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2010年8月

サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(下)

2010/08/22(日)

――ワールドカップ(W杯)の取材は、1974年西ドイツ大会からですね。

賀川:1954年にW杯予選の日韓戦があったが、関心はオリンピックの方が強かった。そのオリンピック東京大会のホスト国として恥ずかしくない成績を収めるために、デットマール・クラマーを西ドイツから招いた。彼によって日本のサッカーが、トップの代表だけでなく様々なところで大変革することになった。
 ちょうどボクが東京に勤務していた時期と彼の来日1~2年目とが重なったのも、ボクには幸運だった。代表監督がロクさん(高橋英辰)だったから、代表の合宿所へも気楽に出入りして、クラマーとも内輪のつきあいになった。

――クラマーさんは、賀川さんを“トゥルーフレンド(True Friend)”と言うとか?

賀川:そのエピソードはどこかに書いたから省略しましょう。彼とは、以来50年のつきあい。私のサッカーの知識も、彼のおかげで飛躍的に伸びた。ドイツのサッカーが戦後の荒廃からW杯のチャンピオンとなって世界の頂点に立ち、少し停滞して、今また盛り返しているその50年の歴史の全てをクラマーは見ているから、いつ会って、話を聞いても新鮮で楽しい。

――W杯に目を向けつつ、関西サッカーの興隆には“気”が入っていましたよね。早稲田の釜本選手が三菱でなくヤンマーへ来たのも、東京オリンピックのときの大阪トーナメントも、賀川さんが関わっていたと聞いています。

賀川:それは、川本泰三というすごい先輩の仕事を手伝っただけですヨ。神戸の少年サッカー育成や神戸FCの創設なども、加藤正信ドクターの熱意に引っ張られてのことです。

――W杯では、出かけるたびにサッカーマガジンで『ワールドカップの旅』という連載を続けてきましたね。

賀川:あれは楽しんで書かせてもらいました。1959年の第1回アジアユース大会を報道役員として同行取材したとき、大阪のサンケイスポーツにその紀行を連載したのだが、阪急電鉄の事業部にいたサッカー好きがこれを読んで「賀川クンがもう少し早く生まれていたら、サッカーの面白さをもっと早くにたくさんの人が知るようになったハズだ」と言ってくれた。ボクよりも年長の人にそう言われて、紀行形式のサッカー物語を書いてみようと思っていた。それを74年大会から始めた。

――ことし2010年は南アフリカへ行けず残念でしたね。2014年ブラジル大会での連載を期待しています。

賀川:あまり長く続けて質が落ちると出版社にも迷惑をかけるからネ。まあ、ボクより若くて優秀なサッカー記者はたくさんいる。国際舞台の試合を見る数も、ボクなどとは比べものにならぬほど多い。サッカーの世界はどんどん進んでいるし、メディアもずいぶん進化してきている。

――国際試合をパソコンの画面で見られるようになりましたからね。

賀川:写真や動画とともに文字でゲームを再現し、文字でサッカーを伝える仕事がどう変わってゆくかは分からないが、私はまだしばらくこの面白みを続けてゆきたい。それから、いま取り組んでいるインターネットの「日本サッカーアーカイブ」という、日本の歴史を紹介し語ってゆくウェブサイトを充実するだけでなく、出版物なども積極的に取り組んでゆこうと思っている。
 長い間、新聞の仕事に携わり、スポーツを眺め続けてきたボクにとっては、みなさんの関心の強いサッカーの歩みを一緒に見つめることで、日本という国の現代史をもう一度考え直すことになるとも思っている。歴史を学ぶことの大切さは、スポーツも政治や経済でも変わることはないと考えています。

――殿堂入りのお祝いから、ずいぶん話が長くなりました。

賀川:とにもかくにも、みなさんありがとうございます。集まってサッカーを語る機会がもしできれば、そのときにも改めてお礼を申し上げたいと思っています。


【了】

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サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(中)

2010/08/21(土)

――復員後、学校を出てから記者になるまでしばらく年月がありますね。

賀川:自分が何をするのか、人生の模索期というところだね。

――略歴には、1952年(昭和27年)1月に産経新聞入社とあります。

賀川:「スポーツ記者は面白いヨ」という大谷四郎さんのアドバイスもあった。面接で話を聞いてくれた木村象雷(きむら・しょうらい)という大記者の人柄にも魅力を感じた。まあ入社したというより入れてもらったという感じだね。産経新聞は当時どんどん成長していて、運動部でもボールゲームの専門家を探していた。

――特別に何かしたのですか?

