強い体と強い心で歴史に残るMF八重樫茂生≪上≫ ~パーチョンを偲んで(2)~
戦後初の訪韓のとき、日本代表チームと韓国側役員。
左から李時東(元韓国サッカー協会理事長)八重樫茂生、工藤孝一副団長、一人おいて川淵三郎、宮本征勝、裵宗鎬
――週刊サッカーマガジン(5月24日号)に、八重樫さんの追悼文を書いていましたね
賀川:亡くなったという知らせを聞いたときは大きなショックだった。一時、調子が悪いといっていたのが、良くなったと聞いていたからね。マガジンの国吉(好弘)さんにいわれて原稿を引き受けたのだが、いろいろな思いが重なって筆の進みは遅かったね。記者という立場からゆけば、このブログでももっと早く何か語るべきだったのだが……
――MF(ミッドフィルダー)として古河電工でも代表チームでも活躍しました
賀川:体が強くて運動量が多い、断然上手いというのではないが右でも左でも蹴れた選手。ドリブルで持ち上がり、ちゃんとシュートして点を取れた。
――足は速かったのですか?
賀川:格別速いわけではなかった。体も、強いが固い感じだった。身長もそれほど高くはなく171センチ(※「日本サッカーリーグ年鑑'68」参照)、当時でいえば普通サイズだ。
――とすると、努力
賀川:まず、負けず嫌い。「始めた以上、人に負けないぞ」ということだろう。まあ、最も大切な素質の一つだろう。それに体が強かったから、チームの練習の後でも自分の時間があればボールを蹴っていたらしい。
――早大の先輩の川本泰三さん(1936年ベルリン・オリンピック代表)にも、自分一人での練習の伝説があります
賀川:川本さんは、私にいわせると、少年時代からボールタッチに特異な才があった。いまの選手なら小野伸二のようにボール扱いがズバ抜けていた。その代わり体が弱かった。それが早大の予科(高等学院)時代の猛練習で強い体になった。八重樫はむしろ体の強さが資本だったハズですよ。
――体の強さ、ですか
賀川:スポーツをするのに、体が強いということはとても大切な資質です。その丈夫な体で努力を惜しまないという心の強さが彼の上達を早め、歴史に残るMFとなった。
――指導者にも恵まれたそうですね
賀川:盛岡中学(現・盛岡一高)でサッカーを始め、2年生のときに第29回全国高校選手権(1951年)に東北代表として西宮での本大会に出て1回戦で敗退した。そのころ関西では岸和田高校が強く、平木隆三(メキシコ代表コーチ)がいた。小田原高校(神奈川)には内野正雄(メルボルン五輪代表)もいた。
――賀川さんはそのとき八重樫さんを見ました?
賀川:ボクは新聞社に入る前で、取材はしていない。しかし、レフェリーで役員をしていた。試合の割り当ての関係で盛岡の試合は見ていないから、高校生の彼とはスレ違いだった。
八重樫はこの盛岡時代に、盛岡中学の先輩であり日本代表や早大のコーチ、監督であった工藤孝一さん(1909-1971年)の教えを受けた。ベルリン・オリンピックのコーチを務めた工藤さんは八重樫の素質を見抜いて、この年5月に仙台で開催された天皇杯に彼を含む全盛岡というチームを作って出場している。目的は試合をするだけでなく、レベルの高いサッカーを八重樫少年に見せることだった。
――そういえば、川本泰三さんの「名人と語ろう」というシリーズの第1回目、八重樫さんがゲストの回でその話が出ていますね
賀川:工藤さんは盛岡の後輩が将来大きく伸びるためにそんな工夫もしたのですよ。その工藤さんは、早大の仲間である川本さんのことをよく後輩に語っていたらしい。
――八重樫さん、高校を出ると中央大学へ進んでいます
賀川:最初、中大に入ったが、2年後に早大に転校した。工藤さんが盛岡から上京して監督をするようになった早大は、彼を中心に関東大学リーグで3回連続で優勝する。
【つづく】
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