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2008年7月

神戸FCの記念誌や釜本の写真集を編集してくれた編集デザインの名人、中尾善昭さん

2008/07/26(土)

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 サッカー界の大御所・長沼健さんの訃報から少しあと、やはり昭和シングル世代の年来の友人・中尾善昭さんの悲しい知らせが届いた(2008年6月28日没)。優秀な整理記者で、早いうちに新聞社を辞めて自ら会社を起こし、出版物の編集にいい仕事を重ねていた。阪神大震災で神戸の自宅も仕事場も損傷を受けたが、大切な機械類は無傷で、市の広報活動なども引き受けていた。

 私とのつきあいは1953年(昭和28年)サンケイスポーツ(大阪)創刊時に、神戸の神港新聞から彼が加わってくれたとき以来。半世紀を越える。昭和2年、奈良県丹波市の生まれで、旧制大阪薬学専門学校を卒業したが、文学好きで、新聞社へ入ったらしい。
 同じときに神港新聞系のオールスポーツ(のちに大阪の日刊スポーツとなる)から加わった北村惣一さんが、スポーツ紙の1面を明快な切り口と大胆な整理で作り上げたのに対して、中尾さんはデリケートな心くばりで特集面などに才能を発揮した。私たち“書き屋”にとって、2人のタイプの違う優れた整理記者の手で原稿に見出しがつき、見事に割りつけされるのはまことに心強いものだった。

 独立心の強い中尾さんは定年より前の1978年に新聞社を辞め、有限会社アーク(プロダクション78)を設立、月刊タイガースやロードランナーズ、広報神戸などのいい仕事を重ねた。あの95年の阪神淡路大震災のときも、損壊の自宅、仕事場のなかで無傷だった機械を駆使して市民への広報サービスのチラシを作り、情報伝達の力となった。

 文学青年であったから、自らも同人雑誌などに寄稿していたらしい。彼が見せてくれた同人雑誌のひとつに、作家で都知事の石原慎太郎さんがサッカーを題材にした短編があったのを覚えている。1953年に西ドイツからオッフェンハッハ・キッカーズというセミプロの強チームが来たとき、長沼健・平木隆三たち日本学生選抜チームが健闘した0-2の試合の模様を描いた作品だった。その雑誌がいま残っておれば、サッカーの大切な文献のひとつになったのだろうが――。

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 スポーツ好きの中尾さんには、サッカーの仕事をお願いしたこともあった。
 1984年、釜本邦茂選手が引退したとき、大阪の(株)東方出版の依頼で『ストライカーの美学 ―釜本邦茂写真集―』、私が創設から関わった社団法人神戸フットボールクラブの20周年記念誌、セレッソ大阪の前身ヤンマーのサッカー部の歴史『燃えろヤンマー、決めろゴール』などの編集を引き受けていただいた。
 いずれも関西にあって、日本のトップであった選手、クラブ、会社のチームの歴史が、この人の誠実さと優れたセンスで立派な記録として世に残ったことを、私は秘かに誇りにしている。

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 仕事に成功し、悠々自適の生活に入るハズのころに、病がやってきた。その病とつきあいながら生きる証として俳句を求めるようになったようだ。
 昨年にその句集ができたと送ってきてくれた。一読して、“俳句にとりつかれて3年”の成果に驚いたものだ。大正生まれ、戦中派の私には日本的なものへの憧れがあり、俳句はそのひとつだが、この句集にも“言葉”に取り組んできた新聞社時代以来の丹念さが見えて感嘆した。

 久しぶりに電話をして「すばらしいね」と言ったら、「俳句は未熟だけれど本の装丁も私のデザインですヨ」と言った。読んでくれる人へのサービスと、本そのもののパンチ力に6枚のフォトを句とともに巻頭におき、表紙カバーの縦書きの『冬の草』に冬の日差しの影をあしらったところなどは、まさにプロフェッショナル。自らの句集にこれだけ、いいものを作ろうとする中尾さんの積極的な気持ちには恐れ入った。

 いい仕事をして、いい夫人と家族に恵まれ、音楽を愛し、スポーツを楽しみ、最終に俳句に愉しみを見出した。いい人生だったネ、中尾さん――。

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クラマーを囲む会

2008/07/24(木)

