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2010年2月

85歳のリハビリ(下)

2010/02/25(木)

――ロコモには、変形関節症、骨粗鬆症、脊柱管狭窄症あるいは関節リウマチなどの疾患からくるもの、年をとって運動機能が低下したことによるものなどがあるらしいです。

賀川:動くのが大儀になると、動かなくなる。すると、よけい体の機能が衰える。

――それに気がついたわけですね。

賀川:同年輩の仲間を見ていると、何かの原因で足や腰を悪くする→杖をつくようになる→動きの範囲が狭まる→足腰がさらに衰える→車椅子になる→(なかには元気に出歩いている人もあるが、)そこでまた外へも出なくなる→よけいに体が弱る……という経路をたどっている。

――自分でものを書いていて頭を働かせているのはいいですが、やはり体も動かさないとね。だけど、リハビリは待たされるんじゃないですか?

賀川:生田医院のリハビリのスペースはうんと広いわけではないが、機能的で看護師さんがたくさんいて手際がいい。待合室にたくさん人がいても、スムースに進んでゆくから有難いヨ。マッサージをしてもらう人、器械を使う人、ペダルをこぐ人、など上手く当てはめてくれる。

――それじゃ、当分は続けないといけませんね。

賀川:70歳までは入院したこともなかったボクが、70を過ぎて鼠径(そけい)ヘルニアの手術で入院し、80をこえると第4、第5腰椎がズレているということになった。人は齢とともに体も変化する。平均より少し長生きしているボクにとっては、これまで健康で仕事ができた有難さを噛みしめながら、こうした新しい“衰え”の経験などもお話すれば、皆さんの参考になるかもしれない。もちろんまだ仕事を残しているから、これ以上衰えないようにしたいが。

――このあいだ、神戸FCの40周年のパーティニチレクの田渕社長にお目にかかったとき、賀川さんが元気なのを見てその秘訣を聞きたいと言ってらしたそうですね。料理店の経営やサッカー教室開催などの経験から、子どもの栄養などについても関心を持ち勉強されているとか。

賀川:食べることは好きだし、自分でも日常の料理をつくっているから、そういう話には関心がある。ボクは神戸っ子で、都会生まれ都会育ちだが、ご飯は昔から胚芽米でしたからヨ。

――今回はこれくらいで終わりにしますが、85年の生活経験や幼年期、少年期のこともまた聞きたいですね。


【了】

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85歳のリハビリ(上)

2010/02/24(水)

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――リハビリに通っているんですって?

賀川:そう。週3回くらいの割合でね。

――例の腰ですか。

賀川:2年前に脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)と診断されたことはこのブログでも話したと思うが、公立病院で治療してもらい、リハビリに通っていたのだが、病院側の経費削減のあおりでリハビリの先生たちの数も減ってネ……。なかなか良くならないこともあって、しばらくリハビリをサボってしまい、もうどうでもいいかと諦めかけていたのだけれど、考えてみれば、良くならなくても、これ以上悪くなるともっと大変だと気が付いた。

――それで

賀川:ちょうど、元国際審判の高山ドクターにその話をしたら、御影中町というここから近いところに生田整形外科というクリニックがあって、そこはよく診(み)てくれるしリハビリの設備もいいよ――と勧められた。

――生田先生は神戸高校サッカー部のOBで兵庫協会でも医事委員ですよね。賀川さんの後輩。

賀川:高山ドクターにもそう言われて、昨年の8月に初めて伺った。それでブロック注射という痛い注射をしてもらい、「しばらく様子を見ましょう」「簡単なリハビリを続けなさい」ということになった。

――リハビリはどんな程度ですか?

賀川:自転車(ペダル)こぎが10分、それと電気のレザーともう一つが5分ずつ。ごく簡単だが。

――それで、調子はどうです?

賀川:最初の日、5分のペダルこぎだけで息が上がったが、それからあとは調子がいい。動いていないので心肺機能もガタ落ちになっていたかもしれない。それと、我が家から阪急芦屋川のバス停まで坂道を歩いて行き、そこからJR芦屋駅までバスに乗る。芦屋駅から住吉へJRで出て、そこからまた阪神国道をバスの1駅ぶん歩いて医院に行く。わずかな距離でも、そうした往復の歩行とリハビリでの自転車こぎが週3回の運動になっている。

――賀川さんの痛みなどをひっくるめて、近ごろは“ロコモティブ・シンドローム(Locomotive syndrome)”というそうですよ。

賀川:ロシアにロコモチフ・モスクワという名のサッカークラブがあったね。「機関車」ということで、社会主義ソ連時代からの鉄道従業員のクラブだった。
 ※編集注:英語のLocomotive(ロコモティブ)、ロシア語ではLocomotiv(ロコモチフ)

――いまもロシアのトップリーグのクラブですね……と、脱線せずに健康の話に戻しましょうか。

賀川:そのロコモティブ・シンドロームというのは?