賀川:京都の新聞に寄稿していた記事や、自分が京都の高校生を集めて講習会を開いたときに作ったテキストなどを送って木村さんに見てもらっていた。

――以来、ざっと60年

賀川:新聞社に入ったのが27歳だから、少しスタートは遅れている。それからしばらく、吸収するのに一生懸命だったことは確かですヨ。木村部長をはじめデスクにも先輩記者にも優秀な人が揃っていたのもありがたかった。大相撲の“熱戦一番”の北川貞二郎さんもいた。木村さんは入社早々のボクに、「デスクの山田宏は原稿に手を入れるのがとてもうまい。原稿のうまさでは北川クンを見習いなさい」と言っていた。山田さんはボクより2歳上、北川さんは1歳上。

――司馬遼太郎さんも同じ編集部にいたそうですね。

賀川:文化部のデスクだった。格調あるカコミを書いていたヨ。同じ文化部と社会部にも、そしてうちにも山田デスクといった文章家がいた。司馬さんに競争心を持っていた人たちが多く、編集局内は活気があったヨ。

――そんな雰囲気だと楽しいでしょうね。

賀川:会社に寝泊まりすることが多かったネ。野球場からナイターの記事を送ってくるのを電話で受けて書き取ったりという時代だから、万事手仕事、今から思えば無駄なようだが……。木村さんが徹底的に平易・簡明な文章をと指導してくれた。一言一句、助詞の使い方も細かく。道を歩きながら、「ここは『~が』か『~は』か」と考えたものだ。

――その中でたくさんのスポーツを取材し、記事もたくさん書いた。

賀川:オリンピック記者を目指していた。高校野球も大学野球もプロ野球も取材に行った。もちろんサッカーも、フィギュアスケートは今のプロコーチ、佐藤信夫・久美子夫妻の少年・少女期から取材した。色々な競技を見たことがサッカーを見るうえでもプラスになった。まあ、あっという間の60年ですヨ。


【つづく】

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サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(上)

2010/08/20(金)

――殿堂入り、おめでとうございます。

賀川:ありがとう。JFA(日本サッカー協会)のプレスリリースが17日にあり、明朝の新聞のいくつかに掲載されたのですが、発表当日に、JFAのウェブサイトを見たとお祝いの電話がかかってきたのには驚きました。電報や電話をたくさん頂戴して恐縮しています。

――長い記者生活でサッカーの楽しさを多くの人に伝えたこと、色々なプレーヤーや監督とのおつきあいの中で日本のサッカーに貢献したこと、また、サッカーの興隆に直接関わる様々な事業を興したこと――などはよく知られています。

賀川:さあ、どうでしょうネ。少年のころからサッカーに関わってきたから、ざっと75年。メディアでは足かけ60年ですが、それほど仕事をしたわけでもありません。スポーツが好きで、書くことが好きで、それを長くやってきただけ。日本の生んだ素晴らしいプレーヤーや監督、あるいはJFAの発展に直接関わり立派な業績を残された人たちと同じところにレリーフを掲げてもらう――となると、いささか忸怩(じくじ)たる思いもしますヨ。

――そんな先輩や後輩たちのことをたくさんの人に知らせて来たのだから、私たちは当然だと思っています。
 一昨年に亡くなった長沼健・元JFA会長もよく、賀川さんにサッカーを教えてもらったと言っていましたよ。セルジオ越後さんも、賀川さんにお世話になったとどこかの会で話しているのを聞いたことがある。そうそう、岡田武史・前日本代表監督は、取材に来た記者に賀川さんとの話をするそうです。

