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2006年12月

レッズ優勝。三菱時代からの大先輩・岡野さんおめでとう

2006/12/29(金)

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浦和レッズがJの最終戦で満員の埼玉スタジアムで優勝するシーンを見ながら、私はこのクラブがJスタート後しばらく、なかなか勝てず苦しんだことや、三菱 重工時代に日本サッカーを支える力のひとつであったことなどなど、このクラブのスタートからかかわってこられた先達(せんだつ)岡野良定さんの喜びを思っ たものです。

三菱重工のサッカー部は、あの1968年メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したときにゴールを守ったGK横山謙三やFW杉山隆一たちが中心 となって、企業チームの全国リーグ・JSL(日本サッカーリーグ)の人気チームであったことは、年輩のサッカーファンには良く知られていますが、その三菱 のチームは、実は三菱重工業神戸造船所で生まれたのです。
記録の上では1951年創部となっていますが、私の記憶ではそれ以前からここにはサッカーの当時の優秀選手がいたから、正式の部ではなくても、戦後、早々とボールを蹴っていたハズだと思っています。岡野さんは、その中心でした。

サッカーの名門・旧制広島一中から旧制広島高等学校へ進み、広島一中では全国中等学校選手権(現・高校選手権)大会にも出場、広高では1938年(昭和 13年)の旧制インターハイで優勝。ポジションはFW。京大では関西学生リーグ優勝はありませんでしたが、関西学院と拮抗する強チームでした。

私がこの8歳年長の岡野さんに初めてお目にかかったのは、神戸造船所時代で、産経新聞が阪神実業団対抗サッカーという催しを1952年から始めたときでした。
東京オリンピックに備えて、サッカーは選手を東京に集めることになり、神戸造船所の中核となるプレーヤーは東京に移りました。岡野さんもまた、三菱本社の人事部次長として東京で働き、サッカーの強化に力を尽くしたのです。

1965年、東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグがスタートすると、岡野さんは三菱のチーム強化をはかり、杉山隆一をはじめ優秀なプレーヤーを集 めてJSLきっての強チームに仕上げ、その後もJへの移行、浦和でのホームづくりなどでも、三菱サッカーの大御所として現場の後輩たちを支援してきた。

三菱グループには岡野さんより一世代上に篠島秀雄さん(故人・JFA副会長・三菱化成工業社長)がおられて、この大企業グループがサッカーへ目を向ける基 盤づくりの力となったのですが、大企業のなかでのさまざまな問題を解決してゆくには岡野さんの力や人柄がものをいったハズです。
レッズの試合にはいつも足を運ばれていた岡野さんは、ことしは少し体調を崩され療養所のテレビで優勝をご覧になったとか。あらためてお祝いに伺いたいのですが、とりあえず、岡野さん、優勝おめでとうございます。
なお、2枚の写真はレッズのマッチデープログラムの優勝特別版の表紙と裏表紙です。

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亥年(いどし)と子年(ねどし)

2006/12/28(木)

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写真:サッカーのルールを日本に初めて紹介した坪井玄道さん

忙しかった12月も今日で28日。あす12月29日は私の誕生日です。
1924年(大正13年)生まれ、干支はネズミです。年回りからゆくと来年は亥年(いどし)で、その次、2008年が子(ね)の年です。

子年(ねどし)のものは、動物のネズミになぞらえて勤勉であるとかチョコチョコ走り回るなどといわれます。
サッカー人では、みなさんご存知のJFA(日本サッカー協会)の川淵三郎キャプテンが1936年生まれで私より一回り下の子年です。
現役プレーヤーではモリシこと森島寛晃(セレッソ大阪)が1972年生まれで4巡年少の仲間。外国ではポルトガル代表フィーゴ(インテル)、また、ドイツ・ワールドカップを最後に現役を引退した元フランス代表ジダンも同じです。

神戸一中、神戸商大(現・神戸大)と、私の直系の先輩の大谷一二(おおたに・いちじ)さんも1912年生まれ。大谷さんは、ベルリンオリンピック(1936年)の日本代表の選に漏れたとき、多くの人が不思議に思ったほどの、日本サッカー史に残る名選手のひとりです。

いちばん古い子年は、何といっても坪井玄道さん(1852-1922)。1885年(明治18年)に「戸外遊戯法」という本を刊行し、その中でサッカーの ルールを日本で初めて紹介した人。いまの筑波大学の前身の東京高等師範学校の初代フートボール部長で、スポーツ全般の普及の大功労者です。
さきごろ、JFAのサッカー殿堂入りされたひとりですが、そのときのレセプションで田嶋幸三・専務理事に会ったら、「筑波大の校庭には坪井先生の銅像があって、いつもそばを通っていたのです」と学生時代を思い出していました。

ついでながら、来年2007年は、日本サッカーが大正6年(1917年)の第3回極東大会に出場して初めて国際試合をした年から、90年にあたります。

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ガンバ3位、セレッソ、サンガのJ2降格とヴィッセルのJ1復帰。~ 大荒れのJ関西を振りかえる ~

2006/12/18(月)

今シーズンのJ1は、ガンバが2年連続優勝を逃し、セレッソとサンガが2部へ落ちた。関西人には残念なシーズンだった。ヴィッセルの昇格は朗報だったが……理由は何だろう。

