« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

すごいネ、なでしこジャパン。世界のサッカー史に残る戦いを――。

2008/08/20(水)

 なでしこジャパンが頑張ってくれたおかげで、北京オリンピックの楽しみが8月のお盆が過ぎてもまだ続いている。
 8月6日にはじまった1次リーグG組で

  △2-2 ニュージーランド
  ●0-1 米国
  ○5-1 ノルウェー

 と、 3戦1勝1分け1敗でこの組の3位となりベスト8に入って準々決勝に進出した。

 8月15日、秦皇島での準々決勝、対中国は2-0で勝ち、とうとうベスト4となった。
 8月18日、北京での準決勝、対米国は2-4で敗れ、21日の3位決定戦に望みをかけることに――。

 北京オリンピックの開会式の始まる前からスタートした女子サッカーが、水泳や柔道、女子マラソンといった競技が次々と終わってゆくなかで、2週間にわたって戦いを展開し、メディアによってその模様が伝えられていることは素晴らしいことだ。何より選手たちにとっても、オリンピックという大きな舞台での戦いを重ねることは素晴らしい。

 いまから40年前のメキシコオリンピックで日本代表(そのころサッカーは男子だけ)チームが1次リーグを1勝2分け(3-1ナイジェリア、1-1ブラジル、0-0スペイン)でこのグループの2位で準々決勝に進み、ここでフランスを破って(3-1)ベスト4に進んだとき、デットマール・クラマーは選手たちを「キミたちは歴史を作った」と賞賛した。

 準決勝は残念ながら前回優勝のハンガリーに(不運なハンドによるPK2失点を含め)0-5で大敗した。
 いささか気落ちした選手たちをクラマーは「銅(ブロンズ)の色もいいものだ」と励ました。ベスト4へ来れば、レベルの高い相手とメダル獲得の戦いを2度できるのが、こうしたトーナメント(1ヶ所に集まる集中大会)のいいところ。クラマーは同じベスト4でもメダルを取ることの大切さ(自分たちの最終戦を勝利で終わることの大切さ)を、ブロンズの色もいいものだ――という表現でイレブンを鼓舞したのだった。そして彼らは開催国メキシコを2-0で破って3位になった。

 沢穂希(さわ・ほまれ)を中心とする今回の女子チームは、オリンピックで勝つことが女子サッカーを盛んにすることにつながる――といった使命感に燃えているところは、68年のメキシコ五輪代表と同じ。組織プレーで体格の良い先進の強国に勝つために長い期間の合同練習や予選突破で一つのチームとなっているところも同様だ。

 私は、今度の大会でのブラジルと米国との決勝は女子サッカーにとって歴史的にもとても大きな意味を持つゲームになる気がする。
 ドイツというこれまで女子サッカーのトップクラスに座り続けていた強国の代表に、東アジアの日本が挑戦する。それも、日本らしい個性的な戦いを仕掛けるという点で、こちらも世界のサッカー史に残るものとなると期待している。
 激しくフェアで、日本らしく走り、それでいて1対1の競り合いでも粘り強く、そして思い切りのよい(シュートも含めて)プレーによって道は開けるだろう。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


西村章一さんと早川純生さん

2008/08/13(水)

080813

 中条さんの『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』の出版記念パーティーで、古い仲間に会った。
 ひとりは早川純生(はやかわ・すみお)さん。私より1学年下の戦中派で、湘南中学、学習院高等部、東大でサッカー選手。日本サッカーリーグ1部の日本鋼管チームの総監督を務めた時期もあった。

 ごく最近にも旧制湘南中学のことを書いたが、早川さんは5歳下の弟の忠生(ただお)さんとともに湘南のサッカー兄弟として活躍した。昭和15年(1940年)の全国中等学校選手権(いまの全国高校選手権)にも3年生のときにCFとして出場している。昭和17年(1942年)夏の第1回学徒振興会主催の全国大会にも出場している弟の忠生さんの方は慶応へ進み、姓が小林と変わり、日立に入って日本代表としても活躍した。
 1956年メルボルン五輪予選の対韓国の劇的な勝利は古いサッカー人の記憶に残るが、そのときのメンバーだった。

 私が早川さんに関心を持ったのは、純生さんが昭和17年の全国大会に出ていたとき、新聞に早川選手の父君が海軍軍人であるという記事が掲載され話題になったから。早川幹夫中将(1916-1944、レイテ作戦で戦死)は戦功のあった軍人で、日本海軍でも水雷戦の権威として知られていたという。

