弟がそれぞれ実績を持っていたのですね。

賀川:3兄弟は神戸の諏訪山(すわやま)小学校出身で、体は大きくはなかったがそれぞれ特徴のあるいいプレーヤーでしたヨ。
 長兄の忠夫さんが神戸一中に入学したのが昭和9年だから、このときの最上級生が36回の大山政行、二宮洋一(第2回サッカー殿堂入り)津田幸男、前川光男、笠原隆、直木和、田島昭策といった錚々たるメンバー。4年生に大谷四郎(第6回サッカー殿堂入り)がいた。

――いわば戦前の神戸一中黄金期ですね。

賀川:そう、河本春男先生が着任して3年目。このすぐれた指導者を得て神戸一中サッカー部が伝統のうえにさらに新しい力を加える時期だった。忠夫さんは神戸一中で全国準優勝と優勝を経験し、第六高等学校でも旧制インターハイのチャンピオンになった。京大を卒業して住友金属工業に就職し、会社のサッカー部でも活躍するとともに、サッカー部長をも務めた。実業団時代は全国優勝はなかったが、このクラブがのちに鹿島アントラーズとなってジーコとともにJリーグをリードするクラブとなったのは皆さんもご存知のこと。忠夫さんは稲作でいえば苗床(なえどこ)をつくったことになるだろうか。

――すごい話ですね。

賀川:良夫さんは早大に進んだ。同じ一中の後輩では岩谷俊夫(44回/第2回サッカー殿堂入り)岡田吉夫(45回)たちが早大へやってきたから、強いチームをつくることができた。

――吉泰さんは、プレーヤーとしての大事な時期に太平洋戦争にぶつかった。

賀川:彼が中学3年生のときに戦争が始まった。それでも次の昭和17年は、先述したとおり全国大会があり、4年生のときはタイトルも取った。5年生のときも強いチームだったが、全国大会は戦局のために開催されず夏と秋に兵庫県の大会が1回ずつ行なわれ、どちらも優勝したが全国で試すチャンスはなかった。

――大戦後は

賀川:ボクや兄も軍隊から復員してすぐにボールを蹴り始めた。彼は父君の後を継いでドクターへの道を進んだ。それでも戦後しばらくはサッカーの集まりに顔を出していた。確か、戦後初めての日本代表候補の強化合宿が静岡県・三島で行なわれたとき彼も参加したハズですよ。

――代表候補だったのが“やっチン”さんのプライドですね。

賀川:彼や鴇田正憲(第2回サッカー殿堂入り)、飯田純、岡田吉夫、三木武、鶴岡襄治、そして皆木肇、伊藤光一といった神戸一中45回生、つまり私の2年下の7人の一人ひとりはボクの秘蔵っ子でもあった。

――というと

【つづく】

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大型日本代表FWハーフナー・マイクのゴール。長い記者生活での初体験、194センチの豪快ヘディング(下)

2011/10/19(水)

●2014FIFAワールドカップブラジル アジア3次予選 GroupC
 第1節 2011年10月11日19時45分キックオフ
 日本 8-0 タジキスタン
   (4-0、4-0)


――中村憲剛のトップ下も良かった。

賀川:1点目は右サイドでのパス交換のキープのあとのクロスをハーフナー・マイクが叩き込んだが、これは
(1)長谷部誠からのパスを受けた駒野友一が、
(2)前へ出た中村にスルーパスを送り、
(3)ペナルティエリア外、ゴールライン近くの中村が駒野に戻す。
(4)それを駒野がダイレクトで右足でクロスを蹴り、ファーポストに走ってジャンプしたマイクが力強くヘディングした

――憲剛の得意の飛び出しですね。

賀川:このとき、相手側はエリア内でゴールを守るために5人いた。日本は岡崎慎司とマイクの2人だけだった。憲剛の深い位置からのクロスではまだマイクの体勢ができていなかったから、中村は後ろへ戻した。このスルーパスのあとのバックパスで、タジクのDFの目はボールに注がれる。後方からジャンプヘッドの体勢に入ってくるマイクは気付かれないうちにいいポジションで踏切に入れたのですよ。

――身長差があるうえに、“消えた”位置から出て来たマイクに相手のDFは勝てなかったというわけですね。

賀川:ヘディングをしたときのマイクは首一つどころか胸から上が出ていたくらい相手より高かったからね。

――ザックさんも自分の狙いが当たって喜んだでしょうね。

賀川:ハーフナー・マイクが自らのゴールで代表チームの中での自信をつけたハズ。そのことが何よりだね。

――小さいのが“売り”のようでもあった日本代表に、194センチのノッポが加わった。オランダからの帰化人という点に抵抗はありませんか?