賀川:長く記者の仕事をしていれば、色んな人との出会いもありますよ。

――話を膨らませるのもどうかと言われるでしょうけれど、様々なアドバイスをしてきた中で良かったと思う、一番いい例を一つ教えて下さい。

賀川:いや、一番いい例ではなくてネ……。ボクがスポーツ記者稼業で一番残念だったのは、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手が、メキシコ大会の前に自殺したことですヨ。色々な事情があっただろうに誰も気づかなかったのか、地味な人柄のようだったが、東京の3位といえば大ヒーローです。その彼の悩みを誰も気づかなかったとは――。しばらく暗然とした気持ちでした。

――大器・釜本邦茂さんは順調に伸びてメキシコ五輪で活躍できたのに……

賀川:これはまあ、本人の運の強さ、日本サッカー界、関西サッカー界をあげて彼をバックアップしたからでしょう。

――「自分はこれをした」というのは言いたくないようですから話を変えましょう。85年の人生の前半部のハイライトは?

賀川:のちのサッカー人生のためには、神戸一中(旧制中学)の蹴球部にいたことでしょうね。ここで素晴らしい先輩たちに恵まれた。
 そういえばボクは、小学校でもいい先生に出会った。5年のときに成績が良くなかったのが6年になって、当時「別勉強」という言い方だった今の家庭教師に、別の学校のベテランの先生に来てもらうようになってから一気に力がついた。自分でも、どの科目でも理解が進むのを自覚したほどです。すごい先生だったと今でも思っている。

――それで、夏期試験で全校1位、翌年神戸一中へ、というわけですね。

賀川:ボクの性格を見抜いた授業だったのだろうネ。これは21歳で陸軍の飛行機の操縦訓練を受けているときに、上手な教官に同乗してもらって、その日一日で編隊飛行のコツをのみこんだときとよく似ている。

――いいコーチの素晴らしさを、そういうところで感得したと。

賀川:小学校の担任の先生と、この別勉強の先生のおかげで神戸一中に入り、その蹴球部で過ごしたこと。

――部には兄・太郎さんもいたのですよね。

賀川:兄を含めて、いい先輩に恵まれた。軍隊でも先の教官のように、操縦技術の訓練でも地上教育でもいい人に巡り会えた。当時25~26歳の教官たちがボクたちの教育に精魂を傾けてくれたからね。


【つづく】

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有難うございます

2010/08/19(木)

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殿堂入りのニュースが出てから、たくさんの祝詞や励ましを頂戴しました。まことに有難うございます。
サッカーでも軍隊でも仕事場でも、いつも立派な先輩、いい仲間、しっかりした後輩に恵まれて、好きなことをしてきただけなのに、賞のようなものを頂きちょっと面映ゆく感じています。

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松本育夫のコラムを公開 ~賀川サッカーライブラリー~

2010/08/16(月)

メキシコ銅メダリスト、松本育夫・現サガン鳥栖監督のコラムをアップしました

  • 古希を前に、なお現場に立つメキシコ五輪銅メダリスト 松本育夫(上) 
  • 東京五輪代表漏れの挫折を東洋工、右サイドのプレーで克服。メキシコ五輪での銅につないだ 松本育夫(中) 
  • 爆発事故の死線を越えて。J2サガン鳥栖でも明るく闊達な指導 松本育夫(下)

    ※このコラムは『月刊グラン』に連載中の「このくに と サッカー」です
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    赤トンボと号隊始末記(下)

    2010/08/15(日)

    ※この記事は、航空碑奉賛会 発行 『続・陸軍航空の鎮魂』に寄稿したものです


    ◆待機と西瓜とソ連の侵入

     7月はじめに5航軍の合同演習があり、迎陽から2隊が参加した。平壌からの4式戦と交会して、その援護のもとに仁川(インチョン)沖の仮想敵に突撃するとの想定だった。巡航130キロの“黒トンボ”を援護する高速の戦闘機は行ったり来たり苦心したらしい。
     この合同演習で訓練は終了した。7月半ばから山中の掩体壕(えんたいごう)に機を隠してもっぱら整備と待機の日々となった。

     展開命令を待つだけの生活は辛いものだった。内地の空襲激化(神戸のわが家も6月5日に焼失した)、敗色濃厚の戦勢の折りに、北朝鮮の片田舎の木陰で無為にすごす焦燥感は胃が痛むほどだった。海州に住む河野さん夫人がそんなある日に西瓜を持って掩体まで来て下さった。食べられないハズの西瓜の味は格別だった。
     そんな2週間が経ち、8月になれば一線基地(川上隊は木浦)へ展開すると知らされた。そしてジュバン、袴下から越中フンドシまでの新品と、菊のご紋章入りのタバコを一人3本ずつ支給された。海州の女学生からの血染めの「必沈」のハチマキももらった。

