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2009年7月

ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(下)

2009/07/24(金)

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――コーチたちには刺激になったでしょうね。

賀川:そうね。指導者もプレーヤーと同じで、いくら人の言葉、人からのヒントを聞いても自分で掴まないといけないものだろう。もちろん、そのためには謙虚な心、勉強する気持ちを忘れてはいけないからね。
ボクが感心したのは、亡くなった第8代JFA会長の長沼健さん。この人が関学を卒業して中大にもう一度学士入学し、サッカーもみっちりプレーするということになった年の冬に、西宮球技場のスタンドでの立ち話であることを彼に言った。余計なことかもしれないが、せっかくサッカーをもう一度しっかりやるというのだからと、思わず口から言葉が出た。それを健さんは覚えていて、専務理事時代に何かの用事で彼の車で送ってもらっているときに運転席から振り向いて「あの話、まだ覚えてますよ」と言った。ヘェー、そうなのかと嬉しかったね。中大・古河電工のときのプレーは関学時代と変わったが、そのことについて私も健さんと話すことはなく、技術指導者を経て専務理事になってからポツンと「覚えてますよ」と言ってくれた。

――すごい話……

賀川:ボクが何か彼のプレーの成長を手伝ったのかというのではなく、ボクのような者の話でも健さんは聞き入れ、それが何か自分の役に立つかを考えたのだと思っている。そこに、選手として素質いっぱいに腕を上げ、コーチ、監督として国際舞台で実績を積み、専務理事としてJFAを改革し、会長として2002年W杯招致をはじめ多くのお仕事をした健さんの“素(もと)”があると思う。

――ちょっとスケールが大きすぎるかも?

賀川:コーチ一人ひとりが健さんのようにというわけにはいかないが、他人の話を謙虚に聞く耳はやはり大切ということですヨ。

――聞き耳がよければいい――と言っている風にもとれなくもないですね。

賀川:それはまぁ、ご随意に。



【了】

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ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(中)

2009/07/23(木)

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――3回目は?

賀川:3回目は彼らが私からどういう話を聞きたいか――にした。最初の集まりのときに、コーチ各人の自分史を年表(写真)にし、それを大まかなサッカー史と対比して書いてもらったのだが、自分の育ってきた時代が何かを考えることで自分を見つめるきっかけにして欲しいこと、そして、話す私の方も、彼らのキャリアを知って、どういうことが必要かを考えたいと思ったからですヨ……。

――コーチたちの反応を見たかったですね。

賀川:色々ありましたヨ。Jリーグでプレーヤーとして活躍した人、日本代表で国際舞台でしっかり試合をした人もあれば外国に留学してコーチの勉強をしてきた人もいる。そうした多くの人材がいまヴィッセルのコーチ陣にいるんですよ。

――彼らは何を聞きたいと?

賀川:私が出会ったコーチや選手の名前を前もって紹介しておいたのだが、やはりヨハン・クライフが多かったネ。

――クライフのうまさや考え?

賀川:74年W杯では利き足の右でのプレーがほとんどだったが、6年後、ワシントン・ディプロマッツでの試合(ワシントン)を見たら右足を故障していて、プレーは左足一本。左足でボールを止め、左足でパスを出していたという話。そこから、この大選手の右左のバランスについてを説いた。そして彼に、彼の足の速さを尋ねたら「どれだけ速く走るかよりも、いつ走るかが大切なのだ」と一本とられた話もした。彼のエピソード、80年のサッカーマガジン以外に世界中のどの雑誌にも載っていない、78年W杯に出場しなかった理由などもネ。

――日本流についても聞かれたとか?

賀川:時間が少なかったので中途半端になってはいけないと思い、まず、体格のことだけを取り上げておいた。最近の日本には大きい選手もいるが、やはり体格の面では小さい方が多い。そのときに、体の大小は大が長所、小が短所というのでなく、それぞれの特徴に過ぎないこと、小さいのは敏捷だからそれを生かすことが大事という話をした。それが昭和5年(1930年)以来いまの日本代表につながっているのだから――。
 もちろん、大きいプレーヤーの必要なポジションには大柄を持ってくることはチームにとって必要だが、指導者にとっては小さい者に急に大きくなれと言っても無理だから、その特徴を生かせる工夫をすることが大切なのですヨ。プロ野球のタイガースの吉田義男内野手の話を聞いてもらったよ。

――賀川さんはスポーツ紙の運動部長、編集局長でしたからね。

賀川:松木謙治郎というタイガースの監督さんをはじめ、ヨッさん(吉田義男)ノムさん(野村克也、現・楽天監督)など素晴らしい野球人が私のスポーツ紙の評論家だったから、いい話をいっぱい聞かせてもらった。みんな野球の話になるとバッティングがどうの、そのときの守りがどうの、投げ方がどうのと、何日でも語りますヨ。



【つづく】

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ヴィッセルで若いコーチたちを相手におしゃべり(上)

2009/07/22(水)


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――ヴィッセルのコーチたちへの講義はどうでしたか。

賀川:ヴィッセル神戸育成担当の黒田和生さん、あの滝川第二の監督であった先生が、神戸・兵庫のサッカーの歴史と日本・世界のサッカーとのかかわりについて話して欲しいとおっしゃる。自らの足元を見つめ、自分たちの歴史に誇りを持って欲しいという考えなのだろうが、単に昔に強い時代があったというのでなく、日本のサッカーが今日のかたちになるまでに先輩たちがどれだけ努力したか、そしてその間に何をどう考えてきたか――そういう日本サッカー発展の中で神戸はさまざまな実績を積み、あるときは技術・戦術の先頭に立ち、あるときは少年育成やクラブというもののモデルを全国に先んじて行なってきたことを語っておこうと思った。

――3回ともそんな感じですか?

