神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(中)
記念冊子
左:神戸少年サッカースクール10年のあゆみ
右:目で見るK.F.C.
――それから?
賀川:12月29日に前後して、28、29、30日、つまり年末の時期に磯上、神戸高校、そして西宮の3ヶ所で順次に中高生対象のサッカー教室を開いた。講師は岩谷俊夫(故人)。当時の日本協会技術委員で毎日新聞の記者。今の高校選手権大会はそのころ毎日新聞社の主催で、岩谷君は指導者としても記者としても知られていたから、中高生には人気があった。
――小学生は
賀川:低年齢に及ぶのは後々の話。とりあえず、若い人にサッカーを教え、皆でボールを蹴ろう、そして国際試合で日本代表を応援しよう、その前にちゃんとしたグラウンドを作ろう――などいろいろな目的があった。
そのころ日本には芝生のサッカーグラウンドはなく、国立競技場は1959年の第3回アジア競技大会の会場となったあと、64年オリンピックのための改装中だった。63年のオリンピックのためのリハーサルでも、会場は秩父宮ラグビー場。そののちに御崎にグラウンドができたのも、友の会の運動からだった。
――少年サッカースクールの45周年は……
賀川:友の会は講習会をしたけれど、不定期だった。少年サッカースクールのきっかけは東京オリンピック直後の会合だった。
――といいますと?
賀川:1964年10月の東京オリンピックで日本代表はアルゼンチンに逆転勝ちして開催国の面目を保つことができた。大会が終わったあと、デットマール・クラマーが帰国する前のお別れパーティの席上で、この1勝を足場にしての日本が次に打つ手を皆に言い残した。
――有名な、“クラマーの5ヶ条”ですね。
賀川:僕はその会に出てから関西へ帰ってきた。大会の少し前から、東京の新聞社のデスクで働いていたのから解放されて、当時、武庫之荘にあった家に戻ったら加藤正信ドクターから連絡がきて、田辺五兵衛さんから皆に集まってほしいという要請があったということだった。何月何日だったかは覚えていないが、三宮のどこかでご飯を食べながら、田辺さんが言ったのは、
「東京での対アルゼンチンの1勝は、1930年(昭和5年)の東京での第9回極東大会で日本代表がフィリピンに勝ち中華民国と引き分けて念願の極東1位を果たした(※)のに匹敵する、サッカー史上のエポック・メーキング事件です。これを将来につなぐために、私たちは何をすべきかを考えてほしい」。
※編集注:当時は得失点差で順位を決める規則ではなく、1勝1分けで2チームが同率優勝となった
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【つづく】
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