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(左)クラマーを囲む会で。左から成田十次郎、野村六彦、デットマール・クラマー、上野佳昭、川淵三郎
(右)中央デットマール・クラマー。その右、ジュンナム・チョイ(クラマー夫人)。岡野俊一郎、。左へ、成田十次郎、八重樫茂生、川淵三郎


 午後2時から同じホテルの別室で、「デットマール・クラマーを囲む会」が開かれた。愛弟子であり、信頼する仲間であった健さんの「お別れ会」のためにドイツから飛んできたクラマー。メキシコ・オリンピックの銅メダルの選手たち、1960年のデュイスブルグでの合宿に参加して最初にクラマーから手ほどきを受けた日本代表選手たち、そして1969年の第1回FIFAコーチングコースの研修者たちといった彼の教え子が集まった。

 牛木素吉郎、中条一雄といった古い記者も招かれ、また、筋ジストロフィーという難病を抱えながら、日本代表に声援を送り続けた波多江輝子さんも「お別れの会」からひきつづいて、この会に加わって下さった。


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“ひとこと”述べる賀川浩

 川淵三郎・前キャプテンの司会で、クラマーのスピーチや何人かの“ひとこと”があった。
 1960年以来、クラマーと健さんと俊さん、そして川淵キャプテンをはじめとする東京・メキシコを目指した選手たちは、私にとっても、日本サッカーの再興を目指す“若い”同志でもあった。また、加茂周(元・日本砕氷監督)さんをはじめ名古屋の西垣成美さん、広島の大橋謙さんたちの第1回FIFAコーチング・スクールの研修生たちはメキシコ以後の技術指導の先導者だった。

 彼らの語り合いを眺めながら、クラマーという偉大な師を得たことで、彼らは青春とその後の人生に大きなプラスを得たのだと改めて思った。彼らとともに日本サッカーの興隆期を過ごした私も、クラマーによって幸(さいわい)を授かったことを感謝しなければなるまい。

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健さんのお別れ会

2008/07/24(木)

 健(けん)さん――去る6月2日に亡くなった長沼健JFA(日本サッカー協会)最高顧問のお別れ会が、7月18日正午から東京のグランドプリンスホテル赤坂で催された。サッカーの健さん、日本サッカー興隆の最大の功労者の一人であるこの人は、JFAの第8代会長(在任期間:1994-98年)を退いたあとも各種スポーツの重要なポストを引き受けていたから、主催はJFAではなく森喜朗・日本体育協会会長を委員長に、岡野俊一郎(第9代JFA会長)川淵三郎(第10代JFA会長・キャプテン)を副委員長とする「長沼健お別れの会」実行委員会が行なった。

 正面に健さんの写真が飾られたホテル内の会場には、JFA名誉総裁・高円宮妃殿下、ドイツから駆け付けたデットマール・クラマー、IOC委員でスキーの銅メダリスト猪谷千春さんをはじめ700人が出席し、遺影に花を捧げた。

 弔辞は森さんと岡野俊さんの2人。元総理で自らもスポーツマンの体協会長は低いがハリのある、よく通る声で故人の功労を讃え、岡野さんは“健さん”という呼びかけから、その素晴らしい業績と1947年にともに高校生であったときからの長い交流を淡々と語り、友人代表としての別れの言葉を述べた。努めて平静な口調であったが、俊さんが最後のところで声を詰まらせたとき、こちらもこみあげてくるものを押さえきれなかった。

 喪主の長沼晃子さんや、兄さんの長沼博さんにもお目にかかった。私はお悔やみの言葉も出ず、ただただ「淋しくなりました。しかし、川の向こう側にいる諸先輩たちが“健さん、長い間ご苦労さん”と拍手で温かく迎えているだろうと想像しています」としか申し上げられなかった。

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vol3. 母国サッカー界大改革の成果とヨーロッパの一体をかみしめた

2008/07/23(水)

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(左)ウェンブリー・スタジアムでの開会式直前オープニングショー
(右)イングランドの古いクラブの古いスタジアムが、大会の際に立派に改修・新設された。それを賞賛するUEFA のメッセージと各スタジアムの写真

 サッカーの母国イングランドで開催されたEURO96は、大会直前の5月31日に2002年のFIFAワールドカップの日韓共催が決まったこともあって、私にはとても印象の強いヨーロッパ選手権となった。
日本はちょうどバブル経済の頂点から崩壊に向かう時期だったのに対して英国経済は力強く立ち直っていた。そして、イングランドのサッカーもまた、設備の老朽化やフーリガン横行の80年代から大改革をとげていた。

