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2006年11月

プラティニとの“おしゃべり”とプスカシュのサイン本

2006/11/22(水)

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写真左:プスカシュの自叙伝「Captain of Hungary」表紙
写真右:プスカシュの自筆サイン

崇拝賀川翁さん、【生】さん、GKさん。“超”の字のつくサッカー好きの皆さんの『お好みフランス代表論 ~82or86~』まことに面白く拝見しました。

82年といえば、後藤健生ご夫妻にマドリードでお目にかかったのを懐かしく思い出します。
(出場チーム数が)16から24に拡大された初めての大会でしたが、私もまだ若かった(といっても57歳)ので、試合も旅もたっぷり楽しみました。
86年は新聞社を離れ、企画会社時代でしたが、充実したチームがそろった良い大会でしたネ。
77年にフランスリーグを(1試合だけですが)見てから、フランス・サッカーにも目がゆくようになり、プラティニやジレスに直接会って話を聞く機会もありました。

プラティニに話を聞いたのは、彼がトヨタカップのためにユベントス(イタリア)とともに来日したとき。大住良之さんのセッティングでした。
華やかなプレーヤーなのに特別扱いを嫌い、「チームのなかで自分だけがインタビューを受けるというのは困る」という申し入れがあり、それではお茶を飲んで サッカーのおしゃべりをしましょう――ということで、カメラもなし、メモも取らず、テープレコーダーもなしという約束で実現しました。

面白かったのは、彼に「あなたの長い距離のパスには威力があるが、若い頃に特別なことをしたのですか」と聞いたら、「15~16歳の頃から、ハーフラインにボールを置いてゴールに向かってシュートをしました。そう、1日に何十本と蹴りました」という答えが返ってきたこと。
少年期からロングキックが得意だった彼が、その得意芸を伸ばすためにハーフライン(52.5m)からゴール(高さ2.44m、幅7.32m)を目標に蹴ったのは確かに良い練習になったことでしょう。
50m(の距離)で狙ったところへ蹴れるようになれば、30mは完全なコントロールキックになります。ゴルフで250ヤード飛ばせれば180ヤードはコントロールショットになるのと同じだろうと思います。
プラティニの話を聞きながら、上手な選手が自分の得意技を磨くのは昔から日本も世界も同じだナと思ったものです。

崇拝賀川翁さんのコメントに、プスカシュがテニスボールでボールリフティングをしたという話を私の書き物で読んで知ったとありましたが、確かにプスカシュの自伝「Captain of Hungary(キャプテン・オブ・ハンガリー)」に、その件(くだり)があります。
得意の左足で、はじめは20~30回だったのが200回続くようになり、足の上で止めるときにはテニスボールを1インチも弾ませずにピタリと止めるようになったと書いてあります。

ベルリン・オリンピック(1936年)の日本代表の1点目を決めた“シュートの名人”川本泰三さんはトラッピングの名手で、「選手になってボールを止めることに気を使ったことはない」というのが口グセでした。
この先輩もまた、「中学校の低学年の頃にテニスボールを足でつく(その頃は“ボールリフティング”という言葉はなかった)ことに興味を覚えて、ひとりで遊んでいた。100回位は落とさずに続けたヨ」と言っていました。

プスカシュが亡くなったのは、悲しいことですね。今から半世紀前に“無敵のマジャール”でキャプテンを務めたプスカシュについては、改めて書かせていただきますが、まずはご冥福を――。
1927年4月2日生まれの彼は、私よりまだ少し若かったのに……。

さて、この写真の書物「Captain of Hungary」(写真左)は、英国のCASSEL & COMPANY LIMITEDから、1955年にロンドンで出版されたもの。彼の生い立ちから1954年のワールドカップ・スイス大会とその直後しばらくのキャリアをま とめた自叙伝です。
したがって、56年以降の亡命やレアル・マドリード(スペイン)でのプレーについての記述はないのですが、少年期から、ハンガリー代表となりM型フォーメーションで世界を驚かせるいきさつなどがよく書かれています。

このサイン(写真右)はたしか、1993年にハンガリー代表が来日したとき、同行した彼に書いてもらったもの。現役選手のときから太めだった彼は、すっかり太ったオジさんになっていました。
自分の本を手にとって、しばらく眺めていた彼が懐かしい……。あの日、いい通訳がいれば良い話を聞けたのに――。

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キッカー誌コラムニストにデアバル元ドイツ代表監督 ~ 釜本のかつての恩師 ~

2006/11/18(土)

