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2009年4月

サッカーという名の戦争

2009/04/15(水)

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『サッカーという名の戦争』(定価1700円)という本が、新潮社から出版された。著者は日本サッカー協会(JFA)の元専務理事・平田竹男(ひらた・たけお)氏。2002年から2006年までJFAの専務理事として日本代表の国際試合を取り仕切ってきた、いわばサッカーという世界最大のスポーツの国際舞台のウラの事情に通じた人が明かす、サッカー外交の裏舞台の話。副題も「日本代表、外交交渉の裏舞台」となっていて、アテネ五輪予選やドイツW杯アジア予選などの試合日程を組んでゆく話が分かりやすく克明に語られている。

 ほとんどの国でその国のメジャースポーツとなっているだけに、サッカーでは各国とも代表の試合に勝とうとし、より有利な日程を組みたいと考えるなかで、公正公平なフォーマットを考え、しかも日本の不利にならないように交渉してゆく過程が見事に描かれていてとても面白い。

――平田竹男さんは大阪の出身でしたね。

賀川:1960年生まれで、小学生(大阪市立新森小路小学校)の頃からボールを蹴っていて、中学校(大阪市立旭東中学校)でサッカー部に入り、府立大手前高校でもずいぶん熱心だったらしい。

――ローマ五輪(1960年)に負けて、日本サッカーがどん底から64年の東京五輪、68年のメキシコ銅メダルへと急成長してゆくときが少年期ですね。

賀川:ご本人に言わせると、サッカーマガジンに私が連載していた「ワールドカップの旅」の愛読者だったらしい。いつだったカナ…JFAでばったり会ったとき、そんな話をしてくれましたヨ。

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今年3月、サインを入れて贈って下さった


――もともとはお役人

賀川:サッカーを通じて世界への興味を持ち、82年に横浜国立大学を卒業すると通商産業省(現・経済産業省)に入り、ハーバード大学のJ.F.ケネディスクールを88年に卒業している。通産省でしっかり仕事をしただけでなく、91年から外務省へ出向してブラジルの日本大使館一等書記官を務めたりしている。

――やり手ですね。

賀川:エネルギー政策なども担当したから、中東やカスピ海諸国にも顔が広い。2002年からJFAに入って専務理事として手腕をふるった。

――川淵三郎キャプテン(当時)の下でですね。

賀川:サッカーが好きで、外国相手のビジネスには手慣れている。言葉もできて交渉ごとはしっかりしているから、いい仕事をたくさんした。
 実務がすごくできるというだけでなく、本当にサッカーが好きだし、サッカーを通じて世界と仲良くし、日本のことを世界に理解してもらおう、日本側もまたサッカーを通して世界を理解してほしいという夢を持っているようだ。

――賀川さんがこれまで書いてきたものと同じ志ですかね。

賀川:2002年W杯開催で日本のサッカーはそれまでとはまた別の広い世界、広い舞台へ出ることになった。2002 FIFA ワールドカップ KOREA/JAPANのおかげで、日本と韓国がぐっと近い国になったのはご存じの通りだが、スポーツ、特にサッカーの交流はとても大事なこと。それを知ってもらうためにも、読んで欲しい一冊でもある。

――JFAを退いたあと、早大の大学院スポーツ科学研究科を創設して、今はその教授ですね。

賀川:あの野球の桑田真澄(元投手)が学生になっているところでしょう。自分でも2004年に東大の工学系研究科の博士課程に入学、勉強して、東大工学博士となっているくらいだから…。その科学的手法をACL(アジアチャンピオンズリーグ)の改革のために用いたりもしたという。ボクたちの時代とは比べものにならないくらいに広がった日本サッカーにとっても、それを内側から見るにも外側から見るにもこの人のような視野は大切だろうネ。

――面白い人ですね。

賀川:この本の中に、そのキャリアも出てくる。そこも楽しい読みものですヨ。

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J1の新しいストライカー。5試合4ゴール、マリノスのFW渡邉千真

