サッカー仲間の悲しい知らせ ヤンマー草創期の古川能章さん
――2011年も2ヶ月を過ぎ、いよいよ3月。Jリーグも開幕します。しばらくみなさんにご無沙汰していますから、一つ消息を聞かせて下さい。
賀川:相変わらず記事を書き、本を読み、テレビを見たりインタビューをされたりと、結構忙しい年始めでした。寒い日が多いので外出も控えましたが、所要のあるときは東京へも出かけていますよ。
サッカー仲間の悲しい知らせもありました。1月末にかつてのヤンマー・ディーゼルの監督だった古川能章(ふるかわ・よしあき)さんが、2月には学生時代からの友人・名越由隆(なごし・よしたか)さんが去ってしまった。
――古川さんは確か、鬼武健二さんの前の監督ですね。
――うん。広島の出身で昭和22年(1947年)に広島師範付属中学が第26回全国中等学校選手権大会(現・高校選手権)に優勝したときのメンバーです。
――学制改革の前で、まだ旧制中学の時代ですね。あの長沼健さん(故人・JFA第8代会長)たちと一緒ですね。
賀川:古川選手は右のHB(ハーフバック)で、長沼たち強力FWを支援した。早大へ進み、卒業後にヤンマーに入り、昭和32年(1957年)サッカー部創部のときからのメンバーですよ。
――東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグ(JSL)という企業チームの全国リーグが生まれました。このとき、関西からヤンマーが加わった。
賀川:創部した次の年に大阪実業団リーグの5部に加盟し、そこから階段を一歩一歩のぼるように昭和38年(1963年)に大阪社会人リーグの1部に昇格し、関西実業団選手権(ノックアウト制)に優勝するまでになった。
――JSLに加わったときは古川さんが監督で鬼武さんは選手でしたね。
賀川:ヤンマーサッカー部の第2代監督だが、JSLの2年間、古川監督は苦労した。下位にいたが降格を免れた。1967年に釜本邦茂たちが入社して大幅な戦力アップするのだが、その年からタケさん(鬼武健二)が監督となった。釜本の加入以降のヤンマーは日本のトップチームとなったが、古川さんはそれまでの基礎作りの仕事をしたわけです。
――セレッソの試合を見に来ているときにお目にかかりましたが、物静かな方でした。
賀川:健さん(長沼)たちと同世代、大戦後の物のないときに自分たちで工夫してサッカーをしてきた「頑張り屋さん」です。日本サッカーの復興からメキシコの栄光、そして今日のプロ時代へとバトンをつないできた仲間が、また一人去ってしまいました。
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