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2008年11月

徐々に進化――日本流サッカー

2008/11/24(月)

2010FIFAワールドカップ アジア最終予選
11月19日(ドーハ・アルサッドスタジアム)19:30 ※現地時間
カタール代表 0(0-1 0-2)3 日本代表
得点者:田中達(日 19分)玉田(日 47分)田中マルクス闘莉王(日 68分)

【日本代表メンバー】
GK: 1川口能活(Cap.)
DF: 2寺田周平、3内田篤人、4田中マルクス闘莉王、15長友佑都
MF: 7遠藤保仁、10中村俊輔、16大久保嘉人→13岡崎慎司(86分)17長谷部誠
FW: 8田中達也→9松井大輔(71分)11玉田圭司→12佐藤寿人(90分)
SUB:18都築龍太、6阿部勇樹、5今野泰幸、14中村憲剛

【カタール代表メンバー】
GK: 1サクル
DF: 2メサード、4マジド、6メシャル(Cap.)16ビラル
MF: 5マジディ→12マギド(80分)11ファビオ・モンテシン→10ヤジディ(67分)14ハルファン、15タラル 、17ハリーファ→9サイド(59分)
FW: 18セバスティアン
SUB:13ムバラク、3アブドゥラジズ、7ユーセフ、8サード

――3-0の快勝、よかったですネ。キリンチャレンジカップのシリア戦の賀川さんのコメントの最後はたしか「皆でテレビの前で応援しよう」というのでしたネ。

賀川:こういう国際試合は、選手たちをバックアップするサポーターの強い気持ちが大切だからね。もちろん、試合は選手たちがするのだが…。

――その代表で、良かったのは何ですか。

賀川:戦う気持ち、勝つという気迫、ゴールを奪うための攻めようという意志、そして、リードし加点し引き離しても1点もやらないぞという意地が、随所のプレーに表れていた。
 それがスターティング・メンバーだけでなく、交代で入ってきた者も、例えば後半41分に加わった岡崎慎司は、相手のボールを奪い、自分がサイドでボールを持てば得意の切り返しで2人を相手にキープし、苛立った相手は反則してしまう。誰もがこの試合の勝利と自分の局面で負けないぞという気持ちが強かった。

――いつもと違って、今日は精神面の話からですネ。

賀川:この点の大切さを語り出せば長くなるからこのあたりで止めておくけれど、まあ、こういう国際試合では“負けず嫌い”じゃないといいプレーはできませんヨ。岡田武史監督も負けず嫌い。選手たちもそうなっていたね。だからこそ、あれだけファウルの多い相手、そしてそれを見逃した主審のおかげで体のあちこちが痛んだハズだが、よく辛抱してプレーの質の高さで見返してくれた。選手たちは皆、立派だったと思うヨ。

――これで、監督云々の話は消えますネ。

賀川:2月まではネ(笑)。
 イビチャ・オシムさんが病に倒れて、その交代で監督になってから1年。チームがようやくいい“かたち”になってきている。選手の起用も戦いぶりもいい線上にあると思う。ひとつ試合の度に一喜一憂するのは当然としても、その都度、監督の進退問題が出るのもどうかと思うヨ。

――試合を振り返りましょう。
 1点目がいい時間でしたネ。はじめ攻められてヒヤリとする場面もあったあとでした。

賀川:第1戦の対バーレーン(9月6日、3-2)と同じように、田中達也のランが目立った。キックオフ直後からね。左サイドを二度、まっすぐにドリブルしたのと、パスを追ったのを見て、ボールを取られたあとの奪いにゆく速さとともに、この選手の充実ぶりを見ましたヨ。テレビ観戦のボクのメモに、「11分の彼の左サイドでのドリブルのスピードに感動した」とある。
 12分だったか、CDFの寺田周平の右サイドへのパスを奪われたとき、中村俊輔が素早く戻って内田篤人と協力して奪い返し、長谷部誠が右サイドの田中達也に渡した場面があった。このときのパスを奪われてからの守への対応、そして相手のブラジル人ファビオ・モンテシンから奪い返したあとの攻への切り替え――が、この日の代表チームのカラーを表していた。そして長谷部からボールを受けた田中達也はドリブルで突進して右CKのチャンスをつくった。これも、この日のチームの積極性の表れといえた。この頃から日本のパスがスムーズに回りはじめた。