――運動機能が衰えて、日々の生活で自立が難しくなる状態のことで、日本語では「運動器機能低下症候群」といわれています。略して「ロコモ」というらしい。

賀川:サッカーのコーチ会議みたいに、お医者さんもカタカナが多いんだね。つまり、体の運動機能が低下する、ということでしょう。

――神戸市医師会便りにも載っています。運動器自体の疾患と加齢による運動機能不全があって、そのロコモかどうか確認する“ロコモーション・チェック”をすれば分かると書いてある。

賀川:片足で立って靴下がはけないとか、家の中でつまづくようになるとかいろいろなチェックがあるとテレビでもいっていた。ボクの場合は、10分か15分歩くと痺れがくるという項目などあてはまりますヨ。


【つづく】

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バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(下)

2010/02/24(水)

※バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(上)はこちら


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新聞社の企画で対談する佐藤久美子(写真左、旧姓・大川)と平松純子(右、旧姓・上野)


賀川:佐藤信夫コーチは、彼が中学校のときに日本チャンピオンとなったころから取材していたから、いわば“信夫ちゃん”のころから知っていますヨ。夫人の久美子さんは、これも大川久美ちゃんといった小学生のころからのつきあい。2人が結婚し、その娘さんの佐藤有香さんが世界チャンピオンになった。信夫クンはいまは小塚崇彦選手のコーチで、テレビによると、有香さんが振付をしたそうだ。

――ずいぶん詳しいですね。

賀川:信夫クンは68歳で、今度の大会の前に世界フィギュアスケートの殿堂入りしたということだ。彼は1965年の世界選手権で日本人男子としては初めて4位に入った選手。そのとき彼は3回転ジャンプに成功したのだが、当時では世界で4人目くらいだったハズだ。信夫クンはスケーティングが上手でね、トリプルジャンプも着氷した後の滑りがとてもきれいだった。彼が大阪のリンクで何度も練習を繰り返していたのを見ていたヨ。

――ふーん。小塚選手の4回転も、そういう伝統の流れがあるわけだ。

賀川:彼の世代に日本のフィギュアが大幅にレベルアップして、そこからしばらく中断期があった。いまのトップクラスの充実でフィギュア日本などと言われるようになったのも、戦後の彼らの世代が世界に一つのステップを刻んだからですヨ。

――サッカー発展の歴史も面白いですが、フィギュアはサッカーほどの広がりはなくても、やはり先人たちの努力があるのですね。

賀川:稲田さんのお弟子さんに上野純子、福原美和たちがいて、稲田さんより少し若い山下艶子(やました・つやこ)さんのお弟子さんが佐藤信夫、大川久美子といったふうに続いている。信夫クンと同じころに名古屋には小塚一家がいて、このファミリーが中京のスケートの基盤となり、伊藤みどりさん、いまの浅田真央ちゃんなどに続いているのですヨ。ここに名前を出した以外にも、たくさんの先人たちによってフィギュアスケートの今日の隆盛が築かれたことは覚えておきたいネ。

――ものには始まりがあり、継承がある。サッカーもスケートも一緒ですね。


【了】

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バンクーバーの冬季五輪。フィギアスケート佐藤コーチの殿堂入り(上)

2010/02/23(火)

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右端、現役時代の佐藤信夫氏(バンクーバー五輪代表・小塚崇彦選手のコーチ)。


――テレビの冬季オリンピック放送がずいぶん賑やかですね。

賀川:NHKテレビの競技解説や滑降、ジャンプの科学的な分析などいろいろ趣向もあって、冬のオリンピック種目への理解も深まるだろう。
 もともと、スキー、スケート、つまり雪の上と氷の上の競技は、スケートは室内リンクのできる前から観客席で見ることができたが、スキーは、ジャンプはともかくあとはコース全体を見ることのできないスポーツで、スキーヤーの多い割には“見るスポーツ”というわけではなかった。それがテレビによって滑降や回転、あるいは距離競技などもコース全体を見ることができるようになりとても面白くなった。

――カーリングなどという、日本では新しいスポーツも見るとずいぶん面白いですね。テレビといえばフィギュアスケートは視聴率も高いそうです。

賀川:戦前からフィギュアは冬季五輪の花と言われていたヨ。

――関西は昔からいいフィギュアスケーターが出ていましたよね。

賀川:日本でのスケートの発端は長野県の諏訪湖と言われていて、そこでの下駄スケートが有名。下駄の裏に鉄製のエッジをつけてね。神戸では外国人がスポーツを持ち込んだことはよく知られているが、六甲山上にある溜め池が冬に凍結するのに目をつけた外国人が六甲山上の池で滑り始めたのが起こりですヨ。

――へぇ、六甲の池で……

賀川:ボクも小学生のころ滑りましたヨ。八代池(やつしろいけ)というのが大きくて、父の貿易商仲間の外人さんの別荘の裏にある星野池というプライベートなリンクは氷の状態も良かった。

――1936年ベルリン・オリンピックと同じ年にドイツで冬季五輪があったとき、日本からは12歳の少女が出場したそうですね。

賀川:私と同じ年齢の、稲田悦子さん。皆、悦っちゃん(えっちゃん)と呼んでいた。大阪の商家のお嬢さんで、そのころ神戸市の新開地にできた神戸アイススケート場へ通っていた。

――オリンピックでは?