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ドイツ最大のサッカー(スポーツ)専門誌『キッカー』の「06-07ブンデスリーガ特集」を見ると、新しいコラムニストの名があった。
14人の定期執筆者のなかに、イタリアのディノ・ゾフ(64)やアーセナル監督のベンゲル(56)あるいはデンマークの元代表主将で監督でもあったモルテン・オルセン(56)といった国際的な名にまじって、ユップ・デアバル(79)の懐かしい顔もあった。

1970年から78年までドイツ代表チームのアシスタント・コーチとしてシェーン監督を助けてドイツのワールドカップ(W杯)での3位、2位、優勝のため に働き、さらにシェーンの後を継いで78年から84年まで代表監督となって82年W杯準優勝、80年ヨーロッパ選手権準優勝の成績を収めた。
84年から6年間はトルコのイスタンブールでガラタサライの監督となり、トルコ・サッカーの向上に力を注いだ彼は、アンカラ大学の名誉博士の称号も持つ。

私には、ドイツ代表監督のときに何度か取材につき合ってくれた思い出があるが、実はそれ以前に接点がある。彼がザール州協会の主任コーチであったとき、 1968年1月から3月まで、釜本邦茂のドイツ留学のときに直接指導して釜本のステップアップを助けてくれた、いわば日本サッカーの恩人の1人である。

釜本の留学については、いずれ詳しいいきさつを紹介したいが、体の不調の話もあり、しばらく消息を聞かなかったこの人のコメントをキッカー誌上で見られることは、とてもうれしいことだ。
面白いのは、14人の顔ぶれのほかに、デアバル監督のもとでCDFだったシュティーリケが入っていること。また、シュスターと同世代で彼とは違って代表でしっかり働いたルディ・フェラーも名を連ねている。

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クラマーとJFAの野津謙・元会長

2006/11/16(木)

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写真:クラマーの足を治療する野津謙ドクター

 1960年のクラマーの来日には、第4代JFA(日本サッカー協会)会長・野津謙(のづ・ゆずる)さん(1899-1983年)の強い意向があったことはよく知られている。同コーチの人格、識見に惚れこんだ会長は、クラマーの働きを常にバックアップしていた。

 この写真は、2度目の来日の61年に、クラマーが右足の足首を痛めたときに、ドクターであり漢方の権威でもあった野津会長が自ら治療にあたっているところ。
 立教OBの吉原さん宅に滞在中のクラマーを訪れた私(賀川)は、ちょうど電気針(良導絡)を持参した会長が自ら、丁寧に治療する光景を見た。

 このとき会長は62歳、クラマーは36歳だった。

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アジアユース今昔 ~ベスト4進出と半世紀前の高校選抜日本代表~

2006/11/07(火)

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(写真)第1回アジアユース選手団名簿
左から表紙、裏面、中面1ページ目

ンドでのアジアユースで日本代表が1次リーグ2勝1敗で準々決勝に進み、サウジアラビアを2-1で破ってベスト4へ。来年カナダで開催されるU-20ワー ルドカップの出場権を得ました。7回連続しての本大会出場は、日本がこの世代でもアジアのトップ級にあることを示しています。

今年の代表もその流れにありますが、彼ら(U-19)は1987年以降の生まれで、小学校へ入る前にすでにJリーグがスタートしていて、そのサッカー人生 はサッカー環境のアップ――育成指導の充実、練習場の整備をはじめとするあらゆる面での――とともに成長してきたことになります。テレビのおかげでここま で4試合(全部〔90分〕でなくても)見せてもらいましたが、個人技のうえでも、組織プレーの理解のうえでも、いい環境で育ってきたのが十分にあらわれて います。欲を言えば、これから当たる強い相手にも、勝つ試合をしてほしいものです。

彼らのプレーのひとつひとつについては後の機会にということにして、今回は1959年の第1回アジアユースの選手団名簿を紹介して、半世紀近く前にタイムスリップしてみましょう。

A5版4ページ、表紙に「1st ALL ASIAN YOUTH FOOTBALL TOURNAMENT Kuala Lumpur 1959」とあり、JFAのシンボルマークとJAPANESE DELEGATIONの文字が入っています。
1958年第3回アジア大会が東京で開催されたとき、アジア・フットボール連盟の会長であり、マレーシアの首相であったアブダル・ラーマンさん(1903-1990)の提唱でアジアの若者(U-20)の大会を開くことを決めたのです。