関西特有の問題が背景にあることはあるが、それは、ひとまず措(お)くとして、それぞれにみてゆくと、ガンバは2002年に西野朗監督が就任してからチー ムの実力が年々に高まって、昨年、今年と優勝を争っているから立派なものだ。今年はアジア・チャンピオンズリーグといったチームの国際試合や、主力や若手 プレーヤーの日本代表としての試合が多くなった。
優勝チーム、いい選手を持つチームの宿命といえるし、当初、予測はしていただろうが、全員にそうした負担がかかるなかで、終盤に遠藤保仁が休むことになったのは、本人にもチームにも“しんどい”ことだった。
いま主力の選手たちの相互理解がよく、レベルが高いから、播戸竜二が戻ってきても、明神智和が加わっても、何試合か重ねれば自分の特色をチームのなかで発 揮しやすくなっている。この高いチームワークを伸ばすために若手を含めてそれぞれのプレーヤーが技術の開発と精度アップに励めば、タイトルを奪還できるハ ズだ。

セレッソは昨シーズンよかったのに、今年は昨年の勢いを伸ばすために強化をすべきところが、不充分だった。ブルーノ・クアドロス、ゼ・カルロス、ファビー ニョの3人がいた昨年は、このチームとしてめずらしくブラジル人のそろった年だったのだが、その働き頭のファビーニョが抜けたアナは埋まらずチーム力は退 化した。いまJは全体に選手層が厚くなっていて、どこも前年より上のチームを作ろうとするのに、前年以下の力では勝てなくなる。後半にはずいぶん盛り返そ うとしたが、とき、すでに遅しだった。

京都もJ1に残るための力がなかったということになるだろう。補強のこともあるが、選手たちが試合ですぐ役立つ技術、クロスやシュートのワザのアップに努 めることだ。ヴィッセルも同様。昇格を決めたゴールは、三浦淳宏の左からの長いクロスからだったことを思い出してほしい。

(2006年12月15日 EL GOLAZO333号)

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2006Jリーグ年間入場者数から

2006/12/12(火)

2006年のJリーグはJ1、J2、ヤマザキナビスコカップ、ゼロックススーパーカップ、JOMOオールスター、J1・J2入れ替え戦の合計(686試 合)入場者数が836万3963人となり、2005年の853万9178人に次ぐ過去2番目の入場者数となったそう(※)です。
※Jリーグ http://www.j-league.or.jp/release/000/00001523.html

J1リーグ戦306試合の合計は559万7408人(1試合平均は1万8292人)で、1995年(615万9691人:364試合)2005年(574 万2233人:306試合)に次ぐ3番目の記録。クラブで最も多いのは浦和レッズの77万4749人(1試合平均は4万5573人)2番目は新潟で65万 8050人(同3万8709人)です。平均4万5000人といえば本家イングランドのマンチェスター・ユナイテッドの6万人には及びませんが、名門アーセ ナルを凌ぎます。

J1リーグで1試合平均2万人以上はこの2チームのほかに、FC東京(2万4096人)横浜F・マリノス(2万3663人)大分トリニータ(2万350人)です。

関西のクラブは優勝を争ったガンバ大阪が1万6259人(合計27万6395人)。セレッソ大阪が1万3026人、京都サンガは9781人。いずれもJ1の全国平均1万8292人よりも低い数字です。
それでも、2006年の関西の4クラブ(京都・G大阪・C大阪・神戸)のリーグ戦に82万9947人の観客が来場しました。

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わが家のネコ、ダイと川本・釜本の共通点

2006/12/07(木)

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みなさんがぞくぞくと“マイフレンド”に加わって下さっているようで、ついに50人。にぎやかになりますネ。
ウチにいるネコのダイ君の写真を見た方から、「かわいい」とお褒めのメッセージもいただきました。ありがとうございます。

以前わが家にいたネコは、ラトという名前でした。
古いサッカー好きなら、74年のポーランドの疾風のような俊足FWを思い出して下さるでしょう。
現役のダイは、ちょっと足が短くて、シッポが曲がっていて、故・ラトほどスマートではありませんが、とても面白い子です。

彼が「ネコじゃらし」などの遊び道具にじゃれているのを見ていて気づいたのは――彼らはやはりライオンやトラと同じ種族とみえて――襲いかかるときに必ず といってよいほど、まず自分の身を隠すこと。いったん身を隠しておいて攻撃するのが、どうやら彼らの攻撃成功の秘訣のようです。

日本のサッカーでは、1936年のベルリン・オリンピックのCF(センターフォワード)であった川本泰三さんが、シュートの位置へ入る前に一度「消える」ことがポイントだと説いています。
マークしているDFの視野からいったん消えて、自分のシュートポジション(ヘディングポジションも)に現れるのですが、釜本邦茂選手も、川本先輩のヒントから自ら工夫して上手になり、ゴール量産につなげたものです。

外国のストライカーも、消えて(不勉強のせいか、英語で、この“消える”という表現はみていません)現れるプレーを見せました。
86年ワールドカップ・メキシコ大会の得点王ゲリー・リネカーはサイドから来るボールに対して、いったんファーへ離れ(マーク相手の視野から消えて)ボールが来る瞬間にニアに入るのがとても上手でした。

さて、ネコから話がとびました。
12月2日の関西勢総崩れで、ここのところいささか失意の日々ですが、優勝したレッズのサポーター、選手、ブッフバルト監督など、クラブ関係者のみなさんには「おめでとう」を言わなければなりません。
レッズには、どんどん良いクラブになってほしいと思います。

西のクラブの不振についてはいずれ――。

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