2009/04/14(火)


賀川:J1第5節第、11日の横浜F・マリノスヴィッセル神戸をテレビで見た。ヴィッセルのひどい負けぶりに暗然となったが、収穫もあった。相手側、マリノスのFW渡邉千真(わたなべ・かずま)を見たからだ。
 国見高校、早大を経て、今年からマリノスに入った選手で、1986年8月10日生まれの満22歳。身長181センチ、体重75キロ。この日2ゴールを奪って、5試合通算4得点とし、得点王争いのトップに立った。

――渡邉千真は京都サンガにいる渡邉大剛(わたなべ・だいごう)の2歳下の弟ですね。

賀川:大剛選手はそれほど大きくなく、スピードで知られているというが、千真はいい体格だネ。今では181センチはFWとしては長身とはいえない。巻誠一郎(184センチ)矢野貴章(185センチ)よりも低いが、まずそこそこの上背で足腰の強そうなのがいい。

――ヴィッセルから2点取りました。

賀川:先制ゴールは後方からのロブのボールをエリアぎりぎり正面で兵藤慎剛(ひょうどう・しんごう)が受けて、右へ短くつないだボールを彼が決めた。バウンドしたのをボレーで蹴ったが、宮本恒靖(みやもと・つねやす)が寄せてくるのに落ち着いてシュートした。
 2点目は中澤佑二(なかざわ・ゆうじ)だったかが送ったロングボールが高くバウンドして落ちてゆくのを追いながら、宮本の接触を左手で押さえてGK榎本達也(えのもと・たつや)のポジションを察知してその上を越すうまいシュートを決めた。

――2度ともボレーですね。

賀川:上背があってヘディングが強ければ、バウンドして上がっているボールにも強いものだが、彼の場合は体がしっかりしていて相手と多少接触しても姿勢が崩れない。そしてそれがゴール前でシュートするときの落ち着きになっているようだネ。

――国見では平山相太(ひらやま・そうた=FC東京)の1年下ですか。

賀川:だから兵藤とは早大でも1年下だったらしい。早大の時は2006年(14ゴール)と2007年(20ゴール)つまり2年と3年のときに連続して関東大学リーグの得点王になっている。どちらも出場試合は22試合だから、まずはしっかり得点を取っていたようだネ。

――平山は筑波へ入ってから1年のちにオランダへゆきました。

賀川:早くJへ入ればいいのに――という声があったがね。ボクは平山が筑波へ入ったとき、筑波でじっくり体を鍛え、Jよりもレベルの低い大学リーグでどしどし得点して自信をつけることも彼のためには良いと思っていたら、Jリーグどころかオランダへ行ってしまった。そしてJへやってきた。

――今は伸び悩みというところですね。

賀川:1試合、それもテレビで見ただけだが、渡邉の方は早稲田で4年間プレーしたのが良かったのだと思う。マリノスも、彼に背番号9をつけたのはそれだけ期待しているからだろう。これからこの強い体を生かすのには、かつての釜本邦茂やオランダのデニス・ベルカンプのようにシュートそのものとトラッピングに磨きをかけなければいけないだろう。

――大迫勇也(おおさこ・ゆうや=鹿島)より即戦力ですか、日本代表の?

賀川:大迫はしっかりした技術を身につけているから、どちらが早いとはいえないが、渡邉千真も魅力だね。本人やコーチたちは、これから彼が何を身につけるかを知っているハズだろうしネ。

――それから、12日には浦和の原口元気(はらぐち・げんき)という17歳が初ゴールしました。J2の香川真司(かがわ・しんじ=C大阪)もゴールを重ねています。若い選手がどんどん点を取ってくれると嬉しいですね。

賀川:山形ではベテランの古橋達弥(ふるはし・たつや)が頑張っている。まぁこれは余談だが、いいストライカー、いいゴールゲッターが現れると見る者にも楽しみが増える。サッカーがこれだけ普及しているのだから、いいストライカーが育ってきても不思議はないのですヨ。指導する先生たち、コーチたちも、“点を取る”ことに関心を持たせて欲しいと願っています。

