年末・年始を皆さんいかがお過ごしでしたか?
正月も10日になって会社の仕事も、学校の授業も、平常のペースに戻られたことでしょう。
昨日の日記やサッカーマガジンでの連載(『我が心のゴールハンター ~賀川浩のストライカーの記憶~』)の中でも申し上げたとおり、2008年は十二支でゆくと子(ね)にあたり、1924年生まれの私は年男(としおとこ)となります。
ドクターの日野原重明先生のように90歳の後半になってもなお現役で患者さんに接しながら、ぎっしり詰まった講演会の仕事も果たし、かつ本も書くといった人生の大先輩から見れば、10年も若い私などはまだまだ駆け出しというところでしょう。
といっても、やはり歳(とし)による衰えはあります。
昨年の肉体の変化の第一はまず口の中で、上の方が入れ歯になったこと。そのために、外出するのには(1)メガネ(2)携帯電話(3)財布・カード入れとともに(4)入れ歯の確認が必要となりました。
そして12月末にはじまった腰痛を2008年へ持ち越すことに――。
歩くと“しびれ”を伴うので、年末の28日に病院でレントゲンを撮ってもらうと、単なる筋肉痛でなく、「脊椎変性スベリ性による 腰部脊柱管
狭窄症(せきちゅうかん
きょうさくしょう)」。つまり、腰椎がずれていて、そのために脊柱管が狭くなり、血流がおかしくなって神経にも及ぶ、という診断でした。
1月4日のMRI検査の結果は近日中に教えてもらうことになります。
もらった内服薬を一日休んでみたら痛みが出てきたので、これからは食後の薬の服用を忘れないことという一項目が増え、外出にも薬持参。まあ、そんなことはあっても、まだ自分の足で歩いているし、自分の手で原稿も書けるのだから、まずは恵まれている方でしょう。
ただし、忘れ物は増えています。年末には、メガネ、それも“書きもの専用”を知人の車の中に落としたのを気付かず、ために、年賀状を書くことができぬままに年を越してしまいました。
天皇杯はテレビで、高校サッカーもテレビ観戦。どちらもかつては自分も出場した頃に思いを巡らせながら、長い間、取材をし、書き続けてきた大会ですが、ことしは“腰”のこともあって在宅正月となりました。
■小笠原満男、本山雅志の充実
その天皇杯で鹿島アントラーズが勝ってJ1との2冠を果たし、久しぶりに“強い鹿島”を演じました。
小笠原満男という、日本代表でも活躍したチームの中心選手がイタリアへ移り――彼自身は、それほどセリエAで働いたかどうかはともかく――そこで苦しん
だり考えたりしたことが、帰ってからのプレーにも表れたこと。そして何より、彼のような大きな柱が抜けたあとを皆で埋めようと、本山雅志をはじめとする仲
間たちが自分の力を伸ばしたこと。その留守部隊の進歩と小笠原の帰還が、リーグ後半の勢いになったようです。
まさにサッカーはAnything Can Happen。2006年のワールドカップの不成績でいささか評判の落ちたジーコでしたが、鹿島のカムバックと、ひとりひとりのプレーヤーの個人力を見て、このクラブの創設に関わった彼の功績を再び思い出すことになりました。
■広島のJ2落ち。J2もまたレベルアップ
その鹿島と天皇杯の決勝を争ったサンフレッチェ広島が、2008年はJ2です。京都サンガとの12月の入替え戦は、第1戦で2点を取られたのが致命傷になった感じ。
1993年にJがスタートしたとき、多くのスポーツ記者仲間は、プロ野球でさえセ・パ6チームずつなのに、サッカーのJはチーム数が多すぎはしないか、
と言ったものです。J2が生まれたときもそういう声を聞きましたが、いまJ2の各試合も面白くなり、レベルも高くなっています。
釜本邦茂選手のいたヤンマー時代からの馴染みのセレッソ大阪が2007年はJ2(ことしも…)だったので試合をナマで見る機会も増え、おかげで日本のレベルアップの厚さを感じることができるようになってきました。
日本のトップの一つである浦和レッズは、アジアチャンピオンズリーグで勝ち、FIFAクラブワールドカップにアジア代表として出場して、セパハン(イラン)を破り、アフリカ・チャンピオンのエトワール・サヘル(チュニジア)を倒して3位となりました。
準決勝の相手ACミランとはまだ差があるにしても、日本サッカーにとっても、日本スポーツ界全体にとっても、そしてまたスポーツをバックアップする日本の企業にとっても、大きな一歩でした。
このクラブワールドカップについては、遅ればせながら、適当なころあいに観戦記を書かせてもらいますが、まずは2008年を迎えての近況お知らせと皆さんへのご挨拶――。
ことしも、いい年でありますように。
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