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高橋ロクさんのこと

2010/02/19(金)

 日本サッカー史研究会のメンバー阿部さんからの連絡で、先月1月18日の会のテーマが高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんであったことを知りました(阿部さん、ありがとうございます)。

“ロクさん”こと高橋さんは私より8歳ほど年長の先輩であるとともに、尊敬する仲間でした。第1回のアジアユース(1959年)マレーシア大会の監督をされたときに私はマネージャー兼報道係として同行し、ロクさんの選手たちへの細かな気配りに感心したものです。
 ちょっと皮肉っぽい言い方をしつつ、心の優しいロクさんは、デットマール・クラマーが来日した60年から62年まで代表監督をしながらクラマーの全国行脚にも付き合い忙しい日々を送りながら、時を構わず電話する私の問いにも応じてくれました。
 私の兄の太郎の結婚式のときにも、仲人であった竹腰重丸さんのサッカー芸術論の大スピーチ論とは違って、ロクさんらしいサビの効いた短いスピーチをされたことをいまも覚えています。

 長沼健さん、岡野俊一郎さんの若い2人に日本代表監督を譲ってしばらく日立の工場勤務となったとき、「暇だからゴルフの道具を揃えたよ」と言いながら嬉しそうでなかった……。日本リーグで低迷する日立を建て直すために日立サッカー部に返り咲いたときは、田辺製薬にいてかつてロクさんとはライバルであり、且つ、ロクさんのリンクマンぶりをいつも推奨していた兄・太郎が「これで日立も強くなるだろう」と言っていたのを覚えています。

 それから、しばらくしてロクさんが大阪の新聞社へ訪ねてきてくれて2人で食事をしたとき、ロクさんが「ボクも変わったからネ」と言ったのを忘れられません。
 ベルリン世代とそのずいぶん後の次の世代の間で苦労したロクさんが、あり余るほどのサッカーの知識と経験の中から“いまの日立”に必要な“走るサッカー”を強調した頃でした。

 ロクさんのおかげで、私はクラマー来日初期には日本代表の合宿に仲間と同じ扱いで出入りすることができ、サッカー復興の若い仲間と友人になれました。それは今の私の大きな財産の一つ。ロクさんを偲ぶとき、いつも、いい先輩に巡り会えたと改めて感じるのです。


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