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コーチ歴30年、平田生雄さん逝く

2009/04/08(水)

サッカーのコーチとして長い実績を持つ平田生雄さん(58)が平成21年4月3日に亡くなり、4月4日にお通夜、5日に葬儀告別式が大阪市鶴見区の鶴見斎場で行なわれた。
広島の似島(にのしま)中学、皆実(みなみ)高校、法政大学でサッカーを磨き、日本サッカーリーグ(JSL)の永大産業でプレー、会社の事業不振で1977年にサッカー部が廃部となったあと78年からセルジオ越後の「さわやかサッカー教室」に関わり、JFA(日本サッカー協会)公認の全国巡回教室で日本中の子どもたちにサッカーを教えた。その後も関西を中心に少年指導に力を尽くした。
明るい人柄と親切な指導、楽しい語りは各層のサッカー仲間の心をとらえ、子どもたちにも指導者仲間にも尊敬され愛されたコーチだった。
告別式ではJFAの関西トレーニングセンターの星原隆昭さんが弔辞を捧げ、個人の業績を讃えたほか、多くの仲間が旅立ちを見送った。


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2007年3月24日、キリンチャレンジカップ2007の日本対ペルー戦後に新横浜で、平田生雄さんと。


――平田さんの訃報は、教えを受けた子どもたちやサッカー仲間にショックでしたね。

賀川:1950年6月17日生まれだからまだ58歳――脳腫瘍という難しい病だった。それほど度々会っているわけじゃなかったが、30年来のつき合いだから悲しいね。
 彼はサッカーどころ・広島の出身で、それも似島中学。似島は第1次世界大戦で中国の青島(チンタオ)にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
 平田さんはその似島中学でサッカーを覚えた。その頃その学校の先生でサッカー部長だったのが、かつての日本代表GK渡部英麿(わたなべ・ひでまろ)さん。第2回アジア大会(1954年)の日本代表ですヨ。

――高校は広島皆実でしたね。

賀川:ことし1月、大迫勇也の鹿児島城西に勝って優勝したところだ。

――このブログで、賀川さんが「広島サッカーの厚みを見せつけたチーム」と言っていました

賀川:似島中学、皆実高校でみっちりサッカーを学んだんだろうネ。いわば日本サッカー先進地・広島の筋金入りのサッカー人で、そこから法政大学へ進み、卒業後、永大産業へ入った。

――当時だから、日本サッカーリーグですね。

賀川:法政は早大や慶応などに比べるとサッカー界ではまだ実績は少なかったが、彼が卒業した次か、その次あたりで関東大学リーグで優勝している。上昇期だったのだろう。
 永大産業は大阪に本社があるのだが、山口県の平生町に工場があり、そこに練習施設を持って自ら選手育成からスタートし、74年からJSL1部に入った。平田さんも74、75年のシーズンにDFとして登録され、11試合に出場している。

――ブラジルから選手を受け入れて強化しました。

賀川:大久保賢が監督で創部し、76年からセルジオ越後がコーチとして加わった。ジャイロ・マトス、ジャイール・A・ノバイスという2人のブラジル人が活躍し、75年元旦の天皇杯決勝に進んだのを覚えている。

――その永大が事業不振でサッカーをやめてしまった。

賀川:JSLの77年シーズンに入る前の3月1日に永大側が発表した。72年1月に誕生してから5年で永大のサッカーは終わった。永大産業そのものも78年に倒産(2月)するのだが…。

――なんだか、今の世にも似ています。

賀川:75年から不況が深刻になっていた。その対策に赤字国債を発行するようになって、このとき2兆円だったかな。

――平田さんも辛かったでしょうね。

賀川:好きなサッカーだが、ここから選手生活でなく少年指導の道を選んだ。
 セルジオ越後とともに「さわやかサッカー教室」の実現と実際の運営に努力した。越後という素晴らしいコーチに会ったのが縁だが、この教室の成功には彼の力も大きかったハズだ。私は彼とセルジオが子どもを教える現場を何度か見たよ。