 その早川さんと話しているとき、西村章一さんが「久しぶり」と来てくれた。西村さんは古河電工サッカー部の創始者で、会社ではある時期、故・長沼健さんの上司でもあり1965年日本サッカーリーグ創設の中心メンバーの一人だった。
 3人がおしゃべりしているのを見つけて、寺尾晥次さんが「1枚撮っておきましょう」と写してくれたのがこのフォト。寺尾さんはテレビ東京がいち早くサッカーの放送を始めたときのプロデューサー。三菱ダイヤモンドサッカーや1970年ワールドカップなどの放映に力があった、サッカー普及の恩人のひとりだ。

 クラマーという、日本流にいえば大正生まれの本を大正生まれの中条さんが書いてくれた。そのパーティーのおかげで、大正生まれの早川さんをはじめ懐かしい顔にも会えた。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』

2008/08/12(火)

0808121 

 古くからの記者仲間であり、サッカー人仲間でもある中条一雄(ちゅうじょう・かずお)さんが、『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』(ベールボールマガジン社、8月18日 第1版第1刷発行、定価1800円)という本を書いた。
 その出版記念のセミナーとレセプションがビバ!サッカー研究会の手で8月2日、東京の国立競技場すぐ近くの日本青年館で開催された。

0808122
メキシコ五輪40周年記念シンポジウム「デットマール・クラマーを語る」の様子
左から後藤健生氏、中条一雄氏、岡野俊一郎氏、杉山隆一氏


 セミナーは後藤健生さんの司会で、著者の中条さん、JFA最高顧問の岡野俊一郎さん、メキシコオリンピック銅メダリストの杉山隆一・静岡県協会副会長がそれぞれ、クラマーについて、あるいは当時の試合や練習について語った。
 セミナーに集まったのは、やはり古い記者仲間の牛木素吉郎さんが主宰するビバ!サッカー研究会や“サロン2002”(中塚義実理事長)のメンバーたち。

 中条さんは朝日新聞社でスポーツ記者として働き、定年後はフリーランスの記者。学生時代に熱中したサッカーをはじめ多くのスポーツ取材に関わってきた。
 クラマーとは1960年に日本代表チームが欧州ツアーに出かけて初めてクラマーに会ったとき、このチームに帯同していた中条記者とも会っているから、日本のプレスとして最初にクラマーと顔を合わせ、以来48年のつきあい。
 この本をつくるためにドイツ語の堪能な友人の協力を得て、ライト・イム・ウィンクルの自宅を何度も訪れ、本人の話を聞き出してまとめたもの。
 日本のサッカーを大改革したクラマーについてはその直弟子を通して日本でも多くのことが語られているが、これはクラマーのサッカー生涯とともに日本とのかかわりを丹念に一冊にまとめたものとして類のないものといえる。

0808123
著書にサインをする中条氏

 デットマール・クラマーという人は、指導者であり、サッカー教育の第一人者だが、そのサッカー談議の面白さでも私は当代随一だと思っている。いまでも私はときどき彼に会うが、その都度、面白いエピソードを聞くことになる。
 昨年だったか、「いま、サッカーマガジンでストライカーシリーズを書いている。ちょうどフェレンツ・プスカシュです」と言うと、彼は、「54年のワールドカップでプスカシュたちが西ドイツ代表に決勝で敗れたとき、西ドイツ代表チームを誹謗し、しばらく西ドイツと彼は不仲になったが、何年か後にプスカシュが詫びて和解することになった」と言い、その話し合いの席の出席者や、座った位置などを克明に語ってくれた(クラマーも出席していた)。
 また、その次に会った時、ゲルト・ミュラーを書いている――と言ったら、ミュラーの得点記録をよどみなく説明し、また、バイエルンのコーチをしていたとき、チームにいたオランダのマカーイが得点できなくて苦しんでいたとき、ミュラーは“動き回らず、ここというところで待つことが大事”とヒントを出し、そのあとゴールが増えた、などなど――。

 この本にもあるが、クラマーの指導を受けながら、日本サッカーの歴史のなかではある時間、クラマーを「敬して遠ざける」という空気もあった。もうクラマーは古いなどというコーチたちもいたことを私は知っているが、だからといって、私はそうした人たちを責めようとは思わない。人は誰でも思い違いをするもの。そういう点でもクラマーの生涯を語ることは、サッカーの歴史を読むことにもなる。一読、再読をおすすめしたい。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


vol4. ベルギー、オランダ2ヶ国共催で国境なきフットボール

2008/08/05(火)

00_1 00_5
左:6月28 日、ブリュッセルでの準決勝試合前のセレモニー。(左) フランス(右) ポルトガル。ピッチには両国国旗
右:ブリュッセルで。74 年西ドイツワールドカップ以来の記者仲間、ドイツに住むルーマニア人のモンテアウ氏と(左は筆者)



