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アジアユース今昔 ~ベスト4進出と半世紀前の高校選抜日本代表~

2006/11/07(火)

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(写真)第1回アジアユース選手団名簿
左から表紙、裏面、中面1ページ目

ンドでのアジアユースで日本代表が1次リーグ2勝1敗で準々決勝に進み、サウジアラビアを2-1で破ってベスト4へ。来年カナダで開催されるU-20ワー ルドカップの出場権を得ました。7回連続しての本大会出場は、日本がこの世代でもアジアのトップ級にあることを示しています。

今年の代表もその流れにありますが、彼ら(U-19)は1987年以降の生まれで、小学校へ入る前にすでにJリーグがスタートしていて、そのサッカー人生 はサッカー環境のアップ――育成指導の充実、練習場の整備をはじめとするあらゆる面での――とともに成長してきたことになります。テレビのおかげでここま で4試合(全部〔90分〕でなくても)見せてもらいましたが、個人技のうえでも、組織プレーの理解のうえでも、いい環境で育ってきたのが十分にあらわれて います。欲を言えば、これから当たる強い相手にも、勝つ試合をしてほしいものです。

彼らのプレーのひとつひとつについては後の機会にということにして、今回は1959年の第1回アジアユースの選手団名簿を紹介して、半世紀近く前にタイムスリップしてみましょう。

A5版4ページ、表紙に「1st ALL ASIAN YOUTH FOOTBALL TOURNAMENT Kuala Lumpur 1959」とあり、JFAのシンボルマークとJAPANESE DELEGATIONの文字が入っています。
1958年第3回アジア大会が東京で開催されたとき、アジア・フットボール連盟の会長であり、マレーシアの首相であったアブダル・ラーマンさん(1903-1990)の提唱でアジアの若者(U-20)の大会を開くことを決めたのです。

マレーシアの首都クアラルンプールでの第1回大会は4月18日から25日まで。JFAは高校選抜チーム(4月卒業生もふくむ)を派遣することにしました。
19歳になるかならぬかで、規定のU-20からゆくとハンデはありましたが、高校選手にユメを持たせるために、秋の国体高校の部と、冬の高校選手権出場者を選考対象にしたのです。

私はこの第1回大会の選手団に、報道役員兼雑用係で同行しました。
当時の金で選手・役員ひとりひとりが20万円を納め(選手たちは学校や県協会が負担した)ての参加でしたが、高校チームが国際大会のために海外へ出かけるのは前代未聞のことだったので、大きな反響を呼んだのです。

選手名簿(写真)の2ページ目と3ページ目の見開きに、18選手と役員4人の名があります。このチームはロクさんこと高橋英辰監督のもと、短い期間の合同 練習にもかかわらず、大会第1戦でシンガポールに勝ってAグループに入り、ここで韓国、マレーシア、香港と戦って1勝2敗。3位となりました。

これまで、56年のメルボルン五輪は予選で韓国を押さえながら本大会でオーストラリアに敗れ、58年のアジア大会は1次リーグ2敗という不振つづきのなかでの3位は、JFAにとっての数少ない明るい記録となりました。
第1回のメンバーに杉山隆一(清水東)宮本輝紀(山陽高)継谷昌三(関学高)たちの名もありますが、第2回に松本育夫(宇都宮工高)、第3回に小城得達、 桑原楽之(いずれも広島付高)GK横山謙三(川口高)たちが出場(釜本邦茂・山城高は第4回)。東京・メキシコ、両オリンピックのメンバーたちがこのアジ アユースを足場に育ちました。

このメンバー表は現地へ持参してプレスにも配布したもので、財政の苦しいJFAはサッカーに力を入れていた田辺製薬の広告を掲載することでこの費用を浮かせました。(開催地が)華僑の多い東南アジアということで、漢字の薬品名が入っています。
各メンバーのところに見える数字(青色)は、選手たちのパスポートナンバー。海外旅行の経験のない彼らのために、出入国の手続きをまとめて行なっていた私の書き込みです。

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