――そして1点目が生まれた。

賀川:田中達也をはじめとする日本の小柄な攻撃陣の積極的な守備と、その後の早い展開、ボールにからむ人数の多さは、先のバーレーンのアウェー戦でも相手を困惑させた。世界中で、こんなにめまぐるしく走り回ってボールを取りに来るチームはほとんどないから、相手は面食らう。それが生きたゴールだが、発端は(1)相手の右サイドの攻めを防いだあと(2)田中達也がハーフラインで相手と競り合ってボールを取り、右側の中村俊輔に渡したところからだった。(3)田中達也はそのまま前方へ走り上がり、(4)俊輔は左の方へパスを送る気配を見せたあと、反転して右へ向きなおり、右サイドの内田にパスした。(5)ハーフラインから数メートル相手側の右サイドでボールを受けた内田は後方から駆け抜ける長谷部の前へボールを浮かして送り込む。(6)落下して高くバウンドしたボールに走り寄ったのは、中央へ前進していた田中達也だった。(7)長谷部に気を取られた相手DFは、その背後から出てきた田中達也に気付くのが遅かった。(8)田中達也はゴールエリアの右線ぎりぎりからシュート(9)ボールはGKサクルの両足の間を受けてゴールに飛び込んだ。

――見事なパス攻撃。

賀川:うーん、そうだね。内田はロブのボールをスペースへ送り、ボールは後方から疾走する長谷部の前に落ち、その長谷部が取れないとみて相手のDFのボールへの動きが一瞬ゆるんだところ、内側から田中達也が現れたから、守る側には予想外だったろう。

――日本側からすれば、一つのボールに2人が走ったということですネ。

賀川:そう、最初にハーフラインで相手ボールを奪取して俊輔に渡した田中達也がそのまま中央へ走り上がった(玉田は右に開いていた)。その田中からボールを受けた俊輔はキープとフェイクを入れ、一つ間(ま)を取って、攻めを左でなく右へチェンジする、この間に俊輔の左側(中央側)を長谷部が走り上がってゆく。そして内田は右サイドの玉田でなくDFの中央部のウラへボールを送った。何度もこの場面を繰り返し話したのは、この動きの組合せの見事さを強調したかったからだ。チームとしてはカタールの2CDFの連係が悪く、背後が弱いのを知っていたのだろう。そこをついた内田のパスでもあった。いわば今のこのチームの“前へ”“ゴールへ”という意識と俊輔の間の取り方の合作ゴールですヨ。

――シリア戦で、小柄な攻撃陣、玉田・田中達也・大久保たちの連係に進歩ありと言っていましたネ。

賀川:もちろん、両サイドのDFもそうだが、ここへ中盤の2本柱が入るとどうなるだろうかと楽しみにしていたのだが、まず1点目に表れた。

――2点目は玉田の素晴らしいシュートでした。

賀川:後半はじめだった。1点先取で勢いづく日本を相手になんとか1点だけで前半を終わったカタールにすれば、さあ盛り返そうという45分のアタマでの失点だったから、気落ちしただろうネ。

――いわゆる厚みのある攻撃でしたネ。

賀川:ロングボールの相手DFのクリアを拾った第1波攻撃での(1)内田の右から中央へのパスは失敗したが、(2)その相手側のパスをまた高い位置で奪い、再び内田へ(3)内田は前回と違って、少し内側のスペースへ横パス(25メートル)(4)それを左から大久保が入ってきてシュートまで持ってゆく。(5)この第2波攻撃のシュートは相手DFの足に当たって、エリア内に転がる。(6)それをDFがクリアしたが、大きくは飛ばずに高く上がる。(7)中央やや左、ペナルティエリアから20メートル辺りで今度は長友が競り勝ってヘディングした。(8)このボールが落下してくるところに長谷部がいた。(9)彼はエリア外10メートル、ゴール正面でボールを取り、前を向き、ドリブルをはじめると見せてから左外へパスを送った。(10)そこには第2波のときエリア内中央にいた玉田が移動して待ち構えていた。(11)カタール側は長谷部と大久保にひきつけられて、玉田はまったくフリーの状態。得意の左足での完璧なスイングとインパクトでボールを叩き、ビューティフル・シュートを決めた。

