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ブラジル渡航百周年とネルソン吉村

2008/06/18(水)

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【写真説明】
左:ブラジル流の、ボールを浮かして相手のタックルを避ける吉村のプレーは、その当時にはとても珍しいものだった  (日本サッカーリーグ 対三菱重工 長居競技場で)
中:アマチュアであった吉村は、ブラジル・ヤンマーから日本の本社への研修生という名目で来日。工場での実習も仕事のひとつだった。
右:尼崎の三花寮で日本語の勉強をする吉村。ベッドに「こくご」の教科書を置いていた

 15日、長居で吉村大志郎(故人=1947-2003)夫人・多恵子さんに声をかけられた。いまテレビでも特別番組が組まれているが、今年は日本からのブラジル移民渡航百周年にあたる。
 その移住者を多く送った熊本から熊本日報の東寛明記者がやって来て、熊本出身の移住者の家系でブラジル流サッカーを最初に日本に持ち込んだネルソン吉村(大志郎)のことを取材に大阪へ来ていると紹介してくれた。

「吉村のことならまずガマちゃん(釜本邦茂さん)ですが、賀川さんからも話を聞いてほしい」というのが夫人のアドバイス。東記者には「いつでも電話して下さい」と答えておいたが……。
 尼崎のヤンマーの三花寮の寮長であった潮家の長女・多恵子さんとは、私も吉村来日(1967年)以前からの知り合い。天下の大ストライカー・JFA釜本副会長も、彼女にとっては昔ながらの「ガマちゃん」らしい。

 それはともかく、ブラジルへの移民は、私の少年時代の神戸の熊内(くもち)の我が家の隣に移民宿所があったからよく覚えている。小学生の時に、クラスで日の丸を持って移住者の出航を見送りに行ったこともある。

「ゆけゆけ同胞
  海こえて 遠く
   南米ブラジルへ

 御国(みくに)の光
  輝ける
   今日の船出の勇ましき」(だったか――)と歌ったものだ。

 そのブラジルから67年に吉村が来た。そのあとにセルジオ越後たちが来た。
 私は78年ワールドカップ(アルゼンチン)のときにブラジルに立ち寄り、ちょうど移住70周年の祝典の話も聞いた。
 いまのJリーグでは、ブラジルのプレーヤーの重要性は誰もが知っている。
 15日の長居には、ポルトガル語が達者でブラジル通の記者・下薗昌記さんも来ていた。ネルソン吉村を懐かしみ、ブラジルと日本のサッカーの交流の40年をあらためて思った。

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