神戸少年サッカースクール設立45周年、(社)神戸フットボールクラブ設立40周年(下)
神戸FCの周年記念史。右から20周年、30周年、そして今回の40周年
表紙の赤と白のデザインは、チームのユニフォームを模している
――昭和39年の勝利が昭和5年の極東大会に結びつくわけですか。
賀川:そのころ、私も不勉強ではあったが、前から昭和5年の勝利が次の11年(1936年)の“ベルリンの奇跡”につながるという程度のことは聞いていた。
――そこで……
賀川:田辺さんのスピーチは素晴らしかった。あとはまあ、あのプレーが良かった、とかいうような話が多かったのだが、そのなかでボクが例の思いつきでつい口に出してしまった。
――どんなことをです?
賀川:私は先輩たちのバックアップのおかげで、1959年、高校選抜日本代表チームとともに第1回アジアユース(マレーシア)へ行きました(マネージャー兼報道役員として帯同)。
そのときのいわばアジアユース1期生の中から杉山隆一、宮本輝紀、継谷昌三の3人のオリンピック代表が出たことはご存知でしょう(釜本邦茂は第4期生)。しかしその1期生たちと一緒にプレーしてみて、彼らのボールテクニックはまだまだだと思った。
考えてみたら、彼らがボールを蹴るようになったのは新制中学に入ってからです。私たちのときは、特に教えてはもらわなかったが、雲中(うんちゅう)小学校や御影師範付属小学校などでボールを蹴っていた。正式でなくても、ゴムマリ(軟式テニスのボール)のサッカー遊びもしていた。そのことから思えば、いまの代表選手たちはボールを蹴り始めたのが遅いから、ボール扱いが上手でないのは当然。ここを考えて、まず小学生のサッカーを考えたい、と言った。
――それで?
賀川:そのときはフムフムという感じだったが、翌日、加藤ドクターから電話がかかってきた。「賀川君、昨晩のあの話、やろうじゃないか」とね。
――それが少年サッカースクール45周年の始まりですね。
賀川:加藤ドクターの大車輪の活動が始まり、友の会主催で少年サッカースクールが誕生。その成功から今度は母体の友の会を改編して社団法人のクラブへ――ということになった。
――面白い話。でも今回はこのあたりにしておきましょうか。KFCの交友録も、また改めて聞かせて下さいね。
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【了】
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