――ペナルティエリアすぐ外、左角より少し内側の位置からでした。

賀川:玉田にとっては一番得意な角度だったハズ。だから、本人にも会心のシュートだったでしょう。

――右サイドの第1波はパス失敗、第2波はシュートまでゆき、そのクリアを取った第3波が左寄りからのシュートという、いわゆる厚みのある攻撃でした。

賀川:このときペナルティエリア周辺に日本側は6人が進出していた。

――今年の欧州選手権のスペインの攻撃を彷彿(ほうふつ)とさせる、といえば言いすぎでしょうか。

賀川:欧州でも、小柄な攻撃陣によるペナルティエリア内での組織攻撃あるいは多人数攻撃が注目されているハズだ。スペインのレベルかどうかは別として、日本らしい攻めですヨ。近くはガンバ大阪の例もあり、私のような古い者には、昭和初期の東大や昭和10年代の神戸一中を思い出す――いわば日本のサッカーでもあった。

――3点目は俊輔のCKからでした。

賀川:この日はCKもFKも長身のGKサクルにほとんど(しかもフィスティング(パンチング)でなく)キャッチされていた。ここは、ファーポスト側を狙ったネ。そのためにはGKサクルを越えなければならない。そこで俊輔はショートコーナーを選び、遠藤に渡してリターンをもらい、ペナルティエリアすぐ外からクロスを蹴った。このときの2人の間のグラウンダーのパスのやり取りのボールの速さ、正確さなどに「やはりなぁ」と感心した。

――ファーポストへ蹴るためには、俊輔といえどもコーナーよりペナルティエリアに近づいて蹴った方がいいのでしょうか。

賀川:コーナーからでもできたろうが、ファーポストを狙うときはショートコーナーが多いでしょう。距離が近くなればコントロールしやすくなるし、彼の十八番の“高く上げて落とす”キックがより正確に、ピンポイントへ持ってゆけるのだろう。
 もちろん、距離が近いということは最近NHKのゲーム解説、山本昌邦さんがよく語っているように、「(ボールが)飛んでいる時間も短いから、相手の対応も難しくなる」ということもあるハズです。また、2人の間のパス交換に相手の目が注がれる間に、ゴール前の選手(ヘッダー)がいいポジションをとることもできる。相手にとっても難しいものとなります。

――3-0となって、さすがにカタールもガクッときたでしょう。

賀川:日本側は交代選手を送り込み、用心深い試合ぶりだった。最後まで気を緩めることなく徹底的に勝ちを求める態度を崩さなかった。

――バーレーン戦のこともありますしね。それにしても、カタールの選手はファウルが多かった。

賀川:最後まで気を抜かずに日本が戦った。松井大輔や岡崎慎司、佐藤寿人といった交代で入った選手が皆、自分の役割をしっかりと実行しようとしていた。

――因縁の地・ドーハでの完勝というところですネ。

賀川:93年のいわゆる“ドーハの悲劇”は、プロフェッショナルになったばかりの日本選手たちは一生懸命やったが、まだ幼いものだった。時間稼ぎもできなかった。それがいまや代表に入って間もない若い選手でも当たり前のようにやれる。Jリーグのレベルもそれだけ上がっているわけです。もちろん、リーグもJリーガーも、そして代表もまだまだレベルアップするだろうし、また、してくれると思っている。

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大分トリニータの優勝。平松さん、溝畑社長、シャムスカ監督、おめでとう

2008/11/05(水)

 11月1日、ナビスコカップの決勝で大分が優勝した。
 このクラブの創始者・平松守彦 前大分県知事と、創設から関わってきた溝畑宏社長が抱き合うのをテレビの画面で見ながら、「良かったね、平松さん。良かったね、溝畑さん」と思わず声が出た。