――「さわやか」のあともずーっと指導の現場でしたね。

賀川:彼に指導してほしいというクラブも多くて、関西はもちろん頼まれればどこでも飛んで行ったらしい。

――いつも日に焼けた元気な顔で、お酒も好きで、サッカーの話もとても面白かった…

賀川:仲間にも愛された人柄だが、何よりもサッカーを教えること、語ることが好きだった。本当にサッカー一筋の人生だった。平田さんたちの50年世代は釜本邦茂杉山隆一たち40~45年世代、あの東京・メキシコオリンピック世代より5~6歳若く、いわば国を挙げてのサッカー推進の少しあとだったから、サッカー界は上昇期にあっても、まだ今のように底の厚いときではなかったから、必ずしも恵まれた環境ではなかった。だが平田さんはそういうなかでサッカーのコーチという道を選んで、まっしぐらにそれに突き進んだ人だった。
 ことし1月2日に指導者の中では先輩格の平木隆三さん(元・名古屋グランパスエイト監督、元・JFA技術委員長)が亡くなったが、向こう岸で平木さんたちとサッカー指導の話をしているかもしれないネ。

――ご冥福をお祈りします。

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チーム全体の進歩で堂々たる勝利。個人力向上は日本全体の問題(下)

2009/04/03(金)

――いい攻めをしても追加点は生まれない。相手に1点取られれば引き分けで大変なことになる――と思いませんでしたか、このあたりで。

賀川:終盤に入って、長谷部に代えて橋本英郎(76分)玉田に代えて松井大輔(79分)田中に代えて岡崎慎司(86分)を投入した。こういう交代も、適切と言えるだろう。選手たちは、自分で攻め込むときと時間稼ぎをするときの考えも一致して、それほど危ない感じはなかったね。

――1点しか取れないということは…?

賀川:試合の後の記者会見で、ずいぶん攻めてチャンスもあったが“点が入るような気がしなかった”という辛辣な質問もあったが、岡田監督は「入りそうにないかもしれないが、これを繰り返す以外にないと思う。日本人に何が欠けているのかを検討する気はない。今は目標に向かうだけだ」と言っていた。

――JリーグでもFWは外国人が多い現況ですよね。

賀川:監督はそうも言っていた。だからといって、そのことについて論じるよりも、自分は今の日本人全体の戦力の中でどうするかだけだ、ということだろう。
 岡田監督は、オシムが病で倒れた後を引き受けてここまでいいチームづくりをして、手応えを感じ、ワールドカップ出場へも一歩ステップを進めた。まことに立派な仕事をしてきたと思う。

――ワールドカップでベスト4に入って世界を驚かそうという高い目標を掲げていますね。

賀川:得点力不足について、とくに困るのは大型ストライカー。大型で優れたFWについては、日本人の資質の問題に置き換えてしまう専門家の多いことだ。

――そうではないのですか?

賀川:その前に、今の練習法、育成法でいいのかどうか、そしてまた、大型でなくても点を取れる選手はどうして育ってくるのか――についても、日本全体にまだよく勉強していないのじゃないかナ。クロスをはじめパスの精度にしても、練習の質と回数だからネ。
 この話は近々しっかりと話したいが、今のサッカーマガジンに連載している「我が心のゴールハンター ~ストライカーの記憶~」での釜本邦茂シリーズを読んでもらえば、ヒントはあると思っている。

――勝って気分がいいのだし、その話もまた聞かせて下さいね。



【了】

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チーム全体の進歩で堂々たる勝利。個人力向上は日本全体の問題(中)

2009/04/02(木)

