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小磯良平画家とサッカー

2007/02/27(火)

07022701
※写真左から
 私の神戸一中の後輩・宮崎さん、私、アベリーノさん、牛木素吉郎さん

 ロベルト・アベリーノさん(https://crospo.jp/?m=pc&a=page_f_home&target_c_member_id=1571)から、関西サロンの懇親会のPhotoと一緒に、兵庫県立美術館で見つけたというサッカー少年を描いた「彼の休息」(1927年・小磯良平作・東京芸術大学蔵)という絵ハガキを送っていただきました。

 小磯さんは東京美術学校の学生時代から、絵の上手なことでは群れを抜いていたと言われています。神戸を代表する画家のひとりですが、当時、熊内(くもち)に住んでいた私たちには、なんとなく親しい存在でした。

 ひとつには、私の友人の評判の美人姉妹のひとりが小磯さん得意の美人画のモデルとなって婦人雑誌の表紙を飾ったことがあったからです。
 その時岡家の長男、時岡鶴夫さんは神戸一中40回卒。昭和18年(1943年)の学徒出陣で私の兄・太郎(41回卒)たちと同じ海軍に入り、筑波航空隊 まで兄と一緒の戦闘機乗りでしたが、昭和20年(1945年)4月に沖縄方面への特攻出撃で戦死されたのは悲しい思い出ですが…。

 もうひとつは、戦後の話で、雲中(うんちゅう)小学校、神戸一中、神戸大学で私より2年下の亀高素吉(かめたか・もときち)の結婚相手が小磯先生のお嬢さんだったこと――。
 亀高氏は神戸製鋼の社長として立派な業績を残しただけでなく、ラグビー部を強化して、一時期、平尾キャプテンを中心に素晴らしいチームを作りました。

 彼自身は神戸一中ではサッカー部ではありませんでしたが、神戸大学ではゴールキーパーでした。
 2人が結婚したのは、母親の亀高素子(もとこ)さんが著名な女流画家で、小磯さんと親交があったからです。

 ラグビーの神戸製鋼の社長や、いま有名人となった白洲次郎さん(神戸一中22回)がサッカー畑であったり、また、小磯さんの1927年の作品にサッカーのユニフォーム姿が描かれているのも神戸らしいといえるでしょう。

 1903年生まれの小磯さんは、たしか神戸二中(現・兵庫高校)と聞いています。神戸二中のサッカーも古くからあって、当然、小磯さんの記憶にも残っているでしょうが、図柄からゆけば、神戸外人クラブの誰かであったかもしれません。

 アベリーノさんのおかげで、またひとつ話のタネが増えましたネ。

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コメント

時岡鶴夫の姉(園子)の息子です。貴HPに鶴夫叔父の名前を見つけ、叔父が特攻で亡くなってから60年以上も経つにも拘わらず、記憶に留めていただいたことに厚くお礼申し上げます。
鶴夫の姉にあたる時岡(浅山)道子が小磯画伯のモデルとして1年間雑誌の表紙モデルをつとめさせていただきました。次女浅山道子は今年91歳、長女川道園子は92歳で、京都で暮らしております。他の2姉妹は亡くなりました。小磯画伯と谷崎潤一郎氏は親交があり、時岡の4姉妹を「細雪」のヒントにしたという話が我家に伝わっております。「時岡」をヒントに「蒔岡」としたということです。
時岡鶴夫叔父については、死亡時期が4月ではありませんで、突撃は5月14日種子島東方です(http://www.warbirds.jp/senri/22tokuko/721/306.html)。筑波航空隊第6隊の隊長を務めた富安中尉は、航空母艦エンタープライズに突撃し、13名の乗組員が死亡し、損傷を受けた母艦はそのままアメリカに帰還しました。母艦内に突っ込んだ機体の遺品から、中尉の名前がわかったそうです(http://homepage3.nifty.com/8137/kamikaze-tsukuba6th.htm)。原子力空母エンタープライズはこの母艦名を引き継いだのです。私も今日知ったのですが、時岡叔父がアメリカ軍を見つけて攻撃できたことを知り、職務を果たしたと感じました。
時岡鶴夫叔父は知覧に残された署名簿に、「神風と共に去った男」と辞世の句を書いています。(山岡荘八は秋風と共に去った男としていますが、間違いです)その署名のコピーがあるのですが、20代初めの字とは思えない達筆です。
 川道武男 pika@h4.dion.ne.jp

投稿: 川道武男 | 2008年10月11日 (土) 21時38分

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