     8月9日にソ連軍が満州に侵入してから、わたしたちは、同じ兵舎の端にある通信班室でもっぱら情報を取るのに忙しかった。満州にいる飛行隊がどんどん北朝鮮へ下がってくると聞いた。やがて「局地防御ニ任ズベシ」が出て、敵が来たら反撃せよだナと解した。則安少佐が京城から飛来して「5航軍の目標はあくまで太平洋にあり」と伝えた。そんな騒然たるなかで、8月15日終戦を迎えたのだった。
     かくして6人の戦隊、413飛行隊以下12隊はわずか2ヶ月で、ついに一度も戦わず(一度戦えば全滅するわけだが)に解散し、迎陽飛行場の先任将校である瀬川少佐の指揮下に入り、内地帰還の体制をとることになる。その象徴的な事件が8月16日夜の先陣争いだったと思う(あるいは17日であったかも)。


    ◆陸軍航空の全人教育に感謝

     昭和19年6月1日から20年10月に復員するまで、ほんのわずかな期間だった。それもほとんどが教育訓練だったから、わたしは陸軍航空の一部をチラリと見たにすぎない。
     この短期間にわたしは多くの優れた人たちに会えたことは実に幸いだった。
     金丸原分校での地上教育で接した相良、鯉淵両区隊長、幹候7期の相良晃少尉は入校して間もないある朝、われわれが起床ラッパから点呼までの間、あわただしく毛布を畳んでいるとき、熱発で寝たままの戦友を、そのままにしていたのを指摘し、「毛布のホコリのなかで、どうして戦友の顔に手拭くらいをかけてやらないのか。この見習士官の母親が見たらどう思うか」と注意された。
     二人の区隊長の全人教育に接した2ヶ月で、わたしは陸軍の良い面だけを体で受け止めた。

     そのあとも、今から思えば、あの若さでと感心するいい教官や隊長、それに同期生に恵まれた。壬生では2次教育になってから各自の持参した書物を本箱に入れ、休務日には鍵を開けて取り出し読むことができた。当時の日誌にギリシャ人とギリシャ哲学(出隆)正法眼蔵釈意巻一(橋田邦彦)などを読んだとある。そういう自由を与えてくれた教官に、今も頭が下がる。静岡高校から来て、壬生にいる間に東大の入学通知をもらって喜ぶ長塚隆二や国学院から来た井之口章次の、自分のやろうとしている学問への熱意に感銘を受けたのもこのころだった。

     川上少尉は、学生時代から知られたアルピニストだった。あの操縦ぶりから見て、慎重で大胆なクライマーだったと思われる。爆装飛行は少尉がテストしその諸元を各隊が参考したのだった。川上少尉の明るい性格、ぞんざいなようで細かな心配りのおかげで、うちの隊は6人兄弟の一家のようだった。
     瀬川少佐は最高の軍人だった。敗戦のあと教育隊と、と号隊を合わせた100何人かが、一つの隊として整然とした行動で復員できたのは少佐の力量だった。釜山港の所持品検査で多くが時計を米軍兵士に没収されたが、少佐は免れた。そのわけは「アメリカ人はヨメさんが怖い。ボクのこの時計はワイフからのプレゼントだと言ったんだ」と。
     僚友の後藤明には感謝の言葉もない。面倒見の良い彼は整備関係者の心もつかんでいた。おかげで413の各機の整備は満点に近く、事故は一度もなかった。

    (と413隊・見習士官)【了】


    (航空碑奉賛会 『続・陸軍航空の鎮魂』 昭和57年4月発行 より)

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    赤トンボと号隊始末記(中)

    2010/08/14(土)

    ※この記事は、航空碑奉賛会 発行 『続・陸軍航空の鎮魂』に寄稿したものです

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    賀川浩、出征の日。
    実兄・太郎が、いつも胸ポケットに入れていた写真



