「ボールを蹴る」が歌会始に
1月15日に皇居で行なわれた新春恒例の歌会始の儀・一般の入選者の最年少として、大阪清風学園高校の1年生、吉田敬太さんの名前が知らされた。作品は――。
「帰省した 兄とボールを蹴りに行く
土手一面に 月見草咲く」
今年のお題は『月』だったのだが、中学生のころからサッカー部の選手だった敬太さんは、大学生のお兄さんが帰省したとき、淀川(よどがわ)の河川敷でボールを蹴って遊び、そのときの情景を詠んだという。
清風高校は進学校としても、また、オリンピックの体操選手を生み、サッカーもかなり強いといったことで関西ではよく知られている。学校の教育の一環として、毎年、歌会始に何人かが応募することになっているそうだ。
清風高校には、私の山の仲間である浜田啓司さん(岡大山岳部OB)がかつて先生をしていたこともあり、ずいぶん前にスピーチに出かけたこともある。そし
てまた80年代には、河川敷を利用してのスポーツの普及をテーマに、河川公団と組んでランニングや野球大会などを新聞社の事業として運営したことがある。
その当時からすでに淀川の河川敷ではキャッチボールをする数よりもボールを蹴っている少年たちが多かったから、今度の入選作の情景は、私にはとても懐かしくうれしいものだった。
ついでながら、この淀川河川敷で開催した市民マラソン大会では体の不自由な人のランニングも行ない、こうした事業に理解の深い三笠宮寛仁親王のご臨席を願ったこともある。ヒゲの宮様はごく気さくに、皆と一緒にジョギングを楽しまれた。
その寛仁殿下の弟宮が故・高円宮(たかまどのみや)親王。日本サッカー協会の名誉総裁を務められ、いまは妃殿下が故・宮様の後を継いでいらっしゃることは皆さんご存知のとおり。吉田敬太さんという高校生の一首から様々な回想の浮かぶ1日だった。
それにしても、「ボールを蹴る」情景が歌会始の入選作となったということは、かつてのキャッチボールと同じように、いまやサッカーという形式だけでなく
「ボールを蹴る」という互いに足でボールをやり取りする遊びが、市民の、国民の常識となりつつあるということなのだろう。
そいういう意味で、2006年に日本代表に北海道出身から沖縄出身までがそろったのと同じように、2007年の歌会始はサッカー仲間にとっての記念すべき日として記憶したい。
サッカーを盛んにするためにと、私たちの大先輩・田辺五兵衛さん(1908-1972)は、社会のあらゆるところに蹴球やフットボール、サッカーという 言葉があふれることを志しておられた。和歌でなくサッカー川柳を病床で思いつくままに作り、一冊にして私に下さったこともある。歌会始のこのことを、田辺 さんはどんな句にされるだろうか――。
田辺さんのたくさんの句の中で、この人らしいスケールの大きいものはこれ。
「網の目から もれしボールは 太平洋」
― マニラの極東大会へ出かけるときの船上での練習の情景 ―
◇関連記事
産経新聞 「歌会始の儀 今年のお題は『月』」
http://www.sankei.co.jp/shakai/koshitsu/070115/kst070115000.htm
大阪日日新聞 「『浮かんだこと詠んだ』清風高生徒が歌会始に入選」
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200612/news1225.html#12252
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