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2008年1月

初春はメガネを忘れてニガ笑い ~年賀にかえて(2)~

2008/01/10(木)

 年末・年始を皆さんいかがお過ごしでしたか?
 正月も10日になって会社の仕事も、学校の授業も、平常のペースに戻られたことでしょう。
 昨日の日記やサッカーマガジンでの連載(『我が心のゴールハンター ~賀川浩のストライカーの記憶~』)の中でも申し上げたとおり、2008年は十二支でゆくと子(ね)にあたり、1924年生まれの私は年男(としおとこ)となります。

 ドクターの日野原重明先生のように90歳の後半になってもなお現役で患者さんに接しながら、ぎっしり詰まった講演会の仕事も果たし、かつ本も書くといった人生の大先輩から見れば、10年も若い私などはまだまだ駆け出しというところでしょう。

 といっても、やはり歳(とし)による衰えはあります。
 昨年の肉体の変化の第一はまず口の中で、上の方が入れ歯になったこと。そのために、外出するのには(1)メガネ(2)携帯電話(3)財布・カード入れとともに(4)入れ歯の確認が必要となりました。

 そして12月末にはじまった腰痛を2008年へ持ち越すことに――。
 歩くと“しびれ”を伴うので、年末の28日に病院でレントゲンを撮ってもらうと、単なる筋肉痛でなく、「脊椎変性スベリ性による 腰部脊柱管 狭窄症(せきちゅうかん きょうさくしょう)」。つまり、腰椎がずれていて、そのために脊柱管が狭くなり、血流がおかしくなって神経にも及ぶ、という診断でした。
 1月4日のMRI検査の結果は近日中に教えてもらうことになります。
 もらった内服薬を一日休んでみたら痛みが出てきたので、これからは食後の薬の服用を忘れないことという一項目が増え、外出にも薬持参。まあ、そんなことはあっても、まだ自分の足で歩いているし、自分の手で原稿も書けるのだから、まずは恵まれている方でしょう。

 ただし、忘れ物は増えています。年末には、メガネ、それも“書きもの専用”を知人の車の中に落としたのを気付かず、ために、年賀状を書くことができぬままに年を越してしまいました。

 天皇杯はテレビで、高校サッカーもテレビ観戦。どちらもかつては自分も出場した頃に思いを巡らせながら、長い間、取材をし、書き続けてきた大会ですが、ことしは“腰”のこともあって在宅正月となりました。

■小笠原満男、本山雅志の充実

 その天皇杯で鹿島アントラーズが勝ってJ1との2冠を果たし、久しぶりに“強い鹿島”を演じました。
 小笠原満男という、日本代表でも活躍したチームの中心選手がイタリアへ移り――彼自身は、それほどセリエAで働いたかどうかはともかく――そこで苦しん だり考えたりしたことが、帰ってからのプレーにも表れたこと。そして何より、彼のような大きな柱が抜けたあとを皆で埋めようと、本山雅志をはじめとする仲 間たちが自分の力を伸ばしたこと。その留守部隊の進歩と小笠原の帰還が、リーグ後半の勢いになったようです。

 まさにサッカーはAnything Can Happen。2006年のワールドカップの不成績でいささか評判の落ちたジーコでしたが、鹿島のカムバックと、ひとりひとりのプレーヤーの個人力を見て、このクラブの創設に関わった彼の功績を再び思い出すことになりました。

■広島のJ2落ち。J2もまたレベルアップ

 その鹿島と天皇杯の決勝を争ったサンフレッチェ広島が、2008年はJ2です。京都サンガとの12月の入替え戦は、第1戦で2点を取られたのが致命傷になった感じ。

 1993年にJがスタートしたとき、多くのスポーツ記者仲間は、プロ野球でさえセ・パ6チームずつなのに、サッカーのJはチーム数が多すぎはしないか、 と言ったものです。J2が生まれたときもそういう声を聞きましたが、いまJ2の各試合も面白くなり、レベルも高くなっています。
 釜本邦茂選手のいたヤンマー時代からの馴染みのセレッソ大阪が2007年はJ2(ことしも…)だったので試合をナマで見る機会も増え、おかげで日本のレベルアップの厚さを感じることができるようになってきました。

 日本のトップの一つである浦和レッズは、アジアチャンピオンズリーグで勝ち、FIFAクラブワールドカップにアジア代表として出場して、セパハン(イラン)を破り、アフリカ・チャンピオンのエトワール・サヘル(チュニジア)を倒して3位となりました。
 準決勝の相手ACミランとはまだ差があるにしても、日本サッカーにとっても、日本スポーツ界全体にとっても、そしてまたスポーツをバックアップする日本の企業にとっても、大きな一歩でした。