FOOTBALL WITHOUT FRONTIER

 サッカーの母国・イングランドでの96年ヨーロッパ選手権大会のスローガンは「FOOTBALL COMES HOME(サッカー故郷へ帰る)」だった。
 4年後のEURO2000のスローガンは「FOOTBALL WITHOUT FRONTIER(フットボールに国境なし)」―ベルギーとオランダの二国共催大会だったから、参加16チームも、サポーターも、ベルギーとオランダのそれぞれの4会場の間を往来した。
 大会は6月10日、ブリュッセルでのベルギー対スウェーデンに始まり、7月2日、ロッテルダムでのフランス対イタリアの決勝で終わった。
 インターネットでの取材申請となったこの大会では、私は、何とか申請して承認を受けながら、それを確認するのが遅れて現地に入ったのは6月24日、アムステルダムでの準々決勝、ポルトガル(A組1位)対トルコ(B組2位)から、10日ばかりの短いEUROとなった。

00_2 00_6
左:アレーナの内部。屋根の構造の美しさが新しさを強調している
右:アヤックス・アムステルダムの本拠地、アレーナ。スタジアムの周囲に商業施設があって、ひとつの街の様相


 98年のワールドカップで優勝したフランスをはじめ、イタリア、スペイン、オランダ。ポルトガル、ドイツ、イングランドと、欧州の常連が顔をそろえたが、ドイツは低迷期に入っていて、イングランドもまた不振、1次リーグA組でポルトガル(3勝)ルーマニア(1勝1分け1敗)に上位を奪われ、イングランドは3位(1勝2敗)ドイツ(1分け2敗)はこの組の最下位で大会を去った。
 準決勝はフランス(2-1)ポルトガル、イタリア(0-0、PK3-1)オランダで、決勝はフランスが90分間1-1の後の延長(ゴールデンゴール制を採用)で103分のトレゼゲのゴールで制し、ワールドチャンピオンとEUROの2冠となった。

 短い滞在の中で、アムステルダムのアヤックスFCのホームのモダンな屋根つきスタジアム「ドーム」に驚き、古都ブルージェではチョコレートの名店ゴディバを訪ねた。
 ロッテルダムの決勝では、古くから馴染みの欧州の記者たちの懐旧談(かいきゅうだん)をかわし、フランスの決勝ゴールのときは隣席の大記者、ブライアン・グランヴィルが「カンナバーロがヘディングのミスをした。彼ももう衰えたのかナ」と囁(ささや)いたのを思い出す。
 そのカンナバーロは2006年のワールドカップでジダンのフランスを制して優勝した。ただし今度の大会では彼の負傷による不参加と、ピルロの欠場が準々決勝止まりの理由となった。


00_3 00_4
左:EURO2000 準決勝、フランス対ポルトガルのプログラム(6月28 日、ブリュッセル)
右:EURO96 決勝、チェコ対ドイツのプログラム(6月30 日、ウェンブリー)


プロのスリの腕前とストライカー

 この大会で私は生まれて初めて旅行中に荷物を盗まれるという苦い経験をした。
 アムステルダムの中央駅で列車に乗り込んで、日本の記者仲間と顔を合わせ、同じ車輌で荷物を網棚に上げるなどしていたときだった。いつも一人旅で油断はしないのだが、道連れが出来てホッとしたのかも知れない。複数のスリ仲間のようで、一人が私たちに英語で話しかけ、そちらに注意が向いた間に、私の足元、つまり話し手の方へ顔を向けて「視野の外」となった手さげバッグを持っていった。
 5秒ほど遅れて気がついて列車を降りてプラットホームを探したが、彼らの影はなかった。その小カバンの中に航空券と小型のカメラ、そして手帳が入っていた。航空券は再発行してもらい、カメラはまた買えるけれど、手帳にはサッカー史の年代順の書き込みや旅行スケジュールと、そのメモも記入されていた。まことに惜しいことをしてしまった。
 次の日、ロッテルダムの駅の警察に出向いて被害届けを出し、初めての経験だと苦笑いしたが、振り返ってみれば盗みの専門家たちの手口の鮮やかさに改めて感心する。一人に話しかけられて、こちらの気が荷物から離れ、さらに視線も相手の顔に向いてしまう。その一瞬、私の視野の外にあるバッグを、さり気なくさっと持っていった。そのタイミングの妙。
 ストライカーの記事の中にも「相手から消える」という言葉を使う私だが、これは相手の視野からストライカーがいったん消えてボールが来たときに飛び込むのがそれ―――泥棒くんたちがディフェンダーである私の視野から一瞬荷物が消えたときに盗ったところがすごい――相手の虚をつくという攻めのコツを彼らから学ぶことになるとは――EURO2000のとんだ収穫の一つだった。


(月刊サッカー通信BB版 2008年7月号掲載)

固定リンク | ヨーロッパ選手権 | コメント (0) | トラックバック (0)


« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »