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赤トンボと号隊始末記(上)

2010/08/13(金)

※この記事は、航空碑奉賛会 発行 『続・陸軍航空の鎮魂』に寄稿したものです

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◆8月16日の先陣争い

「その潜水艦を川上隊がやります」
「いや平林隊がゆきます。わが隊はすでに一番早く展開命令を受けている」
「なにを言う。オレのところは413飛行隊、編成序列は一番早いんだ」

 昭和20年(1945年)8月16日夜、朝鮮黄海南道(ファンヘナムド)、海州(ヘジュ)市郊外の迎陽飛行場。少し離れたところにソ連の潜水艦があらわれ、ついで300人ばかりが上陸しはじめたとの情報が入ったのに対し、中練のと号(特攻)隊である413飛行隊長・川上晃良(あきよし)少尉と414飛行隊長・平林少尉が自分たちの隊で攻撃すると言い張った。わたしは、二人のやりとりを眺めながら、“戦争が終わったというのに、やっぱりオレも突っこまないといかんのかなァ。まあ、それはそれでも構わん。どうせ死ぬることになっていたのだから”などと考えた。

 だが、二人の口論を瀬川雄章少佐が一喝した。
「いやしくも終戦の詔勅(しょうちょく)が下ったのだ。陛下の兵器である飛行機を使って敵を攻撃することは、絶対、許さん。死にたければ自分の刀(かたな)でハラを切れ。」
 瀬川少佐は少年飛行兵の教育隊長で、と号隊の直接責任者ではないが、ニューギニアでは地上戦闘の労苦も経験している歴戦の大先輩。その少佐のスジの通った、しかも気迫のある声は、後方にいたわたしの胸にもズシリと来た。

 ともかく、オレたちは負けたんだ。ソ連兵が来ても抵抗できないんだ――頭のなかで、何度も反芻しながら兵舎に戻って、まあ寝ようやと横になったが、今度は川上隊長が帰って来ない。5人の仲間が手分けして探しに行ったら、真っ暗な飛行場に隊長はひっくりかえって、空を眺めていた。
(ソ連潜水艦うんぬんは、翌朝、誤報と分かった)


◆8月14日に展開命令

 平林少尉が自分たちが先だと主張したのには伏線がある。8月14日414飛行隊の隊長以下6機(中島見習士官、田中見習士官、明石伍長、奥村見習士官、塩田伍長)は迎陽を出発し、第一線基地ともいうべき群山(クンサン)へ飛ぶことになっていたからだ。
 当日、出陣式を終え、飛行場につめかけた海州市民の見送りを受けて離陸しようとしたとき、事故があって、その日は出発を延期。翌日の正午、終戦の詔勅をラジオで聞いたのだった。本土決戦(決号作戦)で朝鮮海峡一帯を、まず第一戦域と予定されていた、わたしたち中練と号(中練=中間練習機、愛称:赤トンボ)のうち、すでに発進基地への進出命令を受けていた平林少尉にとっては、いったん「死ぬ」と決めた気持ちを持続していたのだろう。
 また8月9日、ソ連軍の満州侵入以来、友軍のひたすら、後退を続けるニュースばかりに、苛立っていたと号全員の気分も“潜水艦攻撃”の主張のもととなっていたに違いない。


◆西瓜(すいか)は食えないヨ

 わたしがと号要員の命令を受けたのは昭和20年5月初旬だった。前年の昭和19年6月1日に宇都宮陸軍飛行学校へ入校し、那須野ヶ原の金丸原分校での地上教育を経て8月1日壬生の本校で飛行訓練に入った。場周離着陸、垂直旋回が終わったところで、燃料事情のため4個区隊を1次2次3次に編成分けした。わたしたち2次組は演習中断ののち、11月に再開。20年2月末にまた燃料不足などで演習は中断、卒業飛行もないまま53航空師団第543部隊に転属。3月3日壬生を出て、博多から連絡船で釜山へ、そして大田(テジョン)、京城(キョンソン)を経て開城(北緯38度線のすぐ北/ケソン)で支線に乗り換え、海州市郊外の迎陽飛行場に3月8日到着した。
 北に岩肌の露出した首陽山(899m)と南に丘陵性の南山に挟まれた海州は黄海に面する入江を持ち、古くから発達した港町だった。飛行場はその東南、離陸すれば眼下はすぐ海。満州からやって来たという99襲撃機が海上の目標に対して急降下攻撃を繰り返していた。のちに聞いた戦史から推察すれば誠第32飛行隊だったか。

 途中で合流した熊谷からの3期生を加えた約80名の見習士官は4月中旬に中練の演習を開始した。それも黄砂で途切れがちのうちに、と号隊の編成となった。
 と号要員選抜の基準については、よく分からないが、4月はじめごろに志望書を出したあとで、身上調査があり、わたしは、兄が海軍予備学生14期で筑波空にいることからその消息や、父の死後の家計、財産などについて、かなり詳しく質問されたことを覚えている。
 命令は簡単に「413飛行隊付ヲ命ズ」とあるだけ。後藤明、鈴木隆光、前田明、小本健三と、わたしの5人が、5月初旬のある日、川上晃良少尉の前に並んで「××見習士官ハ4月30日付ケヲ以ッテ、第413飛行隊付キヲ命ゼラレマシタ。ココニ謹ンデ申告致シマス」と申告した。少尉は「ご苦労、ことしの西瓜は食えないからナ」とひとこと言った。

【つづく】


(航空碑奉賛会 『続・陸軍航空の鎮魂』 昭和57年4月発行 より)

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