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2007年2月

古い記者証で思い出す、あるドイツ紳士の親切

2007/02/27(火)

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 Jリーグから、2007年度の記者証が送られてきた。
「不要になった前年度の分は破棄しておいてください」と、添え状があった。

 正確には「Jリーグ取材者IDカード」という社団法人日本プロサッカーリーグ発行のこのカードは、フリーランスとサッカー専門3誌所属のライター/フォ トグラファーを対象にしているものだが、この「2006年度WRITER」とある写真入りカードに、私は感謝しなければならない。

 それは昨年のドイツ・ワールドカップ取材旅行の終盤――。長い旅の終わりにつきもののミスが出始めた時期に、私はインターシティ特急列車のトイレの中へ財布を置き忘れたことがあった。

 入っているのは小銭とアメックスのカード。小銭はいいとしても、カードの紛失となると厄介なことになる。気がついてすぐトイレに引き返し、探したが見つからない。
 これは車掌さんが来たら頼まなければいけないなと思っていたとき、私のコンパートメント(個室)戸口のところに1人の長身の紳士が来て、「これはアナタのですか」と聞く。
「そうです」と答えると紳士は、「財布を調べてこのカードがあったから、この顔を探したのです」と言う。

 そう、忘れていたが、この小銭入れにはJリーグの記者証も入っていたのだ。その写真を見て、このドイツ人の紳士は持ち主を探してくれたのだという。
 74年大会以来、何回かのドイツの旅でそのときどきにドイツ人の親切心、ガストフロイントリヒトカイト(客をもてなす心)に感じ入ることが多いのだが、今度はそれこそ、地獄に仏のありがたさだった。

 新しい2007年度の記者証から、ドイツ人のM.Kさんの親切をあらためて思い出すことになったが、カードに入れた顔写真が新しいものでよかった。
 年齢とともに髪の色も顔つきも変わるのだからと、いまさら身分証でのフォトの大切に気づいたものだった。

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小磯良平画家とサッカー

2007/02/27(火)

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※写真左から
 私の神戸一中の後輩・宮崎さん、私、アベリーノさん、牛木素吉郎さん

 ロベルト・アベリーノさん(https://crospo.jp/?m=pc&a=page_f_home&target_c_member_id=1571)から、関西サロンの懇親会のPhotoと一緒に、兵庫県立美術館で見つけたというサッカー少年を描いた「彼の休息」(1927年・小磯良平作・東京芸術大学蔵)という絵ハガキを送っていただきました。

 小磯さんは東京美術学校の学生時代から、絵の上手なことでは群れを抜いていたと言われています。神戸を代表する画家のひとりですが、当時、熊内(くもち)に住んでいた私たちには、なんとなく親しい存在でした。

 ひとつには、私の友人の評判の美人姉妹のひとりが小磯さん得意の美人画のモデルとなって婦人雑誌の表紙を飾ったことがあったからです。
 その時岡家の長男、時岡鶴夫さんは神戸一中40回卒。昭和18年(1943年)の学徒出陣で私の兄・太郎(41回卒)たちと同じ海軍に入り、筑波航空隊 まで兄と一緒の戦闘機乗りでしたが、昭和20年(1945年)4月に沖縄方面への特攻出撃で戦死されたのは悲しい思い出ですが…。

 もうひとつは、戦後の話で、雲中(うんちゅう)小学校、神戸一中、神戸大学で私より2年下の亀高素吉(かめたか・もときち)の結婚相手が小磯先生のお嬢さんだったこと――。
 亀高氏は神戸製鋼の社長として立派な業績を残しただけでなく、ラグビー部を強化して、一時期、平尾キャプテンを中心に素晴らしいチームを作りました。

 彼自身は神戸一中ではサッカー部ではありませんでしたが、神戸大学ではゴールキーパーでした。
 2人が結婚したのは、母親の亀高素子(もとこ)さんが著名な女流画家で、小磯さんと親交があったからです。

 ラグビーの神戸製鋼の社長や、いま有名人となった白洲次郎さん(神戸一中22回)がサッカー畑であったり、また、小磯さんの1927年の作品にサッカーのユニフォーム姿が描かれているのも神戸らしいといえるでしょう。

 1903年生まれの小磯さんは、たしか神戸二中(現・兵庫高校)と聞いています。神戸二中のサッカーも古くからあって、当然、小磯さんの記憶にも残っているでしょうが、図柄からゆけば、神戸外人クラブの誰かであったかもしれません。

 アベリーノさんのおかげで、またひとつ話のタネが増えましたネ。

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うれしいガンバの勝利 ~ ゼロックス・スーパーカップを見て~

2007/02/24(土)

 ガンバ 4-0 浦和レッズ

 ゼロックス・スーパーカップで、ここまで点差が開くとは――。
 レッズの選手たちの体調がいまひとつ、また、かなりの強い風(後半の方が強かった)がガンバに味方した場面もありますが、何といっても、ビッグな公式試合での完勝。テレビを見ながら、ひとりで頬がゆるんだものです。

 この試合のすぐ前に、例によってサッカーマガジンの順位予想アンケートがあり、それに対して私は、

1位 ガンバ大阪
2位 川﨑フロンターレ
3位 浦和レッドダイヤモンズ

としてファックスを送信しました。

 メンバーは浦和が一番豊富で長丁場とアジアクラブ選手権を乗り切っても不思議はないと言えるけれど、実戦派のブッフバルトの後を受けたオジェック監督 (まだゆっくり話を聞いたわけではないが)は、キャリアから見れば理論家で理想家肌のようだから、おそらく、これだけのメンバーを持つ以上もうひとつ上の レベルのサッカーをしたいのだろうと想像しました。
 その際に、選手たちに多少の戸惑いが起きるだろう――しかもアジアでのタイトルもあるから、ひょっとするとJの方は――といったふうに見たのでした。