 平松前知事は、私と同じ大正13年(1924年)生まれ。3月のいわゆる早生まれだから、学年では私より一年上になる。大分中学から旧制五高(現・熊本大)を経て東大を卒業、昭和24年(1949年)に商工省(現・経済産業省)に入り、中央官庁で25年の経験ののち故郷の大分に戻って副知事となり、昭和54年(1979年)に知事に当選。以来6期24年務め、全国的にも有名な知事さんだった。

 一村一品運動をはじめ、地方が自力で立ち上がるための県の仕事をリードし、九州の北部・大分という土地柄に沿って素晴らしい業績を生み出した平松さんにとっても、大分トリニータの創設とワールドカップの開催地誘致は地域の活性化のために重要なものだった。そのプロサッカークラブをつくることを推進したのが、当時、中央から大分県へ派遣されていた溝畑宏さんだった。

 以来15年、サッカーというスポーツに馴染みの薄い土地での多くの苦労を克服し、徐々にステップを固め、県リーグからはじめたチームは九州リーグ、JFLへの昇格、Jリーグ加盟(J2、1999)に続いて2003年にJ1に入り、3年目の2005年9月に就任したシャムスカ監督のリードによってチーム力が伸び、下位争いから中位へ、そして上位を狙うところまでなってきた。

「大分は日本では西の端の方だが、ソウルにも上海にも北京にも近く、東アジア圏ではまことに好位置にある。したがって、ここでは常にアジア的な視点でものを見ることが大切」という平松さんの理念どおり、初期のクラブの基礎固めの時期から韓国サッカー界との交流が深いのも特徴だが、選手との契約はもちろん、スポンサー集め、観客へのアピールなど、全ての運営の実務に関わってきた溝畑さんが社長となって自らクラブの責任を負う形となって、いよいよトリニータの地盤が固まった。

 その身丈に合った運営に沿ったシャムスカ監督のチームづくり、選手起用が若い選手を伸ばし、ベテランの力を発揮させて一つひとつの試合で勝ちを積み上げ、今年、ナビスコカップの決勝まで上がってきた。
 しっかりした守りの上に立って、わずかな得点でも勝つ自信を持つようになったと選手たちは言っている。
 名古屋と広島で活躍したウェズレイをこの攻撃陣にひき入れ、高松大樹という長身のストライカーが故障すると、その間にセレッソ大阪で試合に出ていないデカモリシこと森島康仁を借りてきて、その長所を生かした“やりくり”は見事という他はない。

 1万人のサポーターが九州から大挙して国立競技場に押し寄せた決勝は、まさに今のトリニータのサッカーどおり。ボールの奪い合いでの強さ、衰えない動きの量で清水の鋭い攻めを封じ、サイドからのオーソドックスな攻めで後半中ごろに先制した。
 それまでの右サイドからのクロスのほとんどが、低いボールでニアサイドを狙って相手DFにはね返されていた。ウェズレイのFKもそうだったから、単なるキックミスではなく、相手の高木、青山といった長身のCDFに対してニア狙いのようだった。
 後半のゴールは、そのニア狙いではない、金崎が蹴った右からの高いボールがファーポストへ飛び、それを高松が見事なジャンプヘッドで決めた。今度は、相手のCDFを越えるクロスだった。監督からのヒントもあったかもしれないが、このあたりに今年の大分の選手たちの進歩を見る気がした。

 相手が1点の挽回を図って攻めに出るならば、そのウラを狙うという常識ではあっても、決して容易ではない攻撃を成功させたのも、金崎からウェズレイへのパスだった。
 金崎は前半にシュートもし、ゴールへの意欲を見せていたが、ここというチャンスでのパスも良かった。そのパスを目いっぱいで取ったウェズレイのシュートは、相手GKの下を狙って、ボールが浮かないようにボールの上方(ボールを地球に見立てると、赤道から上を蹴るという)をトゥ(つま先)で突くという、芸の細かいものだった。このあたりに、外国人選手でJリーグ最高得点(リーグ戦通算得点ランキング)を記録したこのストライカーの本領が表れていた。
 選手の力量を発揮させるのが優れた監督であるということからゆけば、この日のシャムスカ監督もまた、優勝の功労者だろう。