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(左)6月10日、ニューカッスル・ユナイテッドのホーム競技場セント・ジェームズ・パークでのフランス対ルーマニア戦。整列する両チーム
(右)オールド・トラフォードの会場案内板。今はこの当時より、スタジアムが大きくなっている

 あの89年の「ヒルズバラの悲劇」、リバプールのファンが96人も死亡した大事故を調査したテーラー判事の報告書、テーラー・リポートは、「サッカーという最も大衆に愛されているスポーツの観戦という点で、すべてのイングランドの施設は、あまりにも貧弱で、安全性に欠け、快適性からは程遠い。この状態を根本的に解決しなければ、フーリガニズムを排斥し、市民がサッカーを安心して楽しむことは出来ない」として、フットボール・プール(サッカーくじ)の税金の一部をスタジアムの改修・新設にあてることにし、またフーリガン対策にも力を入れた。大会の会場となったアストン・ビラのビラパーク(バーミンガム市)リーズ・ユナイテッドのエランド・ロード(リーズ市)ニューカッスル・ユナイテッドのセント・ジェームズパーク(ニューカッスル市)日本でも超有名なマンチェスター・ユナイテッドのオールド・トラフォード、そしてリバプールのアンフィールド、前記シェフィールドのヒルズバラ、ノッティンガム・フォレストのシティ・グラウンド(ノッティンガム市)、さらに聖地ウェンブリー競技場といった8会場は美しく便利に改装されていた。
 リバプールのホーム、アンフィールドもゴール後方の立見席(コップ)が取り壊され、全てがイス席となっていた。


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(左)メガショップの中は欲しいものがいっぱい。マーク入りの子供用ベッドもあった
(右)マンチェスター・ユナイテッドのホーム、オールド・トラフォードにある記念品販売のメガショップで列を作る観客。お巡りさんも出動

 そうしたスタジアムの改良とともに、ベイ・テレビのB・スカイ・Bによるプレミアリーグの放映権が各クラブに大きな収入をもたらし、その後のイングランド・サッカーの活況(かっきょう)となるのだが、その重要な時期に“本家”を訪れることができたのは、とても有難いチャンスだった。
 そして、それまでの参加8チームから16チームに拡大した大会は、まことにヨーロッパの祭りにふさわしく華やかで、レベルが高く、しかも、激しい中にプレーヤーの節度があって随所にヨーロッパの一体感があり、サッカーの国際試合は現在の地球での最高のエンターテイメントという私の持論を改めてかみしめることができた。
 優勝したのは結局ドイツだったが、彼らが翌日のタイムス紙に全面広告を掲載し、イレブンのフォトとともに快適で立派なスタジアムでプレーできたことを心から感謝するとのお礼の言葉を残した。


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サッカーの母国の聖地ウェンブリー・スタジアムは、この大会のあと大改修工事に入る


(月刊サッカー通信BB版 2008年6月 第2号掲載)

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vol.2 回想ヨーロッパ選手権

2008/07/20(日)

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記者仲間と。左は筆者、中央は大住良之


EURO84 デアバル辞任とシュスター

 EURO84――欧州選手権フランス大会が開催された1984年6月は、第二次大戦の終結への大きなポイントとなった連合軍のノルマンディー上陸の40周年だった。その記念式典に参加するために、かつての軍人とその家族の多くがアメリカから訪れていた。 この年私は10年続けたスポーツ紙の編集局長を退任し、新しい企画会社の社長となった。その会社の企画の一つとして釜本邦茂の引退試合と、芦屋でのロードレース開催を夏と秋に控えていたが、周囲の好意のおかげで、フランスに出向くことが出来た。
 年齢もまだ若く60歳だったから、フランス語不得手というハンデにも関わらず6月11日から7月1日までの大会は楽しいものだった。


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EURO 92のポスター

 西ドイツ代表の調子が上がらず、1次リーグで敗退し、その責任を取ってユップ・デアバル監督が解任された。80年EURO優勝、82年W杯準優勝の実績を上げながら、EUROの1次リーグ敗退の“不成績”で追われる強国の監督の厳しさを見た。80年大会で注目されたベルント・シュスターが、82年でもこの大会でも代表に加わらなかったのがデアバルさんの不運だったが……シュスターはスペインリーグで名を上げたが、代表として国際試合で活躍すればマラドーナと並んで時代の大スターになっていたハズなのに……そのデアバルさんが亡くなり、ベルント・シュスターは今年レアル・マドリードの優勝監督となっている。時の歩みというべきか――。