    ◆と号もマスプロ体制

     95式一型練習機、いわゆる赤トンボを黒く塗り替え、後座席をタンクに改造して燃料増積をするようにし100キロ爆装でゆくのだといわれたときは、正直、えらいことだナと思った。それはまた、と号部隊戦闘要領という小冊子を受取ったときの感慨とも似ている。

     この小冊子はその冒頭にある
    「と号部隊ノ目的ハ航行マタハ舶地ニ於ケル敵艦船艇ニ驀進衝突シ、コレヲ必沈シテ敵ノ企図ヲ覆滅シ、以テ全軍制勝ノ根基ヲ確立スルニアリ」という第一項以外はほとんど覚えていない。突撃開始点、角度、急降下攻撃、急降下水平攻撃などが図入りで説明されていたが、ガリ版でなく、ちゃんとした活版印刷であったことで、特別攻撃隊がマスプロ体制に入ったことを知った。特攻は、すでに特別なものではなく、と号隊は、戦闘機隊や、爆撃隊と同様に陸軍航空の一分科となったという印象を受けた。そしてこの戦争もいよいよ、ここまで来たという感を強くした。

     宙543部隊、つまり海州の教育飛行隊はこうして12隊のと号隊を編成した。他の3期の見習士官は、このあと温井里(戦闘)会文里(爆撃)に移って、次の過程に進み迎陽飛行場には、と号と、少年飛行兵の教育隊と、飛行場大隊だけになった。
     兵舎の一棟の半分、6室を借りる形になり1室に2隊(12人)が寝起きした。川上隊と同室の大島隊は3期(本城、小袋、伊藤、斉藤、富田)の隊員ばかりで、他の10隊は2~3の特操3期と、3~2の特幹の伍長で編成されていた。食事は将校集会所。設備は粗末だが、待遇は心のこもったものだった。魚の刺身もときには出た。何より嬉しかったのは燃料はアルコール100%とはいえたっぷりあり、飛行機は(当然ながら)一人に一機ずつ。整備は大刀洗飛行学校時代からのベテランの軍属がいて頼りになった。

     昭和20年6月1日から合同訓練がはじまり、5航軍から則安少佐が、各隊を統括指導するために来られた。加藤戦隊の生き残りという少佐のおかげで、演習は純技術的になり、内容も充実したものだった。
     急降下攻撃、超低空飛行、二機編隊の一目標への急降下攻撃、夜間離着陸、洋上飛行、爆装離着陸などが主な課目。降下角35~30度の急降下攻撃はスピードを増せば機は浮力を増す。ために目標の上を飛び越す公算も大きい。突撃開始のときには所定の角度より浅く入った方が良いようだった。開始の高度は演習では800mだったか。

     相手に接近するまではレーダー並びに敵戦闘機を避けるために超低空ということで、これはみっちり行なった。畑の一軒家の軒下や海州港にいた船の舷側より低く飛んだりするものだから教育隊付の小暮准尉が「あんな遅い機で、低く飛ぶと、いざというときに急上昇できないから、充分注意しなさいヨ」と風呂で会ったときに忠告してくれた。戦闘機乗りの熟達の准尉から見れば、わたしたちの飛行ぶりは無鉄砲に見えたに違いない。
     夜間飛行は海辺の飛行場特有の横風と霧に悩まされた。事故もあった。アルコール100%だから、レバーを絞って、さて急に入れるとブルブルストンと止まってしまう。レバーを絞り切らないように(急降下のときも着陸のときも)することが大切だった。


    ◆格納庫の屋根が上の方に見えた

     6月の末に53航空師団長の査閲があった。「良好」との評だったが、このとき飛行場のT型布板に対する急降下攻撃で川上隊の前田明見習士官が地面に激突寸前まで降下して皆に冷や汗をかかせた。
     布板の横で角度を測っていたわたしは、いつになく布板から軸線の外れている前田機を見ていた。これは命中せずの採点になるゾと思っていたら、引き上げ高度に来ているのに尾翼が動かない。危ないと思う間もなく、彼の機は布板から少し離れた師団長や幕僚の天幕へ――。地面に座り込んでいたわたしの目からは、彼の機は天幕の向こうに隠れた。「やった」と立ち上がったとき、前田機は急上昇していた。
     頭上をかすめられて天幕の中から参謀が飛び出し、そのわきにウロウロしていた犬が頭を蹴飛ばされてキャンキャンわめくなど、ちょっとした喜劇だった。さすがに師団長はイスから腰を浮かしただけだった。