賀川:メダルや入賞とはゆかなかったが、11位か12位で、半分より上の方だったハズ(編集注:10位)。出場最年少というので話題になった。

――女子フィギュアの草分けですね。

賀川:いやいや悦っちゃんの前にも女子フィギュアは既に始まっていた。いまのISU(国際スケート連盟)の国際審判のトップにいる平松純子(旧姓・上野)さんのお母さんの上野衣子(うえの・きぬこ)さんや、プロコーチの佐藤信夫さんのお母さんもそうだった。
 そうそう、サッカーの加納孝さん(第1、2回アジア大会日本代表)の夫人も、そのお姉さんも滑っておられたんですヨ。

――それはまたずいぶん古い話ですね。


【つづく】

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日本代表、2月4戦シリーズの不成績(下)

2010/02/20(土)

日本代表、2月4戦シリーズの不成績(中)こちら


――相手に守りを固められると、その多数防御を破れないのも同じでしたね。

賀川:この部分――いつも0点に押さえるのは難しいことだ。それより点を取ることを考えた方が易しい。ゴールできそうなFWが出てきたのだから……

――3月のバーレーン戦でどうなるか、見たいですね。

賀川:相手がどこであっても、日本のやり方はこれ――と言ってきたのが、まあある程度できるようになったとしたら、今度は相手のメンバーに合わせてここはこういうやり方で、という課題を持ち、それを選手たちがピッチ上でどう実行するか、という段階だろう。

――俊輔が日本に戻ってくるという話は?

賀川:もともとあった話らしいから――。そうなれば良いが、ヨーロッパにいるにせよ日本に戻るにせよ、体調は大切な問題だからネ。問題はやはり平山相太だろう。しっかりした体とは言い難いが、これからの練習次第でもっと点に絡める選手になるハズだから。もちろん、岡崎慎司もステップアップが必要だ。

――平山なら、例えばどんなところをでしょう

賀川:自分がどこでヘディングすればボールはどこまで行くか。シュートでも、自分がどこで蹴ればゴールのどこへズバッと入るか――といったことだね。本当は昨年にできていないといけないのだが、今でも遅くはない。今の日本のFWにはそれがあまり見られないんだヨ。

――今からでも間に合いますか

賀川:日本代表が、大人の世界大会でとったメダルは1968年メキシコ五輪が唯一。この代表は68年2月にメキシコ遠征し、メキシコのオリンピック代表に0-4で負けている。高度順応を調べる目的もあって、休養明けの選手を集めて太平洋を渡ってメキシコで試合をしたのだが、文句なしの完敗だった。ただ一人、ドイツ留学から合流した釜本邦茂の体調は良かったが、これも高度の影響には苦しんだ。
 それが、10月のメキシコ大会本番の3位決定戦では2-0で勝ったんだヨ。体調不完全、そして高度順応(メキシコは2,500m)できないとどれだけ苦しいかが2月の遠征でよく分かったから、日本国内での高地合宿や高度対策にも選手たちは真剣になり、チーム全体として大会中の体調管理にとても気を配った。釜本は、ドイツでの個人練習の成果をオーストラリアでの3試合(メキシコ遠征後)から発揮し始めた。

――日本代表の一人ひとりが2月の敗戦で目を覚まし、本番に向かってくれるのに期待しましょう。水を飲むのは彼らですからね。だけど……飲まなかったらどうしましょう?

賀川:そのときは、それはそういう選手を生み出した私たちサッカー界が悪いのだろうヨ……。


【了】

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高橋ロクさんのこと

2010/02/19(金)

 日本サッカー史研究会のメンバー阿部さんからの連絡で、先月1月18日の会のテーマが高橋英辰(たかはし・ひでとき)さんであったことを知りました(阿部さん、ありがとうございます)。

“ロクさん”こと高橋さんは私より8歳ほど年長の先輩であるとともに、尊敬する仲間でした。第1回のアジアユース(1959年)マレーシア大会の監督をされたときに私はマネージャー兼報道係として同行し、ロクさんの選手たちへの細かな気配りに感心したものです。
 ちょっと皮肉っぽい言い方をしつつ、心の優しいロクさんは、デットマール・クラマーが来日した60年から62年まで代表監督をしながらクラマーの全国行脚にも付き合い忙しい日々を送りながら、時を構わず電話する私の問いにも応じてくれました。
 私の兄の太郎の結婚式のときにも、仲人であった竹腰重丸さんのサッカー芸術論の大スピーチ論とは違って、ロクさんらしいサビの効いた短いスピーチをされたことをいまも覚えています。