 たかがサッカー、たかがスポーツと言っても、今度の大分トリニータの優勝、九州の地方クラブがJのタイトルの一つを獲得したことは、これからの“地方の時代”を迎えるにあたってのエポック・メーキングな“事件”といえるだろう。
 もちろん、このあともクラブの運営はそれほど易しいものではないにしても、トリニータは15年で一つの成功を得て、足場をつくることができた。
 幸いなことに、いま九州をはじめ西日本の高校や若年層クラブのレベルは年々高くなっている。大分トリニータが、今後も地道な努力を続けることで、サッカーの根が広がり、クラブもまた繁栄への道を開けるのではないか――。
 創設時の溝畑さんたちの苦労を思い、今後の10年を楽しみとしたい。

clip追伸
 大分の宮明さんから、サロン2002のメーリングリストに喜びのメールが入りました。
 皆さんの熱意で勝ち取った優勝、おめでとう。
 大分で生まれた県民の皆さんの手づくりチームの優勝は、まことに素晴らしいことです。双葉山と稲尾投手、そして大分出身のノコさん(竹腰重丸)も、トリニータの頑張りを喜んでいることでしょう。

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モリシの引退に思う

2008/11/04(火)

 モリシのニックネームでセレッソ大阪と日本代表で多くのファンに親しまれてきた“小さな大選手”森島寛晃(もりしま・ひろあき)が引退した。
 昨年3月に首の痛みが発生してから1年以上試合から遠ざかったまま調子は回復せず、10月30日に引退を発表、31日に記者会見を行なった。

 1991年の高校卒業後、ヤンマーに入り、94年にセレッソ大阪となってからJ1、J2リーグで合計13年間(J1―318試合94得点、J2―42試合12得点)。ヤンマー、セレッソ大阪ひとすじでプレーしてきた幸福と、その間2度、リーグ優勝を目前に敗れ(2000年J1・1st、2002年J2)、また天皇杯でも3度(1994、2001、2003)準優勝に終わった無念――などを記者たちの質問に応じて丁寧に語った。

 驚くべき運動量と、チームへの献身的なプレーは、ゴール前の穴場を見つける独特の感性とともに日本代表でもJリーグでも天皇杯でも発揮され、味方ゴール近くで守備に回っていたところから一気にサイドを駆け上がってチャンスをつくり、あるいは中盤で相手ボールを懸命に追っていたかと思うと次にはゴール前のポカリと空いたスペースに入り込んでゴールを決めた。

 モリシのヤンマー、セレッソでの足跡は、かつてのスーパースター釜本邦茂と同じように、その1試合1試合がこのクラブの貴重な歴史として残るものだが、私が特に印象深いのは2000年前半(サントリーシリーズ)での西澤明訓とのペアプレーの完成期だった。
 日本人のCF(センターフォワード)としては柔軟で特異な反転プレーを生かしつつ、ボールを受けては左右に散らし、あるいはヘディングで自在にパスを出した西澤と、中盤でのボール奪取に絡んでいて突如として相手ゴール前の最も危険な地域に現れるモリシによって、セレッソのサポーターはペアプレーの面白み、サッカーでの「あ・うんの呼吸」つまり息のあったプレーの楽しさを知り、それが得点を生むことに拍手喝采した。

 ゴール前でのチャンスの回数に比べてシュートミスもあったモリシが、自らの工夫でシュートの確実性を増したことが、サントリーシリーズでの優勝を争うことにつながった。だが残念なことに、川崎Fとの最終戦をモノにできず(2000年5月27日、1-2、長居)優勝を逃してしまう。
 さらに残念なことに、名声を上げた西澤明訓がこの年のセカンドステージの後半にスペインリーグ移籍の意向を示し、そのためにチーム全体が浮足立ってしまい、次の2001年にJ2に降格してしまった。
 西澤のスペイン行きは本人にも好結果を生まなかったが、モリシ・西澤の2人が2000年のファーストステージで見せたペアプレーの完成への努力を次のシーズンも続けていれば、日本と関西のサッカーがどれほど楽しいものになったか――いま思い出しても、もったいない気持ちがする。