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EURO 92のプレス用プログラム


EURO92とベルリン・オリンピック

 ミシェル・イダルゴ監督とミシェル・プラティニ、2人のミシェルによるフランス代表の黄金期は、14年後の98年フランス・ワールドカップでの優勝への大きなステップとなった。98年はアフリカ系プレーヤーの大幅な増加という変化はあったが、フランス流の“攻め”のフットボールは変わることはなかった。
 88年の西ドイツ大会は、企画会社の大きな仕事のために取材に行けなかった。マルコ・ファンバステンのあの歴史に残る決勝ボレーシュートをナマで見なかったのは残念――。


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記者席での筆者。手前は後藤健生氏

 92年の開催国スウェーデンは日本に縁の深い国。このときの“ヨーロッパ選手権の旅”(サッカーマガジン連載)を“わがセンチメンタルジャーニー”と名付けたのはベルリン・オリンピック(1936年)でスウェーデンを破った、日本代表の私より少し年長の先輩たちを偲ぶ気持ちからだった。
 ストックホルムの図書館で当時のスウェーデンの新聞を眺め、その敗戦の驚きぶりを見た。飛行機の隣席の若い人、プレスの話、そしてハンス・ヨハンソンUEFA会長。多くのスウェーデン人が世代を超えてこのベルリンの敗戦を記憶していた。日本では知る人が少ないのに――。UEFAの総会取材でヨハンソン会長に1936年のことも調べていると言ったら会長さんは「あの時は大変だった」と手で顔をおおってみせた。
 日本サッカーの歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになった。

(月刊サッカー通信BB版 2008年6月 第1号掲載)

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vol.1 回想ヨーロッパ選手権

2008/07/17(木)

※先のユーロ(欧州選手権)2008に際し、「月刊サッカー通信BB版」に連載したユーロの回想記です。
 写真とともにお楽しみください。

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80年大会優勝西ドイツ代表チーム。後列(立っている)左から4人目がルンメニゲ(現・バイエルン・ミュンヘン会長)、前列左から2人目はシュスター(現・レアル・マドリード監督)

 今年夏、オーストリアとスイスの2ヶ国の8会場でヨーロッパ選手権(EURO 2008)が開催される。サッカーの“大国”でもなく“強国”でもない両国だが、ヨーロッパの中央部にある景色の美しいこの地での大会を想像するだけでも楽しい思いがする。

 初めてヨーロッパ選手権を取材したのは1980年のイタリア大会だった。
 1960年にはじまった4年に一度のナショナルチームによる欧州ナンバーワンを目指す争いは、ホーム・アンド・アウェーで勝ち残った4チームが1ヶ所に集まっていたのを、この年から地域予選を勝ち抜いた7チームと開催国がイタリアに、集結することになった。
 すでに74年(西ドイツ)78年(アルゼンチン)と2度のワールドカップを経験していたが、欧州の8ヶ国のナショナルチームをまとめて見られるのは何より――と出かけたのだった。
 以来84年フランス大会、92年スウェーデン大会、96年イングランド大会、さらには2000年のベルギー・オランダ共催の大会にも顔を出す仕儀となる。88年の西ドイツ大会はちょうど、私の企画会社の大きな仕事と重なって動きが取れずに見送った。そのため、マルコ・ファンバステン(オランダ)の歴史に残る決勝ボレーシュートを見損なったが・・・・・・。


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EURO80のプレス用プログラム。英、仏、独、伊の4ヶ国語で紹介。表紙に大会マスコットのピノキオと大会のシンボルマークが付けられている

イタリア大会と八百長事件

 80年大会は、当時のイタリアは経済も低調で、日本への国際電話が通じるのにとても時間がかかった。大会直前に明らかになった八百長事件で代表ストライカー、パオロ・ロッシにも疑いがかかって出場停止処分を受けた。開催国としてはまことに不首尾だった。私には新しい西ドイツ代表の監督が、かつて釜本邦茂を指導したユップ・デアバルだったから、いい取材もできた。