マレーシアの首都クアラルンプールでの第1回大会は4月18日から25日まで。JFAは高校選抜チーム(4月卒業生もふくむ)を派遣することにしました。
19歳になるかならぬかで、規定のU-20からゆくとハンデはありましたが、高校選手にユメを持たせるために、秋の国体高校の部と、冬の高校選手権出場者を選考対象にしたのです。

私はこの第1回大会の選手団に、報道役員兼雑用係で同行しました。
当時の金で選手・役員ひとりひとりが20万円を納め(選手たちは学校や県協会が負担した)ての参加でしたが、高校チームが国際大会のために海外へ出かけるのは前代未聞のことだったので、大きな反響を呼んだのです。

選手名簿(写真)の2ページ目と3ページ目の見開きに、18選手と役員4人の名があります。このチームはロクさんこと高橋英辰監督のもと、短い期間の合同 練習にもかかわらず、大会第1戦でシンガポールに勝ってAグループに入り、ここで韓国、マレーシア、香港と戦って1勝2敗。3位となりました。

これまで、56年のメルボルン五輪は予選で韓国を押さえながら本大会でオーストラリアに敗れ、58年のアジア大会は1次リーグ2敗という不振つづきのなかでの3位は、JFAにとっての数少ない明るい記録となりました。
第1回のメンバーに杉山隆一(清水東)宮本輝紀(山陽高)継谷昌三(関学高)たちの名もありますが、第2回に松本育夫(宇都宮工高)、第3回に小城得達、 桑原楽之(いずれも広島付高)GK横山謙三(川口高)たちが出場(釜本邦茂・山城高は第4回)。東京・メキシコ、両オリンピックのメンバーたちがこのアジ アユースを足場に育ちました。

このメンバー表は現地へ持参してプレスにも配布したもので、財政の苦しいJFAはサッカーに力を入れていた田辺製薬の広告を掲載することでこの費用を浮かせました。(開催地が)華僑の多い東南アジアということで、漢字の薬品名が入っています。
各メンバーのところに見える数字(青色)は、選手たちのパスポートナンバー。海外旅行の経験のない彼らのために、出入国の手続きをまとめて行なっていた私の書き込みです。

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ロベルト・アベリーノ様:(続)ライオンとボールの彫像

2006/11/07(火)

ルーブル美術館でカメラにおさめたライオンとボールの彫像について、早速お教えいただき、有難うございました。
博物館のサイトで調べてくださるとは――そのスピードに感服しました。

フランス語の簡潔な説明文(http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=9498)によると、18世紀の収集家として有名なアレキサンダー・アルバーニ枢機卿のコレクションのひとつとのこと。
紀元1世紀頃のもので、オリジナルは石彫、玄武岩のライオンと黄色の大理石のボールであったのが、のちにライオンは青銅に作り変えられたものという。

ライオンと球体とを組み合わせた2000年近く前の原作者の意図がどこにあったのか――その頃、こうした球体があったのかどうか――手がかりができたことで、写真を見ながら想像する楽しみがまた増えました。
まことに有難うございます。

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中田とマラドーナとユニセフと

2006/11/02(木)

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中田英寿がフィリピンの首都圏のスラム街で子どもたちとボールを蹴っている映像をテレビで見た。彼のようなスターがこうした貧困問題に取り組むことは、社会への大きなインパクトとなるだろう。
1977年といえば彼の生まれた年だが、私は5月にバイエルン・ミュンヘンを取材したとき、試合前にベッケンバウアーとゲルト・ミュラーが車椅子の子どもたちにボールを手渡すのを見て、ヨーロッパの社会とトップ・プロ選手たちの弱者への気配りを見た。

80年代に企画会社の社長をしていたときに、ユニセフ(国連児童基金)の予防注射への基金協力をテーマに市民ランニングのイベントを開催したのも、マラ ドーナを主将とする南米選抜対日本選抜の試合をユニセフ創立40周年記念事業として企画したのも、日本のスポーツ人に、恵まれない子どもたちへの関心を 持って欲しいと考えたからだ。
ランニングのイベントは現在も日本ハムの協賛で続いていて、ユニセフに感謝されている。

マラドーナの試合は87年1月24日にゼロックス・スーパーカップとして行なわれ、JFA(日本サッカー協会)は売上げのなかから10万ドルを寄付した。
当時のユニセフ広報は「日本のナショナル・スタジアムに初めてユニセフの旗が掲揚された」と世界にその意義を知らせた。
この南米選抜の試合そのものと開催についてのウラ話は別の機会に譲るとして、とりあえず、試合のチケットと記念のテレフォンカードを紹介しておこう。

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