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コーチ歴30年、平田生雄さん逝く

2009/04/08(水)

サッカーのコーチとして長い実績を持つ平田生雄さん(58)が平成21年4月3日に亡くなり、4月4日にお通夜、5日に葬儀告別式が大阪市鶴見区の鶴見斎場で行なわれた。
広島の似島(にのしま)中学、皆実(みなみ)高校、法政大学でサッカーを磨き、日本サッカーリーグ(JSL)の永大産業でプレー、会社の事業不振で1977年にサッカー部が廃部となったあと78年からセルジオ越後の「さわやかサッカー教室」に関わり、JFA(日本サッカー協会)公認の全国巡回教室で日本中の子どもたちにサッカーを教えた。その後も関西を中心に少年指導に力を尽くした。
明るい人柄と親切な指導、楽しい語りは各層のサッカー仲間の心をとらえ、子どもたちにも指導者仲間にも尊敬され愛されたコーチだった。
告別式ではJFAの関西トレーニングセンターの星原隆昭さんが弔辞を捧げ、個人の業績を讃えたほか、多くの仲間が旅立ちを見送った。


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2007年3月24日、キリンチャレンジカップ2007の日本対ペルー戦後に新横浜で、平田生雄さんと。


――平田さんの訃報は、教えを受けた子どもたちやサッカー仲間にショックでしたね。

賀川:1950年6月17日生まれだからまだ58歳――脳腫瘍という難しい病だった。それほど度々会っているわけじゃなかったが、30年来のつき合いだから悲しいね。
 彼はサッカーどころ・広島の出身で、それも似島中学。似島は第1次世界大戦で中国の青島(チンタオ)にいたドイツ軍人の捕虜収容所のあったところで、このドイツ人からサッカーを習って大正期の広島のサッカーがレベルアップして、日本のサッカー先進地域になったというエピソードがある。
 平田さんはその似島中学でサッカーを覚えた。その頃その学校の先生でサッカー部長だったのが、かつての日本代表GK渡部英麿(わたなべ・ひでまろ)さん。第2回アジア大会(1954年)の日本代表ですヨ。

――高校は広島皆実でしたね。

賀川:ことし1月、大迫勇也の鹿児島城西に勝って優勝したところだ。

――このブログで、賀川さんが「広島サッカーの厚みを見せつけたチーム」と言っていました

賀川:似島中学、皆実高校でみっちりサッカーを学んだんだろうネ。いわば日本サッカー先進地・広島の筋金入りのサッカー人で、そこから法政大学へ進み、卒業後、永大産業へ入った。

――当時だから、日本サッカーリーグですね。

賀川:法政は早大や慶応などに比べるとサッカー界ではまだ実績は少なかったが、彼が卒業した次か、その次あたりで関東大学リーグで優勝している。上昇期だったのだろう。
 永大産業は大阪に本社があるのだが、山口県の平生町に工場があり、そこに練習施設を持って自ら選手育成からスタートし、74年からJSL1部に入った。平田さんも74、75年のシーズンにDFとして登録され、11試合に出場している。

――ブラジルから選手を受け入れて強化しました。

賀川:大久保賢が監督で創部し、76年からセルジオ越後がコーチとして加わった。ジャイロ・マトス、ジャイール・A・ノバイスという2人のブラジル人が活躍し、75年元旦の天皇杯決勝に進んだのを覚えている。

――その永大が事業不振でサッカーをやめてしまった。

賀川:JSLの77年シーズンに入る前の3月1日に永大側が発表した。72年1月に誕生してから5年で永大のサッカーは終わった。永大産業そのものも78年に倒産(2月)するのだが…。

――なんだか、今の世にも似ています。

賀川:75年から不況が深刻になっていた。その対策に赤字国債を発行するようになって、このとき2兆円だったかな。

――平田さんも辛かったでしょうね。

賀川:好きなサッカーだが、ここから選手生活でなく少年指導の道を選んだ。
 セルジオ越後とともに「さわやかサッカー教室」の実現と実際の運営に努力した。越後という素晴らしいコーチに会ったのが縁だが、この教室の成功には彼の力も大きかったハズだ。私は彼とセルジオが子どもを教える現場を何度か見たよ。

――「さわやか」のあともずーっと指導の現場でしたね。

賀川:彼に指導してほしいというクラブも多くて、関西はもちろん頼まれればどこでも飛んで行ったらしい。

――いつも日に焼けた元気な顔で、お酒も好きで、サッカーの話もとても面白かった…

賀川:仲間にも愛された人柄だが、何よりもサッカーを教えること、語ることが好きだった。本当にサッカー一筋の人生だった。平田さんたちの50年世代は釜本邦茂杉山隆一たち40~45年世代、あの東京・メキシコオリンピック世代より5~6歳若く、いわば国を挙げてのサッカー推進の少しあとだったから、サッカー界は上昇期にあっても、まだ今のように底の厚いときではなかったから、必ずしも恵まれた環境ではなかった。だが平田さんはそういうなかでサッカーのコーチという道を選んで、まっしぐらにそれに突き進んだ人だった。
 ことし1月2日に指導者の中では先輩格の平木隆三さん(元・名古屋グランパスエイト監督、元・JFA技術委員長)が亡くなったが、向こう岸で平木さんたちとサッカー指導の話をしているかもしれないネ。

――ご冥福をお祈りします。

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平田生雄と広島皆実高校の同級生です。数年前、クラスの同窓会で、誰よりも若く輝いていた平田。早々に逝ってしまうなんて、思いもよりませんでした。酒席で、私の肩に腕を回し、お前、体調よくないの?と元気よく聴いてきた彼に、少し煩雑な仕事を終えて体調が下降気味だった私は、うん、と小さく頷いたことを覚えています。その時の構図から彼の死がどうしても思い浮かびません。
心より冥福を祈ります。
         -青春期は、ほとんど平田と交流のなかったクラスメート-

投稿: | 2010年5月 2日 (日) 14時47分

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