――47分(後半2分)の1ゴールだけだったから、相手の攻撃のときはヒヤリとしたんじゃないですか。

賀川:前半に一度、後半にもあったネ。しかし全体としては守りはしっかりしていた。奪われたらすぐ奪い返すというこのチームの考えと、それを実行する力はすごいネ。後半にはいくつかの決定的なチャンスも作った。

――内田(篤人)のノーマークシュートがバーに当たったのも惜しかったです。

賀川:まず、チーム全体としては

(1)久しぶりに楢崎正剛がゴールキーパーとして代表メンバーに戻りピッチに立ったこと。ケガで休んでいた間のコンディショニングが良かったとみえて、むしろ元気になって動きも良かった。
(2)中澤佑二田中マルクス闘莉王の2人のCDFもしっかりしていた。
(3)左の長友佑都は前半は攻めに絡み、後半もしっかり守るだけでなく得意の長走も見せた。
(4)右の内田篤人は、守りはともかく攻めで得意のドリブル突破ができず、前半はちょっと苛立っている感じだった。足に故障があったとかだが、相手も速くて、縦に抜けなかった。今日は調子は良くないぞと見ていたら、後半に3度もビッグチャンスに絡んだ。やはりいい選手だよ。
(5)遠藤保仁は、俊輔とは別の面での“うまさ”を発揮した。守りのポジショニングを見るだけでも、ヒザを打つ思いがするのだが、攻め込まれたあと味方が取ったボールを前へつなぐときのプレーもまたホレボレしたネ。

――遠藤が下がり目で、長谷部誠が飛び出しましたね。

賀川:彼はドイツのブンデスリーガへ行ってから、接触プレーに強さと粘りが出ていたことは、前にもお話したハズだが、それの守りと、前へ出る動きでいい働きをした。激しいというよりファウル・タックルの多い相手とやり合う強さはこのチーム全体の心意気を表していた。全体にエリア内に人数を多く入れてゆくという今のやり方の中で、彼がもう少し遠いところからシュートを狙う回数を増やせば、もっと変化が出るかもしれないし、そうした能力をつけて欲しいところだ。

――同じドイツにいる大久保は?

賀川:いつも試合に出ている状態ではない――というところがプレーにも出ていた。ワンタッチパスでいい場面を作ったり、守りでもよく働いていたが…

――本領のゴール奪取は…というところですね。

賀川:大久保に限らず、いや大久保以上に田中達也や玉田圭司の速さと、前述の奪われたら奪い返すプレーの連続には感服する。しかし、今のFWはこの守備の要求もこなして、なお得点もしなければならないので大変だ。

――そのFWよりも内田にビッグチャンスが後半3回ありました。

賀川:後半10分ごろだったかに、相手に攻め込まれ左寄りからのFKというピンチがあった。このカウンターから内田が飛び出してペナルティエリア内でロングパスを受けたのだが、トラップミスで相手GKサイド・モハメド・ジャファルにボールを取られてしまった。このカウンターはFKを取った楢崎から遠藤に渡り、ここから長谷部―遠藤―田中と右サイドでパスを交換して前進し――こういうときの遠藤のタイミングの計り方のうまさは絶品といえる――田中からリターンをもらった遠藤がボールをペナルティエリア内に送ると、その落下点に内田が走り込んでいた(内田の動きを見たから、遠藤がボールを送った)。
 相手FKのときに、味方ゴール前でたしかサルマン・イサをマークしていたハズの内田が、右でパス交換しての持ち上がりが進んでいる間に長走して相手ペナルティエリア内に侵入したひらめきと動きは素晴らしいものだったが、残念なことに落下してくるボールを右足アウトサイドでタッチして、それが大きく体から離れてしまった。