     着陸した前田が報告する「前田見習士官、急降下攻撃終わりました」則安少佐が聞く、「どれくらい降下したと思うか」前田「引き上げる途中、左側にある格納庫の屋根がずいぶん上の方に見えました」少佐は「それくらい落ち着いていればよろしい」とニヤリと笑った。


    【つづく】


    (航空碑奉賛会 『続・陸軍航空の鎮魂』 昭和57年4月発行 より)

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    赤トンボと号隊始末記(上)

    2010/08/13(金)

    ※この記事は、航空碑奉賛会 発行 『続・陸軍航空の鎮魂』に寄稿したものです

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    ◆8月16日の先陣争い

    「その潜水艦を川上隊がやります」
    「いや平林隊がゆきます。わが隊はすでに一番早く展開命令を受けている」
    「なにを言う。オレのところは413飛行隊、編成序列は一番早いんだ」

     昭和20年(1945年)8月16日夜、朝鮮黄海南道(ファンヘナムド)、海州(ヘジュ)市郊外の迎陽飛行場。少し離れたところにソ連の潜水艦があらわれ、ついで300人ばかりが上陸しはじめたとの情報が入ったのに対し、中練のと号(特攻)隊である413飛行隊長・川上晃良(あきよし)少尉と414飛行隊長・平林少尉が自分たちの隊で攻撃すると言い張った。わたしは、二人のやりとりを眺めながら、“戦争が終わったというのに、やっぱりオレも突っこまないといかんのかなァ。まあ、それはそれでも構わん。どうせ死ぬることになっていたのだから”などと考えた。

     だが、二人の口論を瀬川雄章少佐が一喝した。
    「いやしくも終戦の詔勅(しょうちょく)が下ったのだ。陛下の兵器である飛行機を使って敵を攻撃することは、絶対、許さん。死にたければ自分の刀(かたな)でハラを切れ。」
     瀬川少佐は少年飛行兵の教育隊長で、と号隊の直接責任者ではないが、ニューギニアでは地上戦闘の労苦も経験している歴戦の大先輩。その少佐のスジの通った、しかも気迫のある声は、後方にいたわたしの胸にもズシリと来た。

     ともかく、オレたちは負けたんだ。ソ連兵が来ても抵抗できないんだ――頭のなかで、何度も反芻しながら兵舎に戻って、まあ寝ようやと横になったが、今度は川上隊長が帰って来ない。5人の仲間が手分けして探しに行ったら、真っ暗な飛行場に隊長はひっくりかえって、空を眺めていた。
    (ソ連潜水艦うんぬんは、翌朝、誤報と分かった)


    ◆8月14日に展開命令

     平林少尉が自分たちが先だと主張したのには伏線がある。8月14日414飛行隊の隊長以下6機(中島見習士官、田中見習士官、明石伍長、奥村見習士官、塩田伍長)は迎陽を出発し、第一線基地ともいうべき群山(クンサン)へ飛ぶことになっていたからだ。
     当日、出陣式を終え、飛行場につめかけた海州市民の見送りを受けて離陸しようとしたとき、事故があって、その日は出発を延期。翌日の正午、終戦の詔勅をラジオで聞いたのだった。本土決戦(決号作戦)で朝鮮海峡一帯を、まず第一戦域と予定されていた、わたしたち中練と号(中練=中間練習機、愛称:赤トンボ)のうち、すでに発進基地への進出命令を受けていた平林少尉にとっては、いったん「死ぬ」と決めた気持ちを持続していたのだろう。
     また8月9日、ソ連軍の満州侵入以来、友軍のひたすら、後退を続けるニュースばかりに、苛立っていたと号全員の気分も“潜水艦攻撃”の主張のもととなっていたに違いない。


