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2008年9月

与謝野家、石原家とスポーツ

2008/09/17(水)

 自民党の茶番劇などと言いながら、各テレビ局は総裁選挙の候補者の動向をレポートしている。3連休の間はどこもが5人を集めて問答を繰り返していた。それが結構面白かった。
 そのなかで、与謝野馨(よさの・かおる)さんの話のときに、祖父にあたる与謝野鉄幹(てっかん)祖母にあたる晶子(あきこ)については語られていたが、父親の秀(しげる)さんについてはほとんど言及のなかったのが不思議に思えた。
 北京オリンピックが終わった直後でもあり、当然、1964年東京オリンピック組織委員会事務総長・与謝野秀の名前が出ても良いハズなのに――と、不満でもあった。

 この人は鉄幹・晶子の次男で、総裁候補の馨はその長男。
 1904年(明治37年)生まれで、一高・東大を卒業して外務省に入り、戦前はヨーロッパ勤務、戦後は外務省情報局長、エジプト大使、スペイン大使などを経て、東京オリンピックの事務総長を務めている。有能な外交官であった秀さんがこのポジションに座ったことは、大会の成功の要因の一つとされている。

 そのスポーツに対する見識は、私の記者稼業の師匠・木村象雷(きむら・しょうらい、故人)さんの著書『世紀のオリンピック』(アテネ~東京)の序文にあらわれていて、さすがと思ったことがある。
 もう一つは、私の発案で大阪にもサッカーの五輪を誘致しようとしたとき、交渉に出向いた川本泰三さん(故人)が組織委員会の事務室で与謝野事務総長に断られたこと。
 そして、それから大阪トーナメント(5/6位決定戦)の実現に向け何度かやり取りがあったことが強く印象に残っている。決まっていた東京オリンピック・サッカーの試合の予定に新しい仕事を大阪から持っていったのだから、事務総長はきっと当惑しただろうと今も思っている。

 総裁候補の馨さんは、そのことはご存じないかもしれないが、氏のホームページを見ると、馨さんご当人は新宿区サッカー協会の顧問であるらしい。人とサッカーは思わぬところでつながっていると思ったものだ。

 ついでながら、5人の討論・質問のテレビでのやり取りのなかで、石原伸晃(いしはら・のぶてる)さんが、近ごろ感激したこと――というのに何人かが北京オリンピックの女子ソフトボールを挙げたのに対して「サッカーのなでしこ」と答えていた。さすが、旧制湘南中学、一橋大学でサッカー選手だった都知事・石原慎太郎の息というべきか――。

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