――テレビで見た者には一瞬、「内田がそこにいた!!」という感じでした。

賀川:決めておけば歴史に残るプレーだネ。このすぐ後に、今度は田中達也のドリブルシュートがあった。中村俊輔の見事なパス、日本の左を警戒していた逆をとってのアイデアからだが、田中のシュートがGKの体に当たって2点目にはならなかった。
 先ほどの内田のバーに当たったシュートは、このあと少したって65分(後半20分)ごろかな。これもバーレーンの右CKを防いだ後のカウンター攻撃。日本側のヘディングのクリアを拾った俊輔が左の玉田へ、玉田はドリブルで中央へ持ち込み、右サイドの内田にパス、ノーマークの内田はとラッピングしたあと強いシュート。ボールはGKの手をかすめ、バーに当たって跳ね返った。うまい攻めといいシュートではあったが、今度もゴールを奪えなかった。

――決定機でしたね。

賀川:内田はこの後にも、今度はペナルティエリア外からノーマークでダイレクトシュートするチャンスがあった(これは左ポストの外に外れた)。この攻撃は長友の縦パスから田中―玉田―中村―大久保とつないで、大久保が俊輔からのロブのパスを落下点でダイレクトで右へ振った。これをダイレクトで蹴ったところは内田らしいともいえるが、エリアの外からでもあり、私にはちょっと疑問が残った。



【つづく】

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チーム全体の進歩で堂々たる勝利。個人力向上は日本全体の問題(上)

2009/04/01(水)

2010FIFAワールドカップ南アフリカ アジア最終予選
2009年3月28日(埼玉スタジアム2002)19:20
日本代表 1(0-0 1-0)0 バーレーン代表

【日本代表メンバー】
GK: 1楢﨑正剛
DF: 15長友佑都、4田中マルクス闘莉王、2中澤佑二(Cap.)6内田篤人
MF: 7遠藤保仁、17長谷部誠→12橋本英郎(76分)10中村俊輔、16大久保嘉人
FW: 11玉田圭司→8松井大輔(79分)9田中達也→13岡崎慎司(86分)
SUB:18都築龍太、3駒野友一、5阿部勇樹、14中村憲剛

【バーレーン代表メンバー】
GK: 1サイド・モハメド・ジャファル
DF: 7モハメド・フバイル、14サルマン・イサ、16サイド・モハメド・アドナン
MF: 4アブドゥラ・ファタディ、10モハメド・サルミーン(cap.)12ファウジ・アイシュ→11イスマイール・アブドゥルラティフ(89分)13マムード・アブドゥルラフマン、15アブドゥラ・オマール→2アブドゥラ・アブディ(75分)3アブドゥラ・マルズーク
FW: 8ジェイシー・ジョン
SUB:18アッバス・アハメド、6ダウード・サード、17イブラヒム・メシュハス、5アブドゥラ・アルダキール、9アハメド・ハッサン

――日本代表、やりましたね。勝点3を積み上げて、5戦3勝2分けの無敗で勝点11。現時点でオーストラリアを抜いてグループ1位になりました。メディアの中には“王手”の見出しも出ました。

賀川:いい試合だったし、見事な勝利だったから、とても嬉しいが、まだ予選突破は決まったわけではない。もちろん、3試合を残している6月シリーズのうち一つ勝てば勝点14となって2位以内が確定するから、近づいているとは言える。

――4月から6月までの2ヶ月間、岡田監督の進退問題の記事が出ないだけでもいいんじゃないですか。

賀川:そうだネ。日本のサッカーファンでも悲壮感なしに6月を迎えられるからネ。何より選手たちは今のやり方で少しずつチームになっていることを実感しているハズですヨ。今度のバーレーン戦は色んな意味で一つのヤマと言えるかもしれない。

――となると、勝利の一番具体的な原因、中村俊輔のFKから話して下さい。

賀川:前半にもチャンスはあった。開始早々、田中達也がDFラインのウラへ走り込んで右ポスト近くからシュートしたのもあったし、24分だったか、遠藤保仁の右CKを中澤佑二がヘディングしたのもあった。田中のシュートは右ポストの外へ、中澤のヘッドは相手DFのカバーに防がれたが…。

