サッカー75年、メディア60年。蹴って見て書いて、アッという間の人生85年。殿堂に入りただ恐縮(中)
――復員後、学校を出てから記者になるまでしばらく年月がありますね。
賀川:自分が何をするのか、人生の模索期というところだね。
――略歴には、1952年(昭和27年)1月に産経新聞入社とあります。
賀川:「スポーツ記者は面白いヨ」という大谷四郎さんのアドバイスもあった。面接で話を聞いてくれた木村象雷(きむら・しょうらい)という大記者の人柄にも魅力を感じた。まあ入社したというより入れてもらったという感じだね。産経新聞は当時どんどん成長していて、運動部でもボールゲームの専門家を探していた。
――特別に何かしたのですか?
賀川:京都の新聞に寄稿していた記事や、自分が京都の高校生を集めて講習会を開いたときに作ったテキストなどを送って木村さんに見てもらっていた。
――以来、ざっと60年
賀川:新聞社に入ったのが27歳だから、少しスタートは遅れている。それからしばらく、吸収するのに一生懸命だったことは確かですヨ。木村部長をはじめデスクにも先輩記者にも優秀な人が揃っていたのもありがたかった。大相撲の“熱戦一番”の北川貞二郎さんもいた。木村さんは入社早々のボクに、「デスクの山田宏は原稿に手を入れるのがとてもうまい。原稿のうまさでは北川クンを見習いなさい」と言っていた。山田さんはボクより2歳上、北川さんは1歳上。
――司馬遼太郎さんも同じ編集部にいたそうですね。
賀川:文化部のデスクだった。格調あるカコミを書いていたヨ。同じ文化部と社会部にも、そしてうちにも山田デスクといった文章家がいた。司馬さんに競争心を持っていた人たちが多く、編集局内は活気があったヨ。
――そんな雰囲気だと楽しいでしょうね。
賀川:会社に寝泊まりすることが多かったネ。野球場からナイターの記事を送ってくるのを電話で受けて書き取ったりという時代だから、万事手仕事、今から思えば無駄なようだが……。木村さんが徹底的に平易・簡明な文章をと指導してくれた。一言一句、助詞の使い方も細かく。道を歩きながら、「ここは『~が』か『~は』か」と考えたものだ。
――その中でたくさんのスポーツを取材し、記事もたくさん書いた。
賀川:オリンピック記者を目指していた。高校野球も大学野球もプロ野球も取材に行った。もちろんサッカーも、フィギュアスケートは今のプロコーチ、佐藤信夫・久美子夫妻の少年・少女期から取材した。色々な競技を見たことがサッカーを見るうえでもプラスになった。まあ、あっという間の60年ですヨ。
【つづく】
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