 フランス大会は運営もしっかりしていたし、開催国のチームには将軍ミシェル・プラティニをはじめ、アラン・ジレス、ジャン・ティガナたちがいて、実力を発揮して優勝した。
 ドラガン・ストイコビッチ(ユーゴ)ミカエル・ラウドルップ(デンマーク)エンゾー・シーフォ(ベルギー)などの若い俊才もいた。


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ローマのレストランで取材の仲間たちと乾杯(中央、筆者)

BBCラジオで…

 80年、84年ともに日本からの取材は少なく、フリーランスのカメラマン数人と、サッカーマガジンやイレブンの記者だけだったか――。
 ワールドカップであれば(そのころの日本は本大会には出場していないが)日本にも関係のある大会、ヨーロッパ選手権となると、アジア連盟所属の日本とは直接関係はない。そんなところから、「何故、日本からわざわざ取材に来たのか」とBBC(英国国営放送)のラジオにつかまって取材をされる羽目になった。
「ヨーロッパではサッカーが社会に根付いている。その各国代表が戦う大会は、ある意味からゆけば、ヨーロッパ社会、ヨーロッパの文化をそのままうつしているように私からは見える。」「この大会では、フランス代表が攻撃的なのが面白い。彼らがこのまま勝ち進めば、守備的傾向の強いヨーロッパで大きな刺激となるだろう。だから私はフランスに勝って欲しいと思っている。」などと答えたものだが……果たしてどこまで通じたかどうか……。


イタリア人の心を知るスペルガの丘

 ワールドカップに比べると試合数が少なく、取材日程にも余裕があったから、試合以外にも、見るべきものを見た。トリノのスペルガの丘へ車を走らせ、あのFCトリノの飛行機事故(1949年5月4日)の現場を訪れた。当時のイタリア最強のチームが激突した山腹につくられた碑の前に立ち、その供花がたえることのないと聞いた。犠牲になった選手ひとりひとりの名を読んで子どもに語りかけるおじいさんの姿を目にしながら、イタリア人のいうシンパチコ(相手を思いやる心)とこの国の人とサッカーとの結びつきの強さを知った。

 ブライアン・グランヴィルという英国の大記者との付き合いも“欧州”からだった。イタリア人と同じように早口でイタリア語をしゃべる、背も高くハナも高い彼を知った。
 マンチェスター・ユナイテッドのかつての名選手、デニス・ロウにローマで日本製の手鞠(てまり)を進呈した。彼は“ネバー・シーン(初めて見た)”をくりかえし喜んでくれた。ワールドカップなどでボビー・チャールトンに会うと、彼の方から「デニス・ロウは元気ですヨ」とか「彼の娘がユナイテッドのオフィスにいる」とか声をかけてくれるのはデニス・ロウがボビーに伝えたからかも知れない。


(月刊サッカー通信BB版 5月号掲載)

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湘南と都知事の石原慎太郎さん

2008/07/03(木)

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 サッカーマガジンの表紙に“日本代表よ EUROに学べ”とあった。
 サッカーでも勉強好き、学ぶことの大好きな人が多いからなぁとページをめくると、『サッカーの素』というコーナーがあって、テーマは“湘南どうよ”だった。ここは新聞の投稿欄に似ているが、私のようなトシヨリには若いファンの“声”が聞けるのが楽しいところ。

 その湘南で誰もがまず中田英寿(元選手)を思い出すのだろうが、私はもっと古い時代――戦前・戦中の旧制湘南中学がサッカーが強かった時期があったのを思い出す。
 全国大会に出てきた彼らのユニフォームは白いワイシャツ風で、走る時にそれが風をはらんで戦国時代の騎馬武者の母衣(ほろ)のように見えて、カッコ良かった。

 東京都知事で作家の石原慎太郎さんは、大戦後に学制改革で湘南高校となってからの卒業生。ご自身も高校・大学(一橋)でサッカー選手だった。
 当然サッカーには早くから関心を持っていて、あの『太陽の季節』より前に、私はある同人雑誌で石原さんのサッカーを題材にした短編を読んだことを覚えている。日本サッカーの今日の発展を導いた長沼健さんや岡野俊一郎さんと同世代で、6月2日に亡くなった健さんの著書『サッカーに賭けた青春』(講談社)の表紙カバーにも石原さんは推薦文を記している。
 この本が出版されたのは1969年3月で、健さんが39歳、石原さんは37歳の時。中田英寿の生まれる8年前のことだった。

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