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2007年1月

サロン2002関西例会。2月10日、神戸元町ユーハイムで

2007/01/31(水)

 1980年後半から活動してきた研究者たちのグループが、99年から、研究者という枠にとらわれない「幅広い人材によって構成されるゆるやかな情報交流グループ」となり、「サロン2002」として活動してきました。

 私からみれば“狂”と名のつく人たちばかりですが、ものものしい研究者の集団でなく、もう少しやんわりとサッカーを語り合おうというところが、とてもい い感じ。関西に住む私は、東京での会合にはそう度々は出かけていけませんが、談論風発のこの雰囲気はなかなかのものです。

 今年は、関西でも久しぶりに例会をしようということになりました。
 2月10日16~18時。例によって終了後に懇親会を予定しています。会場はユーハイムホール(神戸市中央区元町通1丁目。大丸側から元町の入口へ入るとすぐ左手にあります)。会費は1,000円。
 今回は私のスピーチで、与えられた題は「西ドイツからドイツまで、ワールドカップの旅」。
 東京から、このサロン2002の中心である中塚義実(なかつか・よしみ)先生や大記者・牛木素吉郎さんたちも来られるとのことです。

 私にとっては、1974年の西ドイツ大会から今度の2006年ドイツ大会は、50歳から82歳までの32年間にわたっての9大会。体力や気力の充実期から衰退期にかけてのものでした。
 世界に向ける私の好奇心は変わりませんが、日本の国内事情が大幅に変化し、アマチュアからプロになった代表が本格的に大会出場に取り組み、その成果が 98年フランス、2002年KOREA/JAPAN、2006年ドイツの3大会への連続出場(ひとつは予選なしですが)となり、各大会での成績となりまし た。
 その意味では、オリンピックを目指した60年代までとは全く違う情景。世界のサッカー界も、ヨーロッパの急激な変化とサッカービジネスの巨大化で様変わりしました。

 そうした32年間の移り変わりを、果たして時間内にうまくまとめられるかどうかはわかりません。例によって途中でどこかへ話が脱線してしまうかもしれま せん。いや、脱線ならそこで止まるのですが、ポイントの切り換ったレールに乗って、あらぬ方へ行ってしまうかもしれません。それでも、皆さんに聞いていた だきたいこともあります。

 もし、こんな話をしてほしいとのご希望があれば、この日記へのコメントやメールででもお申し出ください。わざわざご参集される方々のご意見もうかがえればありがたいことです。

 ユーハイムは、ご存知のとおりケーキ屋さんです。ドイツ菓子バウムクーヘンは、ここの名物。本場のマイスターの資格を持つ職人さんの手焼きもあり、それは当日の私の楽しみの一つです。
 では、2月10日に――。

▽参加のお申込みはコチラから
 https://crospo.jp/?m=pc&a=page_c_event_detail&target_c_commu_topic_id=2059

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「ボールを蹴る」が歌会始に

2007/01/31(水)

 1月15日に皇居で行なわれた新春恒例の歌会始の儀・一般の入選者の最年少として、大阪清風学園高校の1年生、吉田敬太さんの名前が知らされた。作品は――。

 「帰省した 兄とボールを蹴りに行く

         土手一面に 月見草咲く」

 今年のお題は『月』だったのだが、中学生のころからサッカー部の選手だった敬太さんは、大学生のお兄さんが帰省したとき、淀川(よどがわ)の河川敷でボールを蹴って遊び、そのときの情景を詠んだという。

 清風高校は進学校としても、また、オリンピックの体操選手を生み、サッカーもかなり強いといったことで関西ではよく知られている。学校の教育の一環として、毎年、歌会始に何人かが応募することになっているそうだ。

 清風高校には、私の山の仲間である浜田啓司さん(岡大山岳部OB)がかつて先生をしていたこともあり、ずいぶん前にスピーチに出かけたこともある。そし てまた80年代には、河川敷を利用してのスポーツの普及をテーマに、河川公団と組んでランニングや野球大会などを新聞社の事業として運営したことがある。
 その当時からすでに淀川の河川敷ではキャッチボールをする数よりもボールを蹴っている少年たちが多かったから、今度の入選作の情景は、私にはとても懐かしくうれしいものだった。

 ついでながら、この淀川河川敷で開催した市民マラソン大会では体の不自由な人のランニングも行ない、こうした事業に理解の深い三笠宮寛仁親王のご臨席を願ったこともある。ヒゲの宮様はごく気さくに、皆と一緒にジョギングを楽しまれた。
 その寛仁殿下の弟宮が故・高円宮(たかまどのみや)親王。日本サッカー協会の名誉総裁を務められ、いまは妃殿下が故・宮様の後を継いでいらっしゃることは皆さんご存知のとおり。吉田敬太さんという高校生の一首から様々な回想の浮かぶ1日だった。