 このクラブワールドカップについては、遅ればせながら、適当なころあいに観戦記を書かせてもらいますが、まずは2008年を迎えての近況お知らせと皆さんへのご挨拶――。

 ことしも、いい年でありますように。

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子年の春に思うオリンピック ~年賀にかえて(1)~

2008/01/09(水)

 年末に“書きもの用”の老眼鏡を知人の車に置き忘れ、大幅に遅れた年賀状にかえて当たり年のご挨拶を。

 2008年、平成20年、あけましておめでとうとざいます。
 大正13年(1924年)子(ね)年生まれの私は、ことしが当たり年です。JFA(日本サッカー協会)の川淵三郎キャプテンは昭和11年(1936年)生まれで、私より一回り若い子年のハズ。
 十二支のはじめにされる子年は、オリンピックの開催年にあたります。

 私の生まれた1924年は、パリ・オリンピックの年。あの感動的な映画『炎のランナー』(1981年作)――男子100m優勝のハロルド・アブラハムス と400m優勝のエリック・リデルの二人の英国人選手を描いた――の舞台ですが、サッカー人には南米のウルグアイが初優勝した記憶に残る大会でもありま す。

 その12年前の1912年(明治45年)はストックホルムでの第5回大会。
 オリンピックがスポーツ・イベントとして立派に運営されるようになったときで、私たち日本のスポーツ人には、初めて選手を送った記念すべき大会。嘉納治五郎団長と三島彌彦、金栗四三の両選手の入場行進の写真は、日本のオリンピックの第1ページを飾るものです。

 1936年、川淵キャプテンの生まれた昭和11年はベルリン・オリンピック。日本サッカーにとって、初参加で強豪スウェーデンを破って“ベルリンの奇 跡”と世界を驚かせた大会でもあります。もちろん、この大会での陸上競技三段跳びや棒高跳び、あるいは水泳での日本選手の活躍は、当時の日本人を元気づけ たものでした。

 そうそう、最近はすっかり冬の花形となった女子のフィギア・スケートは、36年の第4回冬季オリンピック(ガルミッシュ・パルテンキルヘン)に、日本か ら私と同世代の稲田悦子さん(1924年2月8日~2003年7月8日)が初参加しました。当時12歳の少女スケーターのオリンピック出場は、国内に大き な反響を呼び、大阪、神戸、東京などのアイス・リンクはずいぶん賑わいました。

 次の子年のオリンピックは、大戦が終わった3年後のロンドン大会(1948年)。日本はまだ戦争を始めた国というので(ドイツとともに)参加できず、水 泳の古橋広之進は400、1500の自由形世界ナンバーワンの力を桧舞台で示すことはできなかったのです。サッカーは大戦中に中立国で戦火を免れたス ウェーデンが優勝。その主力3人がのちにACミラン(イタリア)で活躍したのは有名な話です。

 その12年後のローマ・オリンピックは、日本サッカーは予選で韓国に敗れたのですが、そのため4年後の東京オリンピック開催を目標にし、デットマール・クラマーを招いて立て直しを図ることになりました。
 それが、64年東京、68年メキシコへの日本代表の成果につながったことは皆さんご存知のとおりです。

 72年のミュンヘン大会は、日本サッカーにチャンスはなく、アラブ・ゲリラが大会中にイスラエル選手を拉致しようとして銃撃戦となった痛ましい事件と、死者を出しながら、毅然として大会を続けたスポーツ人の強さに心打たれたものです。

 84年ロサンゼルス大会は、大幅な商業主義の導入で「開催国に赤字を残す大会から利益を生むイベント」にオリンピックが変貌しました。
 88年ソウル、92年バルセロナの両大会を経てオリンピックはプロフェッショナル参加の“世界選手権”の総合大会の形となる中で、サッカーは「世界選手 権はFIFAワールドカップで、オリンピックはU-23(23歳以下)の世界大会。ただし、年齢枠外3人を認める」という形をとりました。

 96年アトランタ大会には、日本代表が28年ぶりに参加し、1次リーグでブラジルを1-0で破り、ファインプレーの連続でゴールを守った川口能活は、各国コーチに絶賛されました。

 ことし2008年の北京大会は、72年前の初参加から8回目の参加。アトランタ以来、シドニー、アテネと4回連続しての本大会出場です。
 アジア予選を突破した若い力が、これからの7ヶ月でさらに技を練り、体力をつけて、42年前の銅メダル以上を狙ってほしいものです。

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