 長沼健さん、岡野俊一郎さんの若い2人に日本代表監督を譲ってしばらく日立の工場勤務となったとき、「暇だからゴルフの道具を揃えたよ」と言いながら嬉しそうでなかった……。日本リーグで低迷する日立を建て直すために日立サッカー部に返り咲いたときは、田辺製薬にいてかつてロクさんとはライバルであり、且つ、ロクさんのリンクマンぶりをいつも推奨していた兄・太郎が「これで日立も強くなるだろう」と言っていたのを覚えています。

 それから、しばらくしてロクさんが大阪の新聞社へ訪ねてきてくれて2人で食事をしたとき、ロクさんが「ボクも変わったからネ」と言ったのを忘れられません。
 ベルリン世代とそのずいぶん後の次の世代の間で苦労したロクさんが、あり余るほどのサッカーの知識と経験の中から“いまの日立”に必要な“走るサッカー”を強調した頃でした。

 ロクさんのおかげで、私はクラマー来日初期には日本代表の合宿に仲間と同じ扱いで出入りすることができ、サッカー復興の若い仲間と友人になれました。それは今の私の大きな財産の一つ。ロクさんを偲ぶとき、いつも、いい先輩に巡り会えたと改めて感じるのです。


book関連記事(賀川サッカーライブラリー)
現場を好んだ技術史の"生き証人" 特別編 ロクさん、高橋さん
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰
“走る日立”で日本を目覚めさせ 生涯・現場に生きたコーチ ロクさん、高橋英辰(続)

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日本代表、2月4戦シリーズの不成績(中)

2010/02/19(金)

日本代表、2月4戦シリーズの不成績(上)こちら


――しかしプロフェッショナルでしょう

賀川:そう、プロフェッショナル――つまり仕事だから倦むこともあるわけですヨ。だからこそ、シーズンとオフとのメリハリなどをいかに上手にするかと思うんだが……。

――疲れて気迫が乏しくて、それでお手上げというのも情けない

賀川:サッカーというのはチームゲームではあるが、もとはといえば一人ひとりのプレーが大切。それも、目の前の相手に対して自分一人で打ち勝とうというところから始まる競技であり、チームスポーツなんですよ。それが、パスが来てボールを止める、目の前に相手がいる、するとそれに突っかかって抜いてゆこうというのでなく味方の応援を待って協調してパスで突破する、というのが日本サッカーだから、皆が同じような(良い)コンディションでなければ困る。

――ボールも人も動く、なんていいますね。

賀川:もちろん、自分より良い位置にいる者に渡した方が、無理に一人で抜こうとするよりはいいだろう。しかし、「まず自分一人で突破してやろう」という気配があれば、相手もそれに反応する。すると、もう一つの選択であるパスもできるようになる。その、一人でやる、あるいはやろうとする気配がはじめから無いために、パスもコースを読まれたりするわけだ。

――個人力での突破をしないのならパス。すると常に走っていなければならない。仲間が互いに意志を通わせていなければならない。そのためには、全員の体調が良くなければならない――と。

賀川:本番まであと4ヶ月という時期に、このようなことを言っているのでは遅いと言われるかもしれないが、いま、自分たちはそういうチームなんだ――ということを再認識できたのはいいことだと思うヨ。

――というと

賀川:いつも言うように、もっと体を強くする。ジャンプの高さを上げる。キックの精度を高める。

――もちろん、人の問題もあります。

賀川:闘莉王中澤佑二のCDFも、韓国戦は良くなかったネ。中澤の寄せも良くなかった。韓国側の長いシュートが背中に当たり、GK楢崎には防ぐのが難しかった。こういう弱点は今まで通りだヨ。交代で入った岩政はまずまずの出来だった……。


【つづく】

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日本代表、2月4戦シリーズの不成績(上)

2010/02/18(木)

――楽しみにしていた日本代表の2月4連戦シリーズが、1勝2分け1敗……。キリンチャレンジカップのベネズエラ戦(0-0)を別にしても、3試合は東アジア選手権決勝大会という公式試合。開催国日本は優勝を狙うハズなのに、対中国0-0、対香港3-0、対韓国1-3とサッパリでした。

賀川:選手たちと監督も手厳しい批判にさらされるだろう。多くのファンの期待を裏切ったのだからね。

――さっそく、監督交代論が出ました。専門誌などでも強い調子で言っていますよ。

賀川:今度の不成績にはいろいろな見方があるだろうが、選手たちは何を感じているだろうか……。

――選手の体調も良くないうえに、何だか気迫が乏しい感じでした。

賀川:キリンチャレンジで、遠来のベネズエラの方が元気だったのに驚いた。中3日で対戦した中国でも、もう一息だった。日本代表というのは全員が揃って、しかも体調を整え、気合が入ってこそのチーム。それがなければ売り物にならない。