 それにしても、「ボールを蹴る」情景が歌会始の入選作となったということは、かつてのキャッチボールと同じように、いまやサッカーという形式だけでなく 「ボールを蹴る」という互いに足でボールをやり取りする遊びが、市民の、国民の常識となりつつあるということなのだろう。
 そいういう意味で、2006年に日本代表に北海道出身から沖縄出身までがそろったのと同じように、2007年の歌会始はサッカー仲間にとっての記念すべき日として記憶したい。

 サッカーを盛んにするためにと、私たちの大先輩・田辺五兵衛さん(1908-1972)は、社会のあらゆるところに蹴球やフットボール、サッカーという 言葉があふれることを志しておられた。和歌でなくサッカー川柳を病床で思いつくままに作り、一冊にして私に下さったこともある。歌会始のこのことを、田辺 さんはどんな句にされるだろうか――。

 田辺さんのたくさんの句の中で、この人らしいスケールの大きいものはこれ。

 「網の目から もれしボールは 太平洋」

   ― マニラの極東大会へ出かけるときの船上での練習の情景 ―

◇関連記事
 産経新聞 「歌会始の儀 今年のお題は『月』」
 http://www.sankei.co.jp/shakai/koshitsu/070115/kst070115000.htm

 大阪日日新聞 「『浮かんだこと詠んだ』清風高生徒が歌会始に入選」
 http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200612/news1225.html#12252

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岩手に継承される、粘りとひたむきさ ~高校選手権決勝~

2007/01/10(水)

 遅ればせながら、新年おめでとうございます。
 年末の誕生日(12月29日)にはたくさんのメールをいただき、ありがとうございました。

 サッカー人にとって年末年始は、天皇杯や高校選手権などがあって楽しみも多いのですが、結構忙しい日々になります。
 一昨年から、12月の中旬にトヨタプレゼンツ・FIFAクラブワールドカップというビッグな催しが1週間にわたり行なわれるようになり、そしてまたことしは年明け早々の5日から3日間、JFAのフットボールカンファレンスが大阪で開催されました。
 そちらの方にも出かけることになり、いつもなら国立に足を運ぶ天皇杯の元旦決勝も、高校サッカーも、ことしはテレビ観戦でした。

 天皇杯は、ガンバが勝てそうで勝てなかったのは残念――。数多くのチャンスを作りながら、シュートのときに少し気負った感じで、それがインパクトを不自然にしていた気がします。
 タイトルを獲れないのは惜しいことですが、まだまだチャンスはある、ということにしましょう。

 高校サッカーは10月の高円宮杯に勝った滝川第二高校(兵庫)も、昨年優勝の野洲高校(滋賀)もベスト8へゆくまでに敗れました。
 滝二には、10月の初の全国タイトル獲得後のモチベーションやコンディションの維持・調整が難しかったのかも知れません。せっかくのチャンスだったから、もう少し長く大会にいてほしかったです。
 野洲高校は、八千代高校(千葉)に完敗でした。ドリブルが上手で、見ていてとても楽しいのですが、その突破力やキープ力を生かすために、もう一工夫あっ ていいでしょう。この年代になればプレーヤーは、試合のそれぞれの局面で、どのプレーをするかのチョイスの判断力も伸びてくるハズです。

 高校選手権決勝では、岡山の作陽が先制したのを、岩手の盛岡商が逆転しました。作陽のゴールは後半11分に村井が巧みなターンで3人をかわしてシュート し、そのリバウンドを桑元がヘディングでゴール。温存していた村井を後半に投入した策が当たったと言えるのですが、それだけ彼は頼りになると見えて、作陽 の攻めは村井への単調なパスとなって、そのあとの攻めは効果が上がらず、盛岡商の動きが良くなってしまった。作陽には小室というサイドを突破できる選手が いただけに、もったいない感じがしました。

 盛岡商は西隣の秋田県の代表・秋田商の優勝以来、40年ぶりの東北勢のタイトルとなりましたが、秋田商と同様の、動きの量とスピードの勝利。PKの同点 機にシュートを失敗した左利きの林を、それまでの左サイドから右サイドへ移した監督さんの機知には恐れ入りました。その林が、左から来たボールを決めたの だから――。
 そして2点目も左サイドから、成田が素晴らしいドリブルでゴールラインまで深く切れ込み、そこから斜め後ろへ送って千葉が決めたのですが、千葉のニアサイドには東舘が走り込んでいて、ノータッチで見送ったから、千葉はまったくのフリーで決めました。

 盛岡商の監督の斎藤重信先生は、大船渡高校の監督時代に、あの日本代表の小笠原満男を育てたコーチ。テレビにアップで映る斎藤さんの顔を見ながら、盛岡の生んだサッカーの大先達・工藤孝一さん(1909-1971)を思い浮かべました。
 ベルリン・オリンピック(1936)の日本代表のコーチであり、戦後は東伏見の早大グラウンドの近くに居を構えて早稲田の主(ぬし)となった工藤さんは、岩手の後輩・八重樫茂生(東京/メキシコ・オリンピック日本代表主将)を育てました。
 2人に共通する「粘りとひたむきさ」は、岩手の後輩に引き継がれているのですね。

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