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日本サッカー史研究会で、1930年日本代表について語る

2009/07/21(火)

090531


――6月、7月としばらく休みました。

賀川:少し間があきましたネ。

――スピーチが続きましたしね。

賀川:
 5月31日 東京の日本サッカー史研究会の集まりで「1930年 第9回極東大会」について
 6月17日 神戸でヴィッセル神戸コーチ研修会(1)
 6月24日 同(2)
 7月1日 同(3)

といった調子で、その間にキリンカップの取材(5月27日 日本対チリ、31日 日本対ベルギー)やW杯アジア予選の日本対カタール(6月10日 横浜)などもあった。

――6月6日の日本対ウズベキスタン(タシケント)17日の日本対オーストラリア(メルボルン)もあったから、テレビ観戦でも気合が入ったことでしょう。

賀川:そうね。あっという間の6月の予選シリーズに続いて、若いコーチ相手のおしゃべりがあったからね。

――今回はまず、東京での会について。日本サッカー史研究会とサロン2002の合同の会でしたね。

賀川:牛木素吉郎さん主宰のサッカー史の会で一度語ってほしいという話があって、キリンカップの対ベルギー戦の午後がいいだろうということで、日本サッカーミュージアムの部屋を借りた。中塚先生、本多さんのサロン2002の会も一緒になって、40~50人くらい集まった。
 テーマは1930年の日本代表チーム。あの第9回極東大会でフィリピンに勝ち(7-2)中華民国と引き分け(3-3)中華民国とともに1位となったときのチームが日本流サッカーの原点というもので、それに至る歴史的背景、ビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンのコーチを受けた鈴木重義監督をはじめ東京高等師範附属中学(旧制)の出身者、神戸一中の出身者、そして直弟子の竹腰重丸さん、さらにはドイツ人捕虜の指導によってレベルアップした広島からの手島志郎、野沢正雄たちといったいわばボールを短くつないで早く攻めるという同じ考えの――いまでいうコンセプトが同じ、かな――プレーヤーによって日本流が生まれたという、私の持論を話した。
 手島、野沢の広島附属―広高―東大組は、神戸一中や東京高師附属といった“都会派”でなく、もう少し骨太のサッカーだったハズだが……。

――反応はどうでしたか。

賀川:どうですかね。選手一人ひとりのプレーや特徴、エピソードなどを聞かせてもらってとてもよかったと言ってくれる人もいた。例によって時間が少なく、熱心な質問にすべて満足ゆく答えを出せたかどうかは別として、参会者のなかには「サッカーのプレーはしていないが社会現象としてのサッカーを勉強し、その日本の歴史を知りたい」という人もおられて、様々な人がサッカーの歴史に興味を持って下さるのだなと思ったものです。

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