日本サッカーアーカイブ人物史
第7回掲額者 浅見俊雄氏のページを公開しました
固定リンク | お知らせ | コメント (0) | トラックバック (0)
賀川:そして盛んにしてゆく過程で、スポーツ本来の姿である地域に根をおろしたクラブというものを基盤と考え、プロフェッショナルのクラブもそうあるべきと考えた。だから鹿島アントラーズというクラブはもともと住友金属という企業のサッカー部が前身であって、住金をはじめ多くの企業がバックアップしてくれても、鹿島という地域を基盤にした独立したスポーツクラブということになる。
私が駆け出し記者でプロ野球を取材していたとき、近鉄バファローズの選手の宿舎をたずねたらその建物に「近畿日本鉄道野球部」という表札が出ていた。プロであっても近鉄という大企業の一部という形だった。
そしてまた、協会の登録をヨーロッパと同様に年齢に切り替えた。プロのクラブと同じようにここでもあくまでスポーツが主体で、スポーツをするのに社会的身分は関係ないということです。高校生は高等学校で学ぶ学生ではあるけれど、その同じ高校生という社会的な身分の者たちが高校大会を行なうのは決して不思議ではない。
しかし高校生でなく中学校を出て職業についている人がサッカーをしたいときに高校大会だけしかなければ、公式の試合をする場所がないわけです。だから、スポーツをするのにそういうカテゴリーでなく年齢別のカテゴリーにすれば誰もが同じ世代同士で試合できることになる。プロ化より15年近く早い頃、1979年にJFAは登録制度を年齢別に変えていた。このことの意味が、まだ日本の他の競技団体ではほとんど理解されていない。
――Jのクラブに下部組織として年齢別の育成組織もつくられました。
賀川:プロ化で代表を強くし、また外国から上手なプロを招いて観客動員のプラスをはかるといった表面だけのことでなく、スポーツの在り方を、これまでの日本の常識を根本から変えたところがJFA、Jリーグの関係者のいいところなんですヨ。
――そういえますね。
賀川:いつもいうとおり、この自分たちの好きなスポーツを、それぞれの生活している地域で、自分たちの手でクラブをつくり、少年や大人の健康と楽しみの増設をはかるというのは、いわば民主主義の根幹と通じるものがあると思っています。明治以来、富国強兵のために中央集権でやってきた日本が戦争で負けて、さあ今度は民主主義だといい始めたけれど、身についた中央集権的発想はなかなか抜けない。大阪府の橋下知事たちは、自分が知事になってみて地方の自主性ということに気がついて、いま地方主権を唱えているけれどネ。
――サッカーはすでに新しくいい方向に向かっている、と。
賀川:少なくとも、ここまで来ていることは誇りにしていいと思っていますヨ。
――その大演説は、会場では話さなかったのですね。
賀川:うーん、そういう話をする気がなくなってしまった。まあ、表彰される側としては、いかにも「私もその一人だ」といっているように聞こえても――などと思ったのかもしれないし、今日は大人しくしておこうと胸にしまいこんでしまった。
――89年前に創設されたJFAの誕生日の9月10日のお祝いと、90年にわたって歩み続けてきたサッカーファミリーとともに、このブログでお互いおめでとう――ということにして、賀川さんの表彰のお祝いにしましょう。
賀川:ありがとう、みなさん。
【了】
――殿堂入りの式典はいかがでしたか。9月10日のJFA(日本サッカー協会)創立記念日の催しで、賀川さんはこれまで殿堂委員で選考する側でしたよね。式典にも毎年参加されていたのが、今度は表彰される側になったわけでしょう。
賀川:立派な先輩やいい仲間、後輩に恵まれて自分が育ってきたサッカー界のこと、その先輩や後輩たちのことを皆に知ってもらいたいと書き記したり、日本や世界のサッカーの見聞を文字にしたりといった、いわば好きなことをしてきただけなのに、表彰して頂くとなると気恥ずかしい感じがしますヨ。
小倉JFA会長からレプリカをもらい、大畠さんや浅見さん、モクさん(鈴木良三)、それに落合選手、故・ネルソン吉村の息子さんたちと一緒に表彰されたのですが、取材のときの図々しさよりもその気恥ずかしさの方が先に立ったらしく、大ベテランのアナウンサー、金子さんのインタビューでもあまり気のきいた話を返していなかったような気がする。
――何か言いたいことがあったでしょう?
