サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(下)
――ワールドカップ(W杯)の取材は、1974年西ドイツ大会からですね。
賀川:1954年にW杯予選の日韓戦があったが、関心はオリンピックの方が強かった。そのオリンピック東京大会のホスト国として恥ずかしくない成績を収めるために、デットマール・クラマーを西ドイツから招いた。彼によって日本のサッカーが、トップの代表だけでなく様々なところで大変革することになった。
ちょうどボクが東京に勤務していた時期と彼の来日1~2年目とが重なったのも、ボクには幸運だった。代表監督がロクさん(高橋英辰)だったから、代表の合宿所へも気楽に出入りして、クラマーとも内輪のつきあいになった。
――クラマーさんは、賀川さんを“トゥルーフレンド(True Friend)”と言うとか?
賀川:そのエピソードはどこかに書いたから省略しましょう。彼とは、以来50年のつきあい。私のサッカーの知識も、彼のおかげで飛躍的に伸びた。ドイツのサッカーが戦後の荒廃からW杯のチャンピオンとなって世界の頂点に立ち、少し停滞して、今また盛り返しているその50年の歴史の全てをクラマーは見ているから、いつ会って、話を聞いても新鮮で楽しい。
――W杯に目を向けつつ、関西サッカーの興隆には“気”が入っていましたよね。早稲田の釜本選手が三菱でなくヤンマーへ来たのも、東京オリンピックのときの大阪トーナメントも、賀川さんが関わっていたと聞いています。
賀川:それは、川本泰三というすごい先輩の仕事を手伝っただけですヨ。神戸の少年サッカー育成や神戸FCの創設なども、加藤正信ドクターの熱意に引っ張られてのことです。
――W杯では、出かけるたびにサッカーマガジンで『ワールドカップの旅』という連載を続けてきましたね。
賀川:あれは楽しんで書かせてもらいました。1959年の第1回アジアユース大会を報道役員として同行取材したとき、大阪のサンケイスポーツにその紀行を連載したのだが、阪急電鉄の事業部にいたサッカー好きがこれを読んで「賀川クンがもう少し早く生まれていたら、サッカーの面白さをもっと早くにたくさんの人が知るようになったハズだ」と言ってくれた。ボクよりも年長の人にそう言われて、紀行形式のサッカー物語を書いてみようと思っていた。それを74年大会から始めた。
――ことし2010年は南アフリカへ行けず残念でしたね。2014年ブラジル大会での連載を期待しています。
賀川:あまり長く続けて質が落ちると出版社にも迷惑をかけるからネ。まあ、ボクより若くて優秀なサッカー記者はたくさんいる。国際舞台の試合を見る数も、ボクなどとは比べものにならぬほど多い。サッカーの世界はどんどん進んでいるし、メディアもずいぶん進化してきている。
――国際試合をパソコンの画面で見られるようになりましたからね。
賀川:写真や動画とともに文字でゲームを再現し、文字でサッカーを伝える仕事がどう変わってゆくかは分からないが、私はまだしばらくこの面白みを続けてゆきたい。それから、いま取り組んでいるインターネットの「日本サッカーアーカイブ」という、日本の歴史を紹介し語ってゆくウェブサイトを充実するだけでなく、出版物なども積極的に取り組んでゆこうと思っている。
長い間、新聞の仕事に携わり、スポーツを眺め続けてきたボクにとっては、みなさんの関心の強いサッカーの歩みを一緒に見つめることで、日本という国の現代史をもう一度考え直すことになるとも思っている。歴史を学ぶことの大切さは、スポーツも政治や経済でも変わることはないと考えています。
――殿堂入りのお祝いから、ずいぶん話が長くなりました。
賀川:とにもかくにも、みなさんありがとうございます。集まってサッカーを語る機会がもしできれば、そのときにも改めてお礼を申し上げたいと思っています。
【了】
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