賀川:ボクのような古い日本人にとっては、60年来見続けた代表で初めてこれほどの長身FWが日本にできたことはとても嬉しいことですヨ。日本にも、1968年メキシコ五輪銅メダルチームには釜本邦茂という当時の大型ストライカーがいた。彼は身長182センチで日本代表の中ではズバ抜けた体格だった。GK横山謙三が175センチの頃ですヨ。世界的に見ても、74年ワールドカップ優勝チームの西ドイツ代表GKゼップ・マイヤーが182センチだった。ということは、大型化された今の世界のサッカーで各国のトップ級GKは187~188センチから190センチが普通でしょう。となると大型FWといえばやはり190センチクラスとなる。
 1988年のオランダのマルコ・ファンバステンルート・フリットの登場以来、大型化が進み、2006年ワールドカップ優勝のイタリアチームには3人の190センチクラスがいた。一人はFW、一人はサイド、一人は中央のDFだった。

――バルセロナのような小兵の攻撃陣が活躍するチームも出てきていますが……

賀川:そう、そこがサッカーの面白いところですよ。しかし日本は、自分たちが平均して欧米人より背が低いからといって大型選手を諦めてはいけない。かつての釜本の例もあり、この1億2,000万の人口、長い日本列島の中には大型の優秀プレーヤーになる素材が少なくないハズです。

――バレーボールを見ても大型のいい選手はいますね。

賀川:今度はたまたまハーフナー・マイクというオランダ系のプレーヤーが代表に加わった。これは日本サッカーがこういうオランダの家族をも魅きつける力を持った、日本全体のサッカーが大きくなったといえるでしょう。こういう例を見れば、日本人で大柄な少年がサッカーへの興味を増してくれるだろうし、また、家族のバックアップも違ってくると思いますヨ。

――その意味で、賀川さんはこの試合が歴史的だというのですね。


【了】

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大型日本代表FWハーフナー・マイクのゴール。長い記者生活での初体験、194センチの豪快ヘディング(上)

2011/10/18(火)


●2014FIFAワールドカップブラジル アジア3次予選 GroupC
 第1節 2011年10月11日19時45分キックオフ
 日本 8-0 タジキスタン
   (4-0、4-0)


――日本代表が11分にハーフナー・マイクのヘディングシュートで先制して、前半に4-0とし後半も攻撃の手を緩めず4得点を加えて8-0で大勝した。タジキスタンはこのグループでウズベキスタンと北朝鮮に2敗していますが、どちらも0-1という僅差だったから日本側も相当警戒していたのですが……

賀川:これで3次予選は3戦2勝1分け。同じ日にウズベキスタンが北朝鮮を破って2勝1分けと勝敗数で日本と並んだ。日本はこの8ゴールで得失点差で大きく上回って、残りの3試合が有利になった。しかし何より、私にはハーフナー・マイクが代表初ゴールしただけでなく、新しい大型FWとして代表のメンバーとなったことが嬉しいね。

――大型FWが必要――は、賀川さんの長年の意見でしたが、それが平山相太でなくてハーフナーだった

賀川:日本のサッカー史上で194センチの長身FWが代表のメンバーとして出場してヘディングで得点したのは初めてのこと。クラブでも昨季、J1昇格の力となっていた。

――ザッケローニさんは目をつけていたのでしょうね。

賀川:194センチの高さは魅力。上背があるからヘディングは自分の武器だと心得て練習を積めば、能力を増す。高さだけでなく体全体が強くなり、足元のボール扱いもしっかりしている(一家挙げてプロを目指しているのだから当然だろう)。J1でのプレーを観察した監督さんが放っておくハズはないでしょう。

――3次予選シリーズに招集し、第1戦の対北朝鮮、第2戦の対ウズベキスタンに途中出場させた。得点はなかったが威力はあった。

賀川:このタジク戦の前のキリンチャレンジカップ、対ベトナム(10月7日)にも出場させる予定だったが、メンバーの故障などでピッチに立てなかった。しかし、この高さは生きるとザックさんは思ったのだろう。