賀川:こういうフットボールファミリーの集まりのとき、とくにJFAという日本サッカーのために働いている人たちとそれを囲むメンバーに「ここまで日本サッカーを発展させてくれてありがとう」と言うハズだったのが、どこかへ消えてしまった。
――日本サッカーに不満も多いのに……
賀川:もちろん、欲を言えばいくらでもあります。しかしベースボール、野球というスポーツがひと足早いうちに盛んになってしまった日本で、野球とは全く異質の競技であるフットボール、サッカーがこれほど浸透し、レベルアップしているのは実はすごいこと――世界でも例外的なのですヨ。
――まあ、野球は世界でそれほど広まっていませんが。
賀川:USA(アメリカ合衆国)で始まった野球は、太平洋を西へ渡って日本、そして日本を通じて朝鮮半島の韓国へ、一時的にアメリカ領であった南のフィリピンにも広まった。北米大陸ではメキシコの北部とカリブ海の島々、つまりUSAに近いところに浸透した。北隣のカナダもそうです。
野球は手でボールを扱い、バットで打つ。ベース(塁)をまわってホームへ戻ると1点となる仕組みを決まった回数プレーすることで試合が展開してゆく。ストライク3回なら1アウト、ボールが4つになると進塁できる。3回アウトになると攻撃交代となる。
サッカーは手を使ってプレーしてはいけない。競技は一定時間内で終わる。すべてが野球と反対。プレーそのものが停止球、まずピッチャーが投げることから始まり、一つのアウト、一つのヒットごとにプレーは中断し、また投球から始まる。つまり全ていったん停止してから再開する野球に比べると、フットボールは何から何まで違うスポーツです。だから、野球の楽しみを覚えた人がサッカーを面白いと感じるのはそう簡単ではない。
そういうなかで、JFAとそれを支える人たちは今のようにサッカーを発展させてきた。そのことにまず自信を持ち、自ら「相当なことをしたのだ」と思ってほしいし、それに関わってきたお互いを讃えていいと思う。
――なるほど……。
【つづく】
宇都宮徹壱さんの南アフリカの話を聞かせてもらう集いに出席したら、同氏から著書『フットボールの犬 欧羅巴1999‐2009』を、会主催のサロン2002からAIGLE社製のリュックサックを、殿堂入りのお祝いに頂きました。ありがとうございます。
バッグはフランスのメーカーらしく粋なデザインで、不思議にサロン2002のクラブマークとうまく合っています。「ブラジルへ持って行け」との中塚先生をはじめみなさんのご好意に感謝しながらも、手術が成功して、ひょっとして腰の痛みがなくなり昔のように回復すれば、これに弁当を入れてロックガーデン(すぐ近くのハイキングコース)に行けるかも――などと妄想しきりです。
商品表示の「ナイロン」の文字と、小さなトリコロール(3色旗)を眺めると、1950年に世界初の8,000メートル峰の登頂に成功したフランスの登山隊が、当時めずらしかったナイロンの軽量装備であったことや、隊長のモーリス・エルゾーグ著、早稲田の近藤等(こんどう・ひとし)』教授の名訳『処女峰アンナプルナ』を、涙を流しながら読んだ駆け出し記者の頃を懐かしく思い出します。
ロックガーデンはともかく、ブラジルと、向こう岸への渡渉のときにはぜひ持ってゆきましょう。ありがとうございます。