    ◆西瓜(すいか)は食えないヨ

     わたしがと号要員の命令を受けたのは昭和20年5月初旬だった。前年の昭和19年6月1日に宇都宮陸軍飛行学校へ入校し、那須野ヶ原の金丸原分校での地上教育を経て8月1日壬生の本校で飛行訓練に入った。場周離着陸、垂直旋回が終わったところで、燃料事情のため4個区隊を1次2次3次に編成分けした。わたしたち2次組は演習中断ののち、11月に再開。20年2月末にまた燃料不足などで演習は中断、卒業飛行もないまま53航空師団第543部隊に転属。3月3日壬生を出て、博多から連絡船で釜山へ、そして大田(テジョン)、京城(キョンソン)を経て開城(北緯38度線のすぐ北/ケソン)で支線に乗り換え、海州市郊外の迎陽飛行場に3月8日到着した。
     北に岩肌の露出した首陽山(899m)と南に丘陵性の南山に挟まれた海州は黄海に面する入江を持ち、古くから発達した港町だった。飛行場はその東南、離陸すれば眼下はすぐ海。満州からやって来たという99襲撃機が海上の目標に対して急降下攻撃を繰り返していた。のちに聞いた戦史から推察すれば誠第32飛行隊だったか。

     途中で合流した熊谷からの3期生を加えた約80名の見習士官は4月中旬に中練の演習を開始した。それも黄砂で途切れがちのうちに、と号隊の編成となった。
     と号要員選抜の基準については、よく分からないが、4月はじめごろに志望書を出したあとで、身上調査があり、わたしは、兄が海軍予備学生14期で筑波空にいることからその消息や、父の死後の家計、財産などについて、かなり詳しく質問されたことを覚えている。
     命令は簡単に「413飛行隊付ヲ命ズ」とあるだけ。後藤明、鈴木隆光、前田明、小本健三と、わたしの5人が、5月初旬のある日、川上晃良少尉の前に並んで「××見習士官ハ4月30日付ケヲ以ッテ、第413飛行隊付キヲ命ゼラレマシタ。ココニ謹ンデ申告致シマス」と申告した。少尉は「ご苦労、ことしの西瓜は食えないからナ」とひとこと言った。

    【つづく】


    (航空碑奉賛会 『続・陸軍航空の鎮魂』 昭和57年4月発行 より)

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    ルーニーのコラムを更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/08/12(木)

    サッカーマガジン連載「我が心のゴールハンター」を更新しました

  • 【番外編】FIFAクラブW杯決勝 2つのヘディングゴールとメッシの胸ゴールに思う
  • ウェイン・ルーニー(1)2008年12月クラブW杯準決勝、ガンバを相手に見せた電光石火のシュート
  • ウェイン・ルーニー(2)横浜で見せた3得点と、守備力、パスの巧みさと協調力
  • ウェイン・ルーニー(3)地元の少年チームで99得点。9歳で「CFディーン」伝説のエバートンへ


    ※このコラムは『週刊サッカーマガジン』に掲載中のコラムのバックナンバーです
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    ラウルのコラムを更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/08/11(水)

    サッカーマガジン連載「我が心のゴールハンター」を更新しました

  • ラウル・ゴンサレス(13)銀河系レアルに、またまた超人気のベッカム加入。戦力マケレレ去って低迷へ傾く
  • ラウル・ゴンサレス(14)2009「エル・クラシコ」。イブラヒモビッチの“異質効果”と30回目、ベテランの戦う姿勢
  • ラウル・ゴンサレス(15)04~06年の低迷“銀河系”。ファンニステルローイの加入で上向きに
  • ラウル・ゴンサレス(16)ケガと不調の04~06シーズンを脱し、新しい銀河系でのその協調力発揮に期待

    ※このコラムは『週刊サッカーマガジン』に掲載中のコラムのバックナンバーです
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    片山洋のコラムを公開 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/08/05(木)

    東京、メキシコ五輪の日本代表DF片山洋のコラムをアップ

  • メキシコ五輪銅メダルチームを支えた右フルバック 片山洋(上)
  • ソ連、欧州ツアーで腕を磨き、ひたむきに東京五輪を目指した日本代表DF 片山洋(中)
  • メキシコ五輪で1対1の粘り強さで各国チャンスメーカーを封じた右DF 片山洋(下)

    ※このコラムは『月刊グラン』に連載中の「このくに と サッカー」です
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