――そういうときこそ、監督・コーチ陣の指導がモノを言うのでしょう。

賀川:『馬が水を飲むかどうかは馬の問題』という諺がある。馬を水飲み場へ連れてはゆけるがネ――ということだ。

――そう言ってしまえばそうですが……

賀川:今度の日本代表の試合ぶりを見て、あらためて、昨年のJリーグの終盤の大熱戦を思い出した。開幕当初からACLに4チームが出場し、リーグとカップ戦があり、そのうえワールドカップの予選を戦った。そして、予選突破の安心感もあったのだろう。リーグ戦終了後の休養期間をどのように過ごしたのか。

――休みの間、選手がどんな生活をしていたか、どのような疲れの取り方をして、そのあと、体と気力を2月のこの連戦に向けて盛り上げてきたか、ですね。

賀川:おそらく指示は出ていたハズだが、それぞれの行動をマイクロチップを埋めて観察しているわけじゃないだろうからネ。ボクは昨年の疲れが予想外に大きかったのだろうと見ている。

――だからといって、プロ選手ならピッチに立って相手の顔を見ればもう少しやれそうに思いますが……

賀川:いまの日本代表は、中国にも香港にもとてもいい目標ですヨ。ビデオという材料もあるし、日本選手一人ひとりについて調査し、研究し、チーム戦術を理解して対応等をとる。それでいい試合をすれば、それぞれの国の選手たちにはとてもいい励みになるし、サッカー界全体の励みにもなる。

――韓国は伝統的に日本に負けたくないと思っていますしね。

賀川:監督にとっても選手にとっても、日本戦で勝つか負けるかで評価も違ってくる。そして日本のやり方もよく知っている。

――それなのにこちらは「ボツボツいこか~」という調子だった。

賀川:まさか、それほどでもないだろうが、どこかに緩みか、あるいは試合に倦(う)んでいたかも……。


【つづく】

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新コーナー兵庫・神戸のサッカー  ~賀川サッカーライブラリー~

2010/02/17(水)

新コーナー「兵庫・神戸のサッカー」を公開new

  • 加藤正信先生のこと
  • 神戸フットボールクラブ 20年のあゆみ
  • 私の天皇杯(第26回)
  • ニューイヤーズ・ドリームに思う ~夢を追いかけ続けた兵庫サッカーの先人たち~
  • 兵庫サッカーとわたし ~村田忠男会長に聞く~
  • 神戸FC 40周年記念おめでとう ~40年前の先見性を噛みしめつつ、100周年の夢を考えましょう~
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    マッカビ・ハイファ、ベシクタシュの選手情報を更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/02/16(火)

    マッカビ・ハイファ(イスラエル)ベシクタシュ(トルコ)の選手情報memoを更新!

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    ベルカンプのコラムを更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/02/12(金)

    サッカーマガジン連載「我が心のゴールハンター」を更新newしました

  • デニス・ベルカンプ(5)94年W杯、ファンバステンとフリットを欠きながら、ベスト8でブラジルと対戦 
  • デニス・ベルカンプ(6)米国W杯で3得点。不振のセリエAから働き場をプレミアシップへ 
  • デニス・ベルカンプ(7)EURO96、ヒディンク監督とオランダ代表のまとめ役となり、ベンゲル監督とアーセナルの進化を担う
  • デニス・ベルカンプ(8)96-97シーズン。充実期を迎えて“美しいゴール”でアーセナル浮上に貢献
  • デニス・ベルカンプ(9)97-98シーズン。アーセナルの2冠に貢献、自らも最優秀選手の2冠表彰
  • デニス・ベルカンプ(10)ティエリ・アンリたちスター軍団から「チームへの貢献」を尊敬され、引退試合でも結果を出した


    ※このコラムは『週刊サッカーマガジン』に掲載中のコラムのバックナンバーです
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    日本代表の2月シリーズを追って vs中国(下)

    2010/02/11(木)

    東アジア選手権2010決勝大会
    2月6日(東京・味の素スタジアム)19:17
    日本代表 0(0-0 0-0)0 中国代表

    ――中国戦では、サイドからの攻めもありました。内田篤人のシュートがファーポストに当たった惜しいチャンスも。

    賀川:後半に平山相太を送りこんだが、彼の大きさとポストプレーということで、少し良くなった。報道によると、監督がサイドからの攻めの指示をしたとか――。このあたりが私にはよく分からない。
     サイドアタックのできる選手がいて、サイドではボールをキープできるのだから、中央のウラを狙うためにもサイドへボールを散らし、外からのクロスやシュートがあって当然でしょう。外からと中央の攻撃の変化というのは、古くから攻めの常識ですヨ。
     調子を落としている内田が久しぶりに“らしい”プレーを見せたが、あのポストに当てたシュートも、彼ほどの選手ならファーポスト内側を叩いてゴールへ入るボールを蹴ってほしいね。あの位置でそういう蹴り方もあるんですヨ。

