半世紀前、ソ連チーム初来日のプログラム
本田圭佑選手のおかげで、日本のファンもロシアのサッカーに関心が高まっていることだろう。少し古い話になるが、東京オリンピックを目指して強化に懸命だった頃の日本サッカーには、当時のソ連(ソビエト社会主義連邦共和国)との交流は代表のレベルアップの重要な方法の一つだった。
1960年の日本代表のソ連・欧州への長期遠征は、このときにデットマール・クラマーに会ったことで、日本サッカーの歴史的なターニングポイントでもあるが、この最初のソ連遠征と西ドイツ・デュイスブルクでの合宿のあと、初めてソ連のサッカーチームが来日した。
ロコモチフ・モスクワ。ロコモチフ(機関車)の名の示すとおり、鉄道従業員クラブでソ連国内の1部リーグ(22チーム)の上位だった。日本で日本選抜と2試合、全広島、古河電工と各1試合、合計4試合を行なった。
当時、クラマーが私に語ったのは、「ソ連は競技人口も多く、サッカー大国であり、その1部リーグの上位は西欧のプロと戦っても遜色ない力を持っている。日本にとってはとてもいい経験になる」。
日本代表ともいうべき日本選抜は11月27日に西京極で戦い1-5、12月11日、東京・国立では3-10だった。
私には、ロシア人たちのボール扱いが柔らかで正確であるのが驚きだった。ロコモチフの選手たちは、日本のグラウンドの芝が良くないのに驚いたらしい。「立派なビルがこんなにたくさんある国に、どうして芝生のグラウンドが少ないのか」という者もいた。
その頃ソ連のスポーツは“科学的トレーニング”ということになっていたから、日本の記者たちは、100メートルは何秒で走るのか――とか、選手の身長・体重等のデータを聞きたかったが、選手たちは、そういう数字はサッカーにはあまり関係ないといっていたのも面白かった。
インサイドFW(攻撃的MF)にワレンチン・ブブキンというドリブルもパスもうまい選手がいたこと、センターフォワード(CF)のビクトル・ソコロフのポジショニングがうまく、いい位置取りからシュートを決めたことを覚えている。27歳のブブキンはオリンピック代表だといっていたが、身分が学生というのにも驚いたものだった。
ちなみに、ロコモチフ・モスクワは今もロシアの1部リーグにいて、昨シーズンは5位、ことしも本田選手のCSKA(中央陸軍クラブ)よりは下で5位あたりにいるらしい。
このプログラム(写真)は今のものに比べると貧弱だが、表紙はミンスクのスタジアムの写真にゴールネットの網目を組み合わせ、その上方左にロコモチフ(機関車)のマーク、右にJFAの三本足のカラスを入れている。
日本選抜の監督は高橋英辰(ひでとき)、コーチは岩谷俊夫、マネジャーに岡野俊一郎、特別顧問デットマール・クラマーとある。5月2日に亡くなった八重樫茂生の名もあり、また、“キャプテン”川淵三郎やのちの“スイーパー”鎌田光夫の名も――。そして、30年代の選手に混じって40年代生まれの宮本輝紀が加わっていた。
ロコモチフのチームの紹介記事やソ連のサッカー事情について、60年の遠征チームに帯同した中条一雄さん(当時・朝日新聞記者)が書いているのも懐かしい。そう、表紙のスタジアムもこの人の撮影とのことだ。
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