賀川:第1回は総論から入って、まず、Footballとは何か、そして明治・大正から昭和初期の神戸と日本のサッカー。例の第9回極東大会で日本流サッカーを選手たちが考えて実行したときにも神戸出身のプレーヤーが大いに働いたことまで、そしてそれが1936年のベルリン・オリンピックの逆転劇につながる――という流れをしょうかいした。
 第2回は、ベルリンと1940年の幻の東京オリンピック、そして戦中・戦後、さらにクラマーの指導による東京・メキシコ両オリンピックの成功、そのあとの停滞時代、その東京オリンピックの直後にいち早く少年サッカースクールが神戸でスタートして、全国への普及の始まりとなり、1970年の神戸FCの創立とその会員登録を年齢別にしたこと、それがJFA(日本サッカー協会)の79年の登録制度の変革へとつながり、後のプロ化へのスムーズな移行の基盤となったことなどを話した。

――いまのホームズスタジアム神戸も、1969年にサッカー専用競技場をつくるという神戸のサッカー人の署名運動で、まず御崎競技場が生まれ、2002年のワールドカップ(W杯)のときに新しいスタジアム建設となったのですよね。

賀川:その話は時間がなくて省いたけれど、市の中にサッカーのスタジアム(陸上競技のトラックと併用ではない)を持つのは当然という空気がW杯開催の前にすでにあったのは、1969年の御崎サッカー場があったからですよ。このことはまたの機会にとっておいたのだが、こういう歴史とそれにまつわる“考え方”、クラブとは? 年齢別とは――といった理念についてコーチの皆さんが考えるヒントにして欲しいとの願いだった。



【つづく】

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日本サッカー史研究会で、1930年日本代表について語る

2009/07/21(火)

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――6月、7月としばらく休みました。

賀川:少し間があきましたネ。

――スピーチが続きましたしね。

賀川:
 5月31日 東京の日本サッカー史研究会の集まりで「1930年 第9回極東大会」について
 6月17日 神戸でヴィッセル神戸コーチ研修会(1)
 6月24日 同(2)
 7月1日 同(3)

といった調子で、その間にキリンカップの取材(5月27日 日本対チリ、31日 日本対ベルギー)やW杯アジア予選の日本対カタール(6月10日 横浜)などもあった。

――6月6日の日本対ウズベキスタン(タシケント)17日の日本対オーストラリア(メルボルン)もあったから、テレビ観戦でも気合が入ったことでしょう。

賀川:そうね。あっという間の6月の予選シリーズに続いて、若いコーチ相手のおしゃべりがあったからね。

――今回はまず、東京での会について。日本サッカー史研究会とサロン2002の合同の会でしたね。

賀川:牛木素吉郎さん主宰のサッカー史の会で一度語ってほしいという話があって、キリンカップの対ベルギー戦の午後がいいだろうということで、日本サッカーミュージアムの部屋を借りた。中塚先生、本多さんのサロン2002の会も一緒になって、40~50人くらい集まった。
 テーマは1930年の日本代表チーム。あの第9回極東大会でフィリピンに勝ち(7-2)中華民国と引き分け(3-3)中華民国とともに1位となったときのチームが日本流サッカーの原点というもので、それに至る歴史的背景、ビルマ(現・ミャンマー)人チョー・ディンのコーチを受けた鈴木重義監督をはじめ東京高等師範附属中学(旧制)の出身者、神戸一中の出身者、そして直弟子の竹腰重丸さん、さらにはドイツ人捕虜の指導によってレベルアップした広島からの手島志郎、野沢正雄たちといったいわばボールを短くつないで早く攻めるという同じ考えの――いまでいうコンセプトが同じ、かな――プレーヤーによって日本流が生まれたという、私の持論を話した。
 手島、野沢の広島附属―広高―東大組は、神戸一中や東京高師附属といった“都会派”でなく、もう少し骨太のサッカーだったハズだが……。

――反応はどうでしたか。

賀川:どうですかね。選手一人ひとりのプレーや特徴、エピソードなどを聞かせてもらってとてもよかったと言ってくれる人もいた。例によって時間が少なく、熱心な質問にすべて満足ゆく答えを出せたかどうかは別として、参会者のなかには「サッカーのプレーはしていないが社会現象としてのサッカーを勉強し、その日本の歴史を知りたい」という人もおられて、様々な人がサッカーの歴史に興味を持って下さるのだなと思ったものです。

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