    ――平山は

    賀川:相手DFラインのウラへ出て左足のボレーを狙ったが、失敗したのがあった。ボールが落下して自分の左足の一番いい高さにくるのを待てないでスイングした。

    ――相手が近くにいるかと思って、気がはやったのでしょうか

    賀川:あるいはオフサイドだったかも――。しかし、状況がどうでも、ストライカーは自分がシュートするときにはベストのフォームで打つこと。それがゴールにつながるハズだヨ。

    ――釜本邦茂さんも、そう言っていましたね。

    賀川:そうそう。私の記憶ではいまから42年前の68年2月、西ドイツに留学してドイツのデアバル監督のマンツーマン指導を受けたときにそう言われたそうだ。
     彼はすでにシュートの型をいくつか持っていたが、デアバルさんの指導でストライカーとしての基本的な考えを自ら問いつめ、ドイツの若手との練習で2ヶ月間の留学でステップアップした。

    ――賀川さんがいつもいう、本番前半年の上達ですね。

    賀川:平山や岡崎玉田や大久保あるいは佐藤寿人に、そうした急成長のための貯蓄があれば、この2月シリーズさらにはそのあとにも、ゴールへの道を掴んでステップアップする機会はあるのですヨ。

    ――彼ら以外の若手にも、もちろん彼らにパスを送り、走り上がりシュートするMFたちにも期待しましょう。

    賀川:何といってもサッカーは試合をする選手たちが生き生きとプレーをすることが第一だからネ。


    【了】

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    日本代表の2月シリーズを追って vs中国(上)

    2010/02/10(水)

    東アジア選手権2010決勝大会
    2月6日(東京・味の素スタジアム)19:17
    日本代表 0(0-0 0-0)0 中国代表

    ――2日のキリンチャレンジカップでベネズエラと0-0だった日本代表が、東アジア選手権決勝大会の第1戦で中国と引き分けました(0-0)。2試合連続で無得点です。

    賀川:昨年はワールドカップ2010の予選を戦い、キリンカップや海外遠征試合などで徐々にチームらしくなってきた。FWでは岡崎慎司という点を取れる選手も出てきた。イタリアにいる森本も、一度だけだが悪くはなかった。そんなときに平山相太が浮上してきた。少し見通しが明るくなったように見えたが、そうでもなかったネ。

    ――チャンスがあっても点になりません。

    賀川:いつも言っているのだが、誰がフィニッシュのところへ出てくるのか、誰がどういうラストパスを出すのかというところもまだいい加減だ。

    ――そういえば中国戦の前半、岡崎が右から侵入して短いクロスを出し、大久保や玉田がシュートしていた場面もありました。

    賀川:大久保は、スピードがあって、独特のシュートのうまさとカンがあるというのが評価でしょう。玉田は頑丈で速く、ドリブルがうまい。しかし右足のシュートは利かない。左ならいいシュートをする。岡崎はニアサイドでも、ウラへでも飛び込んでくる。体に粘りがあって一つのプレーのあとのセカンドプレー、いわば1の矢に続く2の矢も打てる。

    ――それで

    賀川:ベネズエラも中国も守りの人数が多かったし、こちらのシュート場面でも体を近づけていた。そこへ走り込んで点を取ろうと思えば、いまならフィニッシュには岡崎が一番適任でしょう。

    ――それぞれの個性に合わせての役割、ということですね。

    賀川:ゴール前、ペナルティエリアの中は想像以上に人口密度が高い。相手の体や足にぶつかりながらシュート位置へ行き、そこで点を決めるプレーをする。もちろん、パスを出す者との呼吸、タイミング、コースの意図がうまく合えば、相手のウラをかいてとんでもないノーマークの空白時間や空白地帯もつくれるのだが、いまの日本のやり方ではそうもゆかないから、やはり、(チャンスの)作り手と決め手の役柄が大事だと思う。


    【つづく】

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    ボルドー、CSKAモスクワの選手情報を更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/02/09(火)

    ボルドー(フランス)CSKAモスクワ(ロシア)の選手情報memoを更新!

    来週からはじまる欧州チャンピオンズリーグsoccer決勝ラウンド1回戦、ボルドーはオリンピアコス、CSKAモスクワはセビリアと対戦します。

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    韓国、中国の選手情報を更新 ~賀川サッカーライブラリー~

    2010/02/08(月)

    東アジア選手権・決勝大会に出場中の韓国中国の選手情報を更新しました

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    神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(下)

    2010/02/07(日)

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    神戸FCの周年記念史。右から20周年、30周年、そして今回の40周年
    表紙の赤と白のデザインは、チームのユニフォームを模している



    ――昭和39年の勝利が昭和5年の極東大会に結びつくわけですか。

    賀川:そのころ、私も不勉強ではあったが、前から昭和5年の勝利が次の11年(1936年)の“ベルリンの奇跡”につながるという程度のことは聞いていた。

    ――そこで……

    賀川:田辺さんのスピーチは素晴らしかった。あとはまあ、あのプレーが良かった、とかいうような話が多かったのだが、そのなかでボクが例の思いつきでつい口に出してしまった。

    ――どんなことをです?

