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2011年3月

大谷四郎著作『ワールドクラスへの道 ~「世界」へ悠々と急げ~』更新

2011/03/28(月)

賀川浩の先輩である、大谷四郎さんの著作『ワールドクラスへの道 ~「世界」へ悠々と急げ~』に2話追加!

インステップキックが基本だ
インステップのインサイドとアウトサイド


※この書きものは、1977~80年にサッカーマガジンに掲載されたものです

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大谷四郎著作『学生サッカー 初めてヨーロッパを独り往く』を更新

2011/03/16(水)

賀川浩の先輩である、大谷四郎さんの著作『学生サッカー 初めてヨーロッパを独り往く』に4話追加!

サッカーの何を見たか その2
サッカーの何を見たか その3
サッカーの何を見たか その4

サッカーの何を見たか その5


※この書きものは、1975年1月よりサッカーマガジンに掲載されたものです

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神戸一中蹴球部部長 河本春男を公開

2011/03/16(水)

日本サッカーアーカイブbook人物史

神戸一中蹴球部の元部長河本春男のページを公開しました


※関連ページ
チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(上)
チーム指導と会社経営 生涯に2度成功したサッカー人 河本春男(下)
神戸一中とドイツ菓子ユーハイムで成功した河本春男さん

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サッカー仲間の悲しい知らせ 神戸三中で全国準優勝、神戸大学で天皇杯準優勝した名越由隆さん

2011/03/14(月)

――先月お亡くなりになった名越由隆さん(2月19日5時20分死去、86歳)は、賀川さんと同期でしたね。

賀川:名越さんは神戸三中の戦前の黄金期の選手で、私と同学年。いいライバルだったし、神戸商業大学(現・神戸大学)の予科では同じ3回生(昭和17年/1942年入学)だった。

――神戸三中は全国大会でも活躍しましたね。

賀川:ことしの滝川第二高校の優勝で、23年前、昭和13年(1938年)の第20回全国中等学校選手権(現・高校選手権)の神戸一中以来の同大会での兵庫県代表の優勝となっている。
 その次の第21回大会は、兵庫代表は兄・賀川太郎がキャプテンのときの神戸一中で、これは夏の大会のときに調子がよくなくて2回戦で敗退した。秋の明治神宮大会に優勝はしたが……

――次の22回大会以降、今の高校選手権の前身となる大会は中断しています。

賀川:いわゆる大毎(だいまい)――大阪毎日新聞社の戦前の大会は昭和15年が最後。このときに神戸三中が兵庫の代表となって出場し、1回戦で富山師範を4-2で破り、準々決勝で東京の青山師範に延長で4-2の勝利、準決勝でも滋賀師範に6-3で勝った。
 決勝の相手が朝鮮地方代表の普成中学。1回戦8-0(対湘南)準々決勝12-0(対函館師範)準決勝5-2(対明星商業)と圧倒的な強さを見せていた。
 三中は私の4年生のときには勝てなかった相手で、CFの工藤裕、左サイドの名越とウィングの瀬戸三郎のトリオが強く、また、HBの野口、芝田、CHの岡村の3人がしっかりしていた。
 だから普成中を相手にどれくらいやれるかと期待していたのだが、ちょっと歯が立たなかった。一つには、ロングパスや個々のドリブルで勝負するのでなく、もっと早い短いパスで攻めれば良かったのだが……(後半はそれで少し良くなった)。瀬戸の速さを生かす名越からのスルーパスといったのもほとんど出なかった。

――普成には勝てませんでしたが、青山師範など強チームを相手に勝ち抜いています。

賀川:兵庫のレベルは高かったから、代表になれば本大会でも上へのぼってゆくものと思っていた。名越さんはそのときの左インサイド、いわゆる攻撃的MFです。

――大学の予科で一緒だったということは、長いおつきあいですね。

賀川:1924年春に入学して以来70年にわたっての仲間ですよ。第2列から走り込んでのヘディングなども、体は小さいが上手だった。大戦後の社会混乱のときだったから、決して満足のゆくスポーツ生活ではなかったが、大阪クラブで一緒にすることもあり、ずっといい仲間でした。
 訃報を知らせてくれた河崎俊一さん、この人は灘高から来た足の速いスケールの大きいプレーヤーだが、「とうとう2人だけになった」と――。まあ、お互い80歳より90に近い方になってきたから、少なくなるのは当たり前と言い合ったものですがネ。
 中央左寄りにいて、内に入ると見せかけて外へターンするプレーなどいまもその姿を思い浮かべることができる。物静かで律儀な人。ある時期に凌霜クラブというOB会の会長も務めてくれた。歴史を担った人が、また向こう岸へ行ってしまったネ。

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サッカー仲間の悲しい知らせ ヤンマー草創期の古川能章さん

2011/03/02(水)

――2011年も2ヶ月を過ぎ、いよいよ3月。Jリーグも開幕します。しばらくみなさんにご無沙汰していますから、一つ消息を聞かせて下さい。

賀川:相変わらず記事を書き、本を読み、テレビを見たりインタビューをされたりと、結構忙しい年始めでした。寒い日が多いので外出も控えましたが、所要のあるときは東京へも出かけていますよ。
 サッカー仲間の悲しい知らせもありました。1月末にかつてのヤンマー・ディーゼルの監督だった古川能章(ふるかわ・よしあき)さんが、2月には学生時代からの友人・名越由隆(なごし・よしたか)さんが去ってしまった。

――古川さんは確か、鬼武健二さんの前の監督ですね。

――うん。広島の出身で昭和22年(1947年)に広島師範付属中学が第26回全国中等学校選手権大会(現・高校選手権)に優勝したときのメンバーです。

――学制改革の前で、まだ旧制中学の時代ですね。あの長沼健さん(故人・JFA第8代会長)たちと一緒ですね。

賀川:古川選手は右のHB(ハーフバック)で、長沼たち強力FWを支援した。早大へ進み、卒業後にヤンマーに入り、昭和32年(1957年)サッカー部創部のときからのメンバーですよ。

――東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグ(JSL)という企業チームの全国リーグが生まれました。このとき、関西からヤンマーが加わった。

賀川:創部した次の年に大阪実業団リーグの5部に加盟し、そこから階段を一歩一歩のぼるように昭和38年(1963年)に大阪社会人リーグの1部に昇格し、関西実業団選手権(ノックアウト制)に優勝するまでになった。

――JSLに加わったときは古川さんが監督で鬼武さんは選手でしたね。

賀川:ヤンマーサッカー部の第2代監督だが、JSLの2年間、古川監督は苦労した。下位にいたが降格を免れた。1967年に釜本邦茂たちが入社して大幅な戦力アップするのだが、その年からタケさん(鬼武健二)が監督となった。釜本の加入以降のヤンマーは日本のトップチームとなったが、古川さんはそれまでの基礎作りの仕事をしたわけです。

――セレッソの試合を見に来ているときにお目にかかりましたが、物静かな方でした。

賀川:健さん(長沼)たちと同世代、大戦後の物のないときに自分たちで工夫してサッカーをしてきた「頑張り屋さん」です。日本サッカーの復興からメキシコの栄光、そして今日のプロ時代へとバトンをつないできた仲間が、また一人去ってしまいました。

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