――記録を見ると、日本のシュートは8本。相手は2本でした。やはりシュート力ですか。

賀川:バーレーン側の守りもしっかりしていた。試合直前の両チームのスタートリスト(先発メンバー)を見ると、バーレーン側は生年月日は記入されているが、身長・体重はなかった。

――日本側は書いているのに…ですか。

賀川:そうね。まぁ体格というのは一つの情報だからネ。74年ワールドカップのあのオランダ代表も身長は書かなかったネ。それはともかく、したがって、彼らの正確な高さは分からないが、明らかに185以上は数人いた。平均して脚が長く、それが速く動く。リーチもある。いい攻めをしても最後のシュートのところで体を寄せられ、足を出されて、いい形でシュートできなかった。だから後半はどこでFKを取るだろうかと見ていたら、いきなり玉田がゴール正面20mでファウルをもらった。

――いい位置でした。

賀川:玉田圭司はもともと足が速く、ドリブルには自信を持っている。代表でも名古屋グランパスでもFWで得点を期待されているが、ボールを持ち出しての突破そのものに威力があるプレーヤー。このときは右から中へペナルティエリアの外を横にドリブルした。右から中へだから、左足でシュートもできる形になる。相手はファウルで止めた。それまでペナルティエリア内で日本選手が走り込んで倒された中にはファウル気味のもあったが、この場合はペナルティボックスの外でもあり、レフェリーの笛が鳴った。

――カベに当たりましたね。

賀川:ゴール正面、20m少しあったかナ。カベには5人入っていた。中村俊輔はすぐそばの遠藤保仁に渡し、遠藤が止めたのを左足で蹴った。

――少しポイントをずらしたわけですね。

賀川:キックの位置を動かしたことでカベが割れ、俊輔の蹴ったボールは左から2人目の3番をつけたアブドゥラ・マルズークの頭に当たって高く上がり、方向が少し変わってGKの上を越えゴール右上隅に落下した。

――理想的なコースになりました。まさに好運。

賀川:俊輔も狙ったのだろうが、私はマルズークがヘディングで防ぐときに頭を下げたのが一つのポイントと思った。場内の大画面で映し出されたのを見ると、はじめに目を開いてジャンプした彼はボールに当たる瞬間に腕でカバーするようにして頭を下げた。

――真正面から9メートル15のところで蹴ったボールが向かってくれば、怖いでしょう。

賀川:ボールが接近したときに、そのボールから目を離したハズだ。頭を下げたためボールは頭をかすめて、日本側にとっては理想的な曲線を描いてゴールへ入った。

――ヘディングの鉄則は、ボールから目を離すな――と、いつか言っていましたね。

賀川:ボクは、日本代表のストライカーの中で最もヘディングの上手だった釜本邦茂選手のプレーを何度も生で見たし、1秒間25コマ撮りのフィルムを見たが、彼のヘディングは常にボールをとらえる前、とらえたとき、その後も、ボールを見ていた。もちろんボールが当たった瞬間、衝撃で目をつむることはあるが、直前、直後、しっかり見つめていた。
 有名なアーセナルとの試合でのダイビングヘッドの場面では、ボールをとらえ、自分は地面に落下して横倒しになったまま、まだボールを見ている写真も残っている。

 この3番の選手は、スタートリストではFWと記載されていた。長身の丸坊主が目立つプレーヤーで16番のサイド・モハメド・アドナンとともに中央部をしっかり守っていたが、このFKのときは気の毒な役割になってしまった。

――それによって俊輔の功が割り引かれることはなくても、ですね…。

賀川:もちろん、彼の球筋あってのことだし、前述の玉田のドリブルあってのFKということ。つまりチームの意志で、このチームの一番の武器であるFKを生かしたことには変わりない。
 余談だが、今度の試合も中村俊輔のキープとパスのうまさには何度も感心させられた。メモを見ると、「思わずウマイと声が出た」という書き込みもあるヨ。



【つづく】

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