    賀川:私は先輩たちのバックアップのおかげで、1959年、高校選抜日本代表チームとともに第1回アジアユース(マレーシア)へ行きました(マネージャー兼報道役員として帯同)。
     そのときのいわばアジアユース1期生の中から杉山隆一宮本輝紀、継谷昌三の3人のオリンピック代表が出たことはご存知でしょう(釜本邦茂は第4期生)。しかしその1期生たちと一緒にプレーしてみて、彼らのボールテクニックはまだまだだと思った。
    考えてみたら、彼らがボールを蹴るようになったのは新制中学に入ってからです。私たちのときは、特に教えてはもらわなかったが、雲中(うんちゅう)小学校や御影師範付属小学校などでボールを蹴っていた。正式でなくても、ゴムマリ(軟式テニスのボール)のサッカー遊びもしていた。そのことから思えば、いまの代表選手たちはボールを蹴り始めたのが遅いから、ボール扱いが上手でないのは当然。ここを考えて、まず小学生のサッカーを考えたい、と言った。

    ――それで?

    賀川:そのときはフムフムという感じだったが、翌日、加藤ドクターから電話がかかってきた。「賀川君、昨晩のあの話、やろうじゃないか」とね。

    ――それが少年サッカースクール45周年の始まりですね。

    賀川:加藤ドクターの大車輪の活動が始まり、友の会主催で少年サッカースクールが誕生。その成功から今度は母体の友の会を改編して社団法人のクラブへ――ということになった。

    ――面白い話。でも今回はこのあたりにしておきましょうか。KFCの交友録も、また改めて聞かせて下さいね。


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    【了】

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    神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(中)

    2010/02/06(土)

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    記念冊子
    左:神戸少年サッカースクール10年のあゆみ
    右:目で見るK.F.C.



    ――それから?

    賀川:12月29日に前後して、28、29、30日、つまり年末の時期に磯上、神戸高校、そして西宮の3ヶ所で順次に中高生対象のサッカー教室を開いた。講師は岩谷俊夫(故人)。当時の日本協会技術委員で毎日新聞の記者。今の高校選手権大会はそのころ毎日新聞社の主催で、岩谷君は指導者としても記者としても知られていたから、中高生には人気があった。

    ――小学生は

    賀川:低年齢に及ぶのは後々の話。とりあえず、若い人にサッカーを教え、皆でボールを蹴ろう、そして国際試合で日本代表を応援しよう、その前にちゃんとしたグラウンドを作ろう――などいろいろな目的があった。
     そのころ日本には芝生のサッカーグラウンドはなく、国立競技場は1959年の第3回アジア競技大会の会場となったあと、64年オリンピックのための改装中だった。63年のオリンピックのためのリハーサルでも、会場は秩父宮ラグビー場。そののちに御崎にグラウンドができたのも、友の会の運動からだった。

    ――少年サッカースクールの45周年は……

    賀川:友の会は講習会をしたけれど、不定期だった。少年サッカースクールのきっかけは東京オリンピック直後の会合だった。

    ――といいますと?

    賀川:1964年10月の東京オリンピックで日本代表はアルゼンチンに逆転勝ちして開催国の面目を保つことができた。大会が終わったあと、デットマール・クラマーが帰国する前のお別れパーティの席上で、この1勝を足場にしての日本が次に打つ手を皆に言い残した。

    ――有名な、“クラマーの5ヶ条”ですね。

    賀川:僕はその会に出てから関西へ帰ってきた。大会の少し前から、東京の新聞社のデスクで働いていたのから解放されて、当時、武庫之荘にあった家に戻ったら加藤正信ドクターから連絡がきて、田辺五兵衛さんから皆に集まってほしいという要請があったということだった。何月何日だったかは覚えていないが、三宮のどこかでご飯を食べながら、田辺さんが言ったのは、
    「東京での対アルゼンチンの1勝は、1930年(昭和5年)の東京での第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち中華民国と引き分けて念願の極東1位を果たした(※)のに匹敵する、サッカー史上のエポック・メーキング事件です。これを将来につなぐために、私たちは何をすべきかを考えてほしい」。
     ※編集注:当時は得失点差で順位を決める規則ではなく、1勝1分けで2チームが同率優勝となった


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    【つづく】

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    神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(上)

    2010/02/05(金)