――それが先制ゴールになって表れ、チームもスタンドもムードが一気に良くなり、8-0の完勝につながった。

賀川:この日の長居では選手たちもしっかりプレーしようという気迫があった。キリンチャレンジカップのベトナム戦は、相手が抵抗力のあるチームであったことと、遠藤保仁が休み、岡崎慎司も欠場した。何といっても遠藤がいないと日本代表チームの攻めの幅や深さが違ってくるからね。ベトナム戦で調子の上がらなかったぶん、代表チーム全体に気持ちが強まっていたハズですよ。
 日本チームがやる気になって、動き出しも早くなっている。しかも相手のタジクはボールの競り合いのときに粘りがない。第1、2戦ではファウル気味のタックルがずいぶんあったのに、今度はそうではない。相手のプレッシングが弱ければ、日本の技は冴える。しかも気持ちも動きも最後まで落ちなかったから、長居に集まったサポーターにはとても楽しい夜になった。


【つづく】

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ドクターとして、プレイヤーとして、兵庫・神戸の医療とサッカーに尽くした“やっチン”皆木吉泰

2011/10/12(水)

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1942年全国大会優勝の神戸一中FW
前列右が皆木吉泰、隣は鴇田正憲。
後列左から岩谷俊夫主将、竹一能文、吉森宏之(後年、宏行と改名)



――神戸市サッカー協会の前会長・皆木吉泰さんが10月3日に亡くなり、4日にお通夜、五日に葬儀、告別式が神戸平安祭典(神戸市灘区浜田町)で行なわれました。

賀川:4日のお通夜にゆきたかったが、体調が良くなかったので告別式に出席しました。ちょうど7日にホームズスタジアム神戸で代表の試合があるから、そのときには、また顔を見られると楽しみにしていたのですが……

――すっかり足腰が弱ってからも、ヴィッセル神戸の試合には欠かさずスタジアムまで出かけておられました。そう、賀川さんもスタジアムで会われたのでしたね。

賀川:そういえば、昨年に私が殿堂入り表彰を受けたあと、神戸のヴィッセルの試合のときに兵庫県協会やヴィッセルの関係者の計らいで、私の殿堂入りを祝うセレモニーを試合前にして下さった。そのときにスタンドの隣の席に彼がいた。比那子(ひなこ)夫人とお嬢さんが付き添って、車イスで来ていた。声をかけたら、とても嬉しそうな表情をしてくれました。あれから1年近く経ってしまった。もっと早く、顔を見にゆけばよかったのに……

――神戸市の医師会の会長として、阪神大震災のときにも立派な仕事をされた話を聞いていますが、ご本人はドクターとしての天職と同じように、若い頃サッカーに打ち込んだことが誇りで、また、いつもサッカーのことを考え、バックアップしようとしておられたそうですね。

賀川:皆木家はドクターの家系だが、3人の男兄弟は長兄の忠夫が神戸一中40回、次兄・良夫が42回、末弟の吉泰が45回。3人とも一中サッカー部黄金期のいい選手でした。

――賀川さんは43回でしたね。兄・太郎さんは41回だから、忠夫さんと同じチームで……

賀川:そう、忠夫さんは4年生(旧制中学は5年制)のときからレギュラーで当時3年生だった私の兄とともにインサイドFWだった。今でいう攻撃的MFです。全国大会決勝で埼玉師範に敗れて準優勝、次の5年生の年には優秀した。予選から決勝まで無失点、朝鮮半島(当時は日本領だった)代表の崇神商業をはじめ、東京の豊島師範といった強チームをなぎ倒しての優勝だった。
 次兄の良夫さんは私より1年上で、キャプテンとして苦労したが全国大会にはゆけなかった。本人はのちに早大のキャプテンも務めた選手。4年生のときには兄・太郎のチームで明治神宮大会に優勝したメンバーで、今でいう守備的MFだった。
 吉泰は、「よしやす」という名から、仲間内では「やっチン」でとおっていた。足が速く、すり抜けるドリブルのうまいプレーヤーで、CFとして4年生からレギュラーになり、昭和17年(1942年)夏の全国中等学校総合大会のサッカーの部で優勝(毎日新聞主催の、今の全国高校選手権大会の前身である中学選手権は中止されていた)、秋の明治神宮大会では決勝で青山師範と引き分け両校1位となっている。彼はこのときの準決勝、朝鮮半島代表の培材中学との試合で1ゴール(2-0で勝利)している。
 そういえば、長兄の忠夫さんも昭和13年(1938年)夏の全国大会の対崇神商業(2-0で勝利)で1ゴールしているから、兄弟で中学生時代に朝鮮地方代表からゴールを奪ったという珍しい記録の持ち主ですよ。

【つづく】

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