ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(上)
――ヴィッセルのコーチたちへの講義はどうでしたか。
賀川:ヴィッセル神戸育成担当の黒田和生さん、あの滝川第二の監督であった先生が、神戸・兵庫のサッカーの歴史と日本・世界のサッカーとのかかわりについて話して欲しいとおっしゃる。自らの足元を見つめ、自分たちの歴史に誇りを持って欲しいという考えなのだろうが、単に昔に強い時代があったというのでなく、日本のサッカーが今日のかたちになるまでに先輩たちがどれだけ努力したか、そしてその間に何をどう考えてきたか――そういう日本サッカー発展の中で神戸はさまざまな実績を積み、あるときは技術・戦術の先頭に立ち、あるときは少年育成やクラブというもののモデルを全国に先んじて行なってきたことを語っておこうと思った。
――3回ともそんな感じですか?
賀川:第1回は総論から入って、まず、Footballとは何か、そして明治・大正から昭和初期の神戸と日本のサッカー。例の第9回極東大会で日本流サッカーを選手たちが考えて実行したときにも神戸出身のプレーヤーが大いに働いたことまで、そしてそれが1936年のベルリン・オリンピックの逆転劇につながる――という流れをしょうかいした。
第2回は、ベルリンと1940年の幻の東京オリンピック、そして戦中・戦後、さらにクラマーの指導による東京・メキシコ両オリンピックの成功、そのあとの停滞時代、その東京オリンピックの直後にいち早く少年サッカースクールが神戸でスタートして、全国への普及の始まりとなり、1970年の神戸FCの創立とその会員登録を年齢別にしたこと、それがJFA(日本サッカー協会)の79年の登録制度の変革へとつながり、後のプロ化へのスムーズな移行の基盤となったことなどを話した。
――いまのホームズスタジアム神戸も、1969年にサッカー専用競技場をつくるという神戸のサッカー人の署名運動で、まず御崎競技場が生まれ、2002年のワールドカップ(W杯)のときに新しいスタジアム建設となったのですよね。
賀川:その話は時間がなくて省いたけれど、市の中にサッカーのスタジアム(陸上競技のトラックと併用ではない)を持つのは当然という空気がW杯開催の前にすでにあったのは、1969年の御崎サッカー場があったからですよ。このことはまたの機会にとっておいたのだが、こういう歴史とそれにまつわる“考え方”、クラブとは? 年齢別とは――といった理念についてコーチの皆さんが考えるヒントにして欲しいとの願いだった。
【つづく】
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