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子年の春に思うオリンピック ~年賀にかえて(1)~

2008/01/09(水)

 年末に“書きもの用”の老眼鏡を知人の車に置き忘れ、大幅に遅れた年賀状にかえて当たり年のご挨拶を。

 2008年、平成20年、あけましておめでとうとざいます。
 大正13年(1924年)子(ね)年生まれの私は、ことしが当たり年です。JFA(日本サッカー協会)の川淵三郎キャプテンは昭和11年(1936年)生まれで、私より一回り若い子年のハズ。
 十二支のはじめにされる子年は、オリンピックの開催年にあたります。

 私の生まれた1924年は、パリ・オリンピックの年。あの感動的な映画『炎のランナー』(1981年作)――男子100m優勝のハロルド・アブラハムス と400m優勝のエリック・リデルの二人の英国人選手を描いた――の舞台ですが、サッカー人には南米のウルグアイが初優勝した記憶に残る大会でもありま す。

 その12年前の1912年(明治45年)はストックホルムでの第5回大会。
 オリンピックがスポーツ・イベントとして立派に運営されるようになったときで、私たち日本のスポーツ人には、初めて選手を送った記念すべき大会。嘉納治五郎団長と三島彌彦、金栗四三の両選手の入場行進の写真は、日本のオリンピックの第1ページを飾るものです。

 1936年、川淵キャプテンの生まれた昭和11年はベルリン・オリンピック。日本サッカーにとって、初参加で強豪スウェーデンを破って“ベルリンの奇 跡”と世界を驚かせた大会でもあります。もちろん、この大会での陸上競技三段跳びや棒高跳び、あるいは水泳での日本選手の活躍は、当時の日本人を元気づけ たものでした。

 そうそう、最近はすっかり冬の花形となった女子のフィギア・スケートは、36年の第4回冬季オリンピック(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)に、日本か ら私と同世代の稲田悦子さん(1924年2月8日~2003年7月8日)が初参加しました。当時12歳の少女スケーターのオリンピック出場は、国内に大き な反響を呼び、大阪、神戸、東京などのアイス・リンクはずいぶん賑わいました。

 次の子年のオリンピックは、大戦が終わった3年後のロンドン大会(1948年)。日本はまだ戦争を始めた国というので(ドイツとともに)参加できず、水 泳の古橋広之進は400、1500の自由形世界ナンバーワンの力を桧舞台で示すことはできなかったのです。サッカーは大戦中に中立国で戦火を免れたス ウェーデンが優勝。その主力3人がのちにACミラン(イタリア)で活躍したのは有名な話です。

 その12年後のローマ・オリンピックは、日本サッカーは予選で韓国に敗れたのですが、そのため4年後の東京オリンピック開催を目標にし、デットマール・クラマーを招いて立て直しを図ることになりました。
 それが、64年東京、68年メキシコへの日本代表の成果につながったことは皆さんご存知のとおりです。

 72年のミュンヘン大会は、日本サッカーにチャンスはなく、アラブ・ゲリラが大会中にイスラエル選手を拉致しようとして銃撃戦となった痛ましい事件と、死者を出しながら、毅然として大会を続けたスポーツ人の強さに心打たれたものです。

 84年ロサンゼルス大会は、大幅な商業主義の導入で「開催国に赤字を残す大会から利益を生むイベント」にオリンピックが変貌しました。
 88年ソウル、92年バルセロナの両大会を経てオリンピックはプロフェッショナル参加の“世界選手権”の総合大会の形となる中で、サッカーは「世界選手 権はFIFAワールドカップで、オリンピックはU-23(23歳以下)の世界大会。ただし、年齢枠外3人を認める」という形をとりました。

 96年アトランタ大会には、日本代表が28年ぶりに参加し、1次リーグでブラジルを1-0で破り、ファインプレーの連続でゴールを守った川口能活は、各国コーチに絶賛されました。

 ことし2008年の北京大会は、72年前の初参加から8回目の参加。アトランタ以来、シドニー、アテネと4回連続しての本大会出場です。
 アジア予選を突破した若い力が、これからの7ヶ月でさらに技を練り、体力をつけて、42年前の銅メダル以上を狙ってほしいものです。

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