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    祝賀パーティ会場で
    左から大仁邦彌JFA副会長、藤井さち代さん、前野正KFC理事長



    ――1月30日に、神戸のポートピアホテルで神戸フットボールクラブ(KFC)の40周年記念式典と祝賀パーティがありましたね。参加者が260人もあったとか……盛況でしたね。

    賀川:そうネ。昨年には枚方フットボールクラブの40周年のパーティもあった。学校のクラブや企業のクラブとは別の形の、市民スポーツクラブが半世紀近くの歴史を持つようになってきたのですヨ。

    ――創設の発起人でもあり、「兵庫県サッカー友の会」のころからの関係者として、KFCのパーティは感慨ひとしおというところだったでしょう。

    賀川:枚方の40年のときも古い仲間に会えて嬉しかったが、今度は神戸だからね――。同じテーブルにJFAの大仁邦彌副会長、クラブの植月正章会長、米田准三名誉会長、前野正理事長、細谷一郎副理事長、それから来賓のアシックス佐野俊之取締役、ニチレクの田淵和彦社長、クリムゾンフットボールクラブの叶屋宏一社長などの顔があった。
     植月さんはアシックス時代からの長いおつきあい。大阪女子マラソン以来ずーっと世話になっている。この人はオニツカタイガーのランニングシューズを世界的に広めた人だヨ。
     米田さんは神戸一中で私の3年下だが河本春男(故人)会長のあとを引き受けてもらって、ずいぶんクラブに尽くして頂いた人だ。

    ――メインテーブルですね。

    賀川:そうだったネ。今ごろ気が付いている。まあ一番の年長者で、今のクラブでも顧問ということになっているのだが……。こうした市民クラブはそれを自分たちで運営するクラブ員の力が大切なのだが、たくさんの人々の応援やバックアップのおかげでもある。そうしたお世話になった人や昔からの仲間に会えたのは何よりだった。
     今度の40周年記念史にも書いておいたのだが、20周年のときに、KFCや神戸少年サッカースクールの由来について書いておいた。いずれ、このブログにも再録しておきたいと思っているが、そもそものスタートは「兵庫サッカー友の会」からなんだ。
     これは、加藤正信ドクターという旧制神戸一中(現・神戸高校)で私よりも12歳年長の先輩が、
    「戦前の神戸や兵庫はサッカー王国で、全国大会でもずーっと勝っていた。日本代表選手もたくさん育った。この東京オリンピックを控えたサッカー興隆の好機に、もう一度、兵庫のサッカーを強く盛んにしたい」
    と考え、自分たちのライバルであった御影師範学校(神戸大学教育学部、現・発達科学部)のOBたちの賛同を得て、大橋真平さん(故人)に幹事長を引き受けてもらって1963年12月29日、「兵庫サッカー友の会」を発足した。

    ――友の会というのは? 阪急友の会とか、大丸友の会みたいなもの?

    賀川:そういうのがありましたネ。京都サッカー協会会長の藤田静夫さん(故人・日本サッカー協会会長)が一足早く京都で協会をバックアップするファンの組織をつくったことからヒントを得た。

    ――それで、何をしたのですか

    賀川:友の会の目的に、“5つの夢”として、
    (1)少年サッカーの育成
    (2)国際サッカー場の創設
    (3)芝生の少年サッカー場の創設
    (4)クラブチームの編成・強化
    (5)サッカー王国 兵庫・神戸の復活

    という5項目を掲げた。
     役員などを決めて、神戸高校の同窓会館で設立総会をした。会員の申込み、登録は1,007人だったから、反響は大きかったといえるだろう。


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    【つづく】

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    今夜、キリンチャレンジカップ・ベネズエラ戦

    2010/02/02(火)

    いよいよ2010年の日本代表のワールドカップ準備シリーズが始まる。今日はキリンチャレンジカップの対ベネズエラ戦。

    今回、ベネズエラは南米予選を突破できなかった。南米の中で強い国というわけではないが、今の日本代表にとっては相手よりも、まず招集した国内メンバーの組み合わせや調子を見るのが第一となるだろう。その意味で、新しく加わった小笠原満男平山相太の二人が、どんな働きをするかが楽しみ。ベテランと若手、MFとFWというポジションで、どちらも“大物”には違いないからね。

    もちろん、全ての選手の今年の調子を見る。休養期間中の過ごし方があらわれるから。ジーコのときはこの休養明けのときに進歩が見えなくて、ガッカリしたのを覚えている。

    キリンチャレンジのあとには東アジア選手権決勝大会がある。
    この時期に東アジア各国と試合ができれば、いい経験を積める。中国は体格が大きく、韓国は伝統的に対日本戦に強い。今のチームの日本らしさを発揮して勝ちにゆく。まことに結構な相手ですよ。
    岡田流の中で、どんな組み合わせや「阿吽(あうん)」の呼吸が生まれるかが見られるだろう。

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