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モリシの引退に思う

2008/11/04(火)

 モリシのニックネームでセレッソ大阪と日本代表で多くのファンに親しまれてきた“小さな大選手”森島寛晃(もりしま・ひろあき)が引退した。
 昨年3月に首の痛みが発生してから1年以上試合から遠ざかったまま調子は回復せず、10月30日に引退を発表、31日に記者会見を行なった。

 1991年の高校卒業後、ヤンマーに入り、94年にセレッソ大阪となってからJ1、J2リーグで合計13年間(J1―318試合94得点、J2―42試合12得点)。ヤンマー、セレッソ大阪ひとすじでプレーしてきた幸福と、その間2度、リーグ優勝を目前に敗れ(2000年J1・1st、2002年J2)、また天皇杯でも3度(1994、2001、2003)準優勝に終わった無念――などを記者たちの質問に応じて丁寧に語った。

 驚くべき運動量と、チームへの献身的なプレーは、ゴール前の穴場を見つける独特の感性とともに日本代表でもJリーグでも天皇杯でも発揮され、味方ゴール近くで守備に回っていたところから一気にサイドを駆け上がってチャンスをつくり、あるいは中盤で相手ボールを懸命に追っていたかと思うと次にはゴール前のポカリと空いたスペースに入り込んでゴールを決めた。

 モリシのヤンマー、セレッソでの足跡は、かつてのスーパースター釜本邦茂と同じように、その1試合1試合がこのクラブの貴重な歴史として残るものだが、私が特に印象深いのは2000年前半(サントリーシリーズ)での西澤明訓とのペアプレーの完成期だった。
 日本人のCF(センターフォワード)としては柔軟で特異な反転プレーを生かしつつ、ボールを受けては左右に散らし、あるいはヘディングで自在にパスを出した西澤と、中盤でのボール奪取に絡んでいて突如として相手ゴール前の最も危険な地域に現れるモリシによって、セレッソのサポーターはペアプレーの面白み、サッカーでの「あ・うんの呼吸」つまり息のあったプレーの楽しさを知り、それが得点を生むことに拍手喝采した。

 ゴール前でのチャンスの回数に比べてシュートミスもあったモリシが、自らの工夫でシュートの確実性を増したことが、サントリーシリーズでの優勝を争うことにつながった。だが残念なことに、川崎Fとの最終戦をモノにできず(2000年5月27日、1-2、長居)優勝を逃してしまう。
 さらに残念なことに、名声を上げた西澤明訓がこの年のセカンドステージの後半にスペインリーグ移籍の意向を示し、そのためにチーム全体が浮足立ってしまい、次の2001年にJ2に降格してしまった。
 西澤のスペイン行きは本人にも好結果を生まなかったが、モリシ・西澤の2人が2000年のファーストステージで見せたペアプレーの完成への努力を次のシーズンも続けていれば、日本と関西のサッカーがどれほど楽しいものになったか――いま思い出しても、もったいない気持ちがする。

 彼の能力は95年に日本代表に選ばれてから2002年のワールドカップKOREA/JAPANに至るまで代表チームの一つの重要なアクセントとなっていた。
 95年のアンブロカップで日本代表が聖地ウェンブリーでイングランド代表と対戦したとき、小柄なモリシの俊敏なドリブルにピーター・ベアズリーがたまらずトリッピングのファウルで倒したことがあった。あのあとで英国の大記者ブライアン・グランビルがやってきて「キミが言うとおり、モリシマは素晴らしいネ。ベアズリーのファウルは、本当ならイエローものだからネ」と言っていた。

 2000年前半のモリシ・西澤の好調は、モロッコでのハッサン2世杯でも発揮され、あのジダンやデサイーのフランス代表相手に2点を奪った(2-2、PK2-4)。1点目はモリシの飛び出しとシュートのあと、GKバルテズに当たったリバウンドを自ら決めたもので、その見事なダッシュのあとを追うハメになったデサイーが、失点のあとすごい形相でモリシを睨みつけたのだった。

 2002年の日韓共催ワールドカップのチュニジア戦でのモリシの先制ゴールは、会場が長居だっただけに、関西のファンには記憶に新しい。
 謙虚なモリシ自身は、「98年大会はほんのわずか出場しただけだったが、2002年は大阪で後半頭から出場させてもらい、ゴールを取れて本当にうれしかった」と言っているが、フィリップ・トルシエ監督(当時)がもっとモリシのプレーを理解し、評価しておれば…。対トルコ戦に西澤を使うという予想外の起用をしながら(これもおかしいが)その西澤を生かすのであれば、なぜモリシを同時起用しなかったのか――いまも不思議に思っている。
 この大会を観戦したデットマール・クラマーは初めてモリシを見て、「試合の流れを変えることのできるプレーヤー」と言っていたのだが…。

 森島寛晃という選手の素晴らしさは、釜本のようにパワフルでもなく、ロナウジーニョのように巧妙でもないが、ズバ抜けた機動力で、小さな体でありながらサッカーという競技のスケールの“大きさ”を表現したこと――左サイドの自陣で守りに絡んでいたかと思うと、味方が次にボールを取ったときにははるか離れた右サイドのタッチ際を走ってパスを受けるスペースをつくっていた――。まさに、寛晃(ひろあき)の名のとおりだった。

 同時に、中盤で守備に絡んでゴール前へ飛び出すときの最初の一歩、二歩の踏み出す方向によって自分の行き先を相手に悟らせず、ゴール前に走り込む前に、いったん相手DFの視野から消える上手さはまさに絶品といえた。
 かつて大阪が生んだストライカーでベルリン・オリンピック(1936年)の対スウェーデン逆転劇のヒーローの一人となった川本泰三さん(故人)は、自分のシュートスペースへ入るときに相手の視野から“消える”名人だった。1968年のメキシコ・オリンピックの得点王・釜本もまた、ここというシュートチャンスに入ってくるときに“消えて”から現れる上手さがあった。

 森島もまた、ストライカーの本能的に消える上手さを持っていたが、一つには、彼の中盤でのディフェンス、ボール奪取への熱意がホンモノであったために、相手DFがマークを怠ってはいけないハズのモリシへの意識が薄れたのだろうとも思っている。ボール奪取の絡みにも、ピンチに戻るランにも、一つひとつのプレーに気がこもっているところに彼のプレーの神髄があったといえる。
 Jリーグでのオールスター戦で、彼はいつも輝いて見えた。手抜き感覚の出場者の多いなかで、いつもと同様に走り、相手を追い、ボールを追い、スペースへ走る彼の動きが目立たぬハズはない。オールスター常連のピクシーことストイコビッチがモリシの動きに見事なパスを合わせたから、2人のコンビは多くのファンを心から喜ばせるものとなっていた。

 ピクシーはいま名古屋グランパスで成功への道を歩んでいる。それは彼が常にサッカーにひたむきであった延長線上に現在の仕事を置いているからだといえる。ピクシーにも好かれ、その才能を買われ、常に努力を重ねてきた森島寛晃の第2のサッカー人生が、選手時代と同様に輝くものであってほしい――と願わずにいられない。

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