 彼の能力は95年に日本代表に選ばれてから2002年のワールドカップKOREA/JAPANに至るまで代表チームの一つの重要なアクセントとなっていた。
 95年のアンブロカップで日本代表が聖地ウェンブリーでイングランド代表と対戦したとき、小柄なモリシの俊敏なドリブルにピーター・ベアズリーがたまらずトリッピングのファウルで倒したことがあった。あのあとで英国の大記者ブライアン・グランビルがやってきて「キミが言うとおり、モリシマは素晴らしいネ。ベアズリーのファウルは、本当ならイエローものだからネ」と言っていた。

 2000年前半のモリシ・西澤の好調は、モロッコでのハッサン2世杯でも発揮され、あのジダンやデサイーのフランス代表相手に2点を奪った(2-2、PK2-4)。1点目はモリシの飛び出しとシュートのあと、GKバルテズに当たったリバウンドを自ら決めたもので、その見事なダッシュのあとを追うハメになったデサイーが、失点のあとすごい形相でモリシを睨みつけたのだった。

 2002年の日韓共催ワールドカップのチュニジア戦でのモリシの先制ゴールは、会場が長居だっただけに、関西のファンには記憶に新しい。
 謙虚なモリシ自身は、「98年大会はほんのわずか出場しただけだったが、2002年は大阪で後半頭から出場させてもらい、ゴールを取れて本当にうれしかった」と言っているが、フィリップ・トルシエ監督(当時)がもっとモリシのプレーを理解し、評価しておれば…。対トルコ戦に西澤を使うという予想外の起用をしながら(これもおかしいが)その西澤を生かすのであれば、なぜモリシを同時起用しなかったのか――いまも不思議に思っている。
 この大会を観戦したデットマール・クラマーは初めてモリシを見て、「試合の流れを変えることのできるプレーヤー」と言っていたのだが…。

 森島寛晃という選手の素晴らしさは、釜本のようにパワフルでもなく、ロナウジーニョのように巧妙でもないが、ズバ抜けた機動力で、小さな体でありながらサッカーという競技のスケールの“大きさ”を表現したこと――左サイドの自陣で守りに絡んでいたかと思うと、味方が次にボールを取ったときにははるか離れた右サイドのタッチ際を走ってパスを受けるスペースをつくっていた――。まさに、寛晃(ひろあき)の名のとおりだった。

 同時に、中盤で守備に絡んでゴール前へ飛び出すときの最初の一歩、二歩の踏み出す方向によって自分の行き先を相手に悟らせず、ゴール前に走り込む前に、いったん相手DFの視野から消える上手さはまさに絶品といえた。
 かつて大阪が生んだストライカーでベルリン・オリンピック(1936年)の対スウェーデン逆転劇のヒーローの一人となった川本泰三さん(故人)は、自分のシュートスペースへ入るときに相手の視野から“消える”名人だった。1968年のメキシコ・オリンピックの得点王・釜本もまた、ここというシュートチャンスに入ってくるときに“消えて”から現れる上手さがあった。

 森島もまた、ストライカーの本能的に消える上手さを持っていたが、一つには、彼の中盤でのディフェンス、ボール奪取への熱意がホンモノであったために、相手DFがマークを怠ってはいけないハズのモリシへの意識が薄れたのだろうとも思っている。ボール奪取の絡みにも、ピンチに戻るランにも、一つひとつのプレーに気がこもっているところに彼のプレーの神髄があったといえる。
 Jリーグでのオールスター戦で、彼はいつも輝いて見えた。手抜き感覚の出場者の多いなかで、いつもと同様に走り、相手を追い、ボールを追い、スペースへ走る彼の動きが目立たぬハズはない。オールスター常連のピクシーことストイコビッチがモリシの動きに見事なパスを合わせたから、2人のコンビは多くのファンを心から喜ばせるものとなっていた。

 ピクシーはいま名古屋グランパスで成功への道を歩んでいる。それは彼が常にサッカーにひたむきであった延長線上に現在の仕事を置いているからだといえる。ピクシーにも好かれ、その才能を買われ、常に努力を重ねてきた森島寛晃の第2のサッカー人生が、選手時代と同様に輝くものであってほしい――と願わずにいられない。

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