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2007年5月

47年来の友人との再会。やはり“鉄人”だったクラマー

2007/05/24(木)

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 5月19、20、21の3日間、福岡へ行ってきました。
 19日に博多の森球技場でJ2のアビスパ福岡対サガン鳥栖の試合があり、アビスパがこの“北九州ダービー”を盛り上げる催しのひとつとして、デットマール・クラマーの講演会を企画したのです。
その出演交渉のやり取りの中で、クラマーから「カガワに会いたい」という話が出て、私も出かけることとなりました。

 彼とは1960年の初来日以来、47年の付き合いで、昨年のワールドカップのときにも彼の自宅を訪れました。また、一昨年の『日本におけるドイツ年』に 際して東京のゲーテインスティテュートの依頼で『日独サッカー交流展』を企画したときも、クラマーに来てもらい、東京で二度、神戸で一度、スピーチをして もらいました。
 もちろん、2002年の日韓ワールドカップで来日したときにも、会っただけでなく、神戸の六甲アイランドでのトークショーに出てもらいました。
 21世紀になってからもこうして何度も会っていますが、何といっても、二人とも82歳ですから、顔を合わせるチャンスがあればできるだけ会っておきたいのが人情です。

 というわけで、19日はアビスパのスタジアムの見事な芝の上でのJ2のダービーを彼と並んで観戦。20日の講演会やパネルディスカッションにも顔を出し、お手伝いもしました。

 アビスパ福岡はセレッソとともに昨年2部に落ち、ことしピエール・リトバルスキーを監督に迎えてJ1復帰を図っています。
 成績は、セレッソよりはいいのですが、19日の試合は前半1-0から後半に2点を失い(60分、69分)1-2で敗れました。
 試合展開としては、セレッソにいた久藤清一と布部陽功が前半は中盤での要(かなめ)としてよく働き、ボールはつながったのですが、深く守る鳥栖のDFを崩すのに苦しみました。
 鳥栖の方は、後半に第2列からの飛び出しが目立ち、後方からの早いロングボールの攻めを前線がしっかり競り合い、よく拾ってチャンスにつなげました。

 面白かったのは、後半始まってしばらくするとクラマーが「鳥栖のロングボールは福岡にとってとても危険だ」と言ったこと。ディフェンダーのポジションや 構え、あるいはマークを見たのでしょうが、結局2-1の逆転となったから、さすがにクラマーの予知能力は――と感心しました。

 20日のスピーチもパネルディスカッションも、ホテル・ニューオータニの収容400人以上の会場は満席。みな熱心に聞いていました。
 レセプションの参加者はその半数くらいでしたが、そのほとんどが「色紙にサインを」と頼むので(主催者が一人一枚に制限)、クラマーは会の間ずーっと、サインを書き続けていました。

 彼のすごいのは、このサイン書きだけでなく、21日から予定されていた由布院温泉での休息を取りやめ、アビスパのジュニアのコーチたちを指導したいと言い出したことです。
 月曜日はアビスパのクラブ全体が休日なので、22日に練習ということになりましたが、82歳の大コーチの指導への情熱にはただ脱帽です。
 彼は24日に福岡-成田経由でドイツへ帰りますが、帰国翌日にはオーストリアでの指導者講習に出席することになっているとか――。
 2000年、中国足球学校で指導している彼に、中国の新聞は“鉄人”という見出しをつけましたが、やはり今度も鉄人でした。

 そうそう。福岡へ出かけたおかげで、久しぶりに佐伯博司(さえき・ひろし)大石信幸(おおいし・のぶゆき)折出成生(おりで・なりお)向山正彦(むこうやま・まさひこ)たち、かつての八幡製鉄(新日鉄)のメンバーにも会えました。みな、クラマーを訪ねてきたのです。

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オシムさんとハンカチ王子を繋ぐもの

2007/05/10(木)

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 イビチャ・オシムの記者会見は、記者側からの質問に切り返す監督の言葉が面白く――と言っても、それが互いに丁々発止(ちょうちょうはっし)と続くわけではないのですが――まぁ、ともかく、これまでの(監督の)プレスインタビューとは雰囲気が違っているようです。
 その、現在は大柄でどっしりと貫禄充分な監督さんの43年前、現役選手だったころのPhotoがあります。

 いまJリーグのマッチコミッショナーを務めている二村昭雄(にむら・てるお)さん所蔵の2枚で、1964年東京オリンピックのときにユーゴスラビア代表だったオシム選手とチームが、大会前に東京・国分寺の新日鉄グラウンドで早大と練習試合を行なったときのもの。
 両チーム全員が集まった写真の中央のノッポがオシム選手。その右隣の小柄なのが二村選手です。
 ゴール前の写真はユーゴの攻撃で、クロスをオシムがヘディングしようとしたところ。その右がやはり、二村選手です。

 二村昭雄さん(1943年5月2日生)は京都出身で、太秦(うずまさ)小学校、蜂ヶ岡中学校、山城高校、早稲田大学でずっと釜本邦茂の一年先輩。彼のゴールの能力を引き出す上手なパッサーでした。
 東洋工業の黄金期の選手として、日本サッカーリーグで活躍し、日本代表でもプレーしています。

 東京オリンピックのときですから、日本代表は合宿中で、この写真の早大メンバーの中には、釜本選手や森孝慈選手は入っていません。
 オシム選手は長身のストライカーとして大会でも注目され、Bグループの対ハンガリー戦(5-6)で2得点。大阪トーナメント(5/6位決定戦)の対日本(6-1)でも2得点しています。

 ついでながら、国分寺の新日鉄グラウンドは現在、早稲田実業のグラウンド。あの“ハンカチ王子”こと 斎藤佑樹くんが練習していたところだそうです。

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38年前の6月に

2007/05/01(火)

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写真左 :バイスバイラー監督(右)のドイツ語のスピーチをシュロッツ・コーチが英語に訳した
写真中央:シュロッツ・コーチの実技指導
写真右 :トップチームのコーチが少年指導も上手にするところが、やはりドイツだと感心した

 1969年といえば、今年2007年から38年前のことになります。この年の6月に西ドイツから、ブンデスリーガの強チーム「ボルシア・メンヘングランドバッハ」が来日して日本代表と4試合を行ないました。

 6月15日の第1戦(国立)は3-1、第2戦(19日・広島)は1-1、第3戦(22日・長居)は2-0、最終戦(24日・国立)は1-0のスコア。日 本代表はこの前年の秋にメキシコオリンピックで銅メダルを獲得していたのですが、エースストライカーの釜本邦茂がこの年の5月に急性肝炎で入院し、試合に も出られなくなりました。

 そのころ私は関西サッカー協会の技術委員長だったので、バイスバイラーという有名な監督の来阪の機会に、彼を講師として指導者講習会を行ないたい――と JFAを通じて要請し、試合の前日に長居スタジアムでバイスバイラーのスピーチと、シュロッツ・コーチによる少年たちへの実技指導をしてもらいました。
 この写真はそのときのもの。メキシコ銅メダルの余韻と強国・西ドイツの強豪チームというので、長居は当時の収容力(2万人)いっぱいの盛況でした。

 試合の後で、バイスバイラーたちを北新地に案内。いろいろ面白い話を聞きましたが、2~3時間のその間に、彼が何度も「釜本を見たかったのに――」と繰 り返していたのが印象的でした。何年かのちに彼は奥寺康彦をケルンに引っ張りましたが、あるいはこのときの釜本にも、そうした考えを持っていたのかもしれ ません。

 この講習会には、大阪スポーツマンクラブにいた小学生たちが参加しました。彼らも今は立派な社会人になっていることでしょう。

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