 今度の敗戦の因は別のところにあるのかもしれませんが、これからオジェックがどう考えるか――ビッグクラブを目指す浦和の今年は、ますます気になるところです。

 ガンバについては、どう攻めるかという基礎的なイメージが相当数の選手の中で一致しているように見えます。それが、普通では難しいハズの攻撃力・得点力の水準を保つことのできる理由だと思います。

 相手側のペナルティエリアというスペースを、ここの選手ほどうまく利用できるチームは、今のところ日本にはないでしょう。
 パスの長短や早さの違い、そして、どこでキープし、ドリブルするかの、そのときどきの違いはあっても、エリアの四つの角、その周辺の使い方のうまさは一 昨年ごろから試合を重ねるごとに効果的になってきました。ゼロックス・スーパーカップのそれぞれの得点を見ても、そのうまさが出ています。

 面白かったのは、キリンチャレンジカップのU-22日本対U-22アメリカ戦で、試合終盤に登場した家長が右サイドへ流れてプレーしたとき、前へ飛び出した仲間に早いパスを間髪入れず送ったことでした。
 残念ながら、受け手がトラップミスをしたけれど、ガンバの攻撃で常識となっているこのスペースへの飛び出しに対して、自分のいつもの場所でなくても、す ぐに反応して的確なパスを送った彼を見て――その前に見せた左サイドのドリブルも当然ながら――、「やっぱりなぁ」とうれしく思ったものです。

 もちろんガンバにも、伸ばしてゆかなければならないところはまだまだあります。それはまた次の機会に。

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東から届いた訃報

2007/02/24(土)

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第2回アジア大会当時の木村現選手(写真中央)
左は二宮洋一、右は岩谷俊夫(いずれも故人)

 東から訃報が届いた。

 木村現(きむら・あらわ=サッカー元日本代表)76歳。
 2月21日午前1時25分、神奈川県海老名市内の病院で死去。通夜は2月25日(日)午後6時から。葬儀告別式は2月26日(月)午前10時~11時。

 神奈川県大和市西鶴間6-1-5
 大和総合ホールで(仏式)。喪主は夫人の木村明子さん。

 古いサッカー人には、木村現の名は「俊足」の形容詞つきで記憶に残っている。昭和22年12月に西宮球技場で開催された第26回全国中等学校選手権大会 (現・高校選手権)は大戦による中断から復活した最初の大会だったが、このとき中国地方代表として出場した広島高等師範付属中学が圧倒的な強さで優勝し た。
 1回戦で東京の府立五中を5-0、準々決勝で小田原中学を4-0、準決勝で甲府中学を5-0で破り、決勝の対尼崎中(兵庫)も7-1の大差だった。

 この破壊力を見せ付けたFWの右サイドが木村と長沼健(現・JFA最高顧問)樽谷恵三のトリオで、木村が早いドリブルで守りを崩し、右から送るボールを樽谷あるいは長沼が決めた。

 このトリオは関西学院に進み、戦後の関学の黄金期の基礎を作り、また、木村、長沼は日本代表となり53年の西ドイツ・ドルトムント国際学生スポーツ週間 (現・ユニバーシアード)に参加し、さらに54年ワールドカップ予選、第2回アジア大会などで日本代表としてプレーした。

 大戦中の中断と戦後の経済の混乱期でサッカーのレベルアップの進みは遅く、国際舞台でも華やかな活躍は少なかったころ、天皇杯や東西対抗などで、彼の爆発的な突進力はとても魅力的だった。
 私より6年若く、気さくで明るい人がらで、学校の垣根を越えて先輩たちから愛されていた。
 いまの恵まれたサッカー環境の中で、彼のあの“早さ”を見てみたかったと思う。

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取材を受けました

2007/02/22(木)

 日経新聞から、社会部のベテラン記者が関西のJリーグについての取材に来てくれました。
 今季のJリーグ開幕までに、大阪版の夕刊に掲載されるそうです。

 簡単ですが、お知らせまで。

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関西サロンと私のサッカーの旅

2007/02/21(水)

 1月の末に洗濯機が故障。部品を取り寄せて、取り替えるのに3日かかった。その間の不自由さに改めて、こういう機会が故障なく動いてくれることのありがたさを知る。

 小物を手で洗いながら、60余年前の軍隊生活で自分の軍服まで洗ったことを思い出した。木綿の夏服はまだいいのだが、厚ぼったい冬用の上衣(じょうい)と軍袴(ぐんこ=ズボンのこと)を手で荒い、叩いて干すのはひと苦労だった。

 今回は自分の手で洗ったのは小物だけだったが、なんと、それを絞るときに手に力を入れると首スジが痛くなったのには驚いた。いまや手だけでなく、つながりのある体の各パーツに応援を頼まなくてはならないのかと、改めて思った。

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手で絞って首スジを痛める

2007/02/02(金)

 1月の末に洗濯機が故障。部品を取り寄せて、取り替えるのに3日かかった。その間の不自由さに改めて、こういう機会が故障なく動いてくれることのありがたさを知る。

 小物を手で洗いながら、60余年前の軍隊生活で自分の軍服まで洗ったことを思い出した。木綿の夏服はまだいいのだが、厚ぼったい冬用の上衣(じょうい)と軍袴(ぐんこ=ズボンのこと)を手で荒い、叩いて干すのはひと苦労だった。

 今回は自分の手で洗ったのは小物だけだったが、なんと、それを絞るときに手に力を入れると首スジが痛くなったのには驚いた。いまや手だけでなく、つながりのある体の各パーツに応援を頼まなくてはならないのかと、改めて思った。

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