浦和レッズがJの最終戦で満員の埼玉スタジアムで優勝するシーンを見ながら、私はこのクラブがJスタート後しばらく、なかなか勝てず苦しんだことや、三菱 重工時代に日本サッカーを支える力のひとつであったことなどなど、このクラブのスタートからかかわってこられた先達(せんだつ)岡野良定さんの喜びを思っ たものです。
三菱重工のサッカー部は、あの1968年メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したときにゴールを守ったGK横山謙三やFW杉山隆一たちが中心
となって、企業チームの全国リーグ・JSL(日本サッカーリーグ)の人気チームであったことは、年輩のサッカーファンには良く知られていますが、その三菱
のチームは、実は三菱重工業神戸造船所で生まれたのです。
記録の上では1951年創部となっていますが、私の記憶ではそれ以前からここにはサッカーの当時の優秀選手がいたから、正式の部ではなくても、戦後、早々とボールを蹴っていたハズだと思っています。岡野さんは、その中心でした。
サッカーの名門・旧制広島一中から旧制広島高等学校へ進み、広島一中では全国中等学校選手権(現・高校選手権)大会にも出場、広高では1938年(昭和 13年)の旧制インターハイで優勝。ポジションはFW。京大では関西学生リーグ優勝はありませんでしたが、関西学院と拮抗する強チームでした。
私がこの8歳年長の岡野さんに初めてお目にかかったのは、神戸造船所時代で、産経新聞が阪神実業団対抗サッカーという催しを1952年から始めたときでした。
東京オリンピックに備えて、サッカーは選手を東京に集めることになり、神戸造船所の中核となるプレーヤーは東京に移りました。岡野さんもまた、三菱本社の人事部次長として東京で働き、サッカーの強化に力を尽くしたのです。
1965年、東京オリンピックの翌年に日本サッカーリーグがスタートすると、岡野さんは三菱のチーム強化をはかり、杉山隆一をはじめ優秀なプレーヤーを集 めてJSLきっての強チームに仕上げ、その後もJへの移行、浦和でのホームづくりなどでも、三菱サッカーの大御所として現場の後輩たちを支援してきた。
三菱グループには岡野さんより一世代上に篠島秀雄さん(故人・JFA副会長・三菱化成工業社長)がおられて、この大企業グループがサッカーへ目を向ける基
盤づくりの力となったのですが、大企業のなかでのさまざまな問題を解決してゆくには岡野さんの力や人柄がものをいったハズです。
レッズの試合にはいつも足を運ばれていた岡野さんは、ことしは少し体調を崩され療養所のテレビで優勝をご覧になったとか。あらためてお祝いに伺いたいのですが、とりあえず、岡野さん、優勝おめでとうございます。
なお、2枚の写真はレッズのマッチデープログラムの